ダレイオス1世
| ダレイオス1世 𐎭𐎠𐎼𐎹𐎺𐎢𐏁 | |
|---|---|
| ペルシア王 | |
|
ベヒストゥン碑文の浮き彫りに描かれたダレイオス1世 | |
| 在位 | 紀元前522年9月29日 - 紀元前486年10月 |
| 別号 |
大王 諸王の王 諸邦の王 この地界の王 バビロン王 古代エジプト王 |
| 出生 |
紀元前550年頃 |
| 死去 |
紀元前486年10月(64歳頃没) |
| 埋葬 | ペルシア、ナクシェ・ロスタム |
| 配偶者 | アトッサ |
| アルテュストネ | |
| パルミュス | |
| プラタグネ | |
| パイデュメ | |
| ゴブリュアスの娘(名前不詳) | |
| 子女 | アルトバザネス、クセルクセス1世(フシャヤールシャー)、アリアビゲネス、アルサメネス、マシステス、アケメネス、アルサメス、ゴブリュアス、アリオマルドス、アブリオコマス、ヒュペランテス、アルタゾストレ |
| 家名 | アケメネス家 |
| 王朝 | アケメネス朝 |
| 父親 | ヒュスタスペス(ウィシュタースパ) |
| 母親 | ロドグネ(ワルダガウナ) |
| 宗教 | 古代イランの宗教(ゾロアスター教?) |
| ダレイオス | |
|---|---|
| 古代エジプト ファラオ | |
| 統治期間 | 紀元前522年 - 紀元前486年,アケメネス朝(第27王朝) |
| 前王 | スメルディス?またはカンビュセス(2世) |
| 次王 | クセルクセス(1世) |
ダレイオス1世(古代ペルシア語: 𐎭𐎠𐎼𐎹𐎺𐎢𐏁 d-a-r-y-v-u-š(Dārayavaʰuš) ダーラヤワウシュ、紀元前550年頃 - 紀元前486年10月)は、アケメネス朝ペルシア帝国の王(在位: 紀元前522年9月29日 - 紀元前486年10月)。一般にキュロス2世から数えて3(4)代目の王とされるが、本人によればアケメネス家の9代目の王である。簒奪者の偽スメルディス(ガウマータ)とされた人物を排除して王位に就き、帝国の全域で発生した反乱をことごとく鎮圧して、西はエジプト、トラキア地方から東はインダス川流域に至る広大な領土を統治した。彼は自らの出自、即位の経緯、そして各地の反乱の鎮圧などの業績をベヒストゥン碑文として知られる碑文に複数の言語で記録させており、これは近代における楔形文字と古代ペルシア語解読のための貴重な資料を提供した。また、今日にもその遺跡が残されているペルセポリスの建設を開始した。
名前
[編集]ダレイオス1世の名は古代ペルシア語ではダーラヤワウシュ(古代ペルシア語: 𐎭𐎠𐎼𐎹𐎺𐎢𐏁 d-a-r-y-v-u-š(Dārayavaʰuš)[2]<dārayavaʰu-(ダーラヤワウ)<dāraya-(保つ)+vahu-(善い))、短縮形ではおそらくダーラヤウシュ(古代ペルシア語: *Dārayauš)といい、この名は「善きものを(固く)保つ」を意味する[3]。ペルシア語ではダーリューシュ(ペルシア語: داریوش Dāryuš)またはダーラー(ブ)(ペルシア語: داراب/دارا Dārā(b))という。
この名は日本語では主にダレイオス、ダライアス(ギリシア語由来)、ダリウス(ラテン語由来)、といい[4]、ダリヨス(タナハ/旧約聖書の訳から)、ダーラヤワウ[注釈 1]などともいう。
ダレイオス1世はダレイオス大王とも呼ばれる。
ダレイオス1世とその後継者は広大な領域を統治したため、多くの言語の多くの形でその名が記録されている。主要なものは以下の通りである[3]。
王権
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ダレイオスは碑文において新たな王の称号を用いた。これは広大な帝国を統治するための新たな王権観が必要となったためであり、ダレイオスはアッシリア王の称号などを参考に様々な称号を用いた[6]。ダレイオスはキュロス2世(クルシュ[7])が用いた称号のうち「大王(xšāyaθiya vazr̥ka)」、「諸邦の王(xšāyaθiya dahyūnām、修飾形あり)」を用い、加えてアッシリア王などが用いていた「諸王の王(xšāyaθiya xšāyaθiyānām)」という称号を用い[6]、さらに「この地界の王(xšāyaθiya ahyāyā būmiyā、別の形あり)」という称号も用いた。これらの称号は密接に関連しており、ダレイオスが一地域だけの王ではなく、様々な民族を支配する広大な帝国の王であったことを強く意識して用いられていた[6][8]。この4つの称号はこれ以降碑文を残した全ての王が用いている。また、ダレイオスは以前の王に引き続き、バビロニアではバビロン王、エジプトではエジプト王(ファラオ)でもあった。
