オットー・シュトラッサー
| オットー・シュトラッサー Otto Strasser | |
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| 生年月日 | 1897年9月10日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1974年8月27日(76歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 |
ミュンヘン大学 ヴュルツブルク大学 ベルリン大学 |
| 前職 | 出征学徒自治会会長 ブドウ酒鑑定士 学者 |
| 所属政党 |
ドイツ社会民主党 (多数派)(Mehrheitssozialdemokratische Partei Deutschlands)→ →国家社会主義自由運動→革命的国民社会主義闘争集団→黒色戦線→ドイツ社会同盟 (1956年)(Deutsch-Soziale Union) |
| 在任期間 | 1925年10月 - 1930年7月4日 |
黒色戦線 臨時指導者 | |
| 在任期間 | 1930年 - 1945年(終戦による解散) |
オットー・ヨハン・マクシミリアン・シュトラッサー(Otto Johann Maximilian Strasser、1897年9月10日 ‐ 1974年8月27日)は、ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)所属。実兄グレゴール・シュトラッサーと共にナチス左派を代表する人物として知られる。
目次
生い立ち[編集]
ドイツ帝国領邦バイエルン王国のフランケン中部地方のバート・ヴィンツハイム(de)で生まれ、兄が二人、弟と妹がそれぞれ一人いる五人兄弟だった。シュトラッサー家は古いバイエルンの農家の出だったが、父親のペーターは、ニーダーバイエルン(de)のデッゲンドルフ(de)で大法院参事官を勤めていた。
社会的正義感の強いキリスト教社会主義者の父は、偽名で「新路」という本を出しカトリックや君主制の反動勢力を批判し、新生ドイツのあるべき姿を描いたが、その為に職を失うのを恐れた母親のいさめで著作の出版を続けるのを断念している。癌で死亡したとき、ヒトラーもその葬儀に参列していた。
オットーの剛直な正義感と使命感の胚珠はフランケン地方の伝統と共に、この父親のなかにもとめられる。
戦争の体験[編集]
第一次世界大戦が起こったとき、オットーはグレゴールや次男のパウルと共に出陣し1918年の3月までには三人とも揃って将校に昇進しており、三人とも鉄十字章を受章している。
オットーは1914年8月1日、志願兵として16歳で出征し、二度負傷して最後には砲兵中尉に昇進し、第一級鉄十字章やバイエルン特別功労章を受勲し、更に、敵の砲台を捕獲し敵兵を捕虜にした功績によって、プロイセンのプール・ル・メリット勲章にあたるバイエルンのマックス・ヨーゼフ勲章 (de)叙勲該当者としても申告された。叙勲になればオットーも貴族待遇の称号をもらえるはずだったが、革命が起こったためにこの勲章はもらい損ね貴族にはついになれなかった。 従軍中、社民党の機関誌を購読しており「赤い中尉(der rote Leutnant)」と呼ばれた。
1918年9月、坐骨神経痛で馬に乗れずミュンヘンの病院に入院したが11月6日に退院し、ここで革命を迎える。
ワイマール時代[編集]
オットーが松葉杖を突いてミュンヘンの病院を退院した日の翌々日、1918年11月8日、ベルリンの革命に先がけてバイエルンではクルト・アイスナーの共和国が誕生した。国民は事態の急変についてゆけず、オットーも革命の無秩序、行き過ぎ、規律を失った兵士の罵詈雑言を憎み、肩章を剥ぎ取ろうとした赤い腕章の暴徒たちとピストルで渡り合おうとしたり、保養の為にオーバーバイエルンの泥土浴場、アイプリング (de)で開かれていたアイスナーの演説会に居合わせた折には、アイスナーの当局断罪論やドイツ単独戦争責任論に腹を立て、「馬鹿か、ないしはこの世でまたとない良心無き国民の裏切り者」[1]アイスナーに反論するために演壇にかけ上がって激しい罵声の飛び交うなかで演説をぶち、乱闘騒ぎを起こしかけた。
