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ウクライナ化

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ソビエト赤軍によるウクライナ語のポスター: 「息子よ、赤軍の将校の学校へ入学しなさい! そうしてくれると、ソビエトのウクライナは安泰じゃ!」

ウクライナ化(ウクライナか、ウクライナ語: українізація: украинизация)は、生活の諸分野におけるウクライナの言語と文化の諸要素を政治的に促進し実現するものである。とりわけ1923年から1933年にかけてウクライナ・ソビエト社会主義共和国においてソ連政府およびソ連共産党が行った公式の民族政策をいい、1923年4月のロシア共産党(ボ)第12回大会で決定され、全ソビエト連邦の非ロシア自治共和国におけるコレニザツィヤロシア語版政策(露: коренизация、現地化政策[1][2][3]根付く政策)キャンペーンの一環であった[4][5]。政策の目的は、ソ連政権とウクライナ人との間の摩擦を和らげ、軍事的支配のみならず、効果的な政治的支配および行政的支配を確定することにあった。政策の方法は、ウクライナ語の教育および出版物の普及、共産党や赤軍へのウクライナ人の採用などであった[6]。1991年以降は、独立ウクライナ当局の政策を指す。

イデオロギー的背景

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「ウクライナ化」という言葉は、1907年にミハイル・フルシェフスキーによって提唱された[7]。ソビエト・ロシアでは当初、ウクライナ化は自然な歴史的過程と見なされていた。ヨシフ・スターリンは、ウクライナ語を話す村に囲まれたロシア語を話す町はウクライナ化する運命にあると考えた。1921年3月のロシア共産党(ボ)第10回大会での演説で、スターリンは次のように述べている。

「ウクライナの都市でロシア人要素が依然として優勢であれば、これらの都市が時間の経過とともに必然的にウクライナ化することは明らかである。約40年前、リガはドイツの都市だった。しかし、都市は村を犠牲にして発展し、村は国籍の保持者であるため、リガは現在、純粋なラトビアの都市となっている。約50年前、ハンガリーのすべての町はドイツ的な性格を持っていたが、今ではマジャール化している。ウクライナの都市についても同じことが言える。都市は村を犠牲にして発展してきたのだから、ロシア的な性格を持つ都市はウクライナ化していくだろう。村はウクライナ語の保持者であり、ウクライナのすべての都市に支配的な要素として入り込むだろう」。

1917年-1919年

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1917年7月18日付「キエフリアニンロシア語版ウクライナ語版」紙170号に掲載された、国家議会議員ヴァシリー・ヴィタリエヴィチ・シュルギンロシア語版ウクライナ語版の抗議。

ロシアの二月革命の影響を受け、ウクライナ民族主義運動が勃興。ウクライナ中央ラーダが設立され、ウクライナ化を支持するミハイロ・フルシェフスキーが率いるウクライナ人民共和国が宣言された。1917年3月18日には、キエフにシェフチェンコの名を冠した最初のウクライナ人体育館が開設された。同年4月と8月には全ウクライナ教員大会が開催され、参加者は学校教育のウクライナ化を要求した[8]。1917年には合計で215のウクライナ語学校が開校し、747タイトルのウクライナ語の書籍が出版され、106のウクライナ語の定期刊行物が発行された[8]。ウクライナ語化の問題は、ヘトマン政権下のウクライナでさらに活発に議論されるようになり、ウクライナ語が国語と宣言され、軍部隊ではすべての公式の通信をウクライナ語で行うことが命じられ、公式の時間に通信従事者がウクライナ語を使用することだけが許可された[8]。1918年8月から9月にかけて、ヘトマン当局はすべての中等一般学校と職業学校、精神的・教師的な神学校と研究所において、ウクライナ語と文学、ウクライナの歴史と地理を必修とすることを規定した[9]。1918年9月、ロシアの大学(キエフの聖ウラジーミル大学、ハリコフとノヴォロシースク、エカテリノスラフ鉱業大学、ハリコフ工科獣医大学、キエフ工科大学)がウクライナの国立大学と宣言された[9]。1918年には212の定期刊行物と1084の書籍がウクライナ語で出版された[10]。ウクライナ語学科やウクライナ国立劇場が出現した[10]。ウクライナ語化は知識層からの多くの抗議を引き起こした[10]。1918年12月、新たに設立されたウクライナ科学アカデミーの著作はウクライナ語で出版され、任意でフランス語、ドイツ語、英語、イタリア語、ラテン語でも同時に出版されることが定められた[11]

ウクライナ語化はディレクトーリヤによって続けられた。すでに1919年1月1日には、すべての政府機関および公的機関においてウクライナ語の使用が義務付けられていた[12]。同年1月30日には、ウクライナ語が共和国のすべての学校における教育言語として正式に宣言された[13]。ウクライナ語への移行は1919年7月1日までに完了することになっていた[14]。1919年2月5日にはすでにボリシェヴィキがキエフに進駐していたため、これらの変革を実施することは不可能であった。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国が宣言され、「上からの」ウクライナ語化は実際に中断された。1919年3月、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国人民委員部は国語を取り消し、言語の平等を宣言し、義務教育科目をウクライナの歴史と現地の言語のひとつとすることを条件に、教育言語を決定する「現地住民の権利」を与えた[15]

