テルアビブ空港乱射事件
テルアビブ空港乱射事件 | |
---|---|
![]() 現在の空港ターミナル | |
場所 |
![]() |
標的 | 民間人 |
日付 | 1972年5月30日 |
攻撃手段 | 自動小銃による乱射 |
攻撃側人数 | 3 |
武器 | Vz 58自動小銃、手榴弾 |
死亡者 | 26 |
負傷者 | 73 |
犯人 | PFLPの協力を受けたアラブ赤軍(奥平剛士、安田安之、岡本公三) |
動機 | パレスチナ問題 |
対処 | 奥平・安田は死亡、岡本は逮捕 |
テルアビブ空港乱射事件(テルアビブくうこうらんしゃじけん)は、1972年5月30日にイスラエルのテルアビブ近郊都市ロッドに所在するロッド国際空港(現:ベン・グリオン国際空港)で発生した、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)が計画し、アラブ赤軍(後の日本赤軍)3名が実行したテロ事件。別名はロッド空港乱射事件、リッダ闘争(リッダはロッドの現地読み[1])など。
事件の経緯[編集]
サベナ機ハイジャックの失敗[編集]
1972年5月8日に、パレスチナ過激派テロリスト4人が、ベルギーのブリュッセル発テルアビブ行きのサベナ航空のボーイング707型機をハイジャックしてロッド国際空港に着陸させ、逮捕されている仲間317人の解放をイスラエル政府に要求した(サベナ航空572便ハイジャック事件)。しかし、イスラエル政府はテロリストによる要求を拒否し、ハイジャックしているテロリストを制圧し、犯人の内2人は射殺され、残る2人も逮捕された。93人の人質の解放に成功したものの、乗客1人が銃撃戦で死亡した。
PFLPと赤軍派の協力[編集]
そこで、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は「報復」としてイスラエルのロッド国際空港を襲撃することを計画した。だが、アラブ人ではロッド国際空港の厳重警戒を潜り抜けるのは困難と予想されたため、PFLPは赤軍派の奥平に協力を依頼し、日本人によるロッド国際空港の襲撃が行われた。
なお本事件は一般に「日本赤軍による事件」と呼ばれることが多い。しかし、正確には「日本赤軍の前史」ともいえるが、日本人グループはPFLPへの国際義勇兵として参加したもので、当時は独立した組織との認識は共有されていなかった。自称も「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」等であり、「日本赤軍」との呼称が登場するのは事件発生後で、組織としての公式な名称変更は1974年である。
襲撃[編集]
犯行を実行したのは、赤軍派幹部の奥平剛士(当時27歳)と、京都大学の学生だった安田安之(当時25歳)、鹿児島大学の学生だった岡本公三(当時25歳)の3名である[2]。
フランスのパリ発ローマ経由のエールフランス機でロッド国際空港に着いた3人は、スーツケースから取り出したVz 58自動小銃を旅客ターミナル内の乗降客や空港内の警備隊に向けて無差別に乱射した[2]。
乱射後の岡本の動きについて、1972年7月11日に開かれた軍事法廷の検察側証人(岡本を最初に取り押さえたイスラエル航空職員)の供述によれば、岡本は飛行場に飛び出すとイスラエル航空機に向けて自動小銃を数発発射、続いてスカンジナビア航空機のエンジンに手榴弾2発を投げつけた後、畑の方向へ走って逃走を始めた。200-300m逃げたところで証人が追いつき拘束に至った[3]。
岡本が拘束された一方、奥平と安田は死亡した。2人の死について、「奥平は警備隊の反撃で射殺。安田は手榴弾で自爆した」として中東の過激派の間では英雄化されたが[4][5]、詳しくは判明していない[6][7]。
なお、計画に携わっていたとされる檜森孝雄の手記によると「当初の計画では空港の管制塔を襲撃する予定だった」としているが、警備が厳重な管制塔を3人だけでどのように襲撃するつもりだったのかなど具体的な計画は不明である[8]。
被害者[編集]
この無差別乱射により、乗降客を中心に26人が殺害され[9]、73人が重軽傷を負った。死傷者の約8割が巡礼目的で訪れたプエルトリコ人であった[2]。死者のうち17人がプエルトリコ人(アメリカ国籍)、8人がイスラエル人、1人はカナダ人であった。犠牲者の中には、後にイスラエルの大統領となるエフライム・カツィールの兄で著名な科学者だったアーロン・カツィールも含まれている。
イスラエル政府は犠牲者の遺族に対し、補償金として公務員平均月給の75%相当(当時で約120ドル)を終身または再婚するまで支払うこととした。これはイスラエル兵が戦闘で死亡した場合の遺族への補償基準に沿ったものである[10]。
事件後[編集]
赤軍への国際的非難と日本での影響[編集]
