ツタンカーメン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
ツタンカーメン
Tut ankh Amun[注釈 1],
Tut ankh Aten(生名)[注釈 2]
ツタンカーメンの黄金のマスク
ツタンカーメンの黄金のマスク
古代エジプトファラオ
統治期間 紀元前1332年–1323年[注釈 3],第18王朝
共同統治者 ネフェルティティ(ネフェルネフェルウアトン)?
前王 スメンクカーラー? ネフェルネフェルウアトン?
次王 アイ
配偶者 アンケセナーメン
子女 2人(胎児),317aと317b
アクエンアテン
第35号墓(KV35)の若い方の淑女(アメンホテプ4世の同父同母の姉妹)
出生 1341 B.C.
死去 1323 B.C. (享年18~19歳ほど)[注釈 4]
埋葬地 KV62英語版
記念物 ツタンカーメン王の喇叭,ツタンカーメンのマスク
その他 生前の身長は、解剖学者のダグラス・デリーによると、168cmと見積もられる[13]
テンプレートを表示

ツタンカーメン(英:Tutankhamun[4][14]またはKing Tut, 独:Tutanchamun, 仏:Toutânkhamon 紀元前1341年頃 - 紀元前1323年頃[諸説あり])は、古代エジプト第18王朝ファラオ(在位:紀元前1332年頃 - 紀元前1323年頃[諸説あり])。より厳密な表記では[注釈 5]トゥトアンクアメン[1][4][5]

エジプト新王国時代の第18王朝末期に、エジプトを支配した最後の直系王族である。若くして亡くなった悲劇の少年王として、また副葬品などがほとんど完全な形で発見された王として、エジプトのファラオの中で最も人々に親しまれている。

ツタンカーメンは在位期間が短く、また後世の王名表などから名前が削除されていたため、人々にほとんど知られていなかった。しかし、1922年ハワード・カーターが、彼のパトロンであるカーナーヴォン卿による資金援助で行われた発掘で、ほぼ無傷なツタンカーメンの墓を発見し、世界中の注目を浴びたことで非常に有名になった。5,000点以上の遺物[注釈 6]が出土したことで古代エジプトへの関心が再び高まり、現在カイロ博物館に所蔵されているツタンカーメンのマスクは、今でも同館のシンボルの1つとなっている。また、ツタンカーメンのミイラの発見に関わった数人の人物の突然の死は、ファラオの呪いのせいだとする噂がまことしやかにささやかれ、このこともツタンカーメンの人気を高めた。ツタンカーメンの副葬品の一部は世界中の美術館に貸し出されて展示され、何百万人もの人々が訪れるなどの大きな反響を呼んだ。エジプト考古最高評議会は、1962年にパリのルーブル美術館での展示許可を皮切りに、日本では京都市美術館での展示を許可するなど、世界中にツタンカーメンの遺物が展示されることを許可している。

ツタンカーメンは8歳か9歳の時に即位した[5][15]。このため、実権は、内政は親戚関係にある大臣であり、最終的に後継者となる宰相(摂政)アイ、外政においては将軍ホルエムヘブに握られていた[5][15]

王妃は異母姉のアンケセナーメンであった。彼は9年の短い治世で、16~19歳の若さのうちに亡くなった[5][16]。特定の時期にしか咲かない花が副葬品として発見されたことから、埋葬された時期は紀元前1324年12月末から紀元前1323年2月中旬の間であると推定されている[諸説あり][注釈 7]

人物[編集]

家族[編集]

ツタンカーメンの家族については、彼の生きたアマルナ時代の記録が異端として、ほとんど後世に抹消されてしまったため、正確な事実は不明であり諸説ある。ここでは、最も有力である説を主体に、他の説もできる限り記す。

両親[編集]

ツタンカーメンの父はアクエンアテン、母は父親の実妹である若い方の淑女。乳母はサッカラに墓があるマイアと呼ばれる女性であった。

2008年から10年にかけて、ザヒ・ハワス博士を含めたカイロ大学の研究チームにより、ツタンカーメンをはじめとする、新王国時代の王族と考えられる人々のミイラの遺伝子解析が行われた。なお、博士含め多くのエジプト学者は、様々な証拠からDNA鑑定の前にはすでにツタンカーメンの父はアクエンアテンである可能性が非常に高いと見ていた。

鑑定の結果、KV55英語版から確認された人物は35歳から45歳ほどで死亡したことがわかり、碑文の内容とも合わせて、KV55に埋葬された人物が確かにアクエンアテンであり、ツタンカーメンの父親であることがほぼ確定した[17]。なんと、アクエンアテンがツタンカーメンの父親である可能性は、99.99999981%であったという[17]。また、KV35英語版から発見された名前不明の女性のミイラKV35YL(若い方の淑女)は、ツタンカーメンの母親であるだけでなく、KV55のミイラの妹であることも判明した[17]

しかし異説もあり、マーク・ガボルデ(en)やエイダン・ドドソン(en)などの一部の研究者は、ツタンカーメンの母親は若い方の淑女ではなく、ネフェルティティであると主張している。彼らはサンプルの古さや汚染の可能性を考えてDNA鑑定の正確性を疑問視し、鑑定結果に不確実性が含まれているのではないかと別の解釈を行った。彼らの解釈では、遺伝子の近似性は兄妹であるからのものでなく、3世代以上にわたる近親交配の結果であり、ネフェルティティはアクエンアテンの従兄妹であるというようにも取れるとしている。また、ツタンカーメンの父はアメンホテプ3世やスメンクカーラーであるという異説も過去にあった[6]

