オットー・シュトラッサー

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ドイツの旗 ドイツ国の政治家
オットー・シュトラッサー
Otto Strasser
Otto Strasser.jpg
生年月日 1897年9月10日
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国
Flag of Bavaria (striped).svg バイエルン王国バート・ヴィンツハイム(de)
没年月日 1974年8月27日(満76歳没)
死没地 西ドイツの旗 西ドイツ
Flag of Bavaria (striped).svg バイエルン州 ミュンヘン
出身校 ミュンヘン大学
ヴュルツブルク大学 ベルリン大学
前職 出征学徒自治会会長 ブドウ酒鑑定士 学者
所属政党 ドイツ社会民主党Reichsadler der Deutsches Reich (1933–1945).svg国家社会主義ドイツ労働者党
国家社会主義自由運動 → 革命的国民社会主義闘争団 → 黒色戦線

Reichsadler der Deutsches Reich (1933–1945).svg 国家社会主義管区事業団 闘争出版社 宣伝部長兼編集長
在任期間 1925年10月 - 1930年7月4日

黒色戦線 臨時指導者
在任期間 1930年 - 1945年(終戦による解散)
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オットー・ヨハン・マクシミリアン・シュトラッサーOtto Johann Maximilian Strasser1897年9月10日1974年8月27日)は、ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)所属。実兄グレゴール・シュトラッサーと共にナチス左派を代表する人物として知られる。

生い立ち[編集]

ドイツ帝国領邦バイエルン王国フランケン中部地方バート・ヴィンツハイム(de)で生まれ、兄が二人、弟と妹がそれぞれ一人いる五人兄弟だった。シュトラッサー家は古いバイエルンの農家の出だったが、父親のペーターは、ニーダーバイエルン(de)のデッゲンドルフ(de)で大法院参事官を勤めていた。 社会的正義感の強いキリスト教社会主義者の父は、偽名で「新路」という本を出しカトリック君主制反動勢力を批判し、新生ドイツのあるべき姿を描いたが、その為に職を失うのを恐れた母親のいさめで著作の出版を続けるのを断念している。で死亡したとき、ヒトラーもその葬儀に参列していた。

オットーの剛直な正義感と使命感の胚珠はフランケン地方の伝統と共に、この父親のなかにもとめられる。

世界大戦の体験[編集]

第一次世界大戦が起こったとき、オットーはグレゴールや次男のパウルと共に出陣し1918年の3月までには三人とも揃って将校に昇進しており、三人とも鉄十字章を受章している。


オットーは1914年8月1日、志願兵として16歳で出征し、二度負傷して最後には砲兵中尉に昇進し、第一級鉄十字章やバイエルン特別功労章を受勲し、更に、敵の砲台を捕獲し敵兵を捕虜にした功績によって、プロイセンプール・ル・メリット勲章にあたるバイエルンのマックス・ヨーゼフ勲章 (de)叙勲該当者としても申告された。叙勲になればオットーも貴族待遇の称号をもらえるはずだったが、革命が起こったためにこの勲章はもらい損ね貴族にはついになれなかった。

彼は戦場や兵営で特筆すべきいくつかの体験をしている。

1、戦場で獲得された直接行動のパターン

2、1918月8日、スワッソンの近くで装備のゆきとどいた制服も真新しいアメリカ軍と初めて遭遇したときの驚きとその折に味わったドイツのおおいがたい敗北感を彼は記しているが、この体験は、後に多くの右翼の間でもてはやされた「背後短剣の神話」と彼が無縁であったことと関係をもつ。

3、下士官から痰壺の水をのむことを強制されて自殺した同僚を目撃したり、シラミ退治や便所 の手掃除を強要する横柄な下士官の態度に接した折りに彼が抱いた嫌悪感は後に第一次大戦の勤務伍長ヒトラーを取り巻く「ミュンヘン・ナチ」グループの官僚的下士官根性や官僚主義そのものに対する彼の嫌悪感と反発に直結する。

