スバス・チャンドラ・ボース
| スバス・チャンドラ・ボース | |
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| 通称 | ネータージー |
| 生年 | 1897年1月23日 |
| 生地 |
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| 没年 | 1945年8月18日(48歳没) |
| 没地 |
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| 思想 |
民族主義 社会主義 |
| 活動 | インドの独立運動家 |
| 所属 |
インド国民会議派 前進同盟 |
| 投獄 | 1924年、1939年 |
| 刑場 | 投獄地マンダレー(1回目)、カルカッタ(2回目) |
| 母校 |
コルカタ大学 ケンブリッジ大学 |
| 信教 | ヒンドゥー教 |

スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose、ベンガル文字:সুভাষচন্দ্র বসু
発音、1897年1月23日 - 1945年8月18日)は、インドの独立運動家、インド国民会議派議長(1938 - 1939年)、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。ネータージー(指導者、नेताजी, Netāji。ネタージ、ネタジ とも)の敬称で呼ばれる。
民族的出自はベンガル人。ベンガル語の発音は、シュバーシュ・チョンドロ・ボーシューが近い。
生涯
[編集]生い立ち
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1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のベンガル州カタック(現在のオリッサ州)に生まれた。父親は弁護士で、イギリス人により過酷な扱いを受けていたインド人の人権を擁護することもしばしばであった。ボースはこの父親から大きな影響を受けたと後に語っている[1]。
その後カルカッタ大学に進んだ。大学ではイギリス人教師の人種差別的な態度がインド人学生の反感を買い、学生ストライキが勃発した。ボースは首謀者と見られ、停学処分を受けた[1]。
カルカッタ大学で学士号を取得し、1919年に、両親の希望でイギリスのケンブリッジ大学フィッツウィリアム・カレッジに大学院留学した。大学院では近代ヨーロッパの国際関係における軍事力の役割について研究し、クレメンス・フォン・メッテルニヒの妥協無き理想主義に感銘を受けたと回想している[1]。
独立運動家
[編集]1920年にはインド高等文官試験を受験した。ボース自身の回想では試験には合格したものの、このままではイギリス植民地支配の傀儡となるだけだと判断して資格を返上した[1]。ただし、二次試験の乗馬試験で不合格となったという異説も存在する[1]。いずれにせよこの頃からボースはインド独立運動に参加するようになっていった。
1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。ボース自身は「ガンディーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」という信念を抱いており[1]、ガンディーの非暴力主義には強く反対していた[1]。


ボースは、この頃イタリアで台頭して、イギリスのウィンストン・チャーチルをはじめ世界中で喝采と注目を浴びていたファシズムに魅了され、1926年には「ファシズムと共産主義の新たな総合をインドは実現する」べきであると主張した[2]。そのためイギリス当局は彼を明白なファシストと見なしていた[2]。ボースは、議会内で反ファシストから圧力を受けると自身の見解を穏健化させ、ファシズムではなくトルコのケマル・アタテュルクによる権威主義に関心を向けるようになった[2]。
ボースは1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも逮捕・投獄され、ビルマのマンダレーに流される。釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出されたが、ボースの独立志向とその影響力を危惧した英印植民地政府の手により免職された。
その後も即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍し、勢力を伸ばした。ガンディーは組織の分裂を心配し、1938年度の国民会議派議長に推薦した[3]。ボースはインド独自の社会主義「サーミヤワダ」を提唱し、若年層や農民、貧困層の支持を集めた。この成果に自信を持ったボースは翌年の国民会議派議長に立候補した。議長はガンディーの指名によって決定されることが慣例になっていたが、1年間の議長職だけでは満足しなかったボースは翌年以降も議長職に留まろうと考え、党内初の議長選挙を実施した[4]。この選挙でボースは、ガンディーの推薦するボガラージュ・パタビ・シタラマヤに大差をつけて勝利した。
