バビロン

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バビロン
Bāb-ilim
マルドゥク神殿周辺の想像図
マルドゥク神殿周辺の想像図
位置
バビロンの位置の位置図
バビロンの位置
座標 : 北緯32度32分11秒 東経44度25分15秒 / 北緯32.53639度 東経44.42083度 / 32.53639; 44.42083
人口
人口 (現在)
  市域 0人
その他
等時帯 グリニッジ標準時 (UTC+3)

バビロン(Babylon)は、メソポタミア地方の古代都市。市域はバグダードの南方約90kmの地点にユーフラテス川をまたいで広がる。その遺跡は、2019年にUNESCO世界遺産リストに登録された。

概要[編集]

バビロンが文書に登場する一番最初のものは、アッカド帝国のサルゴンの治世(紀元前2334年から2279年)の粘土板である。その中で、バビロンは小さな町として言及されている。ユーフラテス川の両岸に沿って建設されたこの都市には、川の季節的な洪水を防ぐための高い堤防があった。バビロンは、古代メソポタミア地域におけるバビロニア帝国の首都でもあった。バビロニア帝国は、時代を隔てて二度、この地域を支配した。一度目は紀元前19世紀から15世紀にかけて、そして二度目は紀元前7世紀から6世紀の間にかけてである。町に人が居住していた最後の記録は紀元10世紀のもので、その頃にはバベルと呼ばれる小さな村となっていた。

町は、紀元前19世紀にバビロン第1王朝が台頭したことで、小さな独立した都市国家の一部になった。紀元前18世紀にアモリ人の王ハンムラビは、短命の古バビロニア帝国を興した。彼はバビロンを大都市に造り替え、自らをその王と宣言した。メソポタミア南部はバビロニアとして知られるようになり、バビロンはこの地域の聖地として、ニップルをも凌ぐようになった。この帝国はハンムラビの息子サムス・イルナの下で衰退し、その後長い間、バビロンはアッシリア人、カッシート人エラム人の支配下にあった。アッシリア人が破壊・再建した後、前609年から前539年まで、バビロンは新アッシリア帝国の後継である新バビロニア帝国の首都となった。バビロンの空中庭園は、古代世界の七不思議の一つとして位置づけられた。新バビロニア帝国の崩壊後、バビロンはアケメネス朝ペルシアセレウコス朝パルティアローマ帝国、そしてサーサーン朝ペルシアなどの諸帝国の支配下に置かれた。

バビロンが世界最大の都市だった時期は 紀元前1770~1670年頃と、紀元前612~320年頃と見られている。おそらく、一番早く人口が20万人に到達した都市であった[1]。その区域の最大範囲は、890~900ヘクタールに及ぶものと推測される[2][3]

街の遺跡は、今日のイラクバグダードの南85km、バービル県ヒッラにあり、その境界は、面積約10.5平方キロメートルに及ぶ古代の市外壁に基づいている。遺跡は、壊れた泥レンガの建物やがれきで構成されている。バビロンに関する主な情報源 ― 遺跡の発掘、メソポタミアの他の地域で発見された楔形文字文書、聖書、古代の文書(とりわけヘロドトス)における記述、あるいは(クテシアスベロッソスなどの文書の)引用による文書など ― をつなぎ合わせても、その完全な実像に迫ることは難しい。史料同士が相互に矛盾さえしており、その辺りの事情は、都市が最盛期であった紀元前6世紀についても同様である[4]。2019年、ユネスコはバビロンを世界遺産に登録した。この場所には毎年何千人もの人が訪れ、そのほぼ全てがイラク人である。周辺では開発が急速に進んでおり、遺跡への浸食が起きている。

呼称[編集]

アッカド語で「神の門」を意味するバーブ・イリ(ム)(𒆍𒀭𒊏𒆠Bāb-ili(m)[5])に由来する。古代ペルシア語: 𐎲𐎠𐎲𐎡𐎽𐎢𐏁 Bābiruš、古代ギリシア語: Βαβυλών Babylōn、ヘブライ語: בָּבֶל‎ Bāvel、アラビア語: بابل‎ Bābil などはその借用である。バビロニア古代ギリシア語: Βαβυλωνία Babylōnia)の語はバベルにもとづく。

マルドゥクを守護神とした。ウル第3王朝崩壊後のイシンラルサ時代の群雄割拠をこの都市に開かれたバビロン第1王朝第6代の王ハンムラビが制して以後、メソポタミア下流域の重要都市として浮上した。

シュメール語の「神の門」に由来するという説[編集]

アーチボルド・セイスが1870年代に述べたところによると、バブ・イル(Bab-ilu)またはバブ・イリ(Bab-ili)は、比較的早期のシュメール語の名前であるカ・ディミラ(Ca-dimirra)の翻訳であると考えられる(以前は、テューラニア語系に属すると提唱されたが、現在ではこの説は採用されていない)。カ・ディミラ(Ca-dimirra)は「神の門」を意味し[6][7]、「KAN4 DIĜIR.RAKI」(シュメール語の言葉「カン・ディグラック(kan diĝirak) = 神の門」に相当する)またはその他の文字に由来する[8]

