ヴィルヘルム・フォン・フンボルト
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| 生誕 |
1767年6月22日 ポツダム |
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1835年4月8日(67歳没) テーゲル |
| 地域 | 西洋哲学 |
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影響を受けた人物・事象・作品
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影響を与えた人物・事象・作品
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カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm Christian Karl Ferdinand Freiherr von Humboldt、1767年6月22日 - 1835年4月8日)は、プロイセン王国の哲学者・言語学者・官吏・外交官であり、ベルリン・フンボルト大学の創設者。1949年、同大学は彼と、その弟で博物学者のアレクサンダー・フォン・フンボルトにちなんで命名された。
彼は言語哲学、民族言語学、教育の理論と実践に貢献した言語学者である。彼は教育を、既存の職業や社会的役割に若者を適合させるため伝統的観念を教え込む手段ではなく、個人の可能性を実現するための手段と捉えることで、リベラリズムの発展に大きく寄与した[2]。とりわけ、フンボルトはフンボルト型大学の構想者であり、この理想はプロイセンにおける公教育制度のモデルとして、さらに米国や日本でも採用された。1822年にはアメリカ哲学協会の会員に選出された[3]。
生涯
[編集]フンボルトはブランデンブルク辺境伯領のポツダムで生まれ、ブランデンブルク州のテーゲルで没した。
父アレクサンダー・ゲオルク・フォン・フンボルト(1720–1779)はポメラニア出身のドイツ名門貴族の家系に属し、称号こそ有さなかったが、プロイセン軍でブラウンシュヴァイク公の下に仕えた少佐であった[4]。42歳のとき、七年戦争での功績により王室侍従職を与えられ、さらに国営宝くじおよびタバコ販売の専売契約から利益を得た[5]。
祖父はヨハン・パウル・フォン・フンボルト(1684–1740)で、ゾフィーア・ドロテア・フォン・シュヴェーダー(1688–1749)と結婚した。彼女は、プロイセン軍の将軍副官ミヒャエル・フォン・シュヴェーダー(1663–1729)の娘である[6][7]。1766年、父アレクサンダー・ゲオルクは、教養豊かなマリア・エリザベト・コロンブ(英語版)と結婚した。彼女は先夫フリードリヒ・エルンスト・フォン・ホルヴェーデ(1723–1765)との間にハインリヒ・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フェルディナント(1762–1817)をもうけていた。アレクサンダー・ゲオルクとマリア・エリザベトの間には4子が生まれ、うち2人の娘(カロリーネとガブリエーレ)は夭折し、その後に2人の息子ヴィルヘルムとアレクサンダーが生まれた[8]。なお、異父兄ハインリヒ(憲兵連隊の騎兵大尉)は出来の芳しくない人物で、一族の記録にほとんど現れない[9]。
1791年6月、フンボルトはカロリーネ・フォン・ダッヒェレーデン(英語版)と結婚した。8子をもうけ、そのうち5子(ガブリエーレ・フォン・フンボルト(英語版)を含む)が成人した[10]。
哲学者
[編集]フンボルトは哲学者として、1791–1792年に『国家活動の限界(英語版)』を執筆した(刊行は没後の1850年)。これは啓蒙の自由の最も大胆な擁護の一つとされ、J・S・ミルの『自由論』に影響を与え、英語圏で彼の思想が知られる契機となった。彼はミルが後に「危害原則」と呼ぶことになる理念の初期的定式化を示した。ローマのフンボルト邸は、妻カロリーネが取り仕切る文化サロンとして機能した[11]。
教育改革
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フンボルトは在宅教育を受け、フランクフルト(オーダー)大学(英語版)およびゲッティンゲン大学での比較的短い大学教育も修了していないが、彼は後にドイツ教育界で最も影響力ある官僚の一人となった。本来は教育大臣就任を志していたが、その地位には就けなかった。1809年、プロイセン王は彼にローマからの帰国を求め、フリードリヒ・フェルディナント・アレクサンダー・ツー・ドーナ=シュロビッテン(英語版)の下にある教育局を率いるよう命じた。フンボルトはローマの大使館勤務を望んでいたため数週間返答を遅らせたが、最終的にプロイセンに帰国した。妻は彼とともにプロイセンへ戻らず、フンボルトが教育職を辞してウィーン公使館長に任命された後に夫妻は再会した[12]。
フンボルトは、初等から中等教育に至るまでの公教育の標準化を実施し、ベルリン大学を創設した。彼は試験と監査の標準化を行い、カリキュラム・教科書・学習補助教材を監督・設計するため、省内に専門部署を新設した[13]。