しかしこの行為はガンディーの支持を失わせることになり、ガンディーを支持する国民会議派の多数派からの支持も失わせることになった[3]。ボースの動きを危険視した党幹部は彼に不信任を突きつけ[4]、議長辞任を余儀なくされた。さらに3年間役職に就けない処分も受けた[3]。議長退任後には前進同盟を結成し、独自の活動も開始した。またボースは統一インドとしての独立を望んでおり、独立派内でのムスリムとの対立が激化する中で、パキスタンが分離して独立する事態を憂慮していたという。ボースは政府から危険人物と見なされ、第二次世界大戦が勃発するとカルカッタの自宅に軟禁された[5]。
亡命
[編集]1939年9月の第二次世界大戦開戦、つまりイギリスとドイツの開戦を知ったボースは、「待望のイギリスの難局がついに訪れた。これはインド独立の絶好の機会である」と述べ[3]、独立のための武装闘争の準備を開始した。ボースは被搾取民族にとって独立達成こそが先決であり、反英諸国のイデオロギーについて論争する「贅沢な余裕はない」という見解を持っていた[6]。1940年6月、フランス降伏とドイツ軍によるイギリス上陸が迫ったことを知ったボースはガンディーの元を訪れ、広範なレジスタンス蜂起のためのキャンペーンを行うように求めた。しかしガンディーは闘争のための準備ができておらず、現在の蜂起は犠牲が大きいとして要請を拒否した[6]。
12月には大衆デモの煽動と治安妨害の容疑でイギリス官憲に逮捕され戦争終結まで収監される予定となった。ボースは反英諸国の支援を受けて国外でインド人部隊を結成し、インドに侵攻して民衆蜂起とともにインド独立を達成する計画を立て、脱獄の機会を待った。獄中でハンガーストライキを開始し、12日目に達した時点でこのままボースに餓死されたら暴動が必ず起こると懸念したイギリス当局から一旦釈放された。ボースは自宅に帰されると、一切の面会を拒否し誰とも会うことなくヒゲを伸ばすなど面相を変えることに注力した[7]。約1か月間、鳴りを潜めて隠遁していた結果、イギリス当局の警戒も緩み、また伸ばしていたヒゲが顔を覆うようになって面相が一変したので、ボースは脱出の機会が到来したと判断、イスラム教徒の回教帽や回教服に身を包んで変装すると、夜10時に夜陰に紛れて勝手口から脱出をはかった。幸いにも、警戒していた警官らに気づかれることなく、ボースはそのまま支持者からカルカッタ駅まで誘導されると、郵便列車の貨車に乗り込んで、3日間かけてペシャーワルに到達した[8]。
その後は徒歩で国境を越えて1月27日にようやくアフガニスタンのカーブルに到着した。そこでボースはソビエト連邦大使館に駆け込んで亡命を申し出ようとした。当時ボースはインドを解放できる国はソ連だけだと考えており、社会主義的思想の点からも親近感を持っていた[9]。しかし、警備が厳しかったのでやむなく断念し、ソ連大使を大使館外で待ち伏せし、帰宅するソ連大使の車を止めて直接交渉しようとしたが、ソ連大使はまさかボースがアフガニスタンにいるとは思っておらず、ボースの申し出を黙殺してそのまま去ってしまった[10]。このときボースは、ソ連の他にも、大英帝国の「敵」であるイタリアのベニート・ムッソリーニやナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーとの連携も目論んでおり[5]、イタリア大使館に接触したところ、ボースの価値を知っていた代理公使アルベルト・カローニは二つ返事で協力を申し出、ローマとベルリンに報告、45日以上に渡る長期間の協議の結果ドイツがボースを受け入れることとなった。ソ連のドイツ大使シューレンベルグの手配でモスクワ経由でドイツに向かうことなり、1941年4月2日、ボースはドイツのベルリンに到着した[11]。
ドイツでの活動
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演説しているのはヴィルヘルム・ケプラー
カーブルでボースの世話をしていた元国民会議派のウッタム・チャンドの回想では、ボースはドイツを「イギリスと同じぐらい」嫌っており、ドイツにいてもソ連に向かうための交渉を行っていたと見ている[6]。それでも4月9日にはドイツ外務省に対し、枢軸国軍によるインド攻撃を含む、インド独立のための構想の覚書を提出している。この覚書に直接の回答は無かったが、4月29日にはヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相と会見する機会を得た。しかし「インドでの蜂起と枢軸国軍によるインド攻撃という計画をドイツが受け入れるには2年間は待つ必要がある」という冷淡な回答があるのみであった[12]。