ドイツの学者ディーツ・オット・エドザードによると、街はもともとはバビラ(Babilla)と呼ばれたが、ウル第三王朝の頃までには語源の思索のプロセスを経て、「神の門」(バブ・イル Bab-Il)を意味するバブ・イリ(ム)(Bāb-ili(m))になったとする[9]

「神の門」由来の否定説[編集]

「神の門」という訳は、意味が判然としない非セム語の地名を説明するための民間語源だという考えも強まっている[10]。言語学者イグナス・ジェイ・ゲルブは、バビルまたはバビラ(Babil / babilla)という名前は都市の名前の根本部分だが、その意味と起源は未知とすべきだと1955年に提案した。理由として、他のよく似た名前の場所がシュメールにあったことと、シュメール語の地名がアッカド語の翻訳に置き換えられた例が他に無いことを挙げている。イグナス・ゲルブの説では、バビル(またはバビラ)は、後にアッカド語のバブ・イリ(ム)(Bāb-ili(m))に変形したのであって、シュメール語のカ・ディグ・イラ(Ka-dig̃irra)はむしろ逆に、バビルまたはバビラからの翻訳であるとの結論に達した[11][12]

聖書における名前[編集]

聖書では、その名は「バベル」として登場する。創世記では、「混乱する」を意味するヘブライ語の動詞ビルベル(bilbél)から、「混乱」という意味で説明されている[13][14]。現代の英語の単語「babble」(意味の無いことを話す)は、一般にはバベルという名前に由来すると考えられているが、直接の関係は無い[15]

他の都市をバビロンと呼んだ例[編集]

古代の記録の中では、「バビロン」を他の都市の名前として用いている例がある。例えば、バビロンの影響圏にあるボルシッパをそう呼んだ例や、アッシリアがバビロンを占領・略奪した後の短期間、ニネヴェのことをバビロンと呼んだ例がある[16][17]

バビロンの再発見[編集]

紀元19世紀初めになると、古代メソポタミア地方における発掘作業が始まり、その後の数十年でさらに活発になった。遠征隊による発掘の場所はアッシュル、ニムルド、ニネヴェなど、アッシリア帝国の首都に関する場所が多かった。これは、他の場所よりも遺跡が目立っていたことにもよる。その名前の重要性のゆえに、一連の遠征の後半になると、バビロンにおける発掘も行われるようになった。これらの遠征は、当時の気鋭の考古学者から成るチームによって実施された。これに続いて19世紀後半には、市の遺跡をさらに調査するための遠征が行わたが、それらの場所のほとんどは今もなお調査されていない。しかも、イラク政府がその計画を実施した結果、史跡のいくつかは再建と修復を必要とすることがわかり、かつ、当時のイラクの政治情勢により、発掘の実施は困難となっていった。

地勢[編集]

バビロンの地図。主な場所と現代の村も記載
1932年当時のバビロン

ユーフラテス川の両岸に沿って建設された古代都市は、川の季節的な洪水を防ぐための急な堤防を備えていた。街の遺跡は現在のイラクのバグダッドの南約85 km、バビル県のヒッラにあり、壊れた泥レンガの建物やがれきの山から成る。バビロンの遺跡は、ユーフラテス川の東側の南北方向約2キロメートル× 1キロメートルの地域を埋める多数の丘で構成される。もともと街は川で二分されていたが、その後、川の流れが変わり、かつての街の西部の遺跡のほとんどが浸水した。川の西側の城壁の一部は、今もなお残っている。

これまでに発掘されたのは、古代都市のごく一部(内壁内の面積の3%、外壁内の面積の1.5%、古バビロン・中期バビロンの深さに対して0.1%)のみである。既知の遺跡は次のとおり。

  • カスル(Kasr):宮殿または城とも呼ばれ、新バビロニアのエテメナンキ(エ・テメン・アン・キ)のジッグラトがある場所であり、遺跡の中心にある。
  • アムラン・イブン・アリ(Amran Ibn Ali):南にある、丘の最高地点。高さ25メートル。マルドゥクの神殿であるエサギラの遺跡であり、エアとナブーの神殿もある。
  • ホメラ(Homera):西にある、赤みがかった丘。ヘレニズム時代の遺跡のほとんどはここにある。
  • バビル(Babil):遺跡の北端にある、高さ約22メートルの丘。そのレンガは古代から略奪されてきた。ネブカドネザルによって建てられた宮殿があった。

考古学者は、新バビロニア時代以前の人口遺物のほとんどを復元できていない。この地域の地下水面は何世紀にもわたって大幅に上昇しており、新バビロニア帝国以前の遺物は現在の標準的な考古学的手法では発掘できない。さらに、新バビロニア人はバビロン市内で重要な再建事業を実施したが、これにより、それ以前の時代の多くの記録を破壊または埋没させてしまった。バビロンは、外国の支配に何度も反抗してきた。主なものとしては紀元前2千年紀にはヒッタイト人とエラム人に対して、紀元前1千年紀には新アッシリア帝国とアケメネス朝に対して反乱を起こしたが、鎮圧される度に略奪が繰り返された。バビロン市の西半分の多くは現在、メソポタミア川の下にあり、また、遺跡の他の部分は営利的建築資材として採掘されてきた。

コルデウェイだけが、発掘調査により古バビロニア時代の遺物を回収した。この中には、民家から発掘された、シュメール文学と語彙文書が刻まれていた967枚の粘土板が含まれていた。