さらに他の異説として、ツタンカーメンの母はアクエンアテン妃ネフェルティティや、その次女メリトアテン、あるいはアクエンアテンの妾であったキヤなどではないかともされているが、メリトアテンは死亡時10歳ほどであったことが判明しているため可能性は低いと考えられている。

なお、ザヒ・ハワス博士は、ツタンカーメンの両親を特定するために、DNA鑑定以前にもヘルモポリスから出土した石碑の断片を探すなどの調査を行っていた。この石碑は、ドイツの調査団のギュンター・ローダー(de)らによる発掘(1929年~1939年)の際にすでに発見され、1969年に内容が発表されていた。この碑文では、ツタンカーメン(ここではまだトゥトアンクアテン)は名称不明の王の息子であるとされており、「王の体から来たりし王子、彼に愛された、トゥトアンクアテン」との記述が読み取れた。この碑文はひどく破損していたため、断片からの推測ではあるが、ツタンカーメンだけでなくその異母姉妹であるアンケセンパーテン[注釈 8]の名前も記されていた。アンケセナーメンはアクエンアテンの娘であることは確実であるため、碑文からも二人とも父親がアクエンアテンであると考えられる。

兄弟姉妹[編集]

ツタンカーメンの出自に関する現在の調査結果によると、彼には少なくとも6人の姉妹がいたとされる。メリトアテン、メケトアテン、ネフェルネフェルアテン・タシェリト、ネフェルネフェルウラー、セテプエンラー、そしてアンケセンパーテン(アンケセナーメン)である。この女性の多さは、王となる男性の不足を招き、第18王朝が断絶する原因ともなった。

なお、アクエンアテンの共同統治者であり、アクエンアテンの長女であるメリトアテンと結婚したスメンクカーラーがツタンカーメンとどのような血縁関係を持つかどうかは不明である。スメンクカーラーはアクエンアテンの兄弟であったか、息子であったか、はたまた外国から婿にきたなどの様々な説がある。 松本(1994)は、ツタンカーメンはアクエンアテンの弟であり、スメンクカーラーの弟でもあるという説があることを紹介している[18]

妻・子女[編集]

ツタンカーメンとアンケセナーメン, カイロ博物館蔵
ツタンカーメンの子供である胎児, 317と317bのミイラ

ツタンカーメンは王になると、異母姉のアンケセンパーテンと結婚した。一説によると、彼女との夫婦仲は良かったとされる[15][16]。ツタンカーメンとアンケセナーメンに子供がいたことを示す直接的な資料はないが、ツタンカーメンの墓から発見された2体のミイラ化した胎児317aと317bは、2010年2月に行われたDNA鑑定の結果、ほぼ間違いなくツタンカーメンの娘であることが判明した。2011年に発表されたコンピューター断層撮影による研究では、一人は妊娠5~6ヶ月の早産で、もう一人は妊娠9ヶ月の臨月で生まれたことが明らかになっている。 この二人はツタンカーメンの娘である可能性が非常に高いが、ツタンカーメンの墓やKV55からはアマルナ時代の遺物が多数発見されており、胎児もアマルナ時代の墓から持ち出されたものである可能性があるため、この推測が誤っているとする異説も存在する。しかし、発見された状況だけを見ても親子関係にあるのは明白である。 ツタンカーメンは他に子供がいなかったため、彼の死をもって第18王朝の直系系統は断絶した。 なお、彼の妻であるアンケセナーメンはKV21の女性ミイラKV21Aであると考えられている。

その他[編集]

狩猟をするツタンカーメンの像

吉村(1984)によると、ツタンカーメン王墓の副葬品に描かれている絵画などの諸資料から判断すると、ツタンカーメンとアンケセナーメン夫妻は比較的自由な生活をしていたようだ。ツタンカーメンは優しい性格で、さらに知的で活発であり、特に狩りを好み、しばしばアンケセナーメンを伴って鳥狩りなどをしたという[16]

治世[編集]

業績[編集]

ツタンカーメンは8歳から9歳の時に、「神の父(it netjer)」の称号を持つ宰相アイと将軍ホルエムヘブの下で、王位についてファラオとなった[15]。幼い王はその幼さゆえに、両者の圧力に強く影響されたと考えられており、治世3年か4年の時、両者の助言によってアメン信仰の再興に踏み切った[16]

古き信仰への回帰[編集]

ツタンカーメンは、アクエンアテンの時代には、唯一神アテン信仰が説かれていたため「トゥトアンク」と名乗っていたが、テーベの守護神であるアメン の伝統的な信仰を復活させ、「トゥトアンク」(「アメン神の生ける似姿」の意)と改名した[4][16][19][20][5]。王妃アンケセンパーテンもまた同様に、「アンケスエンパーアテン」から「アンケスエンアメン」へと改名した[16][5]。さらに、首都をアケトアテンからメンフィスに移した[5][15][18]。彼は主神をアテンからアメンに変え、これまでの一神教から多神教に戻した。この信仰復興により、混乱していた世の中は静まりを見せた[15]

彼のファラオとしての最初の行動は、アクエンアテンをアマルナから王家の谷に再埋葬することだった。エジプトでは葬儀を主催する者が次の統治者であるという慣習があるため、この行動によりツタンカーメンの王権は強化された。また、最高の金属や石を使って神々の新しい像を作り、レバノン産の最高級の杉を使って新しい行列用の車を作り、金や銀で装飾した。神官とそれに付き添う踊り子、歌い手、侍者たちはその地位を回復し、将来を保証するために王室による保護令が出されたとされる。