当時は、テロリストが無差別に一般市民を襲撃することは前代未聞であり、事件は衝撃的なニュースとして全世界に伝えられた。赤軍による民間人への無差別虐殺には国際的な非難が起こった。一方でイスラエルと敵対するパレスチナの一部の民衆の間で実行犯たちは英雄視され、PFLPは赤軍派幹部の重信房子と共同声明を出し、事件発生の日を「『日本赤軍』結成の日」とした[注 1]。
また、アラブ-イスラエル間の抗争にも拘らず、実行犯が両陣営とは何の関係もない日本人であったことも、世界に衝撃を与えた。日本政府は、実行犯が自国民であったことを受けて、襲撃事件に関して謝罪の意をイスラエル政府に公的に表明するとともに、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払った[11]。
日本国内でも、その年の3月に発覚した連合赤軍による山岳ベース事件に続く極左テロ組織の凶行として、日本国民に強く印象に残り、凶行を繰り広げる極左過激派と日本国民との隔絶がさらに広がる事件となった。また、この事件において、武器を手荷物で簡単に持ち込むことができたことから、この事件以降、搭乗時の手荷物検査が世界的に強化されたほか、空港ターミナル内における警備も世界各国で強化されることとなった。
事件は、パレスチナ・ゲリラを始めとするイスラム武装組織の戦術にも大きな影響を与えたと言われる。奥平らが初めから生還の望みがない自殺的攻撃を仕掛けた事はイスラム教の教義で自殺を禁じられていた当時のアラブ人にとっては衝撃的であり、以降のイスラム過激派が自爆テロをジハードであると解釈するのに影響を与えたとの説もある[12]。
実行犯のその後[編集]
実行犯3名のうち唯一生存した岡本公三は、日本の警察から国際指名手配中だが、政治亡命先のレバノンのアパートでPFLPからの支援を受けて生活している。
岡本はイスラエルの裁判で終身刑となり収監後、1985年にパレスチナ側との捕虜交換で釈放され、1997年にレバノンで違法滞在容疑で逮捕されたが、2000年にレバノンへの政治亡命が認められた。レバノンの情報局は亡命要請を受けて岡本の行為を国内法に照らして検討して「イスラエルに対する合法的な抵抗(レジスタンス)」と判断し、その見解を身柄引き渡しを求める日本側にも伝えたという[13]。PFLPは岡本を英雄視しており、身の回りの世話など支援を続けている。レバノンにはパレスチナ難民とその子孫が45万人暮らし、反イスラエル感情は現在も高い。岡本は2022年5月30日に首都ベイルートで開催された事件発生から50年の記念式典に支援者に付き添われて現れた。岡本は2000年に政治亡命を認めたレバノン政府から政治活動などを制限されているため、公に姿を現すことは極めて異例だが、発言する場面はなかった[13]。
追悼行為等[編集]
事件後、日本政府はイスラエルに特使を派遣。佐藤栄作首相署名の哀悼と支援の意を記した手紙を託した。岡本の父親もイスラエルのゴルダ・メイア首相に謝罪の手紙を送った。駐イスラエル日本大使は病院に入院した負傷者を見舞った。21世紀に入ってもなお、多くの犠牲者の出身国であるプエルトリコでは毎年追悼式が行われている[14]。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ ただし組織としての公式な「日本赤軍」結成は1974年以降。
出典[編集]
- ^ 日本赤軍 - 公安調査庁
- ^ a b c 高山文彦. “奥平剛士の「愛と革命」リッダ!〈第一部〉”. G2. 講談社. pp. p. 4. 2010年3月1日閲覧。
- ^ 「飛びかかり首を絞めた 岡本逮捕の状況で証言」『朝日新聞』昭和47年(1972年)7月11日夕刊、3版、9面
- ^ 立花隆『イラク戦争・日本の運命・小泉の運命』講談社、2004年
- ^ フランソワ=ベルナール・ユイグ『テロリズムの歴史』創元社、2013
- ^ 高山文彦. “奥平剛士の「愛と革命」リッダ!〈第一部〉”. G2. 講談社. pp. p. 6. 2010年3月1日閲覧。
- ^ 高山文彦. “奥平剛士の「愛と革命」リッダ!〈第一部〉”. G2. 講談社. pp. p. 7. 2010年3月1日閲覧。
- ^ 高山文彦. “奥平剛士の「愛と革命」リッダ!〈第一部〉”. G2. 講談社. pp. p. 9. 2010年3月1日閲覧。
- ^ 警察庁編 編「第7章 公安の維持」 『昭和48年 警察白書』警察庁 (原著1973年) 。2010年3月1日閲覧。
- ^ 「犠牲者遺族に補償金 イスラエル当局が方針」『朝日新聞』昭和47年6月7日.3面
- ^ 『死へのイデオロギー』パトリシア・スタインホフ、岩波書店、2003年(平成15年)10月16日、p1-p52
- ^ 立花隆「自爆テロの研究」 文藝春秋 2001年11月特別号 103-104頁
- ^ a b “岡本公三容疑者、姿現す 元日本赤軍、空港乱射事件を実行 亡命先レバノンで事件50年の集会”. 朝日新聞デジタル
- ^ “イスラエルから見た「日本赤軍」の謎 50年前の空港乱射事件、イスラエル人はどう受け止めたのか”. AERA.dot (2022年6月17日). 2022年6月17日閲覧。