4、権威をやたら振りまわしたがる下士官連中とは違い、彼は貴族的であると同時に民主的にことを取り決める洗練されたバイエルン将校団に対する深い感銘を隠そうとはしないが、この折に彼が抱いた少数エリート思想は、後にヒトラーの大衆動員思想と噛み合わぬものをもつと同時に、オットーが結成した「黒色戦線(闇戦線)」構想の中核をなす。

5、1917年、彼がルーデンドルフの指令に基づいて祖国や義務について兵士達を教化宣伝する任務についたとき、年上のある兵卒から 「土地をもたぬ自分にとって、祖国とは一体なにを意味するのか?」 と質問されて狼狽し、急所を突かれたような感をおぼえた折の体験は、後に彼の「社会主義」感情を育てる伏線となる。

1918年9月、坐骨神経痛で馬に乗れずミュンヘンの病院に入院したが11月6日に退院し、ここで革命を迎える。

ワイマール時代[編集]

オットーが松葉杖を突いてミュンヘンの病院を退院した日の翌々日、 1918年11月8日、ベルリンの革命に先がけてバイエルンではクルト・アイスナー共和国が誕生した。国民は事態の急変についてゆけず、オットーも革命の無秩序、行き過ぎ、規律を失った兵士の罵詈雑言を憎み、肩章を剥ぎ取ろうとした赤い腕章の暴徒たちピストルで渡り合おうとしたり、保養の為にオーバーバイエルンの泥土浴場、アイプリング (de)で開かれていたアイスナーの演説会に居合わせた折には、アイスナーの当局断罪論やドイツ単独戦争責任論に腹を立て、「馬鹿か、ないしはこの世でまたとない良心無き国民の裏切り者」アイスナーに反論するために演壇にかけ上がって激しい罵声の飛び交うなかで演説をぶち、乱闘騒ぎを起こしかけた。

しかし、この革命に対するオットーの憎悪感には不思議と古きものへの軽蔑感が入り交じっており、スパルタキストにも旧保守主義者にもついて行けぬ漠然とした彼の心情が後に保守革命となり明確に概念化されるにいたるには、まだ数年待たなければならない。

1919年4月7日のバイエルン・レーテ共和国の布告、共産主義政権の樹立に伴って、ミュンヘンの情勢は左傾化の一途を辿る。プロレタリア独裁を目指す共産主義革命についてゆけぬオットーは、躊躇することなく直ちにウルムエップ大佐義勇軍に加わり、SPDの国防相ノスケを総帥とする正規軍と共に、黒い菱形の下地にライオンの模様をあしらった「エップ義勇軍」の腕章をつけミュンヘンに進撃し、赤都を赤軍から解放する。ヒトラーがこの時白軍に参加していなかった点は、後年オットーがヒトラーはこの折スパルタキストの腕章を巻いていたとして、ヒトラーを攻撃の種とするところである。

社民党時代[編集]

この頃オットーは、SPDの圏内で行動していた。ベルリン大学では学徒兵士のための待遇改善要求を掲げる 「ドイツ大学出征学徒団体 (Akademischer Kriegsteilnehmerverband Deutschelands)」 を結成して、そのイェーナでの全国会議で会長に選ばれたり、SPDの機関誌『前進』( Vorwärts)の学生向けの付録版の校正をやったり、労働者向けに歴史ドイツ語速記術の講演をしたりしている。1920年3月13日、反動政治家カップエアハルト旅団らと組んでクーデターを起こした折りには、反カップ派の自警団に加わり、100人隊の隊長になり、ベルリン郊外のシュテークリッツの防衛に参加した。 しかし、SPDに対する彼の帰依はそれほど根が深いものではなかった。党内で行動しながらもしだいに党に対する疑念が募って行く。社会化政策に積極的でなく、ヴェルサイユ条約の履行政策を続けブルジョア憲法を採用する党の方針に不満を持ち、共産主義革命とは違った方向で行動的な革命性を求めるかれの燃えるような心情は、妥協の日常性に終始し革命精神を失った党の事務的官僚化についてゆくことはできず、オットーは党を去ってゆく。

思想形成[編集]