しかし、この革命に対するオットーの憎悪感には不思議と古きものへの軽蔑感が入り交じっており、スパルタキストにも旧保守主義者にもついて行けぬ漠然とした彼の心情が後に保守革命となり明確に概念化されるにいたるには、まだ数年待たなければならない。
1919年4月7日のバイエルン・レーテ共和国の布告、共産主義政権の樹立に伴って、ミュンヘンの情勢は左傾化の一途を辿る。プロレタリア独裁を目指す共産主義革命についてゆけぬオットーは、躊躇することなく直ちにウルムでエップ大佐の義勇軍に加わり、SPDの国防相ノスケを総帥とする正規軍と共に、黒い菱形の下地にライオンの模様をあしらった「エップ義勇軍」の腕章をつけミュンヘンに進撃し、赤都を赤軍から解放する。ヒトラーがこの時白軍に参加していなかった点は、後年オットーがヒトラーはこの折スパルタキストの腕章を巻いていたとして、ヒトラーを攻撃の種とするところである。
社会民主党時代[編集]
この頃オットーは、SPDの圏内で行動していた。ベルリン大学では学徒兵士のための待遇改善要求を掲げる学生組織「ドイツ大学出征学徒団体 (Akademischer Kriegsteilnehmerverband Deutschelands)」を結成して、そのイェーナでの全国会議で会長に選ばれたり、SPDの機関誌『前進』(Vorwärts)の学生向けの付録版の校正をやったり、労働者向けに歴史やドイツ語や速記術の講演をしたりしている。1920年3月13日、反動政治家カップがエアハルト旅団らと組んでクーデターを起こした折りには、反カップ派の自警団に加わり、100人隊の隊長になり、ベルリン郊外のシュテークリッツの防衛に参加した。 しかし、SPDに対する彼の帰依はそれほど根が深いものではなく党内で行動しながらもしだいに党に対する疑念が募って行く。社会化政策に積極的でなく、ヴェルサイユ条約の履行政策を続けブルジョア憲法を採用する党の方針に不満を持ち、共産主義革命とは違った方向で行動的な革命性を求めるかれの燃えるような心情は、妥協の日常性に終始し革命精神を失った党の事務的官僚化についてゆくことはできず、オットーは党を去ってゆく。
思想形成[編集]
ドイツ革命当初、オットーが抱いたいまだ判然としなかった気持ちにその行手を示す斬新な衝撃を与えたのは、1920年10月、ザクセンのハレで開かれたUSPDの大会の席上で独ソの提携を説いた、このようなソビエトの政治路線にそうコミンテルンの使者ジノヴィエフの演説だった。この会議にオランダの新聞特派員という触れ込みで出席したオットーは、ジノヴィエフの演説から受けた感激の模様を次のように記している。
「私にとってジノヴィエフ演説は警告の信号だった。この男の講演内容は新しいメサイアの教えのような響きを持っていた。
私の政治探求において、私はこれまでドイツに存在しなかったような概念に突きあたった。その名は「国民社会主義 (National-Sozialismus)」であった。[2]」と。こうして、まだ完全な形で綱領化されていないとはいえ、彼の心の中でソーシャリズムとヴェルサイユ条約に反発するナショナリズムが握手する。
メラーとシュペングラー[編集]
彼の思想形成や思想を明確化する上で大きな契機となったのはジノヴィエフ演説だけではなく、「ドイツ的ソーシャリズム(Deutscher Sozialismus)」を説き、オットーが 「ドイツ革命のルソー[3]と崇めるメラー・ファン・デン・ブルック (de)や、ソーシャリズムとプロイセン主義を結びつけようとしたシュペングラーも彼に大きな影響を与えた思想家だった。 当時、彼はメラーがハインリヒ・フォン・グライヒェン(de)らの左翼インテリ達の「十一月クラブ」に対抗してヴェルサイユ条約の屈辱を心に銘記する為に条約調印の月にちなんで命名し結成した「六月クラブ(de)」に出入りしており、ジノヴィエフ演説の模様もその機関誌「良心」に掲載している。
「若い民族の権利」やドイツ再生の道を説くメラーと「西洋の没落」の著者シュペングラーとの「六月クラブ」で行われた白熱した議論のやりとりは、オットーにとって忘れられぬ日の思い出となる。
