プロイセン州

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プロイセン自由州
Freistaat Preußen
ヴァイマル共和政構成国英語版
ナチス・ドイツ

1918年1947年


プロイセン自由州の旗英語版 プロイセン自由州の紋章英語版
標語
Gott mit uns
"神は私たちとともに"
1920年のプロイセン自由州.
首都 ベルリン
言語 ドイツ語
宗教 多数派:
プロテスタント (ルター派カルバン派)
政府 共和国
州総督ドイツ語版
 •  1933年 - 1935年 アドルフ・ヒトラー
 •  1935年1945年 ヘルマン・ゲーリング
州首相英語版
 •  1918年 フリードリヒ・エーベルト(初代)
 •  1933年 - 1945年 ヘルマン・ゲーリング(最後)
議会 州議会英語版
 •  上院 州議会上院英語版
 •  下院 州議会下院英語版
歴史・時代 戦間期/第二次世界大戦
 •  ドイツ革命 1918年11月9日
 •  プロイセン自由州憲法英語版の成立 1920年11月30日
 •  プロイセン・クーデタードイツ語版 1932年7月20日
 •  ヒトラー内閣の成立 1933年1月30日
 •  国家代理官法ドイツ語版の成立 1935年1月30日
 •  州の廃止英語版 1947年2月25日
面積
 •  1925[1] 292,695.36 km² (113,010 sq mi)
人口
 •  1925[1]年推定 38,175,986人
     密度 130.4人/km²  (337.8人/sq mi)
通貨

プロイセン自由州、もしくはプロイセン州Freistaat Preußen)は、ヴァイマル共和政期及びナチス・ドイツ期に存在したドイツの一つ。

概要[ソースを編集]

第一次世界大戦末期のドイツ革命プロイセン王国が解体された後、プロイセン自由州へと移行した。プロイセン州は当時のドイツの国土と人口の過半数を占め[2]、ドイツで最も主要な州であった。州都はドイツ全体の首都でもあるベルリン

第二次世界大戦後の連合軍占領期に廃止が命令された。西ドイツ東ドイツ、現在の統一ドイツには存在しない州である。

歴史[ソースを編集]

Brandenburg Wappen.svg
Preußischer Adler (1871-1914).svg

ブランデンブルクとプロイセンの歴史
ノルトマルク
先史 - 12世紀
プルーセン
先史 - 13世紀
ブランデンブルク辺境伯
1157 - 1618 (1806)
ドイツ騎士団国
1224 - 1525
プロシア公領プロイセン公国
1525 - 1618 (1525 - 1701)
ポーランド王領プロシア
1466 - 1772
ブランデンブルク=プロイセン
1618 - 1701
プロイセン王国
1701 - 1772
プロイセン王国
1772 - 1918
プロイセン州
1918 - 1947
ブランデンブルク州
1947 - 1952 / 1990 - 現在
ヴァルミア県マズールィ県
1945 - 1999
ヴァルミア=マズールィ県
1999 -
カリーニングラード州
1946 -

プロイセン州は第一次世界大戦敗戦のため、プロイセン王国時代と比べてかなりの領土を失った。ポーゼン西プロイセンシュレージエン東部等がポーランドに奪われた。またダンツィヒ自由都市ダンツィヒとして国際連盟の管理下に置かれた。これらの領土の喪失により東プロイセンはドイツ本土から孤島のように切り離された状態になり、東プロイセンとドイツ本土との往来にはポーランド領であるポーランド回廊を横切るか海を経由するしかなかった。

ヴィルヘルム2世の退位後、プロイセン州はすぐにプロイセン王国時代のプロイセン三級選挙制度英語版などを廃止して全州民に平等に参政権が与えられるなどの改革を急速にすすめ、結果、プロイセン州は左翼勢力の拠点と化していった。特に州都ベルリンは「赤いベルリン」と呼ばれるほどに左翼が強力であった。1919年から1932年までプロイセン州政府はドイツ社民党中央党ドイツ民主党の連立政権で成り立っていた(1921年から1925年にかけてはドイツ人民党も連立に参加していた)。プロイセン州では他の州と違って民主的な政党が支持され続けていた。しかし東プロイセンヴェストファーレンなどの農村部では国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が支持を集めた。

社民党のオットー・ブラウンは、1920年から1932年までわずかな期間をのぞいてほぼプロイセン州首相の地位にあり続け、保守派や右翼を抑圧し続けたが、1932年7月20日にドイツ国首相フランツ・フォン・パーペンがプロイセン州が政府の命令を違反したことを理由にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領に大統領令を出させてクーデタードイツ語版を起こした。ブラウンはプロイセン州首相の座から追放され、他にプロイセン州内相カール・ゼーヴェリングやベルリン警視総監アルベルト・クシェジンスキドイツ語版[3]、副警視総監ベルンハルト・ヴァイスなども追放され、プロイセン州政府内の「ヴァイマル共和国派」「反ナチ派」「左翼」は根こそぎ一掃された[4]。社民党はこれをもって保守・右翼勢力に屈し、ドイツ共産党が提案した首相パーペンへの対抗のためのゼネストへの参加も拒否した[4]。その後、ドイツ首相パーペンは、プロイセン州に帝国委員を設置し、自らが就任してプロイセンの統治にあたった[4]

1933年1月30日にヒトラー内閣が成立するとパーペンはドイツ副首相になるとともにプロイセン州首相に就任した。プロイセン州内相にはナチス党幹部のヘルマン・ゲーリングが就任した。さらに1933年4月にはパーペンから譲られてゲーリングがプロイセン州首相に就任した[5]

ゲーリングは社民党系官吏の一掃するとともにルドルフ・ディールスを長官にプロイセン州秘密警察(ゲシュタポ)を創設させ、共産党員等の逮捕を進めた。さらに突撃隊員5万人、鉄兜団1万人をプロイセン州の補助警官として使用することを決定した[6]。ゲーリングは、プロイセン州を半ば「ゲーリング王国」化していったが、これは中央集権化を目指すアドルフ・ヒトラーの方針と食い違った。結局、1934年4月20日にゲーリングは、ゲシュタポの指揮権をハインリヒ・ヒムラーに引き渡すこととなり、ヒムラーの下でゲシュタポはプロイセン州に限らず全ドイツの秘密警察となる[7]。その後、プロイセン州及びプロイセン州首相の地位と権限は(他州と同様に)元来ナチス党の地方組織であった大管区(ガウ)大管区指導者(ガウライター)に取って代わられ、有名無実化していった。また、大管区編成時においてはプロイセン州も複数の大管区に分割されている。

第二次世界大戦後、連合軍占領期の1947年2月25日に州の廃止英語版が布告された。

歴代プロイセン州首相[ソースを編集]

脚注[ソースを編集]

  1. ^ Beckmanns Welt-Lexikon und Welt-Atlas. Leipzig / Vienna: Verlagsanstalt Otto Beckmann. (1931). 
  2. ^ 1925年時点での統計では、人口は38,175,986人(ドイツ全体の61.17%)、面積は292,695.36 km²(ドイツ全体の62.44%)であった。
  3. ^ ドイツ語発音: [kʃeˈzɪnski] ( Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Duden. p. 379. ISBN 978-3-411-04066-7. )
  4. ^ a b c 阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)200ページ
  5. ^ 阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)231ページ
  6. ^ 阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)217ページから233ページ
  7. ^ 阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)269ページ