ツタンカーメンの下で行われた政策を示している最も大きな実証は、後にホルエムヘブに奪われた、カルナックで発見された通称「復古の碑(Stele of restoration)」である。

(ツタンカーメン)王が即位したとき、(中略)神々の神殿は荒廃し、草の生い茂る丘となっていた。神々はこの国を見捨て、祈りも聞き届けられなかった。王位に即いたツタンカーメンは、純金のアメン神像を作り、他の神々の像も純金で作り、その聖所を新築し、供物を絶やさないようにした。町ごとに役人の子どもたちを神官に任命し、神殿の施設と職員両方の充実をはかった。その結果、神々は喜び、王に生命と支配権が与えられた。 — カルナックのアメン神殿で発見された信仰復興碑、吉成(2012)による[15]

そこには、アテンの下でのエジプトの衰退が記されており、ツタンカーメンはアメンをはじめとした古い神々への回帰を宣言している。若きファラオは、カルナックのステラや祠堂、建物をはじめとした前のアマルナ時代に破損した古いモニュメントの修復を行った。ルクソール神殿では列柱の装飾が完成し、カルナックにはツタンカーメンの姿をかたどったアメン神像および、2つの新しい礼拝堂が設けられた[18]。おそらくスメンクカーラーのものであったであろう死者の神殿の建設をも引き継いでいる。ツタンカーメンの建築活動の証拠は、ギザからヌビアにかけて確認することができる。しかし、これらの建造物のいくつかは、後にホルエムヘブによって、ツタンカーメンの名前を自分の名前に書き換えることによって簒奪されている。

アマルナ時代の影響[編集]

以上のような信仰復興の試みに反し、アテンは複数いる神の一柱に戻っただけであった。この理由として、ツタンカーメンは幼少期熱狂的ともいえるアテン信仰の中にいたので、自分になじみ深かったアテンを完全に捨て去ることはできなかったということが考えられる[16]。 また、彼自身の記念物にアテンの名が刻まれることさえあったとされる[16]。 さらに、アマルナ時代以前への宗教や文化の回帰は完全に行われたわけではなかった。ツタンカーメンの墓には、アマルナ時代の一般的なモチーフである「生命を与える、太陽の円盤としてのアテン」が描かれたものが数多くある。

ツタンカーメンの厨子。よく見ると、彼の頭の上に日輪としてのアテンが描かれているのが見える。なお、本記事中の『妻・子女』の節の画像の椅子にもアテンが描かれている。

美術においても、アマルナ時代の影響は消え去ったわけではなく、特に静力学と遠近法の要素に見られる。加えて、墓の構造は、今までは内部で通路が数回屈折していたが、アクエンアテンの治世以降は通路をまっすぐに造るようになる変化があった。この変化は第19王朝になっても踏襲されている。

アクエンアテン以前、トトメス3世の墓の構造。折れ曲がっている構造をしている。
アクエンアテン以降の第19王朝、セティ1世の墓の構造。直線的である。共に王家の谷。

このように、旧来の宗教的な方向性などからの極端に大きな転換は存在しなかったと見える。部分的にのみ、旧来の様式と区別するように注意しながら転換は行われたということである。多くのエジプト学者は、ツタンカーメンとアイをアマルナ時代のファラオと数えているほど、多くのつながりがあるのである[21]

アマルナ時代の王たち[編集]

プトレマイオス朝の神官マネト(Manetho)は、彼が書いた「エジプトの歴史」[注釈 9]の中で、Orus, Amenophis, Rathotis, Harmaisという王について言及しているが、マネトの記述と考古学的推定との対応は以下の表のとおりである。なお、アメンホテプ3世はアマルナ時代の王ではない。

マネトの記述と推定される統治期間との対照表
名前(マネト) 名前(推定) 治世(マネト) 治世(考古学的推定)
Orus アメンホテプ3世 36年5か月 37年
Amenophis アクエンアテン+スメンクカーラー 19年 17年+3年
Rathotis ツタンカーメン 9年 9年
Harmais アイ 4年1か月 4年

以上の通りの対応があることが確認できるが、アマルナ時代のファラオはマネトの記述の中心的存在であるにもかかわらず、マネトが指しているどの名前がどのファラオと一致するかは研究者の間でも意見が分かれている。なお、アクエンアテンからツタンカーメンの治世までの間は、スメンクカーラーか、アクエンアテンの王妃ネフェルティティであると推測されているネフェルネフェルウアテンという王位名を持つ支配者がいたと思われている。

遺伝分析[編集]

疾患群[編集]

ツタンカーメンは小柄で、身長は約168cmであった。また、彼の大きな前歯は、彼が属していた第18王朝の特徴である被蓋咬合英語版を起こしていた。彼の墓から発見された衣服、特に下着とベルトの寸法から考えると、彼はウエストが狭く、腰が丸かったことがわかる。美術品に描かれた彼の姿と奇妙な早逝の両方を説明しようと、様々な説が唱えられているが断定には至っていない[注釈 10]。また、曾祖父のトトメス4世と父のアクエンアテンがともに異常なほど宗教にのめり込み、そして早逝したことを説明するために、彼が遺伝性の側頭葉てんかんを患っていた可能性も一説として示唆されている。さらに、2005年1月のミイラのCTスキャンによると、ツタンカーメンには軽度の脊柱管狭窄症および脊柱側弯症を持っていたことがわかった。さらに、2010年の調査では、ツタンカーメンと父アクエンアテンや、曾祖母ムテムウィヤなどの近親者にさらなる骨疾患が発見された。