ダレイオスはアウラマズダー神の恩寵(vašnā Aʰuramazdā)によって王となったという王権神授の論理を用いた[6]。このような論理はキュロス2世などのこれ以前の王も用いていた。しかし、キュロス2世の論理がメソポタミアの宗教に基づくバビロニア人に向けた政治宣伝といえるものであったのに対し、ダレイオスの論理はイラン系固有の宗教に基づいていたという面で画期的であった[6]。この変化は、後述するようにダレイオスは簒奪者として王となった可能性があるため、バビロニア人などの他の民族よりも先にペルシア人の支持を得る必要があったためだと考えられている[6]。アウラマズダーはゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーを指すが、ダレイオスを含むこの時代のペルシア人の宗教がゾロアスター教であったかどうかについては議論がある[注釈 3]。
来歴
[編集]出自
[編集]- 余はダーラヤワウ(ダレイオス)、偉大なる王、諸王の王、パールサの王、諸邦の王、ウィシュタースパ(ヒュスタスペス)の子、アルシャーマ(アルサメス)の孫、ハカーマニシュ(アケメネス)の裔。
- 王ダーラヤワウは告げる、余の父はウィシュタースパ、ウィシュタースパの父はアルシャーマ、アルシャーマの父はアリヤーラムナ(アリアラムネス)、アリヤーラムナの父はチャイシュピ(テイスペス)、チャイシュピの父はハカーマニシュ。
- 王ダーラヤワウは告げる、このゆえに、われらはハカーマニシュ家と呼ばれる。往昔よりわれらは勢家である。往昔よりわれらの一門は王家であった。
- 王ダーラヤワウは告げる、我が一門にしてさきに王たりしは八人、余は第九位。二系にわかれて九人、われらは王である。
紀元前550年頃、ダレイオスはヒュルカニアとパルティアの総督(サトラップ)であるヒュスタスペス(ウシュタースパ)とロドグネ(ワルダガウナ)の長男として生まれた[11][12]。ベヒストゥン碑文においてダレイオス自身が語るところによれば、ダレイオスはアケメネス家(ハハーマニシュ家)の出身であるという[8]。具体的には帝国の創始者キュロス2世のはとこの子にあたり、アケメネス家の傍流であるとされている。
即位
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ダレイオスの幼少期についての情報は存在しない。ヘロドトスによれば、王カンビュセス2世(カンブージヤ)の生前、ダレイオスはカンビュセス2世の槍持ちとして親衛隊にいたという[13]。この職業は王に極めて近い人物のみが付く高い職である[12]。また、バビロニア総督ゴブリュアス(ガウバルワ)の娘と結婚し、3人の子供を儲けていた[12]。ダレイオスが主要な舞台に登場するのはカンビュセス2世の崩御(紀元前522年)とその後の王位継承の争いの頃である。この時代についての重要な記録はヘロドトスが『歴史』に記録している逸話と、ダレイオス自身が残したベヒストゥン碑文である[14]。
ヘロドトスによる記録
[編集]ヘロドトスによれば、カンビュセス2世は弟であるスメルディスによる王位簒奪を恐れ密かに殺害した。そのためスメルディスの死は人々に知られる事はなかった。しかしカンビュセスがエジプトに遠征している最中、本国を任せていたマゴス神官パティゼイテス[注釈 4]が反旗を翻した。この神官には容姿がスメルディスの生き写しの弟がおり、名前も同じスメルディスであった。そしてスメルディスの死が人々に知られていなかったことに目をつけ、この弟を殺害されたスメルディス王子その人であるとして王位に就け、帝国全土に布告を出した[15]。カンビュセスはエジプトからの帰国の途上、シリアでこの知らせを聞き、激しく狼狽した後、偽スメルディスを打倒するため急ぎ戻ろうとしたが、乗馬する際に剣の操作を誤って負傷し、シリアのアグバタナで崩御した[17]。こうしてパティゼイテスと偽スメルディスがペルシアの支配権を握ったが、即位8ヶ月目にパルナスペスの子オタネス(ウターナ)が正体を暴き、ダレイオスを含む7人の同志[注釈 5] で、マゴス神官の兄弟を排除した[18]。事が済んだ後、7人は国制をどうするかについて議論したがまとまらず、城外に騎乗して遠乗りし、日の出と共に最初に馬がいなないた者が王となることを定めた。そして馬丁オイバレスの計略により最初に馬をいななかせることに成功したダレイオスが王となった[19]。
ベヒストゥン碑文の記録
[編集]一方、ベヒストゥン碑文によれば、ことの顛末は次のようなものであった。カンブージヤ(カンビュセス2世)は同母同父の弟バルディヤを殺害したが、バルディヤの死は人々には知らされなかった。その後カンブージヤがムドラーヤ(エジプト)に進発すると民衆の間に不穏な空気が流れた。この時、マグ神官ガウマータが「余はクルシュの息子にして、カンブージヤの弟たるバルディヤなり」と偽って宣言すると、民衆はカンブージヤから離反してガウマータに付き、彼は王として帝国を掌握した。その後カンブージヤは寿命尽きて崩御した[20]。ガウマータは自分が偽物であることを隠し通すため、生前のバルディヤを知っている者の多くを粛清した。このため多くの人々は恐れおののき、ガウマータについて何事をも敢えて口にすることはなくなった。正当な王家の出身者であったダーラヤワウシュ(ダレイオス)はアウラマズダー神に助けを乞い、その恩寵を得てガウマータとその側近たちを殺害した。こうしてダーラヤワウシュは帝国をガウマータから奪回し、アウラマズダーの意思によって王となった[21]。