親イギリス志向の強かったヒトラーは、インド独立運動家を「ヨーロッパをうろつき回るアジアの大ぼら吹き」と呼び、「インドは他の国に支配されるよりは、イギリスに支配されるほうが望ましい」と『我が闘争』に記していた[12]。1941年9月の食卓談話でも「イギリスがインドから追い出されるなら、インドは崩壊するであろう」と述べるなど、人種差別と対英和平の可能性を探っていたことを背景に「イギリスによるインド支配が継続されるべきである」と考えていた[12]。
このためにドイツ政府はボースにベルリン中央部の広大な邸宅をあたえ、自動車や生活資金も供与した[13]ものの、独立運動への直接的な協力には極めて冷淡であった。
6月にはローマを訪れ、イタリア王国のムッソリーニを通じてドイツに影響を与えようとしたが、外相のガレアッツォ・チャーノと面会できたのみであり、ムッソリーニとは会うことすらできなかった[14]。ローマ滞在中にはドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が開始された。ボースはこれに憤慨し、「インドの民衆はドイツが侵略者であり、インドにとってもう一つの危険な帝国主義国であると理解するであろう。ソビエトとの戦争は悲惨な失敗に終わるであろう」という抗議をリッベントロップ外相に送っている[15]。
それでもボースはあきらめることなく、ドイツ外務省との交渉を行った。これをうけて外務省情報局内には特別インド班が設置され、インド問題の専門家とともに活動できるようになった。11月には外務省によって「自由インドセンター」が設立され、在外公館として認可された。同センターはインドに対する宣伝工作を行うとともに、北アフリカ戦線で捕虜となったインド兵から志願者を募り自由インド軍団(兵力3個大隊、約2,000人)を結成した(後の第950連隊)。ボース自身も積極的に反英プロパガンダ放送に参加した。
しかし対英和平の可能性を探っていたヒトラーは、インド独立に対する支持を明確化することは、対英和平交渉において不利になると考えていた[15]。ボースがドイツ政府とヒトラーに求めていた『我が闘争』のインド蔑視部分の説明と、インド独立に対する支持の公式な表明は両方とも拒絶された[15]。
日本との接近
[編集]ムッソリーニやヒトラーとの連携に失敗したボースは、かつては「日英同盟」を結ぶなどイギリスと良好な関係にあったが、この頃は同じく枢軸国の1国としてイギリスとの対立姿勢を鮮明にしていた大日本帝国に目を向けた[5]。
1941年12月に行われた日本軍によるイギリス領マラヤへの攻撃「マレー作戦」をきっかけに、日本がイギリスやアメリカ、オランダなどと交戦状態に入った(大東亜戦争/太平洋戦争)。ボースは「マレー作戦」や香港攻略戦での日本軍の勝利とイギリス軍の敗北を知ると、「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期にヨーロッパの地に留まっていることは、全く不本意の至りである」として、日本行きを希望して駐独日本大使館と接触するようになった。
しかし日本大使館は「考慮中」という対応しか示さなかった[16]。日本の外務省や日本陸軍参謀本部はインド情勢に対する分析が不充分であり、ボースの価値についてほとんど認識していなかった[16]。
マレー作戦の後、日本はインド方面への侵攻を本格化させ、1942年4月にはセイロン沖海戦で連合国海軍を破り、インド洋のイギリス海軍を大きく後退させた。おりしも北アフリカ戦線で枢軸軍がスエズ運河に迫っており、ドイツ側も日本に対して対インド方面作戦の強化を働きかけていた[17]。
日本への移動
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6月15日に日本が占領下に置いた元イギリスの海峡植民地で、「昭南」と改名されたかつてのシンガポールを拠点として、ラース・ビハーリー・ボースを指導者とするインド独立連盟が設立された。
連盟の指揮下にはイギリス領マラヤやシンガポール、香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていたインド国民軍が指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する国民軍司令官モハン・シンと、時期尚早であると考えていた日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が強まっていた[16]。11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者をもとめるようになった。
