フッガー家

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フッガー家の紋章

フッガー家Fugger)は、バイエルン公国アウクスブルクを中心に鉱山金融を営んだ富豪。アシエントによりスペイン・ハプスブルク朝に対し巨額を貸し付けた[1]

概要[編集]

フッガー家は宗教改革の前後にわたり経済面でカトリック体制を支えた。

スペインのカトリック勢力は、スペイン内戦後に資本主義社会主義のいずれとも与せず、国家が産別労組を保護するという特殊な体制をつくった。等族議会が持つ歴史に王室と姻戚のバジル・ザハロフが持つ利権、オイルショックまで旧態依然であった経済法体系、企業名にフィルターのかかった欧州諸共同体加盟後の対内・対外直接投資、それら全てが産別体制とあいまってスペイン経済の実態把握を困難にしている。フッガー家の軌跡は貴重な手がかりである。

アシエントによる貸付額でフッガー家に及ぶものはなかった。しかし歴史家の1世紀におよぶ努力により、ヴェルザー家やタクシス家もアシエントを結んでいたこと、それにトーマス・グレシャムグリマルディ家も貸し付けていたこと、また不特定多数の投資家はカスティーリャ王国などの発行した年金を引受けたことが分かっている[1]

ペスト流行が続いており、フェリペ2世がデフォルトし、他方でアメリカ大陸ポトシ銀山などから銀が大量輸入されて洋銀を輸出するほどの価格革命商業革命が起こり、フッガー家は幾つもの要因で巨額の損失を出した。

画家のアルブレヒト・デューラーらを招くなどパトロン活動を行った。フッガーライは同家が慈善事業として寄付した集合住宅である。現在も貴族として存続している。イタリアのメディチ家としばしば比較される。

歴史[編集]

クリストフ・フッガー
クリストフ・アムベルガー英語版1541年

ハンス・フッガー (Hans Fugger) が農村から織工としてアウクスブルクに出て、以後当地を同家の本拠地とする。彼はヴェネツィアから原料を輸入する商売を始めた。

息子ヤーコプが、香辛料などの貿易を行い、その息子ヤーコプ2世(1459-1525年)が1485年銀の先買権を手に入れ莫大な利益を獲得する。彼の家系は「ユリの紋章」のフッガー家と呼ばれた。1490年、銀山のあるティロルの領主がマクシミリアン1世となった。これをきっかけにヤーコプは神聖ローマ皇帝と結びついた。1494年ノイゾールの銅山を入手し、翌年トゥルゾー家と「ハンガリー貿易会社(Ungarische Handel)」を設立した。これがシレジアの金山の大部分を支配した。ヴェネツィアなどにも支店を持った。ハンスの長子アンドレアスの家系は、「鹿の紋章」を使用するフッガー家と呼ばれた。

ヤーコプはスペイン国王やローマ教皇の御用銀行でもあった。1517年の贖宥状(免罪符)販売は、ブランデンブルク公がフッガー家への借金を返還するためでもあった。

1519年、カルロス1世に選挙資金を貸し付けた。カルロスはフランス王を抑えて皇帝に選ばれた。ヤーコプは、カルロスの支配するナポリ王国の収入の一部や、レコンキスタ完了後に国有化の進んだスペイン騎士修道会所領の地代収入から債権を回収した。1511年にヤーコプは神聖ローマ帝国の貴族に列せられている。リヒャルト・エーレンベルクが1896年にDas Zeitalter der Fugger(『フッガー家の時代』)を著してしばらくは、スペイン王室への受信者としてフッガー家ばかりが注目されていた。しかしヘルマン・ケレンベンツによれば、カルロスの場合フッガー家よりもジェノヴァ銀行から多くを借り入れていた。[1]

ヤーコプの後継者アントンの代には、資産は710万フローリンと最大になった。しかし、新大陸などから大量の銀が流入しヨーロッパ鉱山の経営が悪化した。顧客であるスペイン王室等の王侯が戦争で貸付金を踏み倒すようになった。そしてフッガー社アントウェルペン支店支配人エルテルが債権回収に失敗した[2]。アントンの長子マルクスの代にフッガー家の事業は三十年戦争が終わると解散してしまった。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 諸田實 スペイン王室の銀行家 その二 神奈川大学商経論叢 29巻1号
  2. ^ 松田緝 アントーン・フガーの企業と時代 札幌大学 経済と経営 20−1 1989年6月

外部リンク[編集]