2つの主要な記録に対する現代の評価
[編集]上記の通りカンビュセス2世の崩御の前後についてのヘロドトスの記録とベヒストゥン碑文の記録は細部では食い違う物の、大筋は一致している[22][23]。しかし、近年ではこの記録の信憑性は疑問視されており、実際にはダレイオスの方が簒奪者として即位し、それを正当化するために神官による王位簒奪の物語が創作されたのであるという見解が有力となっている[22][23]。詳細は後述の節を参照。
反乱
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偽スメルディス(ガウマータ)を排除した後、紀元前522年に王位についたダレイオスは、帝国全土で相次いで発生した反乱に対処しなければならなかった。この一連の反乱についてはベヒストゥン碑文に詳述されている。それによれば、ガウマータの死の翌月(紀元前522年10月[24])、エラム(ウーウジャ)でアーシナという人物が王を称して反乱を起こし、またバビロニア(バービルシュ)ではナディンタバイラ(ニディントゥ・ベール)が新バビロニアの王ナブナイタ(ナボニドゥス)の息子ナブクドゥラチャラ(ネブカドネザル3世) であると称して自立した[25]。ダレイオスはアーシナを逮捕することで迅速に制圧することに成功し[26]、ティグリス川の河畔でバビロニア軍を撃破し、次いでナディンタバイラが滞在していたユーフラテス川河畔のザーザーナ市の戦いでもバビロニア軍を撃破した。ナディンタバイラはバビロンに逃げ込んだが、ダレイオスはこの都市も制圧してナディンタバイラを殺し、バビロニアの反乱は鎮圧された[27]。
ダレイオスがバビロニアに滞在している間、更に反乱が相次いだ[28]。紀元前522年12月[24]、エラム王イマニを名乗ったマルティヤという人物によってエラムで反乱が発生した。しかし彼は部下の裏切りにあって殺害されたためこれはすぐに終息した[29]。同月中に[24]、メディア(マーダ)でもフラワルティ(フラオルテス)がメディア王クシャスリタを称して反乱を起こした。この反乱はメディアの他、アルメニア(アルミナ)、アッシリア(アスラー)地方まで巻き込む大規模なものとなり、ダレイオスはメディアで2回、アルメニアで4回、アッシリアで1回の戦いを行った。メディアで行われた最後の戦いで逃亡したフラワルティを捕らえ、メディアの都エクバタナで鼻と耳を舌をそぎ落とし最後に杭刺しにして殺害し反乱を鎮圧した[30]。次いでケルマーン(アサガルタ)でメディア王族を称するチサンタクマが反乱を起こしたため、一軍を差し向けて鎮圧した[31]。更にフラワルティの臣下を称する者たちが反乱を続け、ダレイオスの父ウィシュタースパ(ヒュスタスペス)によって鎮圧された[32]。
同じく紀元前522年12月にマルギアナ(マルグシュ)ではマルギアナ人フラーダによる反乱が発生したため、バクトリア(バーフトリシュ)のサトラップ、ダーダルシに鎮圧が命ぜられ、鎮圧された[33]。更に同月[24]、パールサ(ペルシア)でワフヤズダータという人物が、キュロス2世の息子バルディヤを自称して反乱を起こしたため、これも臣下のアルタワルディヤによって鎮圧させた[34]。しかしアラコシア(ハラウワティシュ)に派遣されていたワフヤズダータの軍勢は彼の崩御後も反乱を続け、鎮圧には更に時間がかかった[35]。そして紀元前521年8月[24]、バビロニアで再び反乱が発生し、アルメニア人アラカがナブクドゥラチャラ(ネブカドネザル4世)を称してバビロン王となった。このため、一軍を派遣して鎮圧した[36]。
ベヒストゥン碑文の記述を信ずるならば、上記の一連の反乱はダレイオスが即位したその年のうちに発生し鎮圧されたものである[37]。また6人のパールサ人の功績が特に大きかったとして顕彰している[注釈 6]。
更に紀元前520年春には[24]、再度エラムでアッタマイタという人物が反乱を起こしたため、鎮圧し、その翌年にはサカ人の領土に侵攻してその王スクンカを倒し、制圧した。こうしてダレイオスは帝国の完全な支配を手に入れた[38]。
治世
[編集]内政の整備
[編集]また王ダーラヤワウは告げる、この基壇の上にこの宮邸は建てられた。以前には、ここには宮邸は建てられていなかった。アウラマズダーの恩寵によって余はこの宮邸を建てた。そしてアウラマズダーは、すべての神々とともに、この宮邸が建てられるように決定し給うたのであって、余はそれを建て、かつそれを完璧に、美しく、そして余がそれを決定したごとくに、建てたのである。