国内外に知られた独立運動家であったチャンドラ・ボースはまさにうってつけの人物であり、またボース自身も大島浩駐独大使に強く日本行きを働きかけた。またビハーリー・ボースとともに行動していたインド独立連盟幹部のA.M.ナイルもボースを後継者として招へいすることを進言した。しかし陸路、海路、空路ともに戦争状態にあり、イギリスの植民地下にあるインド人が移動するには困難が多かったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。
その結果、空路よりは潜水艦での移動のほうが安全であると結論が出て、1943年2月8日に、チャンドラ・ボースと側近アディド・ハサンの乗り込んだドイツ海軍のUボート U180はフランス大西洋岸のブレストを出航した。4月26日に、アフリカのマダガスカル島東南沖[18]でU180と日本海軍の伊号第二九潜水艦が会合し、翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ[19]。無事に困難な任務を成し遂げた両艦は互いに信号でエールを送り合った[20]。
親愛なるドイツ潜水艦の勇士諸君、我らは共に世界新秩序の建設のため健闘しよう。別れにのぞみ安全なる航海と多幸を祈る。—伊号第二九潜水艦長伊豆寿一中佐
日独両潜水艦の協力により、インド独立の志士を本国に送還し、これによりインド国民がイギリスの不法なる支配より脱せんことを祈る。—U180艦長ヴェルナー・ムーゼンベルグ少佐
5月6日、潜水艦はスマトラ島北端に位置し海軍特別根拠地隊指揮下のサバン島(ウエ島)サバン港に到着した。現地で休養を取った後に日本軍の航空機に乗り換え、5月16日に東京に到着した[19]。
自由インド仮政府
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東京に到着したボースは、かねてから日本を拠点に活動していたビハーリー・ボースやA.M.ナイルらと合流した後、ビハーリー・ボースの後継者としてインド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任した。
しかし当初日本の東條英機首相はボースを高く評価しておらず、ボース側の会見申し入れを口実を設けて拒絶していた[21]。ビルマの戦いで一旦ビルマからイギリスの勢力を駆逐した日本陸軍はインド問題を軽視しており、その責任者である東條も同様の姿勢であり、ボースとの面会を要求を疎ましく思っていたからであった[22]。しかしビハーリー・ボースやA.M.ナイルが仲介したことでボース来日から一ヶ月後の6月10日についに会見が実現した。ボースは初対面の東條に向かって、熱烈たる愛国の至情、卓越した識見、端正な挙措動作、明快なインド独立への主張を披露し、東條はすっかりボースのスケールの大きさに魅入られてしまい、一か月後の再会談も約束した[21]。
東條はボースを「うわさに聞いていた以上の大人物であった。その祖国を思う心情は。我々の胸を強く打った」と評し、ボースの人柄に完全に魅せられて、東條が抱いていたインド観をすっかりと覆してしまった[23]。2回目の会談ではボースより具体的な要請が行われ、「インド独立のため、日本は無条件で援助してくれるか?政治的な条件がつかないことを約束してくれるか?」と単刀直入に切り出したが、東條はボースの要望を承諾した。さらにボースは「日本軍は、インド内まで作戦を進めてくれるか?」とたたみこんできたが、さすがに東條はこれには即答できず。回答を保留している[24]。この後もボースと東條は日本とインドが直面している問題に関する意見を一致させ、東條はその後食事会にボースを招待している[21]。
東條はボースと面会を重ねる度、インド独立への情熱と理路整然として説得力のある話術にすっかり魅了されてしまい、ボースのカリスマ性や人間的な魅力に強く惹かれることになった。帝国議会において東條は「帝国は、印度民衆の敵たる米英の勢力を印度より駆逐し、真に独立印度の完成の為、あらゆる手段を尽くすべき牢固たる決意を持っているのであります」とボースのインド独立構想に日本は全面的な支援を惜しまないとする演説をおこなった[25]。東條はボースの影響でインドの独立に対する考え方を新たにし[21]、またボースの東亜解放思想を、自らが提唱する大東亜共栄圏成立に無くてはならないものだと考えていた。しかし東條はボースの意思を受けて、独立を果たしたインドを大東亜共栄圏に組み込まないという意思を明確にしていた[26]。
6月19日には、来日後に初めてマスコミの取材に応じ、40人もの記者団を前にして反イギリス闘争の歴史を語り、以下の様に締めくくった[27]。