また、スキャンの結果、彼の右足はケーラー病II(en)を起こしていたことがわかった。この病気のために、ツタンカーメンは杖を使って歩くことを余儀なくされたと考えられており、実際に、副葬品の130本もの杖は全て実際に使用されていたと思われる磨り減った跡が確認される。

通称「庭園での散策(独:Spaziergang im Garten)」という名のレリーフ。異説もあるが、杖をついたツタンカーメンとアンケセナーメンが描かれているとされる。(石灰岩製、ベルリン新博物館蔵)

その他[編集]

1978年にアメリカの研究チームが調べた骨のサンプルから、血液型はA2のMN型であることが分かっている。2011年、スイスの研究機関iGENEAによりツタンカーメンの属するY染色体ハプログループが判明したと発表され、R1b1a2-M269という現在の西ヨーロッパの住民に見られる父系血統で、現在のエジプト人にはほとんど見られないハプロタイプであることが分かった。なお、ツタンカーメンの顔の復元は、2005年にエジプト考古最高評議会とナショナル・ジオグラフィックによって試みられた。エジプトとフランスのチームは復元対象がツタンカーメンであることを知っていたが、アメリカのチームは知らされなかった。しかし驚くべきことに、どのチームも非常に似通った結果を出したという。

[編集]

エジプトのテーベ(現在のルクソール)近郊の王家の谷にあるツタンカーメンの墓[注釈 11]は、貴重な古代遺産の宝庫であったことで有名である。

破られていない状態の墓の封印。1922年撮影。

この墓は1922年にハワード・カーターが、ラムセス6世の墓建設のための作業小屋跡の下という非常に見つけにくいような場所から発見したため、第20王朝末期の盗掘や墓の整理を受けずに済んだ。盗掘を受けなかった他の理由として、ツタンカーメンの前の王であるアクエンアテンからアイまでの王が「異端」として歴史から抹消されたので、人々の記憶から消えていたからというものもある[15]

1922年11月26日、カーターはカーナヴォン卿とその令嬢イヴリン、および多くの人々の前で墓を開封した。

はじめ、わたしには何も見えなかった。室の中から逃げてくる熱い空気が蝋燭の火をゆらゆらさせた。しかし、いま、目が光になれてゆくにつれて、室の中の細部が、ゆっくりと、霧の中から浮かび上がってきた。かずかずの奇妙な動物、彫像、黄金。いたるところに黄金のきらめきがあった。しばらくの間、わたしは驚きに打たれて沈黙していた。そのしばらくのあいだは、わきに立っている他の人たちにとっては、永遠の時間のように感じられたに違いない。
カーナヴォン伯が、もうこれ以上は耐えることができなくなって、心配そうに「何か見えるかね」とたずねたとき、わたしには、「はい、すばらしいものが」という言葉を発するのが精一杯だった。 — ハワード・カーター、ツタンカーメン発掘記(上)による[22]

なお、墓はツタンカーメンが埋葬されてから間もなく、2度侵入され、2度封印されている[23]

王の棺を囲んでいた一番外側の厨子。カイロ博物館蔵。
ツタンカーメンの厨子の構造。上の写真は1に当たる。

二度の盗掘では、王の入れ子になった一番外側にある棺を囲む厨子に通じる封印は解かれていたが、内側の2つの厨子はそのまま封印されたままだった。その後は再封印され、2000年以上もの悠久の時の間、ツタンカーメンは眠っていた。 墓はその小ささや完成後に2度の盗掘を受けたことに加え、大変急いで完成させたことから非常に副葬品が密集していた。なので、出土品に一つずつ番号をつけていくようなカーターの緻密な記録方式もあり、空になるまでに8年を要した。墓の副葬品はすべてカイロのエジプト博物館に運ばれ、一部は展示されているものもある。

また、副葬品の中には鉄剣もあった。当時のエジプトに製鉄技術はまだなかったと考えられており、千葉工業大学の研究グループは、鉄隕石を1000℃以下で加熱して製作したと推測している[24]

王墓の本来の所有者[編集]

2001年以降の研究によれば、ツタンカーメンが埋葬されていた王墓は、本来宰相アイのために用意されていたもので、ツタンカーメン王墓で見つかった様々な副葬品も、アイのために準備されていたものをいくらかは転用したことが示唆されている。もともと、ツタンカーメンがアイの働きに報いるために、特別に王家の谷に墓を築くことを許可した墓であったのだ[15]。ツタンカーメンが崩御した時、吉村(1984)によればこの墓はまだ完成しておらず、突貫工事で完成させたという[25]

ミイラ[編集]

ツタンカーメンのミイラ

ツタンカーメンのミイラは防腐処理の際の樹脂が化学反応によって変質してしまったため、保存状態はかなり劣悪であった。さらに、発見後、ミイラの包帯が解かれてしまったことも保存状態の悪化に拍車をかけることとなった。包帯を解く際にも、多くの外傷がミイラに付けられ、さらには脊椎が切断され性器までもが消失した。