ドイツ革命当初、オットーが抱いたいまだ判然としなかった気持ちにその行手を示す斬新な衝撃を与えたのは、1920年10月、ザクセンハレで開かれたUSPDの大会の席上で独ソの提携を説いた、このようなソビエトの政治路線にそうコミンテルンの使者ジノヴィエフの演説だった。 この会議にオランダの新聞特派員という触れ込みで出席したオットーは、ジノヴィエフの演説から受けた感激の模様を次のように記している。

「私にとってジノヴィエフ演説は警告の信号だった。 この男の講演内容は新しいメサイアの教えのような響きを持っていた。

私の政探求において、私はこれまでドイツに存在しなかったような概念に突きあたった。 その名は「国民社会主義 (National-Sozialismus)」であった。」と。 こうして、まだ完全な形で綱領化されていないとはいえ、彼の心の中でソーシャリズムヴェルサイユ条約に反発するナショナリズムが握手する。

メラーとシュペングラー[編集]

彼の思想形成や思想を明確化する上で大きな契機となったのはジノヴィエフ演説だけではなく、「ドイツ的ソーシャリズム(Deutscher Sozialismus)」を説き、オットーが 「ドイツ革命のルソー[1]」と崇めるメラー・ファン・デン・ブルック (de)や、ソーシャリズムとプロイセン主義を結びつけようとしたシュペングラーも彼に大きな影響を与えた思想家だった。 当時、彼はメラーがハインリヒ・フォン・グライヒェン(de)らの左翼インテリ達の「十一月クラブ」に対抗してヴェルサイユ条約の屈辱を心に銘記する為に条約調印の月にちなんで命名し結成した「六月クラブ(de)」に出入りしており、ジノヴィエフ演説の模様もその機関誌「良心」に掲載している。

「若い民族の権利」やドイツ再生の道を説くメラーと「西洋の没落」の著者シュペングラーとの「六月クラブ」で行われた白熱した議論のやりとりは、オットーにとって忘れられぬ日の思い出となる。

彼が尊敬するメラーは、かねがねヒトラーに軽蔑と嫌悪感を抱き、「六月クラブ」でヒトラーが講演したときにも彼を招待することに反対するほどであったが、オットーはこのような反ヒトラー感情をメラーと共有する。 ヒトラーが彼にメラーの「第三帝国(正式には第三の国 Das Dritte Reich)」からその名を盗用し、我田引水の解釈を加えた「第三帝国」は、メラーやオットーの考えるシャルルマーニュ神聖ローマ帝国をしのばせる連邦的 = キリスト教的ヨーロッパ共同体の理念とは全く異質のものであった。

ヒトラーとの出会い[編集]

オットーとヒトラーの宿命的な出会いは、1920年10月に始まる。当時、SPDから別れて新しい道を模索していたオットーの所に、ランツフートで薬剤師をしていた長兄のグレゴールから電話がかかり、ルーデンドルフやヒトラーと自分との会談に立ち会ってみないかといってきたのがきっかけである。 その頃、グレゴールはナチ党に入党していてミュンヘン進撃の折にはエップ義勇軍と合流して赤軍と戦った戦歴をもつナチの大物だった。 オットーにしてみればヒトラーとはどんな男か興味があったし、若い下級士官の彼にとっては、世界大戦の折の参謀次長として辣腕を振ったルーデンドルフ将軍に会えるのも魅力的なことだった。兄の家に着いてみると二人を乗せた車がすでに止められていた。初めて会った折の当時31歳のヒトラーの印象をオットーは書き留めている。

「彼の顔はまだ思想に裏打ちされてはいなかった。ヒトラーは他の若者同様小壮だった。その青白い顔は新鮮な空気体操が欠けていることを示していた。」

将軍が発言する度に椅子から半分腰を浮かして中腰になったままの姿勢で

「はっ、閣下!」とか

「閣下の御意見通りであります!」 をやたら乱発する大戦の折の伍長勤務ヒトラーは、堂々ふんぞりかえったルーデンドルフのどこか近侍のような卑屈な印象を与え、大戦の折に経験したあの嫌な下士官根性をオットーに思い出させた。食事の折にヒトラーがを飲まなかったのも酒を嗜むオットーには意外だった。

