バビロン

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バビロン
Bāb-ilim
マルドゥク神殿周辺の想像図
マルドゥク神殿周辺の想像図
位置
バビロンの位置の位置図
バビロンの位置
座標 : 北緯32度32分11秒 東経44度25分15秒 / 北緯32.53639度 東経44.42083度 / 32.53639; 44.42083
人口
人口 (現在)
  市域 0人
その他
等時帯 グリニッジ標準時 (UTC+3)

バビロンメソポタミア地方の古代都市。市域はバグダードの南方約90kmの地点にユーフラテス川をまたいで広がる。その遺跡は、2019年にUNESCO世界遺産リストに登録された。

呼称[編集]

アッカド語で「神の門」を意味するバーブ・イリ(ム)(𒆍𒀭𒊏𒆠Bāb-ili(m)[1])に由来する。古代ペルシア語: 𐎲𐎠𐎲𐎡𐎽𐎢𐏁 Bābiruš、古代ギリシア語: Βαβυλών Babylōn、ヘブライ語: בָּבֶל‎ Bāvel、アラビア語: بابل‎ Bābil などはその借用である。バビロニア古代ギリシア語: Βαβυλωνία Babylōnia)の語はバベルにもとづく。

マルドゥクを守護神とした。ウル第3王朝崩壊後のイシンラルサ時代の群雄割拠をこの都市に開かれたバビロン第1王朝第6代の王ハンムラビが制して以後、メソポタミア下流域の重要都市として浮上した。

歴史[編集]

都市バビロンの記録は前3千年紀末に登場する。

バビロン第1王朝[編集]

ここにアムル人バビロン第1王朝を建設し、前18世紀に第6代の王ハンムラビがメソポタミアを統一した。

カッシート朝・アッシリア帝国・新バビロニア王国・アケメネス朝ペルシア帝国[編集]

復元されたイシュタル門

その後、カッシートアッシリア帝国などの支配を経るが、一貫してメソポタミア地方の中心であった。貿易の商工業の中心であり、物資集積場であった。紀元前600年代の新バビロニア王国時代になって、その首都となるとイシュタル門や、今でも謎を残す空中庭園などの建造物が作られ、オリエント有数の大都会として栄えた。しかし、新バビロニアがアケメネス朝ペルシア帝国に滅ぼされ、ペルシャの一都市となってからはその重要性が低下した。

マケドニア王国・セレウコス朝[編集]

その後、ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロス3世(大王)がここをマケドニア王国の王都としたが、紀元前323年のバビロンでの彼の死に伴ってバビロン会議が開催され、彼の遺将たち(ディアドコイ)によって権力と所領の分割協定が結ばれた。しかし、やがてディアドコイ戦争が勃発し、紆余曲折を経てディアドコイの一人だったセレウコス1世がバビロンとアジアの大部分の支配者となり、紀元前312年セレウコス朝を開いた。しかし、幾人かの王の中興があったものの彼の時代をピークにセレウコス王朝は次第に領土を喪失していった。

パルティア王国[編集]

紀元前130年代にバビロンを含むバビロニアをパルティア王国に奪われた。バビロンはその間、取るに足らぬ地方都市として衰退を続け度重なる洪水などによって破壊され、やがて肥沃で緑あふれる土地だったメソポタミア平原が砂漠化したように大都市の面影をとどめない廃墟となってしまった。

発掘[編集]

発掘されたバビロンの廃墟の遺跡

その後は、遺跡は砂漠に埋もれバビロンは旧約聖書や古代ギリシャの著作家たちが伝える以上のことは不明だったが、1811年から1812年にかけて、および1827年のクローディアス・リッチ英語版による発掘[2][3] がきっかけとなって、1827年のロバート・ミグナン[4]、1849年のウィリアム・ロフタス英語版[5][5] らによって解明が進められた。その後、現在にいたるまで研究が続けられている。

イラク共和国[編集]

メソポタミア文明の再興を掲げるイラクの独裁者サダム・フセインの主導で1978年よりバビロン遺跡の考古学的修復を名目に古代都市の復興計画が開始され、バビロン遺跡の入り口にはサダム・フセインとネブカドネザルの肖像画が配置され、碑文には「ネブカドネザルの息子であるサダム・フセインがイラクを称えるために建設した」と刻まれた[6]バース党政権下で1987年から2002年までほぼ毎年バビロンでフェスティバルが開催されるも予定された空中庭園とジグラットの再建は行われることはなかった[7][8][9]

1991年湾岸戦争が終わると、サダム・フセインは遺跡群内にジグラットを模した近代的な宮殿を建てケーブルカーも敷設しようとしたが、2003年のイラク戦争により中止に追い込まれた。しかし、戦争でイラクに侵攻したアメリカ軍の基地建設によって遺跡の損傷が進んだ[10]

ユダヤ教・キリスト教における伝承と位置づけ[編集]