彼が尊敬するメラーは、かねがねヒトラーに軽蔑と嫌悪感を抱き、「六月クラブ」でヒトラーが講演したときにも彼を招待することに反対するほどであったが、オットーはこのような反ヒトラー感情をメラーと共有する。ヒトラーが彼にメラーの「第三帝国(正式には第三の国 Das Dritte Reich)」からその名を盗用し、我田引水の解釈を加えた「第三帝国」は、メラーやオットーの考えるシャルルマーニュの神聖ローマ帝国をしのばせる連邦的 = キリスト教的ヨーロッパ共同体の理念とは全く異質のものであった。
ナチ党時代[編集]
グレゴールは遠回しにオットーをナチに誘おうとしたが、オットーはヒトラーを指導者と仰ぐことに反感を持ったため入党を断った。[4] 1923年3月にヴュルツブルク大学で「ドイツの砂糖大根種子培養の発達と意義(Ent-wicklung und Bedeutung der deutschen Zuckerübensamenzucht)」という論文を提出し博士号を得た後、食糧省や会社の相談役としてザクセンで働きしばらくは政治の舞台からは遠ざかっていた。
私兵を率いてグレゴールも参加した1923年11月のミュンヘン一揆の折にも、彼はマクデブルクにいてこの暴動に参加していない。しかし、初対面のヒトラーに対する印象が芳しくなかったにも関わらず反動的な政府と闘おうとするヒトラーの一揆はオットーにとってやはり快挙と映ったらしく、将軍や企業家の反動分子にヒトラーが使う色目もこれで終わるものと確信したオットーは、大戦中自分が所属していた旧連隊の将校達にルーデンドルフとヒトラーの味方に立つことを勧める回状をまわして彼らから閉め出しをくっている。
一揆の失敗後、ヒトラーが入牢している間グレゴールは無罪になったルーデンドルフやドイツ民族自由党の指導者グレーフェらと組んで国会議員に選ばれルール地方や北ドイツで着々と組織固めをしていた。この新しい情勢下に兄を助けて自分の理念を実現するチャンスを読み取ったオットーは、信頼のおける片腕を必要としていたグレゴールの誘いを受けて1925年の春、ようやくナチ党に加わる。(党員番号 23918)
ベルリンを中心とする北ドイツで、グレゴールや自身が入党を認めたヨーゼフ・ゲッベルスとともにナチス左派の代表格となり、社会主義的な経済政策や、反西欧帝国主義、反資本主義の立場からソビエト連邦との接近を主張し民族ボルシェヴィズム的な運動を党内に形成した。
労働運動に積極的に参加し、場合によってはドイツ共産党とスクラムを組んでデモやストライキ闘争も行い、ミュンヘンの党本部と敵対していた。
1926年2月14日、ヒトラーは側近シュトライヒャーの牙城バンベルクでナチ指導者会議を召集し、ハノーファー会議の非合法性を批判した。会議の結果はナチ左派の完敗だった。シュトラッサー草案の廃止、旧諸侯財産無償没収の主張撤回、ヒトラーによる全地域指導者任命権確立、党内紛争を裁く党法廷の設立とヒトラーによる法廷委員の任命、親ソ外交路線の撤回が決議された。
オットーによると、倫理観に乏しいマックス・アマンにさえ「我が党のメフィスト」と舌を巻かせ[5]、権威に敏感で常に力のある方につきたがるゲッベルスは、あざやかな変身ぶりを示し、ヒトラー派に寝返った。この折、「ヒトラーさん、おかげで納得しました。我々は間違っていました。」とヒトラーにおもねったゲッベルスの姿に、グレゴールは「へどが出そうだった。[6]」という。ゲッベルスはその褒美としてシュランゲの代わりにベルリン管区指導者に任命され、1927年7月4日には、週刊誌「攻撃(Der Angriff)」を出してシュトラッサー兄弟と渡りあう。
しかし、ヒトラーに活動を封じられたとはいえ、グレゴールはなお党内で重きをなしていた。1926年3月、兄弟は「闘争出版社(Kampfverlag)」を設立し、ミュンヘン・ナチの息のかかった「フランツ・エーア社(de)」に対抗して宣伝活動を続けていた。
ナチのトロツキスト[編集]
オットーの国民社会主義に対する確信を深めるひとつの契機となったのは、スターリンの一国社会主義への転換とトロツキストの粛清である。スターリンの路線は、自己の民族の生が問題であって、原理や理論が問題ではないというあの国民社会主義の第一原理の承認に他ならない。スターリンとトロツキーの闘争は、生と原理との闘争であり、オットーにとって一国社会主義の勝利は彼の信奉する生の哲学の勝利に他ならなかった。