フンボルトの教育モデルは、職業訓練を超えるものであった。彼は国王宛書簡で次のように記した。「一般的でなければならない知識が確かに存在し、さらに重要なのは、誰一人欠いてはならない精神と人格の涵養である。人は職業のいかんにかかわらず、善良で立派であり、身分に応じた教養ある人間・市民でなければ、良き職人・商人・兵士・事業家にはなり得ない。基礎が学校教育によって築かれるなら、職能は後から容易に身につき、人生でしばしば起こるように、ある職から別の職へと自由に移ることができる。[14]」哲学者ユリアン・ニーダ・リューメリンは教育を労働市場準備と考える現代欧州の教育政策(英語版)がフンボルトの理想と乖離していることを批判し、「マッキンゼーかフンボルトか」の選択が必要だと論じた[15][16]。
外交官
[編集]1802年から1819年にかけて、フンボルトは外交官として成功を収めた。1802年からローマのプロイセン全権公使、1812年からはウィーン大使としてナポレオン戦争終盤の折衝にあたり、1813年のプラハ会議ではオーストリアをプロイセン・ロシア側に引き入れるのに重要な役割を果たした。彼は1815年のパリ講和条約およびプロイセンと敗れたザクセン王国との条約の署名者であり、1818年のアーヘン会議にも出席した。しかし、プロイセン政府の反動化が進むと、1819年に政界を退き、その後は文筆と研究に専念した[17]。
言語学者
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フンボルトは優れた言語学者で、バスク語を研究した。彼はピンダロスおよびアイスキュロスをドイツ語に翻訳した。
バスク語に関するフンボルトの文献学的研究は、特に優れていた。彼はバスク地方を二度訪れ、1821年に『バスク語の助けによるスペイン古代住民の研究』を発表した[18]。同書において彼は、地名学的考察を通じ、現代バスク語に近縁な諸方言を話す人々が、かつてスペイン・南フランス・バレアレス諸島一帯に広がっていたことを示そうとした。彼はこれらの人々を古典古代の著者がいうイベリア人と同定し、さらに北アフリカのベルベル人と同系であったと推測した。彼の先駆的研究は、細部においては現代の言語学・考古学により置き換えられているが、今日でも引用されることがある。1820年にはアメリカ古書協会(英語版)会員[19]、1822年にはアメリカ芸術科学アカデミー外国名誉会員に選出された[20]。
フンボルトは、ジャワの古語カヴィ語に関する大著の準備中に没したが、その序論は1836年に『言語の多様性と人類の知的発達に及ぼすその影響』として刊行された[21]。彼の1836年の言語哲学書は、「言語の内的形式」の概念を提示した(『ブリタニカ百科事典』第11版(1911年)の解説による)。
ノーム・チョムスキーは、言語を「有限の手段によって無限の用法を生む」規則支配的体系とするフンボルトの叙述をしばしば引用する。しかし、フンボルト研究者ティルマン・ボルシェは、両者の言語観には深い相違があるとしている[23]。
近年、フンボルトは、後にエドワード・サピアおよびベンジャミン・ウォーフが展開した言語的相対論(サピア=ウォーフの仮説)の先駆者としても言及される[24]。
日本語文献
[編集]- 近年刊の文献のみ表記
- フンボルトの著作
- 『言語と人間』 岡田隆平訳、ゆまに書房, 1998。創元社(初版1950)を復刻
- 『双数について』 村岡晋一訳・解説、新書館, 2006
- 『人間形成と言語』 クラウス・ルーメルほか訳、以文社, 1989
- 『言語と精神 カヴィ語研究序説』 亀山健吉訳、法政大学出版局, 1984、オンデマンド版2011
- 『国家活動の限界』 西村稔編訳、京都大学学術出版会[近代社会思想コレクション], 2019
- 伝記・研究
- 亀山健吉 『言葉と世界 ヴィルヘルム・フォン・フンボルト研究』 法政大学出版局, 2000
- ― 『フンボルト 文人・政治家・言語学者』 中公新書, 1978。入門書
- 西村貞二 『フンボルト 人と思想』 清水書院[新書Century books], 1990、新装版2015。入門書
- ユルゲン・トラバント 『フンボルトの言語思想』 村井則夫訳、平凡社[テオリア叢書], 2001
- ―『人文主義の言語思想 フンボルトの伝統』村井則夫ほか監訳、岩波書店, 2020
- 斉藤渉 『フンボルトの言語研究―有機体としての言語』 京都大学学術出版会, 2001
- 江島正子 『フンボルトの人間形成論』 ドン・ボスコ社, 1996
- 福本喜之助 『フンボルトの言語思想とその後世への影響』 関西大学出版部, 1982
- 泉井久之助 『言語研究とフンボルト』 弘文堂, 1976
- 吉永圭 『リバタリアニズムの人間観―ヴィルヘルム・フォン・フンボルトに見るドイツ的教養の法哲学的展開』 風行社, 2009
- 宮本勇一 『フンボルトの陶冶理論と教育改革 学問中心カリキュラムの再考』 春風社, 2023
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ David Kenosian: "Fichtean Elements in Wilhelm von Humboldt's Philosophy of Language", in: Daniel Breazeale, Tom Rockmore (ed.), Fichte, German Idealism, and Early Romanticism, Rodopi, 2010, p. 357.