「彼は禁酒家でね」

とグレゴールが弟に説明する。自分の話を一方的に相手に喋りまくるドグマティックなヒトラーとオットーとは、はじめから反りが会わなかった。不吉な虫の報せというか、グレゴールの妻エルゼも女性特有の勘からヒトラーが好きにはなれなかった。


会話は大戦の話からはじまる[2]オットーはルーデンドルフにマックス・ヨーゼフ勲章叙勲該当者に申告された当時のいきさつを話すが、自分が伍長勤務に過ぎないことに劣等感を持ったのか、ヒトラーはこの折口をはさまず、自分が喋る出番の機会を伺いながら敵意を含んだ沈黙を守る。やがて話は、党の話に移った。そこでオットーがヒトラーにナチスの綱領を尋ねると、ヒトラーは

「綱領、綱領ね。綱領なんか重要じゃない。重要なのは権力だけですよ。」

と、オットーに対する今までの鬱積していた気持ちを一気に吐き出すかのような返事をした。すかさずオットーが

「しかし、権力は綱領を実行する前提に過ぎないじゃありませんか」

と反論すると、大学を出てないひがみも手伝っていたのか、ヒトラーはほとんど絶叫せんばかりに大学生のオットーに対して

「それはインテリの見解というものだ!」

と吐き捨てるように言い、

「あなたは、カップ暴動の折に赤軍の方に立って戦ったのか? あなたのような忠誠心を持った退役将校がどうしてまたカップ暴動の折に赤軍の指導者であり得たのか、理解に苦しむ」

と、からみはじめる。むっときたオットーは、

「あなた方は国民社会主義者を名乗っているではないか。なら何故、あなた方は反動の暴動に味方することができたのか? 紛れもなく私はミュンヘンでは社会主義者として反動的独裁と戦ったのだ。私の赤軍とは、国の合法的な政府を支持して行動したまでだ。彼らは反乱者ではなく、愛国者だ。 大戦中カップは、ティルピッツ、プロイセンの反動分子、ユンカー、重工業、ティッセンクルップと親密だった。カップ暴動はクーデターの試み以外のなにものでもなかった。」

と応酬。ルーデンドルフが二人をとりなおすように

「カップ暴動は無意味であった。」

と重々しくのたまうと、ヒトラーは

「はっ、閣下!」と言ってすぐにおとなしくなり、カップ問題はけりとなった。 次いで、

「私が望んでいるのは、国民を復讐の思想にまで焚きつけることだ。ただ国民とその全体の狂信だけが次の戦争で我々に勝利をもたらすことができるのです。」

というヒトラーの発言にショックを受けたオットーは、たまりかねて、

「復讐の問題も、戦争の問題もない。我々の社会主義が国民的でなければならないのは、ドイツに新しい秩序を確立するためであって、征服の政策をはじめるためではない。 この合成語(国民社会主義)において強調されなければならないのは、社会主義の方である。ヒトラーさん、あなた方はあなた方の運動を国民社会主義として一つの言葉で呼んでいるではないか。ドイツ語文法が我々に教えるところによれば、この種の合成語においては、はじめの方の部分は、肝心な後の方を修飾するためにもちいられているのです。」

と、色々の合成名詞をあげて反論し、最後にとどめを刺すようにいじわるく付け加えた。

「しかし、あなたのバルト出身の助言者であるローゼンベルクさんは、おそらくドイツ語は御存知ないでしょうから、このニューアンスはお分かりにならんでしょうな。」

自分の外国生まれのことまで馬鹿にされたと勘ぐったのか、真っ赤になって興奮したヒトラーは、げんこつでテーブルをどやしながら

「そんな屁理屈はもうたくさんだ!」

と怒鳴ったが、ばつが悪くなったのか、自制心を取り戻すかのよう、半ば冗談めかしてグレゴールの方を振り向いて

「私はあなたの利発な弟さんと決して馬があわないんじゃないかという気がしますよ」とおどけてみせた。

次に旗色の悪くなったヒトラーは話題をそらしてお得意のユダヤ人問題に向けようとする。

「私が話そうとしているのは現実です。現実とはユダヤ人のことです。かつてのマルクスのようなユダヤ人共産主義者や、ラーテナウのようなユダヤ人資本家をご覧なさい、諸悪の根源は世界を汚しているユダヤ人です。ユダヤ人は社会民主党系の新聞を牛耳っています。説得では達成できないものを彼らは暴力で達成しようとしているのです」