「我々、保守革命家が絶えず意識する事実とは、有機的過程が第一次的なものであって、我々の建築設計図はこの過程の中の設計図に過ぎないということであり、言い換えれば、生と設計図の間に矛盾が起きた場合には、常に正しいのは生の方であって設計図は生に従って変えられなければならないということである。」
このオットーのスターリン一国社会主義観は、明らかにヒトラーに対する態度と矛盾する。オットーが理念や綱領を無視するヒトラーの現実路線に身体を張ってまで反対したのは、理念や党綱領に忠実たろうとした彼のドグマティックな態度から出たものであり、オットーらナチ党内極左一派の粛清を命じたヒトラーのゲッベルス宛の手紙に記されているように、現実路線を優先させるヒトラーからすればオットーは、ドグマを振り回す「草なしの文士」、現実性を欠く「混乱したサロンボルシェヴィキ」、無責任な「ワンダーフォーゲル」に過ぎなかった。 スターリンの現実路線を評価するオットーがそのドグマティズムの立場からヒトラーの現実路線を否定し、自ら「ナチのトロツキスト」の運命を辿ったことは実に皮肉と言わなければならない。
脱党[編集]
ヒトラーは1930年5月21日から22日にかけて7時間にわたりオットーと激論してなんとか懐柔しようとしたが、結局失敗した。この会談の失敗で、ヒトラーは懐柔策としてオットーに与えるはずだった宣伝全国指導者職のゲッベルスへの委譲と、オットーの党除名を決意した。
1930年6月30日、ヒトラーは1926年半ば頃に自派に取り込んでいたゲッベルスに、オットーらナチス左派幹部の党追放を命じた。 というのも、1930年、ヒンデンブルク大統領侮辱罪で法廷に立ったゲッベルスは、自分はかつてヒンデンブルク支持者でルール紛争の際にはベルギー軍につかまって牢に入れられ鞭打たれた経験をもつ闘志であると弁明したが、これに対してナチス左派のモサコーフスキー[注釈 1]がゲッベルスのこの感動的な物語の嘘を暴露した記事を掲載したことが動機となったためであった。[7]
7月2日、これを受けたゲッベルスはベルリン党役員会議でオットーの党除名を決議した。オットーらは抗議のために党役員会議を開くよう迫ったが、クルト・ダリューゲが指揮する親衛隊につまみだされて党集会に参加出来なかった。
7月4日にはオットーも新聞紙面でナチス党からの離脱を宣言した。しかし追従者は僅か24名だけであった。
その後は人狼団やオーバーラント団 (de)、北ドイツ突撃隊の最高司令官で1931年にゲッベルスと大喧嘩して彼に反乱を起こしたヴァルター・シュテンネス大尉などとともに革命的国家社会主義者闘争活動共同体を創設。後に同団体は黒色戦線と改名される。
グレゴールはナチ党にとどまっていたが、オットーの謀反と離脱で党内で苦しい立場に立たされ、急速に影響力を弱めていった。
亡命[編集]
ヒトラー内閣誕生後はSDの目をくぐりぬけてドイツから脱出し、オーストリア、チェコ、フランス、スペイン、ポルトガル経由でカナダへ亡命し、そこから反ヒトラー活動を行った。グレゴールはなおもドイツにとどまっていたが、長いナイフの夜の際に粛清されている。
オーストリアは、ヒトラーの侵略第一目標だったため、オットーにとって安住の地ではなかった。意を決しチェコのプラハに逃亡し、そこでレジスタンス運動を展開した。
「第二革命は進む(Die Zweite Revolution marschiert)」
「死せるマルクス主義 - 生ける社会主義(Der Marxismus ist tot - Der Sozialismus lebt)」
「社会主義の革命か、ファシストの戦争か?(Sozialistische Revolution oder Faschistischer Krieg?)」
等のパンフレットをプラハからドイツ国内へ送り込み突撃隊や親衛隊の事務所へ散撒き、短波ラジオの発明家ルドルフ・フォルミスを使い、モルダウ川をのぞむプラハの西南40マイルにある酒場に隠された発信器から、一日に一時間三回に渡って、ドイツ向け反ヒトラーの声明を流していた。
