ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)

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ポチョムキン=タヴリーチェスキー公
パンテレイモン
ポチョムキン=タヴリーチェスキー
ボレーツ・ザ・スヴォボードゥ
1905年、出航を待つポチョムキン=タヴリーチェスキー公
1905年、出航を待つポチョムキン=タヴリーチェスキー公
艦歴
起工 1898年10月10日 ニコラーエフ海軍工廠
進水 1900年9月14日
竣工 1905年5月20日
所属 Naval Ensign of Russia.svg ロシア帝国海軍黒海艦隊
転属 Naval Ensign of Russia.svg 臨時政府黒海艦隊(1917年 - )
Red Army flag.svg 赤色黒海艦隊(1917年12月29日 - )
Naval Ensign of Ukraine (1917–1921).svg ウクライナ人民共和国海軍(1918年1月 - )
War Ensign of Germany 1903-1918.svg ドイツ帝国海軍(1918年5月1日 - )
Naval Ensign of Ukraine 1918 July.png ウクライナ国海軍(1918年8月 - )
Naval Ensign of the United Kingdom.svg イギリス海軍(1918年11月24日 - )
Red Army flag.svg 赤軍ウクライナ戦線(1919年4月29日 - )
Naval Ensign of Russia.svg 南ロシア軍(1919年6月24日 - )
Red Army flag.svg 赤色黒海艦隊(1920年11月15日 - )
退役 1923年
除籍 1925年11月21日
前級 ペレスヴェート級
後級 レトヴィザン
要目
艦種 艦隊装甲艦戦列艦
艦級 ポチョムキン=タヴリーチェスキー公
排水量 12900 t
全長 113.2 m
全幅 22.2 m
喫水 8.4 m
機関構成
石油専焼水管缶 14 基
石炭専焼水管缶 8 基
直立型3段膨張式レシプロ機関 2 基2 軸
プロペラシャフト 2 軸
推進用スクリュープロペラ 2 基
最大出力 10600 馬力
最大速力 16.7 kn
航続
距離
12 kn/2200 nm
10 kn/3600 nm
燃料搭載量 石油 + 石炭)常備 950 t
満載 1100 t
飲料水 60 日分
食料 14 日分
乗員 将官・士官 26 名
水兵 705 名
武装
竣工時
40口径305 mm連装砲 2 基
45口径152 mm単装砲 16 門
50口径75 mm単装砲 16 門
43口径47 mm単装砲 20 門
47 mm単装砲 6 門
23口径37 mm単装砲 2 門
20口径63.5 mm単装上陸砲 2 門
7.62 mm機銃 4 挺
381 mm水中魚雷発射管 5 門
武装
1910年
40口径305 mm連装砲 2 基
45口径152 mm単装砲 16 門
50口径75 mm単装砲 14 門
456 mm水中魚雷発射管 4 門
武装
1916年
40口径305 mm連装砲 2 基
45口径152 mm単装砲 16 門
50口径75 mm高角砲 2 門
456 mm水中魚雷発射管 4 門
装甲 甲板 38 - 76 mm
装甲砲座 76 - 152 mm
砲塔 254 mm
司令塔 229 mm

ポチョムキン=タヴリーチェスキー公ロシア語:Князь Потёмкин-Таврическийクニャースィ・パチョームキン・タヴリーチェスキイ)は、ロシア帝国で建造された戦艦である。艦名は「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公爵」という意味。ロシア帝国海軍では当初は艦隊装甲艦Эскадренный броненосец)、のち戦列艦Линейный корабль)に分類された。ロシア第一革命の時期に水兵による叛乱が起こったことで世界にその名を知られた。特に、ポチョムキンという略称で有名である。[艦名 1]

概要[編集]

設計[編集]

設計と建造指揮はセヴァストーポリ軍港のアレクサンドル・ショット艦船技師によって行われた。

新しい艦隊装甲艦は前のトリー・スヴャチーチェリャに範をとっていた。これに、イギリスマジェスティック級戦艦に似た装甲装備を持ったペレスヴェート級装甲艦の経験に基づいた変更を取り入れていた。従来の装甲板に比べ軽量化に優れる装甲板の採用により防御重量は大幅に軽減され、浮いた重量は中間砲の搭載数の倍増や艦首尾部分への中口径砲への防御装甲の装備、水平甲板の傾斜部分の増厚に充てられた。

新しい艦隊装甲艦には、初めて統一的な射撃管制指揮装置が採用されていた。射撃管制は、戦闘司令塔に設置された中央管制所から行われることになっていた。艦橋両翼には、空中甲板(フライング・デッキ)が設置されていた。また、ロシア海軍では初めて、液体燃料を使用するボイラーを搭載する艦であった。