17世紀のヨーロッパ人が描いたバビロン想像図。左側にバベルの塔が描かれている

旧約聖書創世記ではバベルと表記され、バベルの塔の伝承にて混乱(バラル)を語源とすると伝える。創世記10章第2節によると、ノアの子ハムの子孫である地上で最初の勇士ニムロド(ニムロデ)の王国の主な町が、シンアルの地にあったバベル、ウルクアッカドであったという。この直後の創世記11章がバベルの塔の伝承であり、ここで東方からシンアルの地へ移住した人々による都市バベル及びバベルの塔の建設が述べられているため、この建設事業をニムロドに帰する神学解釈がある。

新バビロニア王国時代のバビロンと周辺の数箇所の都市には、滅ぼされたユダ王国の指導者層が強制移住(バビロン捕囚)させられ、この事件がそれまで神殿宗教であったヤハヴェ信仰ユダヤ教に脱皮成長させる大きな契機となり、ひいてはユダヤ人の民族形成史上、大きな役割を果たした。

また、イラクにおけるユダヤ人コミュニティーの起源ともなったが、このようにユダヤ教の成立過程に深く関わったバビロンはユダヤ教やその系譜を引くキリスト教において正義の対抗概念のイメージであり、さらにイザヤ書エレミヤ書の預言と新約聖書のヨハネの黙示録ヨハネへの啓示啓示の書)の故事から、ヨーロッパなどのキリスト教文化圏においては、退廃した都市の象徴(大淫婦バビロン大娼婦バビロン)、さらには、富と悪徳で栄える資本主義、偶像崇拝の象徴として扱われることが多い。

宗教[編集]

50以上の神殿があり、主神はマルドゥク。他にも三位一体黄道帯の支配者であるシン)、シャマシュ太陽)、イシュタル金星)などが祀られていた。

都市の構造[編集]

バビロンの平面図。外側と内側に城壁で囲まれている

二重構造の城壁で囲まれており、内側の塁壁は二列に並んでいて内側の壁は厚さ6.5メートル、外側の壁は厚さ約3.5メートルでその外には南と北にユーフラテス川から水を引いたがあり、城門が八つあったという。またネブカドネザル2世によって付け加えられた外側の塁壁も二列に並んでいて、内側の壁の厚さは約7メートルあった。東部にはもう一組の二重城壁があった。いくつかの門から市内に街路が通っていて、主要な大通りの行列道路は舗装され両側の壁は神々の象徴であるライオンや竜ムシュフシュの像で飾られた。

世界遺産[編集]

世界遺産 バビロン
イラク
Ancient Remains in Babylon.jpg
英名 Babylon
仏名 Babylone
面積 1,054.3 ha
(緩衝地帯 154.5 ha)
登録区分 文化遺産
文化区分 遺跡
登録基準 (3), (6)
登録年 2019年(第43回世界遺産委員会
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

バビロンは1983年に登録延期となった後、2019年に正式登録された。

登録基準[編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

登場作品[編集]

映画『イントレランス』のバビロンのセット


脚注[編集]

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  1. ^ 楔形文字𒆍𒀭𒊏𒆠は、KA2.DINGIR.RAKIと翻字され、シュメール語の「ka-diĝirra」(神の門)を表す。アッカド語はその翻訳借用
  2. ^ Claudius J. Rich, Memoirs on the Ruins of Babylon, 1815
  3. ^ Claudius J. Rich, Second memoir on Babylon; containing an inquiry into the correspondence between the ancient descriptions of Babylon, and the remains still visible on the site, 1818
  4. ^ Google Books Search, Robert Mignan, Travels in Chaldæa, Including a Journey from Bussorah to Bagdad, Hillah, and Babylon, Performed on Foot in 1827, H. Colburn and R. Bentley, 1829 ISBN 1402160135
  5. ^ a b Google Books Search, William K. Loftus, Travels and Researches in Chaldaea and Susiana, Travels and Researches in Chaldaea and Susiana: With an Account of Excavations at Warka, the "Erech" of Nimrod, and Shush, "Shushan the Palace" of Esther, in 1849–52, Robert Carter & Brothers, 1857
  6. ^ "Saddam removed from ancient Babylon 'brick by brick'", ABC News 20 April 2003.
  7. ^ John Curtis, "The Site of Babylon Today"; in Finkel & Seymour, eds., Babylon (2009); pp. 213–220.
  8. ^ John Curtis, "The Present Condition of Babylon"; in Cancik-Kirschbaum et al. (2011).
  9. ^ Paul Lewis, "Babylon Journal; Ancient King's Instructions to Iraq: Fix My Palace" (archive), New York Times, 19 April 1989.
  10. ^ Bajjaly, Joanne Farchakh (2005-04-25). "History lost in dust of war-torn Iraq". BBC News.

関連項目[編集]