諸君は、アメリカ・イギリス人がこの戦争は、自由および民主主義のために戦われている戦争であるというお題目を、しばしば聞かされてきたであろう。ところがである。自由と民主主義を唱える彼らが、人類の5分の1を占める我らインド人に与えたものはなんであっただろうか。イギリス帝国主義がインドに行ってきた事柄は、道徳と文明の破壊、経済上の貧困、政治上の奴隷化、残忍な圧政、愛国者の惨殺であった。彼らの唱える自由とは、彼らのみの自由であり、我らに与えた自由は死せる自由でしかないのである。今こそ我々は、真の自由を自らの血を流して手に入れなければならない。そのために私は一兵士として戦場にのぞむ覚悟である。剣を抜いた敵に対しては、剣をもって戦わなければならないことをインド国民は知っている。
6月21日には日本放送協会のラジオ放送でインドに向けて、英語、ヒンドゥー語、ベンガル語の三言語で「いまや私は東京にある。東條首相は議会において、インドに関する重要演説をおこなったが、これは画期的宣告として、永久に青史に伝えられるべきである」「今こそ全インド民衆よ武器を持って立ち上がれ」と獅子吼した。この放送はインド本国の民衆および、シンガポールで編成されていたインド国民軍兵士を感銘させた[28][27]。ボースの動きは早く6月27日にシンガポール(日本軍呼称昭南島)に飛ぶと、ビハーリー・ボースからインド国民軍の指揮を引き継ぎ、7月5日には最高司令官就任記念の大閲兵分列式が挙行され、インド国民軍のほぼ総数の13,000人もの兵士と数千人のインド系市民がボースを熱狂的に迎えた。ボースは多数の聴衆を前に「同志諸君、我が兵士諸君、我々の軍隊はインドを解放するだけでなく、インドの未来に輝かしい希望をもたらし、そして世界平和に寄与すべき崇高な使命をおびている」「諸君!我々の叫びは「チャロー・デリー」(デリーへ進め!)である。そして「ジャイ・ヒンド」(インド万歳!)である」と吠えた。すると、広場を埋め尽くした兵士と民衆から「チャロー・デリー」「ジャイ・ヒンド」の大合唱がわきおこった[29]。

ボースはイギリスに対する総力戦を掲げ、昭南のインド系市民の女性で編成する婦人部隊の設立を呼び掛けた。ボースはインド大反乱での女性指導者ラクシュミー・バーイーにならって部隊名を名付けた「ラニー(王妃)・オブ・ジャーンシー連隊」を編成したが、インド系女性の志願が殺到し、たちまち600人の部隊となった。この部隊は世界史上最初期の女性のみの正規軍隊であり、その構成員の多くがシンガポールやマレーのインド系の名家の子女であった。指揮官には女医ラクシュミ・サーガルが任じられ[注釈 1]、男性兵士と同様の戦闘訓練が行われた。厳格に部隊関係者以外の男子禁制が徹底され、婦人部隊が男性と面会できるのは週1回に限られた。このようなボースのなりふり構わない増強策と圧倒的なカリスマで、インド国民軍は40,000人もの規模に膨れ上がった[30]。ボースはその中でも精鋭を選りすぐって、ビルマの戦いで日本軍が制圧し、インド解放への最前線となるビルマに送り込むこととした[31]。
ボースは10月21日に昭南で自由インド仮政府首班に就任、11月には大東亜会議への参加のために再度来日し、独立後にインドを大東亜共栄圏に組み込まないことを理由にオブザーバーとして参加したほか、大東亜結集国民大会で演説を行い、インド独立への支援を日本国民に訴えた。ボースはこの会議の話題を一身に集めた感があり、会議2日目に東條が大東亜共同宣言の採択を宣言、満場一致で採択された後、ビルマのバー・モウが自由インド仮政府を全面支援する提案を行い、この提案が追加で採択された。その後ボースが感謝の言葉を述べるため壇上に上がったが、万雷のような拍手が送られた[32]。
東條はこのボースの演説にすっかりほれ込んで、日本軍の支配下であったアンダマン諸島とニコバル諸島を自由インド仮政府に進呈している[33]。会議後にボースは東條と面談し「日本軍のインド進攻作戦はいつ開始されるのか」と尋ねた。この頃には、緬甸方面軍隷下の第15軍司令官牟田口廉也中将が、インドに侵攻するという壮大な目標を抱いてインパール作戦の作戦計画を策定中であり、東條は「いまのところは、いつということははっきりとは言えないが、目下、大本営と緬甸派遣軍が、インド作戦について研究中である」と答えて、2人は固い握手をかわした[34]。
大東亜会議に出席した各国の代表の中で、ボースともっとも意気投合したのが汪兆銘であった。2人は東京で初めて会ったのにも関わらず、お互い百年の知己のように許し合った。ボースは汪兆銘を「各国代表の中で本当の革命家」として極めて高く評価していた。汪兆銘もボースを高く評価しており、大東亜会議のあと南京に招待している。南京でボース一行は汪兆銘政権要人たちから歓待を受け恐縮しきっている。汪兆銘の気配りは随員のジャガナート・ラオ・ボンスレー少将にまで及んでおり、ボース一行を招いて開催された宴席で、用を足すため中座しようとしたボンスレーを汪兆銘自らがトイレまで誘導し、さらに汪兆銘はボンスレーがトイレから出るまで待っており、ボンスレーは「さすが中国人、インド人にこんなマネはできない」と舌を巻いている。汪兆銘とボースは蔣介石との和平交渉が最も重要な戦局打開策という意見で一致し、ボースは汪兆銘に自分が重慶まで飛んで蒋介石と交渉してもいいと申し出ている。結局このボースの申し出は実現せず、ボースが南京からラジオで蒋介石に呼びかけたにとどまった[35]。