2005年1月、CTスキャン撮影などによってミイラの調査が行われ、棺からミイラが取り出された。この時の貴重なミイラの映像は国際的に注目され、調査により死亡推定年齢が19歳であることが明らかになった。身長は165cm(古代エジプトの成人男性の平均とほぼ同じ)で、体格はかなり華奢であることがわかった。死につながる傷が特定されたものの、事故死説か他殺説かの論争に決着をつけることまではできなかった。なお、この調査の際に、前述の消失していた性器が無事に再発見されている。 この調査は、ミイラの保存状態が極めて劣悪になっており、従来どおり棺内での保存ではミイラの状態維持は出来ないと結論付けられた。その結果2007年11月、初めてミイラが一般公開された。王墓内の黄金の石棺から、同じく王墓内に設けられた気温や湿度を厳重に調整できるプレクシグラス(軽く透明な合成樹脂)製の展示ケースの中に移され、保存状態が比較的良い顔と足先の部分を覆っていた布は取り外された。その後、現在もミイラはプレクシグラス製ケース内にて保存されている[26]

ツタンカーメンの体は包帯が巻かれていたが、その中に大量の護符が織り込まれていた。首は、多数の真珠の首飾りと20個もの黄金の護符で守られるとともに、翼を広げたホルスを表した大きな喉当てがついていた。胸の上には5個の胸飾り、これとは別に首飾りと、調査したミイラの専門家が「ツタンカーメンの宝石類をすべて数え上げて説明するにはとても紙幅が足りない」と評している。ツタンカーメンの装身具で最も注目すべきものは、古代エジプトでは極めて珍しい鉄製品である。さらに、鉄の刃をもつ見事な短剣も包帯の中にくるまれており、出てきた時、さび一つなくぴかぴか光っていたという[27]

死因[編集]

ツタンカーメンの死因は現存する記録がないことから、憶測の域を出なく、かつてはこれと断定できる証拠がなかった[15][16]。また彼の有名性より死因は長らく論争の的となっていた。過去にはミイラの頭部についていた傷やいくつかの骨の裂傷などを根拠に、暗殺説が有力であった。しかし、ザヒ・ハワス博士を含む多くのエジプト学者は、死因は先天的な虚弱性疾患に加え、何らかの原因による落下による脚の骨折、および重度のマラリア感染症を含む、複数の病気の併発による体の弱体化が重なった結果である可能性が高いと結論付けており、これが現在の定説となっている。実際に、最も悪性のマラリアを引き起こす寄生虫である、熱帯熱マラリア原虫の痕跡がツタンカーメンのミイラより発見されている[17]。以下では、歴史的な説も含め、現在に至るまで挙げられている説を可能な限り記す。

暗殺説[編集]

ツタンカーメンの死因として古くからあるのが暗殺説である。

1968年のX線の時、ツタンカーメンの頭蓋骨内部に2つの骨片が見つかったり、彼のミイラの頭蓋下部が非常に薄くなっているなどのことを受け、彼が後頭部に強い打撃を受けて命を落としたのではないかとする説が生まれた。しかし、2005年のCTによって詳細に解析した結果、もし死の前に骨片があったなら脳とともに処理されているはずであること、骨片が樹脂の中に埋まっていたことなどから、骨片はミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと結論付けられ、頭部打撃による暗殺説は現在では否定されている。なお、同じ解析により、これまで発見されていなかった左足の大腿骨や右膝頭と右下腿の骨折も見つかった。これらの骨折も、ツタンカーメンの生前の事故によるものであり、殺人の証拠とはならなかった。

なお、過去には1996年に、心理学者でエジプト学者に転身したボブ・ブライアーによって、自分が死ぬ前にどうしても王になりたかったアイが、将軍ホルエムヘブの力を借りてツタンカーメンを殺害したという説が唱えられたことがある。彼は、同じく頭蓋のX線写真に着目し、上記の説とは別に、頭蓋骨内部の脳出血の痕跡があると考えた。X線に写った影は出血による影響で硬化した筋組織で、その出血原因が頭部に受けた打撃によるものだと考えるならば、王は襲撃の後数週間は生きていただろうと推測した[28]

吉村(1984)は、もし暗殺ならばアテン神を深く崇拝していたアンケセナーメンが、アメン神信仰に転身した夫ツタンカーメンを暗殺したというものを一説として挙げているが、同時に、当時の彼の生活やアンケセナーメンの性格を考慮すると暗殺の証拠は極めて低いとしている[16]

事故説[編集]

また、若い王は、胸壁の前部と肋骨が欠損していることなどから、圧迫された傷のパターンから、事故が主な原因として死亡したのではないかとも言われている。

慈善家でアマチュア・エジプト学者のベンソン・ハラーは、科学的なアプローチではなく、王族の中ではツタンカーメンのミイラにのみみられる、胸の上ではなく下腹部で腕を組んでいる特徴的な納棺の仕方に注目し、死因を類推した。彼によると、ツタンカーメンのミイラには不自然な点が多いという[29]

  1. 心臓がない。心臓はその持ち主の治世と人格の要であると考えられており、また、楽園(アアル)に行くための死後の審判を受けるために重要な臓器であるため、普通はミイラの中に必ず残されるものである。それがないということは生前に事故などによって失ったのであると主張する。
  2. 臓器を取りだすために下腹部に開けた傷跡が不自然。普通は、体の左側に腰から下腹部まで伸びるかなり長い傷をつけるが、ツタンカーメンの場合、他の例より傷が短く、へそから尻までである。
  3. 横隔膜には傷がついていないように見える。肺を除去する際、横隔膜を切開するので傷がついているはずである。
  4. 胸部の欠損の程度が異常である。折れた骨はカーターらによるものだとしても、きれいに切断されたものは古代につけられたものだろうとする。