ダレイオスはペルシア帝国の体制を整備し完成させたと言われる[40]。彼は奪取した王位を安定させるため、キュロス2世の娘アトッサとアルテュストネと結婚し、殺害されたスメルディス(バルディヤ)の娘パルミュスも妻とした。更にカンビュセス2世の妻となっていたオタネス(ウターナ)の娘パイデュメも妻とし、王家の血統の独占を図った[41][42]。彼の帝国は20から29の邦(ダフユ)に分けられ、それぞれにサトラップが任命されていたが、その動きを監視するため、「王の目」、「王の耳」と呼ばれる王直属の官僚たちにその動きを監視させた[11][43][注釈 7]。
中央集権的な体制の構築と、軍隊の迅速な移動のため、「王の道」と呼ばれる道路網が整備され、リュディアのサルディスからエラムのスーサまで2400キロメートルに及んだ[44]。王の道には111の駅逓が整備され、通常90日かかる行程を早馬では7日で移動することができたとされる[44]。王の道の全容は明らかになっていないが、石畳で舗装された道路の一部が駅逓の跡と共に発掘されており、馬車を走らせることもできたと見られている[44]。また、中央集権の要として度量衡の統一が行われ、不完全ながら貨幣制度の整備も行われた[44]。銀貨や銅貨は各地のサトラップによっても発行され、ダレイオス自身もダリクと呼ばれる金貨を発行した[44]。
また、その理由は現在では不明であるが、新たな首都ペルセポリスの造営を開始した。この都市の造営はその後クセルクセス1世(フシャヤールシャー)、アルタクセルクセス1世(アルタフシャサー)の時代も続き、アケメネス朝の時代を通じて整備され続けた[39][44]。ペルセポリスにはダレイオスが残した建築碑文が複数残されている他、ペルセポリスのあちらこちらにダレイオスの一際大きく描かれた像が残されており、その強大な権力を今日に伝えている[45]。
インドとスキタイへの遠征
[編集]財政的な余裕を得たダレイオスは、かつてスキタイ人がメディアと小アジアを席巻したことへの報復としてスキュティアへの遠征を思い立った[46]。ダレイオスの弟アルタバノスはこの遠征の困難を訴えて制止したが、ダレイオスは攻撃を強行した[47]。紀元前513年頃、ダレイオスがダーダネルス海峡を越えると、トラキア地方の諸族は戦わずして降伏し、唯一抵抗したゲタイ人も瞬く間に征服された[48]。その後、ダレイオスの軍勢は黒海の海岸沿いに北上したが、黒海北岸のスキタイ人本拠地への攻撃は、スキタイ人の焦土戦術の前に大きな損害を出して撤退を余儀なくされた。ヘロドトスの記録にはドナウ川を渡河した後、橋梁の建設の記事がないことから、ダレイオスの軍勢は少なくともドニエストル川に到着する前に撤退したと推定されている[49]。この時確保したトラキアは後のギリシア遠征への足掛かりとなった[40][50]。
東方ではインダス川流域へも遠征が行われた。ダレイオスによるインダス川流域の征服がいつ頃行われたのかは不明である。ペルセポリスの碑文と、ナクシェ・ロスタムの碑文にインド(ヒンドゥシュ)人がガンダーラ人と共に臣民として数えられていることから、紀元前516年からダレイオスの没年までのある時期に征服されたと推定されている[51]。この遠征に先立ち、ダレイオスはカリュアンダ[注釈 8] 人スキュクラスにインダス川流域の探検と河口の確認を命じ、更にインドからエジプトへの航路を確認させた[52]。ダレイオスが征服したインドが実際にどの地方だったのか、正確なことはわかっていない。パンジャーブ地方の大部分を含んでいたとも考えられるし、インダス川の両岸地区を河口に達するまで支配した可能性もある[51]。ただし、実際に征服された範囲がどの程度であったにせよ、インドはペルシア帝国の版図の中で最も税収の多いサトラペイア(ダフユ)となった。ヘロドトスによればインドはペルシア帝国の第20徴税区であり、砂金360タラントンを納入していた[53]。これはインド以外の全てのサトラペイアの合計に匹敵したという[53][注釈 9]。
イオニアの反乱
[編集]アナトリア半島のエーゲ海沿岸に居住していたギリシア人の一派であるイオニア人は、元々ダレイオスの帝国に恭順の姿勢を示していた。ペルシア側の記録にはこのイオニア人はヤウナ[54] や、陸地と海浜のヤウナ人[55] として記載されている。ペルシア帝国はイオニア人のポリスに自治を認めつつ、従属的な僭主を統治者とすることで支配を行った[56]。紀元前513年頃のダレイオスのスキタイ遠征の最中、スキタイ人はペルシア帝国の軍団に加わっていたギリシア人の部隊に調略を行い、ペルシアからの離反を唆した。アテナイ人でケルソネソスの僭主であったミルティアデスが同調しギリシア人の解放を主張したが、イオニアの主邑ミレトスの僭主ヒスティアイオスは、ダレイオスの存在によって自分たちの地位が安泰なのであると主張し、他の僭主たちも同調したためこの時には離反は起こらなかった[56][57][注釈 10]。