インパール作戦
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ボースは日本滞在中に精力的に東條以外の日本政府や軍中枢の関係者にも会って「私の名前には充分の重みがある。私がベンガル州に現れれば皆が反乱を起こす。ウェーヴェルの全軍(インド兵のこと)が私につく」などと、日本軍によるインド進攻の必要性やその実現性について熱弁していた[36]。多くの要人がボースの人柄と革命家としての強い信念に好感を抱くようになっており[37]、参謀総長の杉山元元帥も「日本軍がインドに足を踏み入れれば、インド全体が服従する」との幻想を抱くようになっていた[38]。
ボースは日本軍の組織を緻密に分析して、現地の軍司令官に直接交渉するのが最も効果があると判断しており、1943年7月末にビルマの独立式典に出席するためビルマ入りすると、早速緬甸方面軍司令官河辺正三中将に面会を求めた。ボースはラングーンの緬甸方面軍司令部に河辺を訪ねると、隠し事をせず胸襟を開いて全てを話した。師であるガンジーとの訣別した理由として、ガンジーは非暴力による独立を説いているが、世界の革命史を見ても武力に頼っているのが殆どであり、ボースは独立のためなら手段は選ばないと考えていること。また、ガンジーは民主主義、自由主義を主張しているが、ボースは独立のためならば主義主張は問題ではなく、共産主義でも手を結ぶつもりなど意見の相違が大きかったことを述べた。さらに河辺に対して「インドの国内情勢は、戦局が枢軸国側に分が悪いので、どちらにつこうかとの迷いが見られる。だからここで一旗あげて、インドに攻め込み、国民の対英妥協を防がなくてはならない」とし、日本軍の進攻を促し、その際にはインド国民軍を作戦正面の担当をさせてほしいと迫った[39]。
熱っぽく自説を説くボースに河辺はすっかりと魅了されてしまい、「りっぱな男だ。日本人にもあれほどの男はおらん」と激賞し[40]「好漢チャンドラ・ボースの壮図に、なし得る限りの協力助成を与えんとする念願が、この際、すでに強く固く暗黙のうち燃え上がった」と全面的な協力を誓っている[41]。ボースに魅了されたのは要人だけではなく、第一線で活躍する指揮官や参謀も同様であった。印度独立協力機関(通称「岩畔機関」)の責任者としてインド国民軍(INA)の組織と指導・自由インド仮政府の樹立に尽力した岩畔豪雄も「自分はこれまで日本人外国人問わず様々な人物とあってきたが、英雄という感じを受けたのはチャンドラ・ボースだけだった。本当に革命家という感じを受ける人物であった」と激賞している[42]。
ボースがビルマ入りしたときには、牟田口がインパール作戦の作戦準備に奔走していた。牟田口の作戦構想は兵站を軽視した杜撰なものであり、日本軍内でも慎重論が根強かったが、河辺は東條から「日本の対ビルマ政策は、対インド政策の先駆に過ぎず、重点目標はインドにあることを銘記されたい」と緬甸方面軍の使命を聞かされていたうえ、太平洋方面で苦戦が続く状況を打開すべく、インドアッサム州に侵攻してから、同州にボースに独立政府を樹立させることで成果を強調し、政権の求心力を高めたいという東條の意向を察しており、次第に河辺を含む日本軍上層部は、ボースの独立を支援することを名目として、牟田口の作戦構想を実現する方向に舵を切っていく[43]。これは、インパール作戦に慎重であった南方軍の参謀も同様であり、牟田口の無謀な構想を警戒してきた参謀の片倉衷少将ですら、ボースの情熱に打たれてしまい、本来であれば極秘であった「実は日本軍は国境を越える計画がある」という作戦計画をこっそり教えている。このようにボースの存在は、インパール作戦決定に向けて少なくない影響を与えることとなった[41]。河辺も主戦場の太平洋から遠く離れたビルマで、かような大規模作戦を実行したのには、ボースに対する日本軍側の「情」があったと回想している[30]。
軍上層部の暗黙の了解のある中で、牟田口は強引に作戦準備を進めていき、1944年1月7日に大本営の作戦認可が下りて、その実施が南方総軍司令官に発令(大陸指令第1776号)された[44]。ボースは前もって河辺らからインパール作戦の認可が下りることを聞いており、作戦認可同日に本拠地をシンガポールからビルマに移動させると、メイミョーの第15軍司令部に出向いて牟田口と面会したが、牟田口も東條らと同様にボースに好感を抱いて、両者はたちまち意気投合した[45]。牟田口は「インパール攻略で手間はとらせません、すべて日本軍におまかせあれ」「日本軍は続いてディマプル、場合によってはブラマプトラ川まで突進します。インド国民軍はそのときの先鋒をどうぞ」などと、大本営が認めていないインド奥深くまでの進攻を約束し、ボースも「ブラマプトラまで行けば問題ありません。あとは私がやります。インドは完全にひっくり返りますよ」と返している。お互い上機嫌となったボースと牟田口は以下の2つの約束を交わした[46]。