以上により、胸部の傷が命取りであったと結論づけている。傷を負った原因として、戦車事故とカバに襲われたという二つの説が存在する。

戦車事故説[編集]

解剖学者ロバート・コノリーは、独自に1968年に行われたX線写真を調べなおし、事故死だと結論づけた。彼もまた、心臓が欠けているのは事故による損傷と、死後に納棺師が、ツタンカーメンの心臓を取り出しやすいようにつけたものとみた。心臓がなくなっている原因として、ツタンカーメンは故郷から遠く離れたところで何らかの事故によって死亡したため、炎天下に置かれた遺体は数日ですぐに腐り始めたことより、悪臭を放つ心臓を取り除きたいと考えたからではないかと推測している。

しかし反論として、もし落下したツタンカーメンが戦車から落下、あるいは衝突したとすれば、胸や骨盤だけでなく腕、足、首、背中なども折れたに違いない。しかし、そのような大量骨折の跡は見つかっていないと言うのである。たとえ馬に胸を蹴られたとしても、もっと傷は局所的になる可能性があるとする。

カバによる襲撃説[編集]

アフリカではワニに次ぐ危険な動物であるカバに襲撃されたとする説もある。新王国時代には、ファラオがカバ狩りをした事実が確認されている。マネトによると、メネス王はカバによって殺されたと伝わっているほど太古にもその出来事が確認されており、カバ狩りは歴史があるイベントなのである。カバ狩りでなくても、普通に沼地で狩りをしている時にでも、舟上のツタンカーメンは襲われた可能性もある。 しかし、他のエジプト学者や、他分野の専門家はこの説に対し慎重な立場を取っている。ケニアの野生動物の専門家、エルスタス・カンガは、カバ説はありえないことではないとした上で、「もしカバに踏まれたとしたら人間の胸は確実につぶれるし、かみつかれたら被害者のはらわたは抉り出されるであろう」と述べている[29]

事故説に対する反論[編集]

しかし、肋骨の欠損は、死亡時の傷によるものとは考えにくいとする説も根強い。1926年のカーターの発掘終了時に撮影された写真を見ると、王の胸壁は無傷で、鷹の頭の端子が付いたビーズの首輪をつけていた。しかし、1968年のX線写真では首輪と胸壁の両方がないことが確認できた。よって、この損傷は第二次世界大戦中の、宝石を目的とした墓荒らしによるものだったとする考えがある。防腐処理を施した樹脂によってミイラにしっかりと固定されていた宝石を引きはがすためには、肋骨と胸骨を切り取らなければならなかった。詳細なCTスキャンでは、スムーズな骨どうしの分離が見られたことから、この説が実証されたとする反論もある。

転倒事故説[編集]

戦車やカバでなく、ただ単に転倒して死亡したとする説も存在する。

2014年、放射線技師アシュラム・セリーム(カイロ大学元教授)などがツタンカーメンのミイラをCTスキャンで撮影した2000枚の画像をもとに立体画像化した結果、骨などの硬い組織だけでなく他の柔らかい組織も、まるで解剖するように画像で確認できるようになった。セリーム技師の分析によれば、頭蓋骨の内側にめりこんだようにレントゲン写真などに写っている小さな骨には、ミイラ作成時の防腐剤がしみ込んでいないため、死亡前に頭蓋骨が殴られて陥没したわけではない、とされる。

また、ツタンカーメンは埋葬より前に左の大腿骨を骨折していたということが判明した。病理学者などが分析したところ、ツタンカーメンの左足(足首の先)は内側に傾いており、また、左足の指の付け根あたりの骨が腐っておりケーラー病[注釈 12]を発症していたと判断された。故に骨が体重を支えられる状態ではなく、ひどい痛みを伴ったはずであるため、生前の王は脚が不自由で、まともに歩行できる状態ではなく、すなわち脚をひきずっていた、と推定された。また、以上を傍証するような品も、ツタンカーメンの墓の副葬品からも見つかっている。王の墓の副葬品には実に130本ものが含まれていた。それらの杖の中には先がかなりすり減っているものもあったため、これらの杖はただの副葬品としてではなく実際に王が体重を支えるために使っていた、と推定され、王は生前に脚に不自由があったのだと推定された。

外科医のフタン・アシュラフィアンは、これらの症状は、ツタンカーメンは生まれつきてんかんを患っていたとすると説明がつく、とする見解を発表した。この見解に拠れば、ツタンカーメンは側頭葉てんかんによって発作をともなった人生を送っていて、しばしば発作によって転倒していたと推測され、故に転倒事故によって大怪我をした可能性が高く、その結果、大腿骨を骨折しそれで死去した可能性があるとされる。

鎌状赤血球症説[編集]

ザヒ・ハワス博士は、ツタンカーメンからマラリア原虫の遺伝子切片が発見されていたことから、王は主にマラリアに感染して死亡したと想定している。しかし、ハンブルグのベルンハルト・ノヒト熱帯医学研究所の科学者であるティムマンとマイヤーはこれに疑問を持ち、鎌状赤血球症による貧血で死亡したのではないかと考えている。博士はこの説に懐疑的だが、王が示した病理には、鎌状赤血球症の方がよく適合するという事実もあり、エジプト学者の中には、この説を「興味深く、もっともらしい説である」としている者もいる[誰?]。なお、鎌状赤血球症の人物は、マラリアにはかかりにくいという事実があるので、もしツタンカーメンが鎌状赤血球症であった場合、マラリアとの同時併発は起きにくいため、あくまでも何らかの原因による貧血による死亡という可能性での考察になる。