バビロンの近くにある古代の居住地としては、キシュ、ボルシッパ、ディルバト、クターがある。マラドとシッパルは、それぞれユーフラテス川に沿って60kmの距離にあった。

史料[編集]

バビロンに関する主な史料 ― 遺跡そのものの発掘、メソポタミアの他の場所で見つかった楔形文字文書における言及、聖書における言及、他の古典文書(特にヘロドトスによる)における説明、古典文書の中における引用(クテシアスとベロッソスの作品を引用)による説明 ― は、紀元前6世紀の都市最盛期の時代のものでさえ、当時のことを知るには不完全で時には矛盾している。バビロンは、クテシアス、ヘロドトス、クイントス・クルティウス・ルフス、ストラボン、クレイタルコスなど、多くの古典的な歴史家によって説明され、そのうち実際に訪問した者もおそらくいた。これらの報告の精度はさまざまであり、一部の内容は政治的な動機に基づいているが、それでも有用な情報を提供してくれる。

だが、バビロンの初期の様子を知るためには、ウルク、ニップル、シッパル、マリ、ハラダムなど、他の場所で見つかった碑文の情報を統合する必要がある。

初期の言及[編集]

小さな町としてのバビロンについての最も初期の言及は、現在わかっているものとしては、アッカド帝国のサルゴンの治世(紀元前2334-2279年)の粘土板に遡る。バビロン市への言及は、紀元前3千年紀後半のアッカド語とシュメール語の文学に見られる。最も初期のものとしては、アッカドの王シャル・カリ・シャッリがバビロンにアンヌニトゥム(Annūnı̄tum)とイラバ(Ilaba)のために新しい神殿の基礎を築いたことを説明する粘土板がある。バビロンは、ウル第3王朝の行政記録にも登場する。ウル第3王朝は、現物での納税を徴収し、エンシ(ensi。シュメールにおける称号の一種)を地方知事として任命した。

いわゆるウェイドナー年代記(ABC 19としても知られる)では、アッカドのサルゴン(短い年代記では紀元前23世紀頃)が「アッカドの前に」バビロンを建てたと述べている(ABC19:51)。後の年代記では、サルゴンが「バビロンの穴の土を掘り起こし、アッカドの隣にバビロンと対応するもの(都市?)をつくった」と記されている(ABC 20:18-19)。マーク・ヴァン・デ・ミエロープ(Marc Van de Mieroop)は、これらの史料はアッカドのサルゴンではなく、はるかに後のアッシリア王サルゴン2世の新アッシリア帝国に言及している可能性があることを示唆している。

古代における年代決定[編集]

シケリアのディオドロスが引用し、そしてジョージ・シュンケロス(George Syncellus)の『年代記』(Chronographia)にも記載されているところによると、クテシアスは、自分がバビロニアの記録の写本を見ることができたと主張したという。それによれば、バビロンの建設は、最初の王ベルス(Belus)の下、紀元前2286年に行われた。同様の数字がベロッソスの著作にも見られる。ベロッソスはプリニウスを引用して、天文観測はギリシャのポローネウス時代の490年前、紀元前2243年にバビロンで始まったと述べている。ビザンチウムのステファヌスはバビロンが建設された時期を、レスボスのヘラニコスがトロイ包囲したと記している年(紀元前1229年)からさらに1002年遡った年だと書いている。これらの日付はすべて、バビロンの始まりを紀元前23世紀としている。しかしながら、これらの(楔形文字以後の)古典文書の記述に対応する楔形文字の記録は見つかっていない。

歴史[編集]

夜の女神の彫刻。この姿は、バビロニアの性と愛の女神であるイシュタル女神の一側面である可能性がある。

バビロンについて証明する最初の言及は、紀元前3千年紀の後半、アッカド帝国の統治者シャル・カリ・シャリの治世中にある。彼の治世における年を表現する名前の中に、バビロンに2つの神殿を建てることに言及しているものがあるのだ。バビロンは帝国のエンシ(知事)によって統治されていた。知られている知事としては、アッバ(Abba)、アルシ・アー(Arši-aḫ)、イトゥリ・イルム(Itūr-ilum)、ムーテリ(Murteli)、ウナバタル(Unabatal)、プズル・トゥトゥ(Puzur-Tutu)がいる。その後、スム・ラ・エルの時代まで、バビロンについての言及はなくなる。紀元前1950年頃以降になると、南部のウルクとラルサにアモリ人の王国が出現する。

古バビロニア時代[編集]

紀元前1792年にハンムラビが王になった時及び紀元前1750年にハンムラビが死去した際のバビロニアの領土を示す地図
古バビロニアの円筒印章、赤鉄鉱。この印章は、おそらくハンムラビの治世中またはその直前に、シッパルの工房で作られた[18]。 王が太陽神シャマシュに動物を捧げる様子を描いている。
上の円筒印章のラインスキャンカメラ画像(印影に似せるため、反転してある)。

バビロニアの時代リストによると、バビロンでのアムル人の支配は、隣接する都市国家カザル(Kazallu)からの独立を宣言したスム・アブム(Sumu-abum)という名の首長から始まった(紀元前19世紀または18世紀)。スム・ラ・エル(Sumu-la-El)は、スム・アブムと同時代である可能性があり、通常、バビロン第1王朝の始祖と考えられている。いずれもバビロンの城壁を建設したとされている。いずれにしても、史料には、バビロンに地域支配を確立したスム・ラ・エルの軍事的成功について記されている。