- インパール占領後、警備は日本軍が行うが、軍政関係は一切インド国民軍に任せる
- インパール入城のときは、牟田口とボースが車を並べて、威風堂々入城する。
ボースは長年の夢であった、革命軍(インド国民軍)を率いた祖国への凱旋が目前に迫ったと考えて異様なぐらいに力が入っており、このような壮大な申し出を行ったものであるが、牟田口とボースはこの他にも、仮政府は自ら発行する通貨を使うなどの夢物語のような約束を次々と交わしており、それを聞いていた参謀たちは「ボースを勇気づけるだけの外交辞令ならいいが、これが牟田口の本心であったら大事になる」と懸念していた[47]。

ボースはインド国民軍を率いており、ビルマの各戦線に投入する計画であったが[48]、まずはイギリス軍が進撃中であったビルマ西岸のアキャブ方面に投入されることとなった。これは、日本軍がインド国民軍を戦力として期待していたというよりは、インド国内への影響を狙った政治的意味合いの強いものであったが、宣伝謀略上での大きな効果を期待して、少数のインド国民軍が戦闘に参加し、日本軍との共同作戦をとることとなった[49]。やがて侵攻してきたイギリス軍と日本、インド国民軍の連合軍は激突して第二次アキャブ作戦が開始された。インド国民軍の部隊は歩兵第213連隊の1個大隊に同行して、インド国境近い要衝ヌガンギャンまで進撃している[50]。
やがて1944年3月にインパール作戦の開始が決定されると、インド国民軍第1師団主力6,000人も参戦することとなった。これはインド国民軍の精鋭の実戦戦力のほぼすべてであった。当初日本軍はインド国民軍を少数によって破壊工作や住民扇動を行うゲリラ戦力程度にしか見ていなかったが、ボースが東條や杉山に「日本軍と連携して行動する自律軍隊」として扱ってほしいと要請し了承されたものであった。ボースは河辺とも交渉して、インド国民軍を同盟国として扱うことや、インド進撃の先陣を切ることを約束させていた[51]。インド国民軍の兵士の多くがシンガポールの戦いでイギリス軍として戦い捕虜となった兵士であり、「チャロー・デリー」(デリーへ進め!)「ジャイ・ヒンド」(インド万歳!)をスローガンに意気盛んであったが、日本側もインド国民軍の活躍を捏造してまで国内外に報道し、その意義を強調するなど政治的に利用していく[52]。
3月8日にインパール作戦は開始され、牟田口の第15軍はチンドウィン川と渡河して、順調に国境を目指して進撃を続けていった。F機関から緬甸方面軍参謀に異動していた藤原岩市中佐は、インド国民軍兵士と共に国境を越えてインドに足を踏み入れたが、インド国民軍兵士は感激して、互いに泣きながら抱き合ったり、祖国の大地に接吻したり、土を両手ですくい上げて頬ずりしていたという。藤原はその姿を見て「永い間、異民族に征服され圧迫された民族でないとわからない感情」と考えて、見ていて胸が痛くなった[53]。
その後第15軍は、要衝コヒマを攻略、インパールが直接目視できる地点まで進撃し、さらにはインド国内にある連合軍の最重要補給拠点ディマプルに迫りチャーチルやイギリス軍を慌てさせたが[54]、河辺の官僚的で硬直した作戦指導で牟田口から打診あったディマプルへの進撃を許可せず、絶好の好機を逃した後は杜撰な作戦計画が露呈して、第15軍はぜい弱な兵站によって多数の餓死者、病死者を出してインド国内から撃退された。6月にはすでに作戦の失敗は明らかであったが、河辺は牟田口と共にこの作戦を進めてきた経緯もあり、体面的に失敗を認めることができず、「この作戦には、日印両国の運命がかかっている。一兵一馬でも注ぎ込んで、牟田口を押してやろう。そして、チャンドラ・ボースと心中するのだ」と考えて、なかなか作戦中止を決断できなかった[55]。6月中旬にインパール正面の戦況を視察した河辺は、作戦が破綻しつつあることを十分認識していたが、ボースを訪ねて最後まで戦う決意を述べた。それを聞いたボースは以下の様に力説したという[56]。
インド国民軍はいかに戦争が長引こうとも、決してその士気に悪影響を及ぼすことはありません。祖国独立の大目的を達成するためにはいかなる苦難も甘受し、あくまでも日本の指導下に、最後の目標に向かって邁進するのみ。
河辺はボースの口から迸る熱烈不屈の言葉を聞いて、一段と胸を痛めた[57]。