後継者[編集]

ツタンカーメンとアンケセナーメンとの間との女子2人(317aと317b)は、成人はおろか1歳にすら達さずに夭折した。したがって、ツタンカーメンの死をもって第18王朝の直系の血筋は断絶してしまった。 よって、老臣アイはツタンカーメンの後を継ぎ、ファラオとして即位する。アイが没したのち、ホルエムヘブが即位するが、彼もまた子がいなかったため王位はホルエムヘブの将軍であったパラムセスに移る。パラムセスは即位し名前をラメセス1世と改め、ここでエジプト第19王朝が開始されるのである。 ここで、ツタンカーメンからアイへの王位継承の際、外国より王を迎えようと試みたのではないかという説が存在する。

異国よりの王[編集]

ヒッタイトの史料によると、とある時、エジプトで王が死に、未亡人となった王妃ダハムンズ英語版はヒッタイト王シュッピルリウマ1世に書簡を送り、王子の一人をエジプト王として迎え入れたいと申し出たとのことである。 この書簡を送った人物がアンケセナーメンであると考える説が存在するが、いまだ確証がなく定説にまでは至っていないため、注意が必要である。以下は、王妃ダハムンズがアンケセナーメンであるとする吉村(1984)の説に従って記述する[16]

私の夫は死に、私には息子がありません。噂では、あなたは多くの子息をもっているといいます。もしあなたが子息の一人を送って下さるなら、私は彼を夫にします。私は臣下の一人を夫に選びたくはないのです。 — アンケセナーメン?の書簡、吉村(1984)[16]

これに対して、シュッピルリウマ1世の息子ムルシリ2世が以下のような記録を残している。

私の父は手紙を読んですぐに、高官会議を召集した。父は未だかつてこのようなことは起こったことがないと言い、侍従のハットゥ・ジッティシュに《エジプトへ行って信ずるに足る報告をもたらせ。 彼らは私を騙そうとしているのかも知れない。そして、もし彼らが王子を待っているようなら、それを信じられるだけの報告をするように》と命じた。ハットゥ・ジッティシュが派遣された後、エジプトの使者ハニス卿がエジプト王妃の手紙を持ってやってきた。王妃は父の疑惑に対して次のように答えていた。《なぜあなたは、私があなたを騙そうとしているなどと言うのですか。もし私に息子があるなら、私と私の国の恥をさらしてまで外国に手紙を送るでしょうか。あなたは私を信用していない。 私の夫だった人は死んだのです。私には息子がありません。私は召使いの一人を選んで夫にしなければならないのです。私は他のどんな国にも手紙を書かず、あなただけに書いたのです。あなたは多くの子息をもっていると聞きました。子息の一人を私に与えて下さい。彼は私の夫となり、エジプト国の王となるでしょう》私の父は寛大だったので、貴婦人の言葉に同意して息子を送ることを決意した — ムルシリ2世の記録、吉村(1984)[16]

かくして、シュッピルリウマ1世は息子である王子ザンナンザをエジプトに送ったのであった。しかし、王子はツタンカーメンの死後70日を過ぎてもいまだエジプトに到着しなかった。このとき、王子は既に、何者かによって暗殺されてしまっていたのだ。この暗殺を命じた人物には諸説あるが、当然王子には護衛が付いているため、普通の盗賊によって殺されるとは考えにくい。よって、むろん軍隊を動かすことのできる人物であるに違いないという理由から、一般的にアイとホルエムヘブとに分かれるが、吉村(1984)はホルエムヘブだとしている。

アイは長期にわたり王家に使え続けた忠臣であるだけでなく、王家の遠縁にあたる人物である。彼は性格が穏やかであったと言われており、ツタンカーメン死後も葬儀をつかさどるなどの権力と影響力を持っていた。王妃にすぎないアンケセナーメンがアイに知られずに密かに書簡を送るなどのことはできなかったはずであり、彼女は高い確率でアイにこのことを相談した可能性がある。さらにこの時、ホルエムヘブは王位を狙っていたともいわれ、そこに賢明だったアイが気付かないはずはなく、彼はエジプトの血筋を守りたかったと考えられるため、アンケセナーメンを助ける方向に動いた可能性が高い。よって、アイが暗殺するとはきわめて薄いと考えられる。

さらに、吉村(1984)によると、ホルエムヘブは非常に厳格であり、野心家で目的のためなら手段をえらばなかったようであり、その過激な行動のためにアクエンアテンの怒りを買ったという記録も残っているという。ここより、アイとホルエムヘブの性格などを考察すると、王子ザンナンザを暗殺したのはホルエムヘブであろうと吉村(1984)は結論づけている。