スキタイ遠征から引き揚げた後、ダレイオスは残留させたペルシア軍に周辺地域の平定に当たらせた。指揮官に任じられたメガバゾスはトラキア地方のほとんどを制圧し、パイオニアも平定してマケドニアの手前までを支配下に置いた[58]。帰還したメガバゾスは、ミレトス僭主ヒスティアイオスが大功ありとして新たな領土を与えられたことを危険視し、彼を本国のスーサに移させた[59]。その後、メガバゾスの後任としてエーゲ海沿岸地域の司令官となったシサムネスの子オタネス[注釈 11] はビュザンティオンとカルケドンを征服すると共に、レムノス島とインブロス島も制圧し、エーゲ海沿岸でのペルシア帝国の支配地は順次拡大した[60]。
紀元前499年、ペルシア帝国のサルディスのサトラップ、アルタプレネスはミレトスの臨時僭主アリスタゴラスと共謀し、ナクソスの内紛に乗じて征服するべく、メガバテスを総司令官にナクソス遠征を企画した[61]。しかし方針を巡ってメガバテスとアリスタゴラスが対立した上、4ヶ月に渡る包囲戦の末に軍資金が底をつき退却を余儀なくされた。失敗の責任を問われて地位を失うことを恐れたアリスタゴラスは反乱に踏み切った[62]。アリスタゴラスが他のイオニア都市も反乱に引き込んだため、これがイオニアの反乱と呼ばれる反乱に発展した。アリスタゴラスは事を起こす前にアテナイやスパルタなどに支援を要請した[56]。スパルタは協力を拒否したものの、アテナイとエレトリアがイオニアへ軍事支援を行った[56]。
しかしアテナイは初戦の敗退の後イオニアを見放し、結果としてイオニアの反乱は紀元前494年にミレトスが陥落したことで鎮圧された[56][63]。
ペルシア戦争
[編集]ダレイオスの対外遠征の中で史上名高いのはイオニアの反乱に端を発したギリシア遠征である。この戦いは一般にペルシア戦争と呼ばれる数次にわたる戦争の第1回目とされている。
ダレイオスはイオニアの反乱を鎮圧した後、紀元前492年に甥のマルドニオスに艦隊を与えて、反乱へ加担したアテナイやエレトリアへの懲罰を目的として遠征を行った。この遠征は暴風雨にあって失敗し、マルドニオスは解任された[12]。その後、ダレイオスはギリシア人の諸ポリスに、土と水を献上して恭順の意を示すように要求し[56]、多くのポリスがそれに従ったが、アテナイやスパルタは拒否した[56]。紀元前490年、服従の意を示さなかったポリスを平定するため、ギリシアへ大規模な遠征軍が派遣された[56]。ダレイオスはメディア人ダティスと、アルタプレネスの子アルタプレネスにアテナイとエレトリアの征服を命じ[64]、7日間の攻撃でエレトリアは陥落した[65]。エレトリアの陥落の後、ペルシア軍はマラトンの平野でミルティアデス率いるアテナイ軍の前に敗退し(マラトンの戦い[66])、ギリシア遠征は失敗に終わった。ただし、ダレイオスは捕虜としたエレトリアの市民をスーサに近いキッシア地方に定住させた[67]。
崩御とその後
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ダレイオスは2度にわたる遠征の失敗に憤激し、より大規模な遠征軍を編成して親征することを決断した[69]。しかしその準備の最中、エジプト(ムドラーヤ)で反乱が発生したため、ギリシアとエジプトのどちらへの遠征を優先すべきかが問題となった[69]。ところが、即位から36年ほど経った紀元前486年10月、ダレイオスは急死し、ギリシアへの遠征もエジプトの反乱鎮圧も後継者の手に委ねられることになった[70][71]。その王墓はナクシェ・ロスタムにある。
ダレイオスには後継者の候補として即位以前に結婚していたゴブリュアスの娘(名前不詳)との間に長子アルトバザネスを始めとする3人の息子がおり、キュロス2世の娘アトッサとの間にはクセルクセス(フシャヤールシャー)がいた[72]。ヘロドトスは王位継承を巡る対立と、クセルクセスが後継者に定まる顛末を記録しているが[73]、母アトッサの権勢が強かったため、クセルクセスが後継者になったのは既定のことであったと評している[73]。ペルセポリスの浮彫には大きく描かれたダレイオスの像の傍らに王太子クセルクセスが描かれており、考古学的にもクセルクセスが当初より正当な後継者として扱われていたのは明らかである[74]。その後ダレイオスが崩御すると、そのままクセルクセスが帝国を継いだ。
ダレイオスは偉大なペルシア王として後のギリシア人たちに大きな印象を残した。ヘロドトスはダレイオスの即位から崩御に至るまでの治世全期間を、様々な挿話を交えつつ記録に残している。また、ペルシア帝国を滅ぼしたマケドニア王アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)は、キュロス2世とダレイオスと言う2人の創始者の業績に感嘆し、彼らの墓を訪れた際に、ダレイオスの墓に刻まれた碑文をギリシア語訳するように命じた[68]。