オットーは再び反論する。

「ヒトラーさん、あなたはユダヤ人を御存知ない。言わせていただきますがね、あなたは彼らを過大評価なさっていらっしゃる。御存知のように、ユダヤ人はとりわけ適応性があります。彼らは存在している可能性を色々利用はしますが、創造するものはなにもありません。彼らは社会主義を利用し、資本主義を利用し、あなた方が機会を与えれば国民社会主義だって利用するでしょう。 マルクスが発明したものはなにもありません。社会主義はいつも三つの側面を持ってきました。マルクスがその経済面を研究したのは完全なドイツ人であるエンゲルスが協力したからであり、その国民的で宗教的な意味合いを残したのはイタリア人マッツィーニ、そのニヒリスティックな面を発展させたのはロシア人バクーニンで、そこからボルシェヴィズムが生まれたのです。ですから、社会主義が全くユダヤ人に由来するものでなかったことは御納得いただけるでしょう。」

このことにはルーデンドルフも同意を示した。

こうして二人のやりとりも終わり、ヒトラーは、故意に親しみを示そうとするかのように、オットーの肩に手をやって、

「何はともあれ、私はフランスのおめぐみでドイツの大臣になるくらいなら、共産主義者の絞首台で首をしめられる方がましですな」 と、捨て台詞を残してルーデンドルフと共にグレゴールの家を立ち去った。

その後、兄弟はヒトラーの印象について話し合う。オットーの意見は

「ヒトラーについては、俺の見るところ、将軍に対してあまりにも卑屈で、議論の点でも論敵を孤立させるやり方の点でもゆとりが無さすぎるな。彼には政治的確信が全くなく、彼が持っているのは拡声器の雄弁だね。」であった。

グレゴールの意見は少しくちがっていた。

「おそらく、彼の伍長勤務の袖章がかれの身体に食い込んでいるのだろう。でも、彼にはなにかがあるよ。彼には抵抗しにくい魔術性がある。我々が彼を利用してお前の思想を表現し、ルーデンドルフのエネルギーと俺の組織力を利用してこれを実践できたら、とても素晴らしいことができるぞ!」

ヒトラーに対する否定的印象と彼を御し得るとみた甘い見解、これと共に二人の兄弟はやがて全く別個の運命を歩むことになったのである。

ナチ党時代[編集]

ベルリンを中心とする北ドイツで、グレゴールや自身が入党を認めたヨーゼフ・ゲッベルスとともにナチス左派の代表格となり、社会主義的な経済政策や、反西欧帝国主義反資本主義の立場からソビエト連邦との接近を主張しナショナル・ボルシェヴィズム的な運動を党内に形成した。

労働運動に積極的に参加し、場合によってはドイツ共産党とスクラムを組んでデモストライキ闘争も行い、ミュンヘンの党本部と敵対していた。

1926年2月14日、ヒトラーは側近シュトライヒャーの牙城バンベルクナチ指導者会議を召集し、ハノーファー会議の非合法性を批判した。会議の結果はナチ左派の完敗だった。シュトラッサー草案の廃止、旧諸侯財産無償没収の主張撤回、ヒトラーによる全地域指導者任命権確立、党内紛争を裁く党法廷の設立とヒトラーによる法廷委員の任命、親ソ外交路線の撤回が決議された。

オットーによると、倫理観に乏しいマックス・アマンにさえ「我が党のメフィスト」と舌を巻かせ[3]、権威に敏感で常に力のある方につきたがるゲッベルスは、あざやかな変身ぶりを示し、ヒトラー派に寝返った。この折、「ヒトラーさん、おかげで納得しました。我々は間違っていました。」とヒトラーにおもねったゲッベルスの姿に、グレゴールは「へどが出そうだった。」という。ゲッベルスはその褒美としてシュランゲの代わりにベルリン管区指導者に任命され、1927年7月4日には、週刊誌「攻撃」を出してシュトラッサー兄弟と渡りあう。