計画排水量は12480 tであったが、建造中の設計変更により実際には12900 tに達した。船体長は113.2 m、幅は22.2 m、喫水は8.4 mであった。機関は、3 グループに分けられた蒸気ボイラーであった。そのうち2 グループは14基の石油焚きボイラーを使用したもので、残る1 グループが8基の石炭焚きボイラーを使用していた。これらの蒸気ボイラーが発する高圧蒸気により、2 基の直立型3段膨張式レシプロ機関を動かして10600 馬力を発生し、速力16.7 knを発揮した。推進用プロペラシャフトは左右対称に配置され、軸先には直径4.2 mのスクリュープロペラが取り付けられ回転数82 回/mで推進していた。燃料搭載量は常備で950 t、満載で1100 tであった。そのうち、石炭は340 tであった。巡航速度10 knでの航続距離は、3600 であった。飲料水の搭載量は14 日分で、食料は60 日分が搭載できた。

1906年から1910年のあいだに撮影されたパンテレイモン
建造当初の状態。砲廓の配置、小口径速射砲を搭載したマストのファイティングトップ、空中甲板を備えた艦橋の様子などがよく見て取れる。

武装[編集]

写真は1906年に撮られた「パンテレイモン」時代の本艦。円筒形の主砲塔と艦首尾線方向への副砲の射界を確保すべく切り欠かれた舷側部と舷側に張り出した副砲ケースメイト配置が良く判る写真。

本艦の主砲は前級に引き続き「Pattern 1895 30.5cm(40口径)砲」を採用した。砲弾重量は331.7 kgの砲弾を仰角15 度で初速は792.5 m/sで撃って最大射程14,640 mまで届かせられ、射程5,490 mで201 mmの舷側装甲を貫通できた。この砲を円筒形の連装砲塔に収めて2 基4 門だった。砲塔1 基当たりの重さは43 tで、仰能力は仰角15 度・俯角5 度である。旋回角度は単体首尾線方向を0 度として左右135 度の旋回角度を持つ、主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分1発の設計であったが1分あたり0.75 発であった。1 門当たりに割り当てられた砲弾は、徹甲弾が18 発、榴弾が18 発、破砕弾が4 発、鋳鉄弾が18 発、対人散弾が2 発であった。砲塔は、最大254 mmの装甲を持っていた。

副砲に「Pattern 1892 15.2cm(45口径)速射砲」を採用した。その性能は41.4 kgの砲弾を、仰角20度で初速792 m/sで撃って11,520 mまで届かせられ、射程5,490 mで43 mmの装甲を貫通できた。1門あたり重さ5 tで舷側部の装甲砲座砲廓ケースメートとも言う)に片舷8 基ずつ計16 門が搭載された。砲架の俯仰能力は仰角20 度・俯角5 度である。旋回角度は135 度で発射速度は毎分3発の設計であった。装甲砲座は、127 mmの装甲を持っていた。

このほか、小口径砲として75 mm速射砲や甲板上や装甲砲座、47mm速射砲がマストのファイティングトップに装備された。機関銃もマスト上に装備された。魚雷発射管も装備されていた。

防御[編集]

本艦の防御は、艦砲射撃機雷および魚雷攻撃への対応を考慮に入れた全体防御設計となっていた。艦の重要箇所には防御装甲が施された。すなわち、垂直方向からの砲弾に対する外面の防御として舷側と上部構造には装甲が施され、水平方向からの防御としては傾斜をつけた装甲甲板が設置された。これには、1901年竣工の防護巡洋艦ジアーナで初めて採用されたイジョール工場製の超軽量ニッケル鋼が用いられていた。

装甲厚は先にペレスヴェート級より若干強化された。舷側装甲は中間部で229 mm(前級では最大229 mm)、司令塔も229 mm(前級では最大152 mm)となった。特に主砲塔の装甲は、前級の229 mmから254 mmに強化されていた。

要目上の特徴から、ポチョムキンは建造当時のロシア艦船の中で最も強力な艦であるといえた。火力では同クラスのアメリカ合衆国製装甲艦レトヴィザンや、ずっと大型のイギリス海軍フォーミダブル級(クイーン級)を上回っていた。ポチョムキンは速力ではそれらの戦艦に劣っていたが、ロシア海軍は16 knの速力があれば黒海艦隊の装甲艦としては十分であると考えていた。

艦歴[編集]

建造[編集]

1897年11月25日付けで黒海艦隊に登録、1898年10月10日付けでニコラーエフのニコラーエフ海軍工廠(現在の黒海造船工場)で起工した。1900年9月14日には進水し、「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公」と命名された。1903年の竣工が予定された。

1902年夏にはニコラーエフからセヴァストーポリへ回航され、そこで完成作業と武装類の搭載等の艤装工事が行われたが、当初予定していた完成期日は、ボイラー室で発生した火事によって遅れ、損失として一部ボイラーを石炭焚きのものに換装しなければならなくなった。主砲の試験の際には、砲塔装甲に気孔が見つかったために組み立てなおして新しいものに取り替えなければならなかったが、その準備には1904年末までかかった。結局、予定より2年近くも遅れて1905年5月20日に竣工した。

ポチョムキンの叛乱[編集]