系譜[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ Tutankhamen, Tutankhamonとも呼ばれる。なお、英語圏ではTutankhamunが一般的である。
  2. ^ Tutankhatonとも。
  3. ^ B.C.1335-B.C.1327, B.C.1361頃-B.C.1352[1],酒井傳六によってB.C.1363-B.C.1354[2] ,von BeckerathによってB.C.1335-B.C.1325[3],B.C.1347-B.C.1338[4][5]とも、マーチャントによってB.C.1321-B.C.1312[6]ともされるなど定説をみない。
  4. ^ 生没年に関しては不詳であるとしたり[2]、B.C.1345-B.C.1327とも、B.C.1370頃-B.C.1352[1]ともされる
  5. ^ ツタンカーメンの名前は、音節の句切れはTut ankh amenであるが、これをtutan khamenと最初期の訳者が誤って区切り音写してしまったものが定着したのであろう
  6. ^ カーターによる発掘番号の最後は620番である。遺物の数については、正確な数は不明である。
  7. ^ 吉村(1984)は、ツタンカーメンの崩御した時期を紀元前1324年の1月としている[16]
  8. ^ のち改名してアンケセナーメンとなった。
  9. ^ マネトの著作(題:Aegyptiaca)は散逸しており、完全には現存していない。しかし、後世のJosephus, Africanus, Jerome, Eusebiusなどの歴史家たちが引用した部分から彼の記述をある程度推定できている。
  10. ^ 具体的には、女性化乳房マルファン症候群ウィルソン・ターナーX鎖知的障害症候群脂肪性器性異栄養症クラインフェルター症候群アンドロゲン不応症アロマターゼ過剰症候群頭蓋骨縫合早期癒合症アントレー・ビクスラー症候群、またはその亜種のいずれかに苦しんでいた可能性がある。
  11. ^ エジプト学ではKV62と呼ばれる
  12. ^ 足舟状骨という、足指の付け根の骨への血行が障害されて生じる、骨が壊死する病気である。

出典[編集]

  1. ^ a b c ブリタニカ(2016)
  2. ^ a b ニッポニカ(2014)
  3. ^ Beckerath(1999) pp.144–145
  4. ^ a b c d 杉,川村, et al.(1969) pp.222
  5. ^ a b c d e f g h 大貫,前川, et al.(1998) pp.497-501
  6. ^ a b マーチャント(2014) p.9
  7. ^ Beckerath(1999) pp.144–145, 12:T1
  8. ^ Beckerath(1999) pp.144–145, 12:E3
  9. ^ Beckerath(1999) pp.144–145, 12:E1
  10. ^ Beckerath(1999) pp.144–145, 12:H1
  11. ^ Beckerath(1999) pp.144–145, 12:N1
  12. ^ Beckerath(1999) pp.144–145, 12:G1
  13. ^ マーチャント(2014) p.114
  14. ^ ショー,ニコルソン(1997) p.355
  15. ^ a b c d e f g h i j 吉成(2012) pp.112-115
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n 吉村(1984) pp.99-118
  17. ^ a b c d マーチャント(2014) p.282-294
  18. ^ a b c 松本(1994) p.172
  19. ^ ショー,ニコルソン(1997) p.42
  20. ^ ショー,ニコルソン(1997) p.356
  21. ^ スペンサー(2009) p.33
  22. ^ カーター(1923) pp.170-171
  23. ^ カーター(1923) p.166
  24. ^ 「ツタンカーメンの鉄剣 隕石加熱して製作か 千葉工大」日本経済新聞』朝刊2020年4月19日(サイエンス面)2020年4月29日閲覧
  25. ^ 吉村(1984) pp.55-76
  26. ^ “ツタンカーメン解き明かされた系譜(記事全文)”. ナショナルジオグラフィック公式日本語サイト. (2010年9月). http://nationalgeographic.jp/nng/magazine/1009/feature01/ 2011年9月閲覧。 
  27. ^ ルカ(1978) pp.132-133
  28. ^ マーチャント(2014) p.219-227
  29. ^ a b マーチャント(2014) p.317-330

参考文献[編集]

  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、2014年。
  • 『ブリタニカ国際大百科事典(小項目電子辞書版)』ブリタニカ・ジャパン、2016年。
  • Jürgen von Beckerath (1999). Handbuch der Ägyptischen Königsnamen 
  • 大貫 良夫, 前川 和也 et al.『世界の歴史I 人類の起源と古代オリエント』中央公論社、1998年。
  • 松本 弥『図説 古代エジプト文字手帳』株式会社 弥呂久、1994年。ISBN 4946482075
  • 吉村 作治『古代エジプト文女王伝』新潮社、1984年。ISBN 4106002523
  • 小川 英雄『ビジュアル版 世界の歴史2 古代のオリエント』講談社、1990年。ISBN 4061885022
  • 杉 勇, 川村 喜一 et al.『岩波講座 世界歴史1』岩波書店、1969年。
  • ハワード・カーター『ツタンカーメン発掘記(上)』酒井 傳六, 熊田 亨訳、筑摩書房、2001年。ISBN 978-4-480-08593-1
  • ハワード・カーター『ツタンカーメン発掘記(下)』酒井 傳六, 熊田 亨訳、筑摩書房、2001年。ISBN 978-4-480-08594-8
  • イアン・ショー&ポール・ニコルソン『大英博物館 古代エジプト百科事典』内田杉彦訳、原書房、1997年。ISBN 4-562-02922-6
  • A.J.スペンサー『大英博物館 図説古代エジプト史』近藤 二郎, 小林 朋則訳、原書房、2009年。ISBN 978-4-562-04289-0
  • ジョー・マーチャント『ツタンカーメン 死後の奇妙な物語』木村 博江訳、文藝春秋、2014年。ISBN 978-4-16-390125-1
  • 吉成 薫『古代エジプト三〇〇〇年史』新人物往来社、2012年。ISBN 9784404042101

外部リンク[編集]

http://www.griffith.ox.ac.uk/discoveringTut/ - グリフィス研究所のツタンカーメンのページ(英語)。カーターの発掘日誌、写真付きの出土品解説など各種情報を閲覧することができる。

先代:
ネフェルネフェルウアトン
古代エジプト王
エジプト第18王朝 第13代
前1332年 - 前1323年
次代:
アイ