アケメネス朝の創設者としてのダレイオス
[編集]通常、ダレイオスはキュロス2世、カンビュセス2世、(偽スメルディス)に続くアケメネス朝ペルシア帝国の3(4)代目の王であるとされる。一方、ベヒストゥン碑文でダレイオスが自ら語るところによれば彼はアケメネス家(ハハーマニシュ家)の9代目の王である[8]。しかし、近年では偽スメルディス(ガウマータ)の排除を巡る伝承に含まれる矛盾や[注釈 12]、その後相次いだ反乱などから、王位継承にまつわる一連のダレイオスの主張は政治宣伝にすぎず、実際にはダレイオスの方が簒奪者であったとする見解が有力である[22]。
ギリシア史・マケドニア史研究家の森谷公俊は更に論を進め、アケメネス朝(ハハーマニシュ朝)を実際に創出したのはダレイオスであったとする[77]。ベヒストゥン碑文においてダレイオスの祖先としてあげられるヒュスタスペス(ウィシュタースパ)、アルサメス(アルシャーマ)、アリアラムネス(アリヤーラムナ)、テイスペス(チシュピシュ)、アケメネス(ハハーマニシュ)の中に王であった人物は存在しない。テイスペスはキュロス2世の祖父にあたるキュロス(クルシュ)の父であるので、碑文を全面的に信用したとしても、ダレイオスは4代前でようやく王家と繋がる傍系であったことがわかる[77]。重要なことは、キュロス2世自身が語る系譜にはアケメネスという人物が登場しないことである[77]。キュロス2世は「余はキュロス(クルシュ)、偉大なる王、アンシャンの王カンビュセス(カンブージヤ)の子、偉大なる王、アンシャンの王キュロスの孫、テイスペス(チシュピシュ)の裔」としか宣言していない[77]。そして、キュロス2世、アルサメス、アリアラムネスの碑文が見つかっているが、その全てがダレイオス以降の時代に追刻されたものであることがわかっている[78]。また、ダレイオスは、王位に就いた後、キュロス2世の名前で「アケメネス家のキュロス」という文言を含む碑文をいくつも刻み、更にキュロス2世やカンビュセス2世、スメルディスの妻や娘全てと結婚し、王家の血統を独占することに熱心であった[77]。これらの事から、キュロス2世は簒奪者ダレイオスによってアケメネス朝の王として再定義されたのであり、そのことからダレイオスはアケメネス朝の再創造者であったと言えると言う[77]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 日本語ではダーラヤワウともダーラヤワウシュともいう。これは古代ペルシア語はインド・ヨーロッパ語族に属する屈折語であり、固有名詞も文法的条件により格変化を起こすためである。ダーラヤワウは名詞幹のみの形態であり、ダーラヤワウシュは単数主格形である[5]。
- ↑ 擬古形ではdry(w)hwšという形を取る。恐らくこれのギリシア語形がダーレイアイオス(Dareiaîos)であり、クテシアスの『ペルシア史』とクセノフォンの『ギリシア史』においてのみ検出される形である[3]。
- ↑ アケメネス朝の王たちが残した碑文中にゾロアスター(ザラスシュトラ)への言及はなく、またゾロアスター教においてアフラ・マズダーと対を為す悪神アーリマンへの言及もない[9]。エミール・バンヴェニストは、当時のアケメネス朝の宗教について、はっきりとそれが「ゾロアスター教」であることを示すいかなる証拠も存在しないとし、アウラマズダーという神格はゾロアスター教よりも古い起源を持つものであると指摘する[9]。そしてこの時期に存在したアケメネス朝の宗教はギリシア人たちが記録したペルシア人の宗教である「マゴスの宗教」とも「ゾロアスター教」とも異なる「マズダー教」とでも呼ぶべきものであったとする[9]。一方で、ゲラルド・ニョリはマズダー教とゾロアスター教を等価として扱えるものであるとし、アケメネス朝の宗教はゾロアスター教であったと確言する[10]。
- ↑ ヘロドトスが記すパティゼイテスという神官の実在は疑わしい。ヘロドトスは彼についてカンビュセス2世留守中に王家の面倒を任された人物であるとするが[15]、これは「執事」、「管理人」を意味するパティフシャーヤシヤ(patixšāyaθiya)という役職を固有名詞として、簒奪者を2人に分割したものであると考えられる [16]。
- ↑ ヘロドトスによれば、オタネス(ウターナ)、アスパティネス(アシュパカナ)、ゴブリュアス(ガウバルワ)、インタプレネス(ウィンダファルナフ)、メガビュゾス(バガブクシャ)、ヒュダルネス(ウィダルナ)、ダレイオス1世(ダーラヤワウ1世)の7人
- ↑ 対象者はウィンダファルナフ(インタプレネス)、ウターナ(オタネス)、ガウバルワ(ゴブリュアス)、ウィダルナ(ヒュダルネス)、バガブクシャ(メガビュゾス)、アルドゥマニシュ