しかし、アルフレート・ナウヨックス率いるSD、ゲシュタポの回し者の一団に襲撃され、フォルミスは殺害されオットーは危機を逃れたが、無断放送の罪でチェコ当局から発信器を押収され、四ヶ月の刑の判決をうけた。
1934年11月1日、ドイツ国籍を剥奪され無宿者となったオットーは、五年間チェコに滞在しており、この頃チェコを訪れていたインド独立運動家のスバス・チャンドラ・ボースと面会していた。
戦後[編集]
第二次世界大戦でドイツが敗戦し、ナチ党が消滅するとドイツへ帰国しようとしたが、占領軍と西ドイツ政府から帰国を妨害されてしまった。ようやく西ドイツへ帰国することを許されたのは1955年のことだった。 1974年、バイエルン州ミュンヘンで死去。ナチス左派の幹部としては最後の生き残りであった。
語録[編集]
- 「料理学校が政治の学校よりももっと重要であり、聞こえる笑いの量が政治制度や経済制度の質を計るに適した微候であるという事実を人々がつかんだときに、軍国主義の精神は決定的に克服されたことになる。[8]」
- 「人間生活においてどんなに経済的要因が重要であろうとも、それは決して決定的なものではないし、決して決定的なものではなかったし、決して決定的なものにはならぬであろう!あらゆる人間の偉大な行為は観念的動機から、宗教的動機から、祖国愛から、誠実、友情、愛情から、生まれたものである。人間は大きな情熱によって動かされるものであって、階級=利害によって動かされるものではない。[9]」
- 「国家の名において個人の自由とその自治的創造の自由を束縛するものは、ファシストだ!
国家権力を称賛し、これを拡大せんとするものは、ファシストだ!
国家に常に新しい課題をゆだね、国家とその官僚制をこれによってますます強化するものは、ファシストだ!
政党と議会をただ匿名勢力の実際的決断がその背後で下される「屏風」に見立てるものは、ファシストだ![10]」
脚注[編集]
- 注釈
- ^ ナチス新聞協議会主筆。後、ゲッベルスにより除名される
- 出典
参考文献[編集]
- 阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)ISBN 978-4760120581
- 八田恭昌『ヴァイマルの反逆者たち』世界思想社、1981年 ISBN 978-4790701972
- 千坂恭二『思想としてのファシズム』(彩流社。2015年)ISBN 978-4-7791-2143-2
- Otto strasser, Gwenda David and Eric Mosbacher訳 (1940). 『Hitler and I』. ISBN 978-0-404-16997-8.
- Douglas Reed(en),Jonathan Cape (1940). 『Nemesis? The story of Otto Strasser.』. ISBN 978-3850024020.
- Otto Strasser (1958). 『Exil.』. München,.
- Otto Strasser (1940). 『Germany tomorrow』. Eden and Cedar Paul. Jonathan Cape,.
- Otto Strasser, (1965). 『Der Faschismus. Geschichte und Gefahr.』. München, Wien, Olzog.
- Reinhard Kühnl(de),Hain, Meisenheim am Glan (1966). 『Die nationalsozialistische Linke 1925–1930.』. ISBN 3-445-10503-0.
関連項目[編集]
- 国家社会主義ドイツ労働者党
- ナチス左派
- 黒色戦線
- ドイツ社会同盟 (1956年)(Deutsch-Soziale Union)
- 保守革命
- 反帝国主義
- 反資本主義
- 反ファシズム
- 国民社会主義
- キリスト教社会主義
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