本艦の起工と同時に実質的な乗員の編成に着手された。このために、第36海兵団が編成された。海兵団には、砲術士、機関士、水雷術士が含まれていた。1905年5月に艦が竣工した時点で乗員は731 名を数え、そのうち26 名が士官であった。

1905年6月14日[注 1]、艦上で水兵による武装蜂起が発生した。黒海艦隊ではかねてより武装蜂起の準備がされていたが、蜂起の計画者らは本来1905年秋に決起する計画を立てていた。しかし、ポチョムキンは突出し、計画よりずっと以前に蜂起を実行に移したのである。

蜂起の指導者マチュシェーンコ(白シャツを着た中央左側の人物)

6月14日、ポチョムキンはテーンドル湾の沖合い停泊地にて武装の試験を行っていた。叛乱突発の原因は、昼食のボルシチに腐った肉が使われているのに不満を申し立てた水兵に対して艦の指揮官が懲罰を加えようとしたことであった。それに対し、水兵らはライフル銃を取り、士官らを武装解除した。

艦長と上級士官のほか、特に憎まれていた士官は水兵によって射殺された。残る士官らは逮捕された。蜂起の指導者には、パナース・マチュシェーンコ[注 2]が選出された。艦を掌握すると、水兵たちは艦船委員会と指導部を選出し、武装や機関、および逮捕者の管理に関する艦の体制を整えた。

蜂起には、テーンドル停泊地にてポチョムキンの射撃試験の補助をしていた第267号水雷艇の乗員も合流した。両艦艇は、革命の象徴として赤旗を掲揚した。

6月14日の14時00分、ポチョムキンの乗員は革命を宣言した。同日の夕刻には両艦艇はオデッサに到着した。オデッサでは、折しもゼネストが行われていた。ポチョムキンの水兵らとオデッサの労働者たちは大規模なデモ行進と、ポチョムキンの蜂起の最初の指導者で銃殺されたヴァクレンチュークの葬儀を行った。その後、ポチョムキンは皇帝の軍と警察に対して若干の射撃を行った。

このような不徹底な、いわばたんなるデモに過ぎない行動も、短期的には驚くべき効果を発揮した。しかし、6月17日になると反乱鎮圧のため政府軍艦隊が派遣されることになった。艦隊は、黒海艦隊所属の艦隊装甲艦十二使徒Dvienadsat Apostolov[注 3]ゲオルギー・ポベドノーセツГеоргий Победоносец[注 4]、トリー・スヴャチーチェリャ(Tri Sviatitelia)、水雷巡洋艦カザールスキイ[注 5]第255号第258号第272号第273号水雷艇から編成されていた。皇帝ニコライ2世はポチョムキンの叛乱を危険なものであるとみなしており、この艦が赤旗を掲げたまま黒海を遊弋するのを許容することはできないと考えていた。そして、黒海艦隊司令官であるチュフニーン海軍中将に対して速やかに叛乱を鎮圧し、最悪の場合には叛乱艦を全乗員ごと撃沈すべしとする指令を与えた。サンクトペテルブルクにいたチュフニーンは、クリーゲル海軍中将に司令官代理として事態に対処するよう任じた。

ポチョムキンと、それに横付けした第267号水雷艇

6月18日早朝、オデッサの停泊地にあったポチョムキンでは、乗員たちが町に向けて大規模な艦隊が接近しつつあるのに気づいていた。艦隊には、5 隻の装甲艦と6 隻の水雷艇の姿が見えた。上級指揮官クリーゲル海軍中将の将官旗を掲げた艦隊は隊形を組んで停泊地に接近し、雷撃砲撃をもって謀反人たちを撃滅せんとしていた。

ポチョムキンは艦隊に向かって出航した。ポチョムキンでは、自分から発砲しないことが決議された。水兵たちは、ほかの艦艇でも蜂起に賛同した動きが表れることを期待したのである。交渉のため艦隊に赴くようにとの申し出を拒絶したポチョムキンの水兵らは、今度は艦隊の指揮官をポチョムキンへ招く申し出をした。クリーゲル艦隊指揮官の乗った旗艦ロスチスラフRostislav)では、「投錨せよ」という信号が上げられた。その返答として、ポチョムキンはロスチスラフの衝角の前に進み出た。しかし、最後の瞬間になって進路を変更し、ポチョムキンは装甲艦ロスチスラフと、ヴィシュネヴェーツキイ海軍少将の乗る副旗艦トリー・スヴャチーチェリャのあいだを航行した。そして、衝角を警戒しつつ、脇へと去った。ポチョムキンは将官の艦に砲門を向けつつ、艦隊のあいだを縫って航行した。

しかしながら、砲門が開かれることはなかった。艦隊の艦艇の水兵らは叛乱者たちを砲撃することを拒否した。そして、上官たちから禁じられていたにも拘らず、甲板上に出て接近するポチョムキンに「万歳!」の歓声を以って挨拶を送った。