当初、バビロンは弱小都市国家であり、周辺の領土までは支配していなかった。その最初の4人のアムル人の支配者は、王の称号を名乗らなかった。アッシリア、エラム、イシン、ラルサなど、古くからの強力な国家は、バビロンが約1世紀後にハンムラビがつくった短期間の帝国の首都になるまでの間、脅かし続けた。ハンムラビ(在位前1792年~前1750年)は、バビロニアの法律をハンムラビ法典に成文化したことで有名である。ハンムラビは、メソポタミア南部のすべての都市と都市国家を征服した。これには、イシン、ラルサ、ウル、ウルク、ニップル、ラガシュ、エリドゥ、キッシュ、アダブ、エシュヌンナ、アクシャク、アッカド、シュルッパク、バド・ティビラ(Bad-tibira)、シッパル、ギルス(Girsu)が含まれる。これらを一つの王国に統一し、バビロンから支配した。ハンムラビは東のエラムに、そして北西にはマリとエブラの王国にも侵攻し、これらを征服した。古アッシリア帝国の強力な王イシュメ・ダガンとの長引く戦争の後、ハンムラビの治世の後半には、その後継者に貢納を課し、小アジアにおけるアッシリア植民都市、ハッティアンとフルリにまでバビロニアの支配を広げた。

ハンムラビの治世の後、メソポタミア南部全体はバビロニアとして知られるようになったが、北部はすでに何世紀も前からアッシリアとして統合されてた。この時代から、バビロンはニップルとエリドゥに代わり、メソポタミア南部の主要な宗教の中心地となった。ハンムラビの帝国は、彼の死後に不安定化した。アッシリア人は、バビロニア人とアムル人を破り、自国から追い払った。また、メソポタミアのはるか南では地元民による海の国が独立し、エラム人はメソポタミア東部の領土を占領した。アムル人の王朝はバビロンで権力を維持したが、バビロンは再び小さな都市国家に戻ってしまった。

古バビロニア時代の文書では、しばしば、最高神として扱われるシッパルの太陽神シャマシュと、彼の息子と見なされるマルドゥクが言及されていることがある。後にマルドゥクは高い地位に昇り、逆にシャマシュの地位は低下した。これはおそらくバビロンの政治力の高まりを反映している。

中期バビロニア時代[編集]

紀元前1595年、バビロンは小アジアのヒッタイト帝国に敗れた。その後、ザグロス山脈のカッシート人がバビロンの街を占領してカルドニアシュと改名し、この王朝は紀元前1160年まで435年間続いた。

カッシート人の時代にバビロンは弱体化し、その結果、カッシート人のバビロンは、エジプトのファラオであるトトメス3世に貢納し始め、ミタンニに対する8回目の軍事遠征に協力した。カッシート人のバビロンは、最終的には北方の中アッシリア帝国(前1365年-前1053年)及び東方のエラムに従属した。両国は、バビロンの支配権を争った。

紀元前1155年までに、アッシリア人とエラム人による攻撃と領土の併合が続いた後、カッシート人はバビロンから追放された。その後、アッカド人の南メソポタミア王朝が初めてバビロンを統治した。しかし、依然としてバビロンは弱く、アッシリアによる支配を受けた。その無力な王たちは、新たにレバントの砂漠から流入してくる西セム人の外国人入植者の動きを防ぐことができなかった。その動きには、紀元前11世紀のアラム人とスーテア人が含まれる。紀元前9世紀には、ついにカルデア人が侵入してきて、バビロニア地域を支配した。アラム人は、紀元前11世紀後半に短期間、バビロンを治めただけだった。

アッシリア時代[編集]

バビロニアとの戦争中(紀元前691年ハルルの戦い)のアッシリア王、センナケリブ。ニネヴェの宮殿から出土した浮き彫り

新アッシリア帝国(前911年-前609年)の統治の間、バビロニアは常にアッシリアに対して劣位にあったか、あるいは直接の支配を受けた。センナケリブの治世中、バビロニアはエラム人と同盟を結び、メロダク・バルアダンという名の首長が絶え間なく反乱を起こしたが、これに対してセンナケリブはバビロンを完全に破壊し、反乱を鎮圧した。紀元前689年に城壁と神殿、宮殿が破壊され、その瓦礫はバビロンの南にかつて隣接した海、アラクトゥに廃棄された。宗教の中心地の破壊は多くの人々に衝撃を与えた。その後、センナケリブがニスロク神に祈っている間に彼自身の息子に暗殺されたことは、天罰と見なされた。彼の後継者であるエサルハドンはバビロンの再建を急ぎ、同じ年の一時期、バビロンに滞在した。彼の死後、バビロニアは彼の長男であるアッシリアの王子シャマシュ・シュム・ウキンによって統治された。だが、やがて彼はニネヴェを統治していた自分の弟アシュルバニパルに対して反乱を起こし、紀元前652年に内戦が始まった。アッシリアと戦うに当たり、シャマシュ・シュム・ウキンは、メソポタミア南部のエラム、ペルシア、カルデア人、スーテア人、メソポタミア南部の砂漠に住むカナン人とアラブ人などと連合した。

