オットー・シュトラッサー

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オットー・シュトラッサー。1950年代、西ドイツにて

オットー・ヨハン・マクシミリアン・シュトラッサーOtto Johann Maximilian Strasser1897年9月10日1974年8月27日)は、ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党所属。実兄グレゴール・シュトラッサーと共にナチス左派を代表する人物として知られる。

生涯[編集]

ドイツ帝国領邦バイエルン王国バート・ヴィンツハイム出身。第一次世界大戦に従軍した後は義勇軍(フライコール)に参加し、社会主義者達が建国したバイエルン・ソビエト共和国Bayerische Räterepublik)の打倒闘争に参加した。後の著書『Flight from Terror』でオットーはアドルフ・ヒトラーが自分の討伐したこのソビエト共和国側に居たと主張してる。同時期にドイツ社会民主党へ入党し、1920年にはカップ一揆への反対闘争に参加した。しかし急進派のオットーは、ルール地方の労働者暴動を抑圧しようとするSPDの姿を見て反感を持つようになりSPDを離党。1925年にグレゴールが身を置いていたナチ党へ入党した。また新聞でジャーナリストとして働いた。

ナチ党時代[編集]

ベルリンをはじめとする北ドイツで、グレゴールや自身が入党を認めたヨーゼフ・ゲッベルスとともにナチス左派の代表格となり、社会主義的な経済政策やソビエト連邦との接近を主張し、ヒトラーやヘルマン・エッサーのミュンヘン党本部と敵対した。特に革命路線を持ち続けていたオットーは、合法選挙活動路線に転じていたヒトラーと激しく対立することになった。 1926年1月24日、ハノーファー管区指導者で高等学校の教員をしていたベルンハルト・ルストの家でナチス左派の指導者達が集まった。ヒトラーの名代として派遣されたゴットフリート・フェーダーの出席は彼らの怒りを買ったが、かろうじて出席を認められた。 出席者は、グレゴール、オットー、ゲッベルス、ルストの他、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン管区指導者のヒンリヒ・ローゼブランデンブルク管区指導者のホルツ、ベルリン管区指導者シュランゲ、ポムメルン管区指導者ヴァーレン教授、 ブラウンシュヴァイク 管区指導者クラゲスシュレージェン管区指導者ロージーカート、ラインラント管区指導者カール・カウフマン、ラインラント南管区指導者ロベルト・ライ、ルール管区指導者エーリヒ・コッホ、メクレンブルク管区指導者ヒルデブラントら24名だった。

フェーダーとライを除く全員は、かねがねシュトラッサー兄弟の草案に賛成し、ミュンヘン・ナチの牛耳る「エーア出版社」から独立した出版社を起こすことに同意した。 この会議で特に座を興奮させたのは、当時の政界の問題のひとつだった旧諸侯財産補償の問題だった。当初、旧諸侯の財産は一時凍結されていたが、私有権を歌ったワイマール憲法第53条の関係で没収されず、その解決処置は個々の州政府や自治体とそれぞれの諸侯との話し合いにまかせられていた。旧諸侯財問題に完全な形で決着をつけるには、26億マルクを必要とするものであり、KPDSPDは財産没収の国民投票を要求していたが、ヒトラーを含むブルジョア諸政党はこれに反対していた。しかし、ナチス左派は、ミュンヘン・ナチとは違い財産の無償没収を主張していた。 オットーは「我々と諸侯の補償」なる一文を掲載し、「旧諸侯の法外な要求を断固拒否する以外にはあり得ない」とし、「私益に対する公益(Gemeinnutz vor Eigennutz)」の大原則の下、旧諸侯に対し州首相程度の終身年金(家族とその子孫は対象外)、旧皇帝に対し大統領程度の終身年金を認める以外の「一切のものは国家に帰属する」ことを主張していた。 私有性を擁護し財産無償没収に反対するミュンヘン・ナチの意向がハノーファー会議の席上で伝えられるや、座は興奮し、彼らはこもごも立って主流派を非難しはじめた。 オットー「反動を倒せ」 コッホ「資本家の手先め」 ヒルデブラント「諸侯の犬め」 ルスト「国民社会主義者は自由にして民主的である。それは完璧性を主張するような法王を全く必要としない。ヒトラーは勝手に行動すればい、しかし、我々は我々の良心に従い行動するであろう。」 後にグレゴールを裏切るゲッベルスも、この頃はナチス左派のパリパリだった。 「馬鹿者フェーダーを部屋から追い出せ!私はヒトラー氏の党からの除名を提案する。」 だがヒトラーを御し得るとみたグレゴールは 「諸君はヒトラーが党首であることを忘れている、我々の要求に対してヒトラー氏の注意を喚起させよう。」 こうして無償財産没収の件はライを除く出席者全員の賛同を得るようになり、ハノーファー会議は決議された。