乗員の気運を危惧したクリーゲルは、全速力で公海上へ艦隊を移動させる指令を出した。ポチョムキンのもとには、装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツが留まった。ゲオルギー・ポベドノーセツの乗員は、ポチョムキンの乗員と話し合った結果、自艦の士官たちを逮捕し、蜂起に合流した。

しかし、のちにゲオルギー・ポベドノーセツの水兵たちのあいだには仲間割れが生じた。そして、ポチョムキンのもとを離れ、艦を政府に引き渡した。このことが、ポチョムキンの水兵たちに重大な印象を残した。彼らのあいだに、不満が募り始めた。

後檣に赤旗を掲げ、コンスタンツァに停泊するポチョムキン=タヴリーチェスキー公

ポチョムキンが艦隊との2度目の遭遇からオデッサに戻ると、町は彼らに水と食料を与えることを拒否した。長い議論の末、彼らは黒海の対岸にあるルーマニアへ出航することを決議した。6月19日、ポチョムキンは第267号水雷艇を伴ってルーマニアのコンスタンツァに到着した。しかし、ルーマニア政府はポチョムキンに必要物資を提供するのを拒んだ。革命艦は、フェオドーシヤへ引き返すことになった。

ルーマニア政府から食料、燃料、水の補給を拒否されたポチョムキンは、危機的な状況に陥った。海水をボイラーに補給した結果、ボイラーは故障した。フェオドーシヤへポチョムキンが辿り着いたのは1905年6月22日朝6時のことであった。そこではすでに皇帝の正規軍憲兵団が待ち構えていた。上陸した水兵のグループは銃火を浴びせられた。そのため、艦は再びコンスタンツァに向けて出向した。

ポチョムキンが6月24日にコンスタンツァへ到着すると、水兵らは艦をルーマニア政府に引渡した。翌25日には艦は赤旗を降ろし、水兵らは政治亡命者として上陸した。第267号水雷艇の乗員は艇の引渡しを望まず、港内停泊地に錨を下ろした。同日、彼らはセヴァストーポリに向けて出航した。

6月26日には、コンスタンツァへ黒海艦隊の分遣隊が到着した。翌27日、ルーマニアはロシアへポチョムキン=タヴリーチェスキー公を返還した。7月1日、艦はセヴァストーポリに到着した。

セヴァストーポリの蜂起[編集]

叛乱艦の名称は嫌われるため、ポチョムキン=タヴリーチェスキー公はすぐに改名されることになった。1905年9月30日付けで、正教会の著名な聖人である聖大致命者廉施者パンテレイモンに因んでパンテレイモン[注 6][注 7]Пантелеймонパンチリェーイマン[注 8]と改名された。この艦名は、1714年の聖パンテレイモンの祝日ロシア海軍[注 9]ハンゲの海戦にて勝利を収めたことに由来している。

しかし、ポチョムキン水兵による蜂起の伝統は艦の改名後も続いた。1905年11月に発生したセヴァストーポリの蜂起において、彼らは再び蜂起側に就いたのである。11月13日、パンテレイモンは叛乱した艦船に合流した。しかし、この叛乱もまた鎮圧され、失敗に終わった。

活動[編集]

1907年9月27日には、海軍の新しい類別法に従って艦種を艦隊装甲艦から戦列艦(Линейный корабль)に改めた。

1911年、セヴァストーポリにおけるパンテレイモン
艦橋両翼の空中甲板やマストのファイティングトップが撤去され、戦闘司令塔覆い上に測距儀が設置されている。

1910年にはオーバーホールを受け、セヴァストーポリ港にて船体と機関の修理を受けた。1911年10月2日には、コンスタンツァの沖合い停泊地から出港する際に浅瀬に乗り上げた。1912年には、セヴァストーポリ港にて水線下の修理を行った。黒海艦隊の全艦艇を圧倒できる弩級戦艦オスマン帝国に配備される見通しが明らかになると、黒海艦隊の戦列艦はそれに対応すべく装備の改修を受けた。そして、来るべき決戦のときのために、敵艦に集中砲火を浴びせる戦術の習得訓練に勤しんだ。

第一次世界大戦が勃発すると、パンテレイモンは第2戦列艦戦隊所属艦として戦闘に参加した。1914年11月5日サールィチ岬の海戦ではいよいよオスマン帝国海軍巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムおよび軽巡洋艦ミディッリと対峙することになったが、パンテレイモンは煙霧のため敵艦を視認できず、発砲しなかった。

その後も、パンテレイモンは他艦と交代でしばしばボスポラス海峡を遊弋した。1915年4月28日には、ヤウズとエフスターフィイのあいだで海戦が発生した。この際、エフスターフィイに同行していたパンテレイモンも敵艦目掛けて発砲したが、104 [注 10]の距離から発射された砲弾は命中せず敵艦まで届かず、続いて発砲した第2撃が敵を脅かした。パンテレイモンのG・K・レーマン2等士官の証言によれば、パンテレイモンのある砲弾はゲーベン[注 11]の艦尾から30 - 40 サージェンの距離に着弾した。また別の砲弾は後部煙突の辺りに命中し、さらに第三の砲弾が砲塔に命中した。砲弾は濛々たる黒煙を上げて爆発し、赤い火の手が上がるのが見えた。ドイツのG・ローレイ海軍少将の証言によれば、ロシア艦の砲撃は極めて優れていた。1916年2月5日から4月18日にかけては、トラペズンド攻略作戦で活躍した。