だが、彼は追い込まれ、再度、バビロンはアッシリア軍に包囲された。食糧が枯渇して降伏し、バビロニアの同盟軍は敗北した。アシュルバニパルは「和解のもてなし」を祝ったが、ベル神の「手を取ろう」とはしなかった。カンダラヌという名前のアッシリアの知事が、バビロン市の統治者として任命された。アシュルバニパルは、ニネヴェにある彼の大規模な図書館に収蔵するために、バビロンから各種の文書を収集した。

アシュルバニパルの死後、アッシリアの王アッシュル・エティル・イラニ、シン・シュム・リシル、シン・シャル・イシュクンの治世中、一連の内戦が起こり、アッシリア帝国は不安定化した。最終的にバビロンは、近東の他の多くの地域と同様に、この混乱に乗じてアッシリアから独立した。その後の諸民族の連合軍によるアッシリア帝国の滅亡もまた、天罰としてみなされた。


新バビロニア帝国[編集]

ネブカドネザル2世の治世の円筒形碑文。悪魔祓いと、ナボポラッサルによるエテメナンキのジッグラト再建に対する敬意を表している。
復元したイシュタル門における浅浮き彫りの拡大写真
バビロンの北の入り口であった、青いタイル張りのイシュタル門を再現したもの。愛と戦争の女神イシュタルにちなんで名付けられた。マルドゥク神のシンボルである雄牛と竜で飾られている。

かつてのカルデアの王であったナボポラッサルの下で、バビロンはアッシリアの支配から独立した。そして、メディアの王キュアクサレスと同盟し、キンメリア人も加わって、紀元前612年から紀元前605年にかけてアッシリア帝国を最終的に滅ぼした。こうして、バビロンは新バビロニア(カルデアと呼ばれることもある)帝国の首都となった。

バビロニアの独立が回復して以降、特にナボポラッサルの息子であるネブカドネザル2世(紀元前604-561年)の治世中に、建築活動の新たな時代が始まった。ネブカドネザルは、エテメナンキのジッグラトを含む帝国全土の完全な再建と、バビロンの8つの門の中で最も有名なイシュタル門の建設を命じた。復元されたイシュタル門は、ベルリンのペルガモン博物館に収蔵されている。

ネブカドネザルは、ホームシックとなった妻アミュティスのために、古代世界の七不思議の1つであるバビロンの空中庭園を建設したことでも知られている。ただし、庭園が実在したかどうかは論争の的となっている。ドイツの考古学者ロベルト・コルデウェイは、彼がその基礎を発見したと推測したが、多くの歴史家はその場所について異論を唱えている。イギリスの考古学者ステファニー・ダリーは、空中庭園は実際にはアッシリアの首都ニネヴェにあったと主張している。

ネブカドネザルはまた、ユダヤ人のバビロン捕囚と関わっていることでも有名である。これは、アッシリア人が帝国を安定させるために行われていた被征服民の強制移住の一環であった。旧約聖書によると、彼はソロモンの神殿を破壊し、ユダヤ人をバビロンへと移住させた。このことは、バビロニア年代記にも記録されている。

ペルシアによるバビロン征服[編集]

紀元前539年、新バビロニア帝国はオピスの戦いとして知られる会戦により、ペルシャの王キュロス大王に敗れた。だが、バビロンの城壁は破れないと考えられていた。街に入るためには、どこかの城門あるいはユーフラテス川を通るしかなかった。金属製の格子が水中に設置され、敵の侵入を防ぎつつ川が城壁を通過して市内に流れるようになっていた。これに対し、ペルシャ人は、川から都市に侵入する計画を立てた。バビロニア国の祝宴が開催されている間に、キュロスの軍隊はユーフラテス川上流を迂回させ、水位を下げてキュロス軍の兵士が街に侵入できるようにした。バビロン市内中心部の人々がこの突破口に気づかぬうちに、ペルシャ軍は都市の周辺地域を征服した。このことは、ヘロドトスによって詳しく説明されているほか、ヘブライ語聖書の一部にも言及されている。ヘロドトスは、堀、瀝青で固められた非常に高くて広い壁、城壁上の建物と、街に入る百にも及ぶ城門についても書いている。彼はまた、バビロニア人はターバンと香水を身に着け、死者は蜂蜜を塗って埋め、儀式的な売春を行い、その中の3つの部族は魚しか食べないとも書いている。百の門はホメロスを参考にしているとも考えられ、1883年にアーチボルド・ヘンリー・セイスの見解が示された後、ヘロドトスのバビロンの記述は、バビロンへの実際の訪問ではなく、ギリシャの民間伝承に基づくものと見なされてきた。しかし、最近になってステファニー・ダリーなど一部の学者は、ヘロドトスの説明が事実である可能性を検討することを提案している。

アケメネス朝軍におけるバビロニア人兵士。西暦前470年頃、クセルクセス1世の墓より。

旧約聖書の歴代誌下第36章によると、後にキュロスは、ユダヤ人を含む捕虜が自分たちの土地に戻ることを許可する布告を出した。キュロスの円筒形碑文に記された文書は、この布告の裏付けとなる証拠として聖書学者によって伝統的に考えられてきたが、文書ではメソポタミアの聖域に触れているだけで、ユダヤ人、エルサレム、またはユダヤについては言及していないため、その解釈について議論の対象となっている。