会計士がウクライナ語の試験に合格したことを示す証明書( (Посвідка)。1928年、キエフ州。文面:「ウクライナ化は町と村を一つにする」、「ウクライナ語の知識は完全なウクライナ化への第一歩に過ぎない」。受取人の姓もウクライナ化されている。

1920年以降、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国のボリシェヴィキは共和国レベルでのウクライナ化を開始した。1920年5月4日。ウクライナ教育人民委員部は「ウクライナ語による義務教育を伴う教育労働者の訓練に関する」法令を採択した。

1923年-1933年

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ソビエトの政権がウクライナで確立した1921年以後、ロシア人ユダヤ人を中心としたウクライナ共産党の幹部はロシア化を促進していた[16]ロシア語は都市を拠点とする「先進的な労働者階級」の言語として重視され、ウクライナ語は町村を頼る「後退的な農民階級」の言語として迫害された。当時のウクライナの人口の8割が農村部に住んでおり、またウクライナの農村が常に反ソビエトの蜂起の中心であったので、ロシア化政策を巡ってウクライナ人と共産党関係者は対立していた。そのために、ウクライナ共産党にはウクライナ人が非常に少なく、党員には3割、幹部には1割弱しかいなかった[16]

1919年にウクライナでの支配を確実なものにするために、レーニンを中心としたモスクワの政府は、ウクライナ人に対する柔軟策を義務付ける「ウクライナにおけるソビエト政権について」という指令を出したが、ウクライナ共産党の幹部はその指令に反発し、実行に移さなかった。また、1923年にソ連政府がコレニザツィヤロシア語版政策を定めた後も、ウクライナの幹部はロシア化を進めていった[17]。しかし、1925年にウクライナ共産党第一書記スターリンの子分ラーザリ・カガノーヴィチが任命されると、状態一変し、ウクライナ化が始まった。スターリンとカガノーヴィチの努力により、ウクライナ共産党幹部にシュームシキー、フヴィリョヴィーイ、スクルィープヌィクをはじめとするウクライナ人の政治家が入った。彼らは民族共産主義グループと呼ばれ、ウクライナ民族文化の発展のためにウクライナ化政策を有効的に利用した[18]

1923年から1927年にかけてウクライナ化政策により、ウクライナ共産党のウクライナ人の党員は3割から5割まで増加した。しかし、幹部にはウクライナ人が以前と同様に少なく、2.5割しかいなかった。1927年までにウクライナ共和国にあった5分の4の大学は、ウクライナ語を講義用言語とし、共和国内で出版されるウクライナ語の書物と新聞の数はロシア語の書物と新聞の数を上回った。スクリープニクの決断により、ウクライナ語は赤軍の将兵学校の一部に授業用言語として導入された。ウクライナ人の大きな居住地があるクバーニカザフスタンなどでもウクライナ語学校が開校され、ウクライナ語のマスコミに対し活躍の場が与えられた[18][16]

1920年代後半にウクライナ化政策は、ウクライナ文化の再生する一方で、ソ連の中央集権政府が望んでいなかった地方分権化を促した。そのためにウクライナ化政策に不満を表明する共産党幹部の一部は、ウクライナ化の指導を「分離主義者」・「民族主義者」と非難し、党内でウクライナ化の廃止キャンペーンの準備を進めた。1927年以降、カガノーヴィチの推薦によりウクライナ化の規模が次第に縮小されるようになり、ウクライナ共産党は「ウクライナの資本主義的な民族主義」との戦いが開始した。1932年にソ連政府のスターリンとモロトフは、ウクライナ化を「ペトリューラ主義者の政策」、「ウクライナ民族主義的偏向」として批判し[16]、1933年にウクライナ化政策を完全に廃止し、ロシア化を再開した。ウクライナ民族共産主義ゲループの指導者は自害に追い込まれ、ウクライナ化によって芽生えたウクライナの新知識人逮捕粛清されていった[16][19]

1920年代のウクライナ化政策に関してヤロスラフ・フリツァーク(Yaroslav Hrytsak[20]リヴィウ国立大学歴史研究所長[21]Narys istorii Ukrainy: Formuvannia modernoi ukrains'koi natsii: XIX-XX stolittiaキエフ: Heneza, 1996年)においては力強いウクライナ民族運動の成果が一面として叙述されている[22]