- ↑ 「王の目」「王の耳」という名称はヘロドトスによるが[43]、これは恐らくディディヤカ(*didiyaka、見張り)、ガウシャカ(gaušaka、聞き手)の訳語であると推定される[39]。
- ↑ アナトリア半島のカリア地方沿岸にある小島。
- ↑ ただし、松平千秋は『歴史』の訳注にてこの表現は誇張が過ぎるであろうと述べている。
- ↑ ヘロドトスによればこの時ヒスティアイオスに同調したのはヘレスポントス地方のポリスの僭主としては、アビュドスのダプニス、ランプサコスのヒッポクロス、パリオンのヘロバントス、プロコンネソスのメトロドロス、キュジコスのアリスタゴラス、ビュザンティオンのアリストン、イオニア地方のものとしてはキオスのストラッティス、サモスのアイアケス、ポカイアのラオダマス、そしてアイオリス地方のキュメのアリスタゴラスらである。
- ↑ スメルディス(ガウマータ)の排除に関わったオタネス(ウターナ)とは別人。
- ↑ ギリシアの文献によれば、偽スメルディス(ガウマータ)は本物のスメルディスと見分けがつかないほど似通った容姿をしていたとされるが、仮にそのような人物が存在したとしても本人そのものとして振る舞うことができたとは考えられず、このような説話はおよそ現実的なものではない。このため、僭称者など存在せずダレイオス1世が殺害した偽スメルディスとは本物の王弟そのものであったという推測がしばしば行われる[75]。また別の説として、この「偽」の王スメルディスとは古代オリエントにおいて時折見られた身代わり王(代理王、王に凶兆があった時に一時的に王として扱われ、本物の王に代わって凶兆を受ける存在)だったのではないかとする説もある[76]。
出典
[編集]- 1 2 3 (English) LEPROHON 2013 The Great Name Ancient Egyptian Royal Titulary
- ↑ 伊藤 1974, 巻末のペルシア式楔形文字表に依る。
- 1 2 3 4 “Encyclopedia Iranica DARIUS i. The Name”. 2017年12月31日閲覧。
- ↑ 西洋古典学辞典 2010, pp. 738-739 「ダーレイオス」の項目より
- ↑ 伊藤 1974, p. xviii
- 1 2 3 4 5 6 田辺 2003, pp. 154-156
- ↑ 一般にキュロス2世はアケメネス朝ペルシア帝国の初代王とされている。祖父のアンシャン王キュロス1世と同じ名であるため、区別のためにキュロス2世と呼ばれる。
- 1 2 3 4 伊藤 1974, pp. 22-50
- 1 2 3 バンヴェニスト 1996, pp. 12-44
- ↑ ニョリ 1996, pp. 12-44
- 1 2 “Encyclopedia Iranica DARIUS iii. Darius I the Great”. 2017年12月31日閲覧。
- 1 2 3 4 山本 1997, p. 130
- ↑ ヘロドトス, 巻3§139
- ↑ 森谷 2016, p. 54
- 1 2 ヘロドトス, 巻3§61
- ↑ 森谷 2016, p. 59
- ↑ ヘロドトス, 巻3§65
- ↑ ヘロドトス, 巻3§70-79
- ↑ ヘロドトス, 巻3§80-86
- ↑ ベヒストゥン碑文, §11
- ↑ ベヒストゥン碑文, §13
- 1 2 3 森谷 2016, pp. 55-56
- 1 2 山本 1997, pp. 128-129
- 1 2 3 4 5 6 森谷 2016, pp. 67-68
- ↑ ベヒストゥン碑文, §16
- ↑ ベヒストゥン碑文, §17
- ↑ ベヒストゥン碑文, §18_20
- ↑ ベヒストゥン碑文, §21
- ↑ ベヒストゥン碑文, §23
- ↑ ベヒストゥン碑文, §24-32
- ↑ ベヒストゥン碑文, §33
- ↑ ベヒストゥン碑文, §35-36
- ↑ ベヒストゥン碑文, §39
- ↑ ベヒストゥン碑文, §41-42
- ↑ ベヒストゥン碑文, §45-47
- ↑ ベヒストゥン碑文, §49-59
- ↑ ベヒストゥン碑文, §52
- ↑ ベヒストゥン碑文, §71-76
- 1 2 3 伊藤 1974, pp. 68-79
- 1 2 山本 1997, p. 133
- ↑ ヘロドトス, 巻3§88
- ↑ 森谷 2016, pp. 72-73
- 1 2 山本 1997, p. 134
- 1 2 3 4 5 6 山本 1997, p. 136
- ↑ 山本 1997, p. 139
- ↑ ヘロドトス, 巻4§1
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- ↑ ヘロドトス, 巻4§93
- ↑ ギルシュマン 1970, pp. 138-139
- ↑ ヘロドトス, 巻4§130-136
- 1 2 中村 1997, pp. 10-11