キュロスとそれに続くダレイオス1世の下で、バビロンは第9の州(南はバビロニア、北はアスラ)の首都となり、教育と科学の進歩の中心地となった。アケメネス朝の下で古代バビロニアの天文学と数学の研究が活発になり、バビロニア人学者が星座の地図を完成させた。バビロンはペルシャ帝国の行政首都となり、2世紀以上にわたって名声を維持した。その時代を深く理解するための、多くの重要な考古学的発見がなされている。

初期のペルシャの王たちは、最も重要な神であるマルドゥクの宗教儀式を維持しようとしたが、ダレイオス3世の治世において、苛酷な課税と多数の戦争の負担によりバビロンの主要な神殿と運河が劣化し、周辺地域が不安定化した。反逆の試みは数多くあり、紀元前522年にはネブカドネザル3世、紀元前521年にはネブカドネザル4世、紀元前482年にはベル・シマノとシャマシュ・エリバが反乱を起こすなどして、バビロニア人の王たちが短期間、独立を取り戻した。しかし、これらの反乱はすぐに鎮圧され、紀元前331年にアレキサンダー大王が入城するまで、バビロンは約2世紀の間、ペルシャの支配下にあった。

ヘレニズム時代[編集]

紀元前331年10月、アケメネス朝ペルシャ帝国の最後の王であるダレイオス3世は、ガウガメラの戦いでマケドニア王アレクサンダーの軍隊に敗北した。

アレクサンダーの下で、バビロンは再び教育と商業の中心地として栄えた。しかし、紀元前323年にネブカドネザルの宮殿でアレクサンダーが死亡した後、彼の帝国はその配下の将軍であるディアドコイに分割され、すぐに数十年にわたる戦いが始まった。絶え間ない混乱は、事実上、バビロンの地位を低下させた。紀元前275年の日付がある粘土板には、バビロンの住民がセレウキアに移住させられ、そこで宮殿と(エサギラ)神殿の建設に従事したと書かれている。この国外追放によりバビロンは重要な都市ではなくなったが、1世紀以上経った後でも、古い聖域で犠牲が捧げられていたという。

ペルシアによる再支配[編集]

バビロンは(アッシリアと同様に)、西暦650年以降まで約9世紀にわたってパルティア帝国とサーサーン朝ペルシアの支配下にあった[要出典]。西暦116年にローマ帝国のトラヤヌス帝によって一時的に占領され、新たに征服されたメソポタミア州の一部となったが、その後継のハドリアヌス帝は、ユーフラテス川よりも東の地域を放棄して後退した。バビロンは独自の文化と人々を維持し、各種のアラム語を話し、バビロンを故郷と呼ぶ人々を輩出し続けた。その文化の例としては、バビロニアのタルムード、グノーシス派のマンダ教、東方典礼カトリック教、そして哲学者マニの宗教などが挙げられる。キリスト教は西暦1~2世紀にメソポタミアに広がり、イスラムに征服されるまで、バビロンには東方教会の司教の座があった。バビロンで発掘されたパルティア、サーサーン朝、アラビア時代の硬貨は、その期間、人が定住し続けたことを示している。

発掘[編集]

発掘されたバビロンの廃墟の遺跡

その後は、遺跡は砂漠に埋もれバビロンは旧約聖書や古代ギリシャの著作家たちが伝える以上のことは不明だったが、1811年から1812年にかけて、および1827年のクローディアス・リッチ英語版による発掘[19][20] がきっかけとなって、1827年のロバート・ミグナン[21]、1849年のウィリアム・ロフタス英語版[22][22] らによって解明が進められた。その後、現在にいたるまで研究が続けられている。

イラク共和国[編集]

メソポタミア文明の再興を掲げるイラクの独裁者サダム・フセインの主導で1978年よりバビロン遺跡の考古学的修復を名目に古代都市の復興計画が開始され、バビロン遺跡の入り口にはサダム・フセインとネブカドネザルの肖像画が配置され、碑文には「ネブカドネザルの息子であるサダム・フセインがイラクを称えるために建設した」と刻まれた[23]バース党政権下で1987年から2002年までほぼ毎年バビロンでフェスティバルが開催されるも予定された空中庭園とジグラットの再建は行われることはなかった[24][25][26]

1991年湾岸戦争が終わると、サダム・フセインは遺跡群内にジグラットを模した近代的な宮殿を建てケーブルカーも敷設しようとしたが、2003年のイラク戦争により中止に追い込まれた。しかし、戦争でイラクに侵攻したアメリカ軍の基地建設によって遺跡の損傷が進んだ[27]

ユダヤ教・キリスト教における伝承と位置づけ[編集]

17世紀のヨーロッパ人が描いたバビロン想像図。左側にバベルの塔が描かれている

旧約聖書創世記ではバベルと表記され、バベルの塔の伝承にて混乱(バラル)を語源とすると伝える。創世記10章第2節によると、ノアの子ハムの子孫である地上で最初の勇士ニムロド(ニムロデ)の王国の主な町が、シンアルの地にあったバベル、ウルクアッカドであったという。この直後の創世記11章がバベルの塔の伝承であり、ここで東方からシンアルの地へ移住した人々による都市バベル及びバベルの塔の建設が述べられているため、この建設事業をニムロドに帰する神学解釈がある。