ロシア革命[編集]

1917年初めには、事実上黒海艦隊の軍事行動は停止した。パンテレイモンは、ほかの艦船とともに自分の母港であるセヴァストーポリに停泊していた。

二月革命ののち、セヴァストーポリでは黒海ウクライナ軍事委員会、労農黒海艦隊中央委員会(ツェントロフロート)、軍人労働者代表会議が設置された。パンテレイモンでは、ほかの多くの艦船におけるのと同様、ウクライナ人組織が結成された。ウクライナ人水兵は、黒海艦隊のウクライナ化とウクライナ艦隊の創設の実行をウクライナ中央ラーダに対し強く要求した。

1917年夏に撮影された自由の戦士の艦尾部分
艦尾にはまだ「ポチョムキン」の文字が見える。1905年11月の蜂起の犠牲者を弔う式典が執り行われている。改装に先立ち、犠牲者の遺体が艦上に安置された。

1917年3月31日[注 12]には、艦名はポチョムキン=タヴリーチェスキー[注 13]Потёмкин-Таврический)に改められた。これは1905年の水兵の蜂起を記念するための改称であったが、「公爵」という貴族称号は除去された。しかし、艦名のそもそもの由来となったポチョムキン公爵がウクライナの圧政者であったこともあり、この艦名は長くは使用されなかった。4月28日[注 14]には、早くも艦名は自由の戦士[注 15]ボレーツ・ザ・スヴォボードゥ[注 16]Борец за Свободуバリェーヅ・ザ・スヴァボードゥ)に改められた。

1917年10月12日には、戦列艦ヴォーリャ、司令艦ゲオルギー・ポベドノーセツとともに自由の戦士艦上にはウクライナ国旗が掲げられた。ウクライナの国旗の下でも、艦名はそのまま自由の戦士ボレーツィ・ザ・スヴォボードゥ[注 17]ウクライナ語:Борець за Сводобуボレーヅィ・ザ・スヴォボードゥ)を名乗っていた。

12月には、ボリシェヴィキがウクライナへ侵攻を開始した。自由の戦士は、12月16日[注 18]赤軍の管理下に入った。その間、1918年2月21日には「社会主義の祖国は危機にある」との人民委員会議布告が出され、非常事態宣言がなされた。この布告では、「敵の工作員、投機者、泥棒、ならず者、反革命扇動者、ドイツのスパイは現場で銃殺を命令」とされており、廃止されていた死刑が全面的に復活された[注 19]。セヴァストーポリにあった自由の戦士では、この宣言に従い乗員が「すべてのブルジョワジーを根絶する」と決議し、3昼夜のあいだに高級将校知識人ら約600人を殺害するという事態に至った。殺害は赤軍がセヴァストーポリを放棄する3月末まで続いた。当時セヴァストーポリ軍事革命委員会議長であったユーリイ・ガーヴェン1920年12月14日中央委員会へ行った報告によれば、大量殺害は彼の命令によるものであった[1]

2月には中央ラーダが1918年2月9日のブレスト=リトフスク単独講和により中央同盟国と同盟して反撃を開始し、3月から4月にかけてのクリミア作戦でクリミア半島を奪還した。ウクライナからの撤退の準備を始めた赤軍は、3月に自由の戦士を保管状態に置き、セヴァストーポリ軍港に放置させた。

ウクライナ[編集]

ウクライナ国時代のセヴァストーポリの様子
下方、2本煙突の戦艦が第3戦隊所属のトリー・スヴャチーチェリャで、その右舷側隣、上方が第2戦隊所属の自由の戦士。

これに呼応し、1918年4月にはセヴァストーポリでは港湾労働者と工場労働者による二度の反ボリシェヴィキ蜂起が発生した。艦隊の水兵は積極的に支援した。

4月22日には、黒海艦隊司令官のムィハーイロ・サーブリン海軍少将によって「すべての船舶、クリミア半島にある港湾施設は、ウクライナ人民共和国の管轄下にあり。よって、必要箇所についてはすべて、ウクライナ国旗を掲揚すべし」とする宣言が発令された。

1918年4月29日には、自由の戦士ではほかのすべての黒海艦隊艦船および要塞におけるのと同様、ウクライナ国旗が掲揚された。

同日、ヘーチマンの政変で共和国が倒されウクライナ国が建国された。自由の戦士は、パウロー・スコロパードシクィイの治世において、ウクライナ国海軍に所属した。

しかし、自由の戦士は1918年を通じて活動せず、長期の保管状態に置かれたままであった。一説には乗員が不足したためだとも言い、艦の一部を新しい弩級戦艦のために供出してしまったためだとも言われる[注 20]