- ↑ ヘロドトス, 巻4§44
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- ↑ ベヒストゥン碑文, §6
- ↑ ダレイオス1世のペルセポリス碑文e
- 1 2 3 4 5 6 7 8 桜井 1997, pp. 127-129
- ↑ ヘロドトス, 巻4§137
- ↑ ヘロドトス, 巻5§1-17
- ↑ ヘロドトス, 巻5§23
- ↑ ヘロドトス, 巻5§25
- ↑ ヘロドトス, 巻5§28-33
- ↑ ヘロドトス, 巻5§35-36
- ↑ ヘロドトス, 巻5§99-126, 巻6§1-22
- ↑ ヘロドトス, 巻6§94
- ↑ ヘロドトス, 巻6§101
- ↑ ヘロドトス, 巻6§111-117
- ↑ ヘロドトス, 巻6§119
- 1 2 ギルシュマン 1970, pp. 143-144
- 1 2 ヘロドトス, 巻7§1
- ↑ ヘロドトス, 巻7§4
- ↑ 山本 1997, p. 148
- ↑ ヘロドトス, 巻7§2
- 1 2 ヘロドトス, 巻7§3
- ↑ 山本 1997, pp. 132-133, 139
- ↑ 阿倍 2023, p. 198
- ↑ 阿倍 2023, p. 199
- 1 2 3 4 5 6 森谷 2016, pp. 70-74
- ↑ 伊藤 1974, pp. 109-115
参考文献
[編集]史料の和訳
[編集]- ヘロドトス『歴史 上』松平千秋訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1971年12月。ISBN 978-4-00-334051-6。
- ヘロドトス『歴史 中』松平千秋訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1972年1月。ISBN 978-4-00-334052-3。
- ヘロドトス『歴史 下』松平千秋訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1972年2月。ISBN 978-4-00-334053-0。
- 伊藤義教 訳「ベヒストゥン碑文」『古代ペルシア』岩波書店、1974年1月。ISBN 978-4007301551。
書籍
[編集]- 青木健『ゾロアスター教の興亡 -サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ-』刀水書房、2006年12月。ISBN 978-4007301551。
- 阿部拓児「ダレイオス1世」『神話世界と古代帝国 神話~6世紀』集英社〈アジア人物史 1〉、2023年1月。ISBN 978-4-08--157101-7。
- 伊藤義教『古代ペルシア』岩波書店、1974年1月。ISBN 978-4007301551。
- 小川英雄、山本由美子『オリエント世界の発展』中央公論社〈世界の歴史4〉、1997年7月。ISBN 978-4-12-403404-2。
- 中村元『インド史 II』春秋社〈中村元選集 決定版5〉、1997年9月。ISBN 978-4-393-31206-3。
- 山本由美子「4 アケメネス朝ペルシアの成立と発展」『オリエント世界の発展』〈世界の歴史4〉。
- 桜井真理子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論社、1997年10月。ISBN 978-4-12-403405-9。
- 桜井真理子「4 二つの大戦と古典期ギリシア」『世界の歴史5 ギリシアとローマ』。
- 角田文衛、上田正明監修『古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ篇』角川書店、2003年6月。ISBN 978-4-04-523003-5。
- 田辺勝美「第5章 古代ペルシアの王権とその造形」『古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ篇』。
- 山田勝久、児島建次郎、森谷公俊『ユーラシア文明とシルクロード ペルシア帝国とアレクサンドロス大王』雄山閣、2016年6月。ISBN 978-4-639-02427-9。
- 森谷公俊「第四章 ダレイオス一世とアカイメネス朝の創出」『ユーラシア文明とシルクロード ペルシア帝国とアレクサンドロス大王』。
- エミール・バンヴェニスト、ゲラルド・ニョリ『ゾロアスター教論考』平凡社、1996年12月。ISBN 978-4-582-80609-0。
- ロマン・ギルシュマン 著、岡崎敬、糸賀昌昭、岡崎正孝 訳『イランの古代文化』平凡社、1970年2月。ASIN B000J9I12Q。
外部リンク
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