新バビロニア王国時代のバビロンと周辺の数箇所の都市には、滅ぼされたユダ王国の指導者層が強制移住(バビロン捕囚)させられ、この事件がそれまで神殿宗教であったヤハヴェ信仰ユダヤ教に脱皮成長させる大きな契機となり、ひいてはユダヤ人の民族形成史上、大きな役割を果たした。

また、イラクにおけるユダヤ人コミュニティーの起源ともなったが、このようにユダヤ教の成立過程に深く関わったバビロンはユダヤ教やその系譜を引くキリスト教において正義の対抗概念のイメージであり、さらにイザヤ書エレミヤ書の預言と新約聖書のヨハネの黙示録ヨハネへの啓示啓示の書)の故事から、ヨーロッパなどのキリスト教文化圏においては、退廃した都市の象徴(大淫婦バビロン大娼婦バビロン)、さらには、富と悪徳で栄える資本主義、偶像崇拝の象徴として扱われることが多い。

宗教[編集]

50以上の神殿があり、主神はマルドゥク。他にも三位一体黄道帯の支配者であるシン)、シャマシュ太陽)、イシュタル金星)などが祀られていた。

都市の構造[編集]

バビロンの平面図。外側と内側に城壁で囲まれている

二重構造の城壁で囲まれており、内側の塁壁は二列に並んでいて内側の壁は厚さ6.5メートル、外側の壁は厚さ約3.5メートルでその外には南と北にユーフラテス川から水を引いたがあり、城門が八つあったという。またネブカドネザル2世によって付け加えられた外側の塁壁も二列に並んでいて、内側の壁の厚さは約7メートルあった。東部にはもう一組の二重城壁があった。いくつかの門から市内に街路が通っていて、主要な大通りの行列道路は舗装され両側の壁は神々の象徴であるライオンや竜ムシュフシュの像で飾られた。両岸はバビロンの川底トンネルで結ばれたという。

世界遺産[編集]

世界遺産 バビロン
イラク
Ancient Remains in Babylon.jpg
英名 Babylon
仏名 Babylone
面積 1,054.3 ha
(緩衝地帯 154.5 ha)
登録区分 文化遺産
文化区分 遺跡
登録基準 (3), (6)
登録年 2019年(第43回世界遺産委員会
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

バビロンは1983年に登録延期となった後、2019年に正式登録された。

登録基準[編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

登場作品[編集]

映画『イントレランス』のバビロンのセット

近代[編集]

現在、何千人もの人々が古代の市壁の内側のバビロンに住んでおり、建設を制限する法律が存在するにもかかわらず、コミュニティは急速に成長している[28]

脚注[編集]