最期[編集]

1918年11月24日になると、セヴァストーポリにて侵攻したイギリス・フランス干渉軍によって拿捕された。半年後、1919年4月22日から4月29日のあいだに、イギリス軍司令部の命令でほかの艦とともに機関を爆破され、武装を撤去された。そうして、イギリス軍はクリミアから撤退した。自由の戦士は、激しい損傷を負ったままセヴァストーポリの南湾に放置された。

1919年4月29日、ボリシェヴィキがクリミアを占領した際には、赤軍ウクライナ戦線の部隊に奪取され、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国赤色海軍に編入された。しかし、6月24日にはもう義勇軍によって奪取された。

1920年11月15日には、最終的にソヴィエト権力がセヴァストーポリに建設されたが、現役への復帰は叶わなかった。ひどい損傷を負った旧式艦を修理するだけの利点が見出されなかったためである。

1923年には、蜂起の実情をよく覚えていたレーニンによって解体の指示が出され、「コムボスフォンドフ」に引き渡された。1925年11月21日付けで赤色海軍から除籍された。解体されたポチョムキンのマストは、ドニエプル=ブーフ潟にて灯台の基部として40年近く使用された。その後、前檣は永久保存のためレニングラード(現サンクトペテルブルク)の中央海軍博物館に委譲され、後檣はオデッサ郷土史博物館へ委譲された。そして、そこで現在まで保存展示されている。

水兵達のその後[編集]

1905年の反乱に参加した水兵の大部分は、1917年の2月革命までルーマニア国内に残る事を選択した。反乱の直後にロシアに戻った水兵も居たが、少なくとも56人が反乱罪で投獄され、うち7人が首謀者として処刑されている。その一方で、下士官の中には「水兵の脅迫の下に行動したのみである」と主張して免罪を受けたものも居た。

ルーマニアには約600人の水兵が残留した。首謀者の一人マチュシェーンコは1907年に恩赦の約束の下に4人の同僚と共にロシアに帰国したが、約束は反故にされ絞首刑に処された。別の首謀者の一人であるJoseph Dymtchenkoは、1908年に31人の元水兵と共にアルゼンチンに脱出し、彼の地に定住した。最後まで生存した元水兵はIvan Beshoffで、トルコロンドン(彼はロンドンでレーニンに会ったと主張していた。)を経由してアイルランドに脱出、ダブリンに定住した。彼はダブリンでフィッシュ・アンド・チップスの販売店を経営し、1987年10月25日に102歳で死去した。[2]

神話化[編集]

ソ連時代、ポチョムキンの叛乱は革命の神話にされた。この題材を扱った最も重要な芸術作品はセルゲイ・エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(原題に従えば『装甲艦ポチョムキン』)である。この映画は、実際のポチョムキンの叛乱20周年である1925年に、わずか3ヶ月というハードなスケジュールで撮影された[3]。この年の春、ロシア第一革命20周年記念映画として映画『一九〇五年』の撮影依頼がエイゼンシュテインにあり[4]、これが製作の過程でポチョムキンの叛乱にスポットライトを当てた形で完成させることになった。しかし、撮影班が映画の舞台となる艦船を探していたときにはすでにポチョムキンは艦上の設備を撤去されて撮影に使用できる状態になく、また似た形の艦船もバルト艦隊や黒海艦隊のどこにも残っていなかった。撮影班は苦心の結果、ポチョムキンより古い型の装甲艦十二使徒[注 3]が機雷倉庫として使われているのを発見し、陸が映らないようつねに海側を背景に撮影するという工夫をしてこれを撮影に使用した。この船には爆発の危険性のある機雷が搭載されており、撮影はつねに静粛を求められた。このほか、ポチョムキンと同じ頃に建造された巡洋艦コミンテルンが撮影に使用された。ポチョムキンの全体が映る場面は、モスクワのサンドゥーノフ公衆浴場の「ムーア人風」の水泳プールに浮かべた模型が使用された[5]

ポチョムキンの叛乱とその映画は、オランダ1933年に発生したデ・ゼーヴェン・プロヴィンシェンの叛乱事件に影響を与えた。この叛乱に参加した水兵らは、彼らが映画『戦艦ポチョムキン』から影響を受けたと証言している[6]

このほか、イギリスの歴史家作家リチャード・ハフによるドキュメンタリー小説"The Potemkin Mutiny"が、1961年英語で出版されている。日本語訳は由良君美による『戦艦ポチョムキンの反乱』で、1962年12月に筑摩書房の『世界ノンフィクション全集37』で初出、その後2003年10月に講談社学術文庫から文庫本として出版されている。

ギャラリー[編集]