1940年代

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1991年以降

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脚注

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  1. ^ (日本語) 塩川伸明ソ連言語政策史再考」『スラヴ研究』第46号、北海道大学スラブ研究センター、1999年、155-190頁、ISSN 05626579NAID 120001442886 
  2. ^ 1. ソ連言語政策史概観 (2) ソヴェト政権初期" p.162
  3. ^ 「スラヴ研究 : [495]」『スラヴ研究』、北海道大学スラブ研究センター、1999年、155-190頁。 
  4. ^ В. М. Даниленко, Я. В. Верменич, П. М. Бондарчук, Л. В. Гриневич, О. О. Ковальчук, В. В. Масненко, В. М. Чумак (2003). «Українізація» 1920-30-х років: передумови, здобутки, уроки (PDF) (150 экз ed.). Template:К: Інститут історії України НАН України. За ред. В. А. Смолія. ISBN 966-02-2897-X
  5. ^ И. Ю. Васильев (2014). "Украинизация vs коренизация. Специфика программы". Изд-во ЮНЦ РАН. 2014. С.: 185–190. {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明)
  6. ^ 中井 1998:314-315.
  7. ^ Борисёнок Е. Ю. Концепции «украинизации» и их реализация в национальной политике в государствах восточноевропейского региона (1918‒1941 гг.). Диссертация на соискание ученой степени доктора исторических наук. — М., 2015. — С. 27. Режим доступа: http://www.inslav.ru/sobytiya/zashhity-dissertaczij/2181-2015-borisenok アーカイブ 2016年3月6日 - ウェイバックマシン
  8. ^ a b c Борисёнок Е. Ю. Концепции «украинизации» и их реализация в национальной политике в государствах восточноевропейского региона (1918‒1941 гг.). Диссертация на соискание ученой степени доктора исторических наук. — М., 2015. — С. 27. Режим доступа: http://www.inslav.ru/sobytiya/zashhity-dissertaczij/2181-2015-borisenok アーカイブ 2016年3月6日 - ウェイバックマシン
  9. ^ a b Борисёнок Е. Ю. Концепции «украинизации» и их реализация в национальной политике в государствах восточноевропейского региона (1918‒1941 гг.). Диссертация на соискание ученой степени доктора исторических наук. — М., 2015. — С. 164. Режим доступа: http://www.inslav.ru/sobytiya/zashhity-dissertaczij/2181-2015-borisenok アーカイブ 2016年3月6日 - ウェイバックマシン
  10. ^ a b c Борисёнок Е. Ю. Концепции «украинизации» и их реализация в национальной политике в государствах восточноевропейского региона (1918‒1941 гг.). Диссертация на соискание ученой степени доктора исторических наук. — М., 2015. — С. 165. Режим доступа: http://www.inslav.ru/sobytiya/zashhity-dissertaczij/2181-2015-borisenok アーカイブ 2016年3月6日 - ウェイバックマシン
  11. ^ Борисёнок Е. Ю. Концепции «украинизации» и их реализация в национальной политике в государствах восточноевропейского региона (1918‒1941 гг.). Диссертация на соискание ученой степени доктора исторических наук. — М., 2015. — С. 171. Режим доступа: http://www.inslav.ru/sobytiya/zashhity-dissertaczij/2181-2015-borisenok アーカイブ 2016年3月6日 - ウェイバックマシン
  12. ^ Борисёнок Е. Ю. Концепции «украинизации» и их реализация в национальной политике в государствах восточноевропейского региона (1918‒1941 гг.). Диссертация на соискание ученой степени доктора исторических наук. — М., 2015. — С. 182. Режим доступа: http://www.inslav.ru/sobytiya/zashhity-dissertaczij/2181-2015-borisenok アーカイブ 2016年3月6日 - ウェイバックマシン
  13. ^ Борисёнок Е. Ю. Концепции «украинизации» и их реализация в национальной политике в государствах восточноевропейского региона (1918‒1941 гг.). Диссертация на соискание ученой степени доктора исторических наук. — М., 2015. — С. 182. Режим доступа: http://www.inslav.ru/sobytiya/zashhity-dissertaczij/2181-2015-borisenok アーカイブ 2016年3月6日 - ウェイバックマシン
  14. ^ Борисёнок Е. Ю. Концепции «украинизации» и их реализация в национальной политике в государствах восточноевропейского региона (1918‒1941 гг.). Диссертация на соискание ученой степени доктора исторических наук. — М., 2015. — С. 182—183. Режим доступа: http://www.inslav.ru/sobytiya/zashhity-dissertaczij/2181-2015-borisenok アーカイブ 2016年3月6日 - ウェイバックマシン
  15. ^ Борисёнок Е. Ю. Концепции «украинизации» и их реализация в национальной политике в государствах восточноевропейского региона (1918‒1941 гг.). Диссертация на соискание ученой степени доктора исторических наук. — М., 2015. — С. 185—186. Режим доступа: http://www.inslav.ru/sobytiya/zashhity-dissertaczij/2181-2015-borisenok アーカイブ 2016年3月6日 - ウェイバックマシン
  16. ^ a b c d e Підкова 1993
  17. ^ 中井 1998:316-317.
  18. ^ a b 中井 1998:317.
  19. ^ 中井 1998:317-318.
  20. ^ またはIaroslav/Jaroslav Hrytsak/Hrycak。
  21. ^ 1996年時点の役職。
  22. ^ (日本語) 光吉淑江ヤロスラフ・フリツァーク著『ウクライナ史概略―近代ウクライナ民族の形成―』」『スラヴ研究』第46号、北海道大学スラブ研究センター、1999年、277-285頁、ISSN 0562-6579NAID 120001442890 

参考文献

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ウクライナ語

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ロシア語

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発展資料

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関連項目

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外部リンク

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