しかし、ヒトラーに活動を封じられたとはいえ、グレゴールはなお党内で重きをなしていた。1926年3月、兄弟は「闘争出版社(Kampfverlag)」を設立し、ミュンヘン・ナチの息のかかった「フランツ・エーア社(de)」に対抗して宣伝活動を続けていた。

ナチのトロツキスト[編集]

オットーの国民社会主義に対する確信を深めるひとつの契機となったのは、スターリン一国社会主義への転換とトロツキスト粛清である。このスターリン路線の中に彼は生の為にマルクス主義の理論を犠牲にするソビエトの姿を見た。これによってドイツ共産党は深刻な混乱に陥り、彼らはやがては解体してナチスかまたは社民党に合流せざるを得なかった。スターリン路線によって共産主義は終焉を余儀なくされた。 スターリンは「インターナショナリズム」を捨てて「ロシア的ソーシャリズム」をその代わりにおこうとし、共産主義を精算しようとしている。スターリンとその一派は、ロシアの利害、労働者農民やその他のものからなるロシア民族の利害に気付きこれを促進することが、何よりもまず自分たちの課題であるという観点にたち、ロシアとロシア民族の利害から要求され好ましいとされる理由からだけ、その限りにおいてのみロシア外の同朋の利害に気付きこれを促進することが、自分たちの課題であるという観点にたっている。

スターリンの路線は、自己の民族の生が問題であって、原理理論が問題ではないというあの国民社会主義の第一原理の承認に他ならない。スターリンとトロツキーの闘争は、生と原理との闘争であり、オットーにとって一国社会主義の勝利は彼の信奉する生の哲学の勝利に他ならなかった。

「我々、保守革命家が絶えず意識する事実とは、有機的過程が第一次的なものであって、我々の建築設計図はこの過程の中の設計図に過ぎないということであり、言い換えれば、生と設計図の間に矛盾が起きた場合には、常に正しいのは生の方であって設計図は生に従って変えられなければならないということである。」

このオットーのスターリン一国社会主義観は、明らかにヒトラーに対する態度と矛盾する。オットーが理念や綱領を無視するヒトラーの現実路線に身体を張ってまで反対したのは、理念や党綱領に忠実たろうとした彼のドグマティックな態度から出たものであり、オットーらナチ党内極左一派の粛清を命じたヒトラーのゲッベルス宛の手紙に記されているように、現実路線を優先させるヒトラーからすればオットーは、ドグマを振り回す「草なしの文士」、現実性を欠く「混乱したサロンボルシェヴィキ」、無責任な「ワンダーフォーゲル」に過ぎなかった。 スターリンの現実路線を評価するオットーがそのドグマティズムの立場からヒトラーの現実路線を否定し、自ら「ナチのトロツキスト」の運命を辿ったことは実に皮肉と言わなければならない。

脱党[編集]

ヒトラーは1930年5月21日から22日にかけて7時間にわたりオットーと激論してなんとか懐柔しようとしたが、結局失敗した。この会談の失敗で、ヒトラーは懐柔策としてオットーに与えるはずだった宣伝全国指導者職のゲッベルスへの委譲と、オットーの党除名を決意した。

1930年6月30日、ヒトラーは1926年半ば頃に自派に取り込んでいたゲッベルスに、オットーらナチス左派幹部の党追放を命じた。 というのも、1930年、ヒンデンブルク大統領侮辱罪で法廷に立ったゲッベルスは、自分はかつてヒンデンブルク支持者でルール紛争の際にはベルギー軍につかまって牢に入れられ鞭打たれた経験をもつ闘志であると弁明したが、これに対してナチス左派のモサコーフスキー[注釈 1]がゲッベルスのこの感動的な物語の嘘を暴露した記事を掲載したことが動機となったためであった。[4]