記念物[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 当時のユリウス暦による。現代のグレゴリオ暦では6月27日
  2. ^ ロシア語名のアファナーシイ・マチュシェーンコでも知られる。
  3. ^ a b 日本語表記については、セルゲイ・M・エイゼンシュテイン著、エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳『エイゼンシュテイン全集 第1部人生におけるわが芸術 第2巻 戦艦ポチョムキン』キネマ旬報社、1974年参照。
  4. ^ 日本語表記については、江口朴郎、野原四郎、林基監訳『ソビエト科学アカデミー版 世界史 近代9』商工出版社、1963年、p.428参照。
  5. ^ リチャード・ハフ著、由良君美訳『戦艦ポチョムキンの反乱』講談社、2003年で「軽巡洋艦」としているのは誤り。
  6. ^ 日本語表記については、ポクローフスキイ著、岡田宗司訳『ロシヤ史』学芸社、1936年、p.419「『ポチョムキン』を『パンテレイモン』と改名した」のくだりを参照。ポクロフスキー著、岡田宗司監訳『ロシア史』勁草書房、1976年、p.251でも同様。リチャード・ハフ著、由良君美訳『戦艦ポチョムキンの反乱』講談社、2003年の訳と解説は誤り。聖人の名前なので、平民を馬鹿にしたものなどではまったくない。
  7. ^ セルゲイ・M・エイゼンシュテイン著、エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳『エイゼンシュテイン全集 第1部人生におけるわが芸術 第2巻 戦艦ポチョムキン』キネマ旬報社、1974年、p.307では聖パンテレイモンとしている。
  8. ^ 聖人に敬意を表して聖パンテレイモンスヴャトイ・パンテレイモンСвятой Пантелеймонスヴィトーイ・パンチリェーイマン)としばしば呼ばれるが、ロシア連邦海軍黒海艦隊によれば、これは正式な名称ではない。
  9. ^ あるいはモスクワ大公国とも。
  10. ^ およそ19 km。
  11. ^ ヤウズ・スルタン・セリムの乗員や指揮は事実上ドイツ軍のものであると考えられていたため、ロシアではこの艦のドイツ名であるゲーベンで通していた。
  12. ^ 当時のユリウス暦による。現代のグレゴリオ暦では4月13日
  13. ^ 日本語表記については、ポクロフスキー著、岡田宗司監訳『ロシア史』勁草書房、1976年参照。
  14. ^ 当時のユリウス暦による。現代のグレゴリオ暦では5月11日
  15. ^ 日本語表記については、稲子恒夫編著『ロシアの20世紀』東洋書店、2007年、p.106参照。セルゲイ・M・エイゼンシュテイン著、エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳『エイゼンシュテイン全集 第1部人生におけるわが芸術 第2巻 戦艦ポチョムキン』キネマ旬報社、1974年、p.307では自由を目ざす闘士としている。
  16. ^ ロシア語名の片仮名翻訳ボレーヅ・ザ・スヴォボードゥとも。
  17. ^ ウクライナ語名の片仮名翻訳ボレーヅィ・ザ・スヴォボードゥとも。
  18. ^ 当時のユリウス暦による。現代のグレゴリオ暦では12月29日
  19. ^ この布告は『レーニン全集』に入っているが、レフ・トロツキーの起草であることが明らかになっている。
  20. ^ 当時、ウクライナ国海軍には活動中の戦列艦ヴォーリャのほかに、建造中のソボールナ・ウクライナと修理中のインペラトルィーツャ・マリーヤがあった。

艦名について[編集]