やがて、日本軍はイギリス軍の激しい反撃によりコヒマを奪還され、第31師団が軍司令官牟田口の命令に背いて独断で退却を開始すると、第15軍は組織的に崩壊し、河辺はやむなく作戦中止と第15軍の撤退を命じた。日本軍が撤退を開始したことはボースにも伝えられた。河辺は自らボースに日本軍と共に撤退するよう迫ったが、ボースは憤然として「わがインド国民軍は、祖国の領土に入って感激にひたっている。日本軍は撤退しても、インド国民軍は、自分の領土で死にたがっております」と撤退を拒否した[58]。その後も河辺と緬甸方面軍参謀長中永太郎中将が代わる代わる訪れて「共同作戦軍として、一刻も早く撤退にふみきらないことには、全軍の統制が乱れます」と撤退を懇願した。懇願されたボースは悲憤に咽びながら嘆いたが、3日目になってどうにか撤退に同意した[59]。河辺は戦後になって、作戦中止の判断が遅れた理由の一つに「ボースの壮図を見殺しにできないという苦慮が正純な戦略的判断を混濁させた。つまり作戦の悲惨極まる終末はボースを活かさんとする念願による日本軍最後の頑張りが少なからず影響していたことは否みがたい」と述べている[60]。
ソビエト連邦への傾倒
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ボースの後ろ盾となっていた東條は、インパール作戦と同時に進行していたサイパンの戦いでの責任をとって首相を辞任した。後任となった小磯國昭首相は、インパール作戦の失敗でインド独立の夢が遠のいてしまったボースを慰めるべく、自由インド仮政府樹立1周年記念と称して勲一等旭日大綬章の授与をボースに打診したが、ボースは「この栄誉はインド独立の暁に、部下と共に頂戴する」といって丁重に辞退している。徹底したリアリストのボースはこのような形式的な栄誉よりも、現実の支援を求めており、小磯が東條と同様に自分を支援してくれるのか懸念し、周囲の引き留めを振り切って小磯と会うため、1944年10月30日にビルマを発って東京に向かった[61]。
ボースは東京につくと、精力的に小磯以下の要人と面会し11月6日には昭和天皇にも拝謁した。ボースは小磯らにインド国民軍の強化を懇願した。小磯も東條と同様にボースの支援を約束し「チャンドラ・ボースを助けてやれ」と関係各所に指示しているが、インパール作戦前とは状況が激変しており、日本軍は敗戦続きでインド国民軍に与えることができる物資の余裕などはなかった。さらには、ボースが日本滞在中の11月24日には、111機のB-29による東京初空襲があった。そのときボースは日本軍関係者と会談していたが、空襲警報により軍関係者と一緒に防空壕に避難している。この頃から、リアリストのボースは戦争の先行きを予期しており、日本に見切りをつけてインド独立のために次の手段を考える様になっていく[62]。
この頃にボースは、同行していた光機関の磯田三郎中将に「日本の外務省を介してソビエト連邦と接触し、北からも独立運動を起こしたい。その方が、インド独立の将来のためプラスになるのではないか」という大胆な提案をしている。このボースの申し出は一見すると落ち目の日本を見限って手のひら返しでソ連に乗り換えたと取られかねなかったが、当時日本はソ連と日ソ中立条約を結んでおり、そのソ連を利用してイギリスの植民地支配に楔を打ち込もうとする提案は、日本にとっても有益であり、協力が期待できるというボースの緻密な計算に基づいた提案であった。ボースはお互いに信頼し合い、本音を話せる関係にあった有末精三中将に対しては、単刀直入に「ソ連に行きたい。ビルマ側から攻めて行くのはもう見込みがないから、北方のソ連の方からやってみたら面白いと思う」と依頼してきた。有末はボースの大胆不敵さに脅かされたが、さらにボースは「おれは手を握る相手は誰だっていいんだ。まず、インドの独立が先決だ」と本音を話している。ボースのスケールの大きさに魅入られていた有末は、ボースの大胆不敵な要望を是非ともかなえようと尽力して重光葵外務大臣とも協議したが、時期尚早という結論となった。有末はそのことをボースに告げると、リアリストのボースは即座に現時点では日本を介してのソ連との交渉は困難と考え、自らヤコフ・マリク駐日ソ連大使に親書を送ったが受け取り拒否されている[63]。
ボースがソ連を頼ろうとしたのは、ボースの信条が暴力革命的傾向が強く[64]、また共産主義者であったためとも指摘されるが[65]、インパール作戦末期に在ビルマ海軍武官の中堂観恵中将や光機関の山本敏大佐が、中央アジアのサマルカンドに潜入してソ連当局と連絡を取り、北方からもインド独立運動を進めてみてはどうかとボースに献策していたのも大きなきっかけとなっている[66]。ボースは度々、インドの独立達成が最優先で、そのためには主義主張には拘らず、誰とでも手を組むという話をしており、単に、日本が頼りにならない今となっては、ソ連を通じての独立運動が最も有力だと判断していたものと考えられる[67][68]。
ソ連を通じた独立運動が暗礁に乗り上げる中でもボースの独立に対する熱意は全く衰えることはなかった。日本に庇護されている身ではあったが、決して卑屈になることはなく、外務省には自由インド仮政府を正式な国家として対応するように要求し、天皇の信任状を受けた正式な公使・大使を派遣するよう依頼した。また、日本から様々