ミュンヘン・ナチに対する彼らの不満は以下のようなものを背景としていた 「シュトライヒャーやエッサーのごとき二人の性的偏執狂は、いぜんとして心から新生ドイツを望んでいた人々にただ不信の目を向けるのみだった。 彼らは最悪のデマゴーグだ。 クリスティアン・ヴェーバーホフマンとともに、彼らはドイツがあらゆる理由から恥としなければならぬ指導者の黒幕的とりまきのなかに数えねばならぬ」 とオットーが批判するように、彼らの批判はミュンヘン側近連中の人間的質の低俗さと横暴なその官僚制に向けられた。


闘争出版社[編集]

1926年2月14日、ヒトラーは側近シュトライヒャーの牙城バンベルクでナチ指導者会議を召集し、ハノーファー会議の非合法性を批判した。会議の結果はナチ左派の完敗だった。シュトラッサー草案の廃止、旧諸侯財産無償没収の主張撤回、ヒトラーによる全地域指導者任命権確率、党内紛争を裁く党法廷の設立とヒトラーによる法廷委員の任命、親ソ外交路線の撤回が決議された。 オットーによると、倫理観に乏しいマックス・アマンにさえ「ナチ党のメフィスト」と舌を巻かせ、権威に敏感で常に力のある方につきたがるゲッベルスは、あざやかな変身ぶりを示し、ヒトラー派に寝返った。この折、「ヒトラーさん、おかげで納得しました。我々は間違っていました。」とヒトラーにおもねったゲッベルスの姿に、グレゴールは「へどが出そうだった。」という。ヒトラーはその褒美としてシュランゲの代わりにベルリン管区指導者に任命され、1927年7月4日には、週刊誌攻撃を出してシュトラッサー兄弟と渡りあう。 しかし、ヒトラーに活動を封じられたとはいえ、グレゴールはなお党内で重きをなしていた。1926年3月 兄弟は、グレゴールがランツフートの薬局を抵当に入れて調達した資金とオットーがヘルトリングにあった会社をやめた際に得た退職金をもとに、「闘争出版社(Kampfverlag)」を設立し、ミュンヘン・ナチの息のかかった「エーア出版社」に対抗して宣伝活動を続けていた。 闘争出版社はハンマーと剣とハーケンクロイツが交差した図柄を商標としていた。闘争出版社は、さまざまの単行本の他にも、「ベルリン労働者新聞(Die Berliner Arbeiter‐Zeitung)」、「国民社会主義者(Der Nationale Sozialist)」、「ザクセン物見(Der Sächsische Beobachter)」、「マルク・ブランデンブルク物見(Der Märkische Beobachter)」、「ライン・ヴェストファーレン労働者新聞(Die Rheinisch Westfälische Arbeiter Zeitung )」、「こぶし(Die Faust)」等の週刊誌や日刊紙を次々に出し、当時のジャーナリズム界を牛耳っていたフーゲンベルク・コンツェルンに匹敵するジャーナリズム王国を打ち立てたものとして評価を受け、ナチス左派のみならず、「旧社会主義者(Altsozialisten)」、「ブント・オーバーラント」「人狼団(Wehrwolf)」、ブント青年団などの、国民革命派がその論陣を張る場を提供した。国会議員で人種派から別れてナチに鞍替えしたレーヴェントロー伯や、シュテール、モサコーフスキー、エルンスト・フォン・ザロモンの兄ブルーノー・フォン・ザロモン、ヘルベルト・ブランク、ルドルフ・ユング、らが闘争出版社に関係していた。

脱党[編集]