7月2日、これを受けたゲッベルスはベルリン党役員会議でオットーの党除名を決議した。オットーらは抗議のために党役員会議を開くよう迫ったが、クルト・ダリューゲが指揮する親衛隊につまみだされて党集会に参加出来なかった。

7月4日にはオットーも新聞紙面でナチス党からの離脱を宣言した。しかし追従者は僅か24名だけであった。

ナチス左派に呼応した突撃隊の反乱指導者で、ベルリンの大管区事務所を一時的に占拠、銃撃戦を展開し「デア・アングリフ」のナチス左派版を二日間出版し配布していた

その後は人狼団オーバーラント団 (de)、北ドイツ突撃隊の最高司令官で1931年にゲッベルスと大喧嘩して彼に反乱を起こしたヴァルター・シュテンネス大尉などとともに革命的国家社会主義者闘争活動共同体を創設。 後に同団体は黒色戦線と改名される。

グレゴールはナチ党にとどまっていたが、オットーの謀反と離脱で党内で苦しい立場に立たされ、急速に影響力を弱めていった。

亡命[編集]

ヒトラー内閣誕生後はSDの目をくぐりぬけてドイツから脱出し、オーストリアチェコフランススペインポルトガル経由でカナダへ亡命し、そこから反ヒトラー活動を行った。グレゴールはなおもドイツにとどまっていたが、長いナイフの夜の際に粛清されている。

オーストリアは、ヒトラーの侵略第一目標だったため、オットーにとって安住の地ではなかった。 意を決しチェコのプラハに逃亡し、そこでレジスタンス運動を展開した。

「第二革命は進む(Die Zweite Revolution marschiert)」

「死せるマルクス主義 ー 生ける社会主義(Der Marxismus ist tot ー Der Sozialismus lebt)」

等のパンフレットをプラハからドイツ国内へ送り込み突撃隊や親衛隊の事務所へ散撒き、短波ラジオの発明家ルドルフ・フォルミスを使い、モルダウ川をのぞむプラハの西南40マイルにある酒場に隠された発信器から、一日に一時間三回に渡って、ドイツ向け反ヒトラーの声明を流していた。

しかし、アルフレート・ナウヨックス率いるSD、ゲシュタポの回し者の一団に襲撃され、フォルミスは殺害されオットーは危機を逃れたが、無断放送の罪でチェコ当局から発信器を押収され、四ヶ月の刑の判決をうけた。

1934年11月1日、ドイツ国籍を剥奪され無宿者となったオットーは、五年間チェコに滞在しており、この頃チェコを訪れていたインド独立運動家のスバス・チャンドラ・ボースと面会していた。

戦後[編集]

第二次世界大戦でドイツが敗戦し、ナチ党が消滅するとドイツへ帰国しようとしたが、占領軍西ドイツ政府から帰国を妨害されてしまった。ようやく西ドイツへ帰国することを許されたのは1955年のことだった。 1974年、バイエルン州ミュンヘンで死去。ナチス左派の幹部としては最後の生き残りであった。

語録[編集]

  • 「料理学校が政治の学校よりももっと重要であり、聞こえる笑いの量が政治制度や経済制度の質を計るに適した微候であるという事実を人々がつかんだときに、軍国主義の精神は決定的に克服されたことになる。」
  • 「人間生活においてどんなに経済的要因が重要であろうとも、それは決して決定的なものではないし、決して決定的なものではなかったし、決して決定的なものにはならぬであろう!あらゆる人間の偉大な行為は観念的動機から、宗教的動機から、祖国愛から、誠実、友情愛情から、生まれたものである。人間は大きな情熱によって動かされるものであって、階級=利害によって動かされるものではない。」
  • 「国家の名において個人の自由とその自治的創造の自由を束縛するものは、ファシストだ!
    国家権力を称賛し、これを拡大せんとするものは、ファシストだ!
    国家に常に新しい課題をゆだね、国家とその官僚制をこれによってますます強化するものは、ファシストだ!
    政党と議会をただ匿名勢力の実際的決断がその背後で下される「屏風」に見立てるものは、ファシストだ!」

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ ナチス新聞協議会主筆。後、ゲッベルスにより除名される

出典[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]