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  1. ^ Tertius Chandler. Four Thousand Years of Urban Growth: An Historical Census (1987), St. David's University Press. See en:Historical urban community sizes.(『4000年の都市成長:歴史センサス』(著:ターシャス・チャンドラー、セント・デーヴィッド大学出版、1987年)歴史上の推定都市人口も参照。)
  2. ^ Mieroop, Marc van de (1997). The Ancient Mesopotamian City. Oxford: Oxford University Press. p.95.(『古代メソポタミアの都市』(著:マーク・ヴァン・デ・ミーループ、オックスフォード大学出版、1997年)p.95)
  3. ^ Boiy, Tom. (2004). Late Achaemenid and Hellenistic Babylon. Orientalia Lovaniensia Analecta. 136. Leuven: Peeters Publishers. p.233.(『アケメネス朝後期及びヘレニズム時代のバビロン』(著:トム・ボイ、東洋ルーバンシア著作集 第136号、ピーターズ出版(ベルギー王国ルーバン))p.233)
  4. ^ Seymour 2006, p. 140-142.
  5. ^ 楔形文字𒆍𒀭𒊏𒆠は、KA2.DINGIR.RAKIと翻字され、シュメール語の「ka-diĝirra」(神の門)を表す。アッカド語はその翻訳借用
  6. ^ ayce, Archibald Henry (1872). The Origin of Semitic Civilisation, Chiefly Upon Philological Evidence. Harrison and Sons. p. 5.(『セム語族の文明の起源 ~ 言語学上の証拠から』(アーチボルド・ヘンリー・セイス、1872年、ハリソン・アンド・サンズ出版(英国))p.5)
  7. ^ Sayce, Archibald Henry (1878b). "Babylon–Babylonia" . Encyclopædia Britannica. III (9th ed.). p. 182.(『バビロン(Babylon) - バビロニア(Babylonia)』(アーチボルド・ヘンリー・セイス、1878年。ブリタニカ百科事典(英語版・第9版)第3巻p.182に収録)
  8. ^ Ernest A. Budge (1880). The history of Esarhaddon (son of Sennacherib) King of Assyria, B.C. 681-668. Trübner & Co. pp. 135–136. (『センナケリブの息子、アッシリア王エサルハドンの歴史 紀元前681年~668年』(ウォーリス・バッジ、1880年、トリュブナー出版(英国))p.135-136)
  9. ^ Dietz Otto Edzard: Geschichte Mesopotamiens. Von den Sumerern bis zu Alexander dem Großen, Beck, München 2004, p. 121.(『メソポタミアの歴史 シュメール人からアレキサンダー大王まで』(著:ディーツ・オット・エドザード、2004年、ベック出版(ドイツ・ミュンヘン))p.121より)
  10. ^ Liane Jakob-Rost, Joachim Marzahn: Babylon, ed. Staatliche Museen zu Berlin. Vorderasiatisches Museum, (Kleine Schriften 4), 2. Auflage, Putbus 1990, p. 2(『バビロン』(著リアン・ジェイコブ・ロスト、ジョアキム・マーザン、1990年、ベルリン州立中東博物館)p.2より)
  11. ^ Gelb, I. J. (1994). "The Name of Babylon". In Hess, Richard S.; Tsumura, David Toshio (eds.). I studied inscriptions from before the flood : ancient Near Eastern, literary, and linguistic approaches to Genesis 1–11. Winona Lake, Ind.: Eisenbrauns. pp. 266–269. (『私は、洪水が起こる以前の碑文を研究した - 創世記第1~11章への古代近東文学的・言語学的なアプローチ』(編:リチャード・ヘス、、津村 俊夫、1994年、ペンシルベニア州立大学出版アイゼンブラウン(米国))のp.266-269に収録されている、『バビロンという名前』(著:イグナス・ジェイ・ゲルブ))
  12. ^ Wilfred G. Lambert, "Babylon: Origins"; in "Babylon : Wissenskultur in Orient und Okzident/ Science Culture Between Orient and Occident", Eva Cancik-Kirschbaum et al. (2011), pp. 71–76.(『バビロン - 東洋と西洋における科学の文化』(編:エヴァ・キャンシキシュバウム ほか、2011年、デ・グルーター出版(ドイツ))のpp.71-76に収録されている、『バビロン:その起源』(著:ウィルフレッド・ジョージ・ランバート))
  13. ^ 創世記第11章第9節
  14. ^ Magnus Magnusson, BC: The Archaeology of the Bible Lands. BBC Publications 1977, pp. 198–199.(『紀元前:聖書の土地の考古学』(マグヌス・マグヌッソン、1977年、BBC出版)p.198-199)
  15. ^ Online Etymology Dictionary "babble"オンライン 語源辞典 「babble」の項より)
  16. ^ Dalley, Stephanie (1994). "Nineveh, Babylon and the Hanging Gardens: Cuneiform and Classical Sources Reconciled". Iraq. 56: 45-58(『ニネヴェ、バビロンと空中庭園:楔形文字と古典資料の一致』(ステファニー・ダリー。ケンブリッジ大学年報「イラク」第56号(1994年)に収録))
  17. ^ Dalley, Stephanie (18–22 July 2005). Babylon as a name for other cities including Nineveh. Proceedings of the 51st Rencontre Assyriologique Internationale. Studies in Ancient Oriental Civilization. 62. pp. 25–33.(『第51回 国際アッシリア学会議事録(2005年7月18-22日)』(シカゴ大学出版「古代オリエント文明学」シリーズ第62巻)p.25-33収録の『ニネヴェを含む、他の都市の名前としてのバビロン』(ステファニー・ダリー))
  18. ^ Al-Gailani Werr, L., 1988. Studies in the chronology and regional style of Old Babylonian Cylinder Seals. Bibliotheca Mesopotamica, Volume 23.
  19. ^ Claudius J. Rich, Memoirs on the Ruins of Babylon, 1815
  20. ^ Claudius J. Rich, Second memoir on Babylon; containing an inquiry into the correspondence between the ancient descriptions of Babylon, and the remains still visible on the site, 1818
  21. ^ Google Books Search, Robert Mignan, Travels in Chaldæa, Including a Journey from Bussorah to Bagdad, Hillah, and Babylon, Performed on Foot in 1827, H. Colburn and R. Bentley, 1829 ISBN 1402160135
  22. ^ a b Google Books Search, William K. Loftus, Travels and Researches in Chaldaea and Susiana, Travels and Researches in Chaldaea and Susiana: With an Account of Excavations at Warka, the "Erech" of Nimrod, and Shush, "Shushan the Palace" of Esther, in 1849–52, Robert Carter & Brothers, 1857
  23. ^ "Saddam removed from ancient Babylon 'brick by brick'", ABC News 20 April 2003.
  24. ^ John Curtis, "The Site of Babylon Today"; in Finkel & Seymour, eds., Babylon (2009); pp. 213–220.
  25. ^ John Curtis, "The Present Condition of Babylon"; in Cancik-Kirschbaum et al. (2011).
  26. ^ Paul Lewis, "Babylon Journal; Ancient King's Instructions to Iraq: Fix My Palace" (archive), New York Times, 19 April 1989.
  27. ^ Bajjaly, Joanne Farchakh (2005-04-25). "History lost in dust of war-torn Iraq". BBC News.
  28. ^ https://whc.unesco.org/document/168481

参考文献[編集]

  • Seymour, M. J. (2006). The idea of Babylon: archaeology and representation in Mesopotamia (Doctoral thesis). University College London.

(『バビロンについての考察:考古学とメソポタミアにおける象徴』(ミカエル・ジョン・シーモア、ロンドン大学博士論文、2006年))

関連項目[編集]