ヒトラーは1930年5月21日から22日にかけて7時間にわたりオットーと激論してなんとか懐柔しようとしたが、結局失敗した。この会談の失敗で、ヒトラーはオットーに与えるはずだった宣伝全国指導者職のゲッベルスへの委譲と、オットーの党除名を決意した。

1930年6月30日、ヒトラーは1926年半ば頃に自派に取り込んでいたゲッベルスに、オットーらナチス左派の党追放を命じた。7月2日、これを受けたゲッベルスはベルリン党役員会議でオットーの党除名を決議した。オットーらはクルト・ダリューゲが指揮する親衛隊につまみだされて党集会に参加出来なかった。

「我々は国民社会主義を意識的に反帝国主義運動として理解し、そのナショナリズムは、多民族や他国に対するなんらかの支配的傾向を伴うことなくドイツ国民の生活及び発展の維持と確保に限られるものである。それ故我々にとっては、国際資本主義と西欧帝国主義によって行われたロシアに対する介入戦争の否定はドイツ外交政策の必要性からも我々の理念からも生まれる自明の要求であったし、現在もそうである。」

「それ故我々は、ますます公然と介入戦争に与する党首脳部の態度を理念に反するものでありドイツ外交政策の要求からいっても有害なものであると感じた。」

「我々にとって、イギリスの支配と資本主義の搾取から逃れるインド独立闘争に共鳴することは必要であったし、現在も必要であり、この必要は被抑圧民族が搾取的略奪者に対して行うすべての闘争に対する共感から生まれると同時に、ヴェルサイユの契約力を弱体化させることが全てドイツ解放政策に有利に働くという事実からも生まれる。」

(脱党声明文「ソーシャリスト、ナチ党を去る」より抜粋)

7月4日にはオットーも新聞紙面でナチス党からの離脱を宣言した。しかし追従者は僅か24名だけであった。その後は人狼団オーバーラント団、北ドイツ 突撃隊 の最高司令官で1931年にゲッベルスと大喧嘩して彼に反乱を起こしたヴァルター・シュテネス大尉などとともに革命的国家社会主義者闘争活動共同体を創設。後に同団体は黒色戦線と改名される。グレゴールはナチ党にとどまっていたが、オットーの謀反と離脱で党内で苦しい立場に立たされ、急速に影響力を弱めていった。

亡命[編集]

ヒトラー内閣誕生後はSDの目をくぐりぬけてドイツから脱出し、オーストリアチェコフランススペインポルトガル経由でカナダへ亡命し、そこから反ヒトラー活動を行った。グレゴールはなおもドイツにとどまっていたが、長いナイフの夜の際に粛清されている。

オーストリアは、ヒトラーの侵略第一目標だったため、オットーにとって安住の地ではなかった。 意を決しチェコのプラハに逃亡し、そこでレジスタンス運動を展開した。 「第二革命は進む(Die Zweite Revolution marschiert)」 「死せるマルクス主義 ー 生ける社会主義(Der Marxismus ist tot ー Der Sozialismus lebt)」 等のパンフレットをプラハからドイツ国内へ送り込んでばらまいたり、短波ラジオの発明家ルドルフ・フォルミスを使い、モルダウ川をのぞむプラハの西南40マイルにある酒場に隠された発信器から、一日に一時間三回に渡って、ドイツ向け反ヒトラーの声明を流していた。 しかし、ゲシュタポの回し者の一団に襲撃され、フォルミスは殺害されオットーは危機を逃れたが、無断放送の罪でチェコ当局から発信器を押収され、四ヶ月の刑の判決をうけた。1934年11月1日、ドイツ国籍を剥奪され晴れて天下の無宿者となったオットーは、五年間チェコに滞在していた。この頃オットーは、チェコを訪れていたインド独立の志士スバス・チャンドラ・ボースと面会していた。


戦後[編集]

第二次世界大戦でドイツが敗戦し、ナチ党が消滅するとドイツへ帰国しようとしたが、占領軍と西ドイツ政府から帰国を妨害されてしまった。ようやく西ドイツへ帰国することを許されたのは1955年のことだった。


1974年、バイエルン州ミュンヘンで死去。ナチス左派の幹部としては最後の生き残りであった。

参考文献[編集]