  1. ^ 艦名の日本語文献における表記は、次のような状況。
    ポチョムキン・タヴリーチェスキー公
    江口朴郎野原四郎林基監訳『ソビエト科学アカデミー版 世界史 近代9』商工出版社1963年、p.427-428
    田中陽児倉持俊一和田春樹編『世界歴史大系 ロシア史2』山川出版社1994年
    ポチョムキン・タヴリーチェスキー公爵
    ポクロフスキー著、岡田宗司監訳『ロシア史』勁草書房1976年、p.244
    ポチョムキン・タヴリチェスキー公爵
    セルゲイ・M・エイゼンシュテイン著、エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳『エイゼンシュテイン全集 第1部人生におけるわが芸術 第2巻 戦艦ポチョムキン』キネマ旬報社1974年、p.4、5(脚注解説)、67、303、304、308(p.303、304、308は山田和夫著の「解説」章)
    リチャード・ハフ著、由良君美訳『戦艦ポチョムキンの反乱』講談社2003年
    ポチョムキン・タヴリチェスキー公
    セルゲイ・M・エイゼンシュテイン著、エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳『エイゼンシュテイン全集 第1部人生におけるわが芸術 第2巻 戦艦ポチョムキン』キネマ旬報社、1974年、p.306
    ポチョムキン公
    ポクローフスキイ著、岡田宗司訳『ロシヤ史』学芸社1936年、p.418
    ポチョムキン公爵
    ポクロフスキー著、岡田宗司監訳『ロシア史』勁草書房、1976年、p.250
    ポチョムキン・タヴリーチェスキー
    ポクロフスキー著、岡田宗司監訳『ロシア史』勁草書房、1976年、p.240
    クニャージ・ポチョムキン・タウリチェスキー
    阿部安雄著「ロシア/ソビエト戦艦建造史」『世界の艦船』459号、1992年海人社、p.119
    筑土龍男著「ロシア/ソビエト戦艦の技術的特長」『世界の艦船』459号、1992年、海人社、p.129
    クニャージ・ポチョムキン
    富岡定俊編、財団法人資料調査会著『ロシア大革命史4 第一次革命より第一次大戦へ』ロシア大革命史刊行会、1958年、p.43
    クニャージ・ポチョムキン・タブリチャスキー
    富岡定俊編、財団法人資料調査会著『ロシア大革命史4 第一次革命より第一次大戦へ』ロシア大革命史刊行会、1958年、p.43。「チャ」は誤り。
    クニャーズ・ポチョムキン・タブリチャスキー
    富岡定俊編、財団法人資料調査会著『ロシア大革命史4 第一次革命より第一次大戦へ』ロシア大革命史刊行会、1958年、p.44。「ズ」と「チャ」は誤り。
    ポチョムキン
    和田春樹編『新版世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
    ポクローフスキイ著、岡田宗司訳『ロシヤ史』学芸社、1936年
    外川継男著『世界の歴史18 ロシアとソ連邦』講談社、1978年、p.289-290
    倉持俊一著『世界現代史29 ヨーロッパ地域』山川出版社、1980年、p.127
    和田春樹著『ヒストリカル・ガイド ロシア』山川出版社、2001年、p.126
    川端香男里ほか監修『ロシアを知る事典』平凡社2004年、p.820
    秋山信雄著「ロシア/ソビエト戦艦はいかに戦ったか」『世界の艦船』459号、1992年、海人社、p.137
    京大西洋史辞典編纂会編『新編西洋史辞典 改訂増補版』東京創元社1993年
    芳賀登編集代表『世界歴史大事典18』教育出版センター1995年(項目の執筆者:[[木崎良平 (歴史学者)|]])
    筑紫哲也監修、角川書店編集部編集『Ourtimes20世紀』角川書店・日米共同出版1998年、p.67
    『20世紀年表』毎日新聞社1997年、p.97
    樺山紘一ほか編集委員『クロニック世界全史』講談社、1994年
    『二十世紀2 古き良きヨーロッパ』中央公論社1977年、p.259
    土肥恒之著『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年、p.293
    梅田良忠岩間徹編集担当『図説世界文化史大系12 東欧・ロシア』角川書店、1959年、p.279
    『世界歴史大系12』1957年、p.82
    岩間徹編『世界各国史4 ロシア史』山川出版社、1979年、p.399-400
    ほか多数
    ここまで、いずれの書籍においても略称である「ポチョムキン」は見られる。
    ポチョームキン=タヴリチェスキー公爵
    イ=ア=フェドーソフ著、倉持俊一、加藤雅子訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ20 ソヴィエト連邦 その人々の歴史II』、p.65
    ポチョームキン
    稲子恒夫編著『ロシアの20世紀』東洋書店、2007年、初版、p.35、p.106。ロシア語のアクセント位置を長音符で表すべき旨、はしがき『人名と地名』(p.7)にて述べたうえで、長音符を用いている。
    コンスタンチン=タルノフスキイ著、倉持俊一、加藤一郎訳『図説 ソ連の歴史』山川出版社、1982年、p.62-63
    イ=ア=フェドーソフ著、倉持俊一、加藤雅子訳『全訳世界の歴史教科書シリーズ20 ソヴィエト連邦 その人々の歴史II』、p.65

出典[編集]

  1. ^ 稲子恒夫編著『ロシアの20世紀』東洋書店、2007年、p.106参照。
  2. ^ "Ivan Beshoff, Last Survivor of Mutiny on the Potemkin", New York Times, October 28, 1987
  3. ^ セルゲイ・M・エイゼンシュテイン著、エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳『エイゼンシュテイン全集 第1部人生におけるわが芸術 第2巻 戦艦ポチョムキン』キネマ旬報社、1974年、p.82参照。
  4. ^ セルゲイ・M・エイゼンシュテイン著、エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳『エイゼンシュテイン全集 第1部人生におけるわが芸術 第2巻 戦艦ポチョムキン』キネマ旬報社、1974年、p.112参照。
  5. ^ セルゲイ・M・エイゼンシュテイン著、エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳「十二使徒号」『エイゼンシュテイン全集 第1部人生におけるわが芸術 第2巻 戦艦ポチョムキン』キネマ旬報社、1974年、p.22-79。論文自体は1945年に書かれたもの。
  6. ^ セルゲイ・M・エイゼンシュテイン著、エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳『エイゼンシュテイン全集 第1部人生におけるわが芸術 第2巻 戦艦ポチョムキン』キネマ旬報社、1974年参照。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]