- ^ Edmund Fawcett, Liberalism: The Life of an Idea (2nd ed. 2018) pp. 33–48
- ^ "APS Member History". search.amphilsoc.org. Retrieved 5 April 2021.
- ^ de Terra 1955, pp. 4–5.
- ^ Clerke, Agnes Mary (1911). "Humboldt, Friedrich Heinrich Alexander von" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica. Vol. 13 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 873–875.
- ^ Klencke, Hermann; Schlesier, Gustav (1853). Lives of the brothers Humboldt, Alexander and William. New York: Harper and Brothers. p. 13.
- ^ "Michael von Schweder (10) und Elisabeth Blomenfelt, gen. Persdotter (11) - von-Humboldt_de".
- ^ Daum, Andreas W. (2024). Alexander von Humboldt: A Concise Biography. Trans. Robert Savage. Princeton, N.J.: Princeton University Press. pp. 8‒12. ISBN 978-0691247366.
- ^ de Terra 1955, pp. 6–7.
- ^ Kurt Mueller-Vollmer "Wilhelm von Humboldt", The Stanford Encyclopedia of Philosophy
- ^ Mueller-Vollmer, Kurt; Messling, Markus (2023), "Wilhelm von Humboldt", in Zalta, Edward N.; Nodelman, Uri (eds.), The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2023 ed.), Metaphysics Research Lab, Stanford University, retrieved 28 June 2024
- ^ Manfred Geier: Die Brüder Humboldt. Reinbek bei Hamburg 2009, pp. 261 ff.
- ^ Clark, Christopher (2006). Iron Kingdom: The Rise and Downfall of Prussia. United States of America: Penguin Group. p. 332.
- ^ As quoted in Profiles of educators: Wilhelm von Humboldt (1767–1835) by Karl-Heinz Günther (1988), doi:10.1007/BF02192965
- ^ Nida-Rümelin, Julian (29 October 2009). "Bologna-Prozess: Die Chance zum Kompromiss ist da". Die Zeit (in German). Retrieved 29 November 2015.
- ^ "WILHELM VON HUMBOLDT" (PDF). Archived from the original (PDF) on 22 November 2019.
- ^ Gordon Craig, "Wilhelm von Humboldt as a diplomat", in Craig, Studies in International History (1967).
- ^ Daum, Andreas (2020). "Alexander und Wilhelm von Humboldt: Vom Orinoco nach Java". In Fahrmeir, Andreas (ed.). Deutschland. Globalgeschichte einer Nation. C.H. Beck. pp. 303‒307.
- ^ "American Antiquarian Society Members Directory". Elected 23 October 1816, Residence Paris, France.
- ^ "Book of Members, 1780–2010: Chapter H" (PDF). American Academy of Arts and Sciences. Retrieved 7 August 2014.
- ^ Muriel Mirak Weissbach (1999). "Wilhelm von Humboldt's Study of the Kawi Language: The Proof of the Existence of the Malayan-Polynesian Language Culture". Fidelio Magazine. VIII (1). Archived from the original on 12 July 2014.
- ^ 1911 Encyclopædia Britannica
- ^ see Tilman Borsche: Sprachansichten. Der Begriff der menschlichen Rede in der Sprachphilosophie Wilhelm von Humboldts, Stuttgart: Klett-Cotta, 1981.
- ^ Deutscher, Guy (2010) Through the Language Glass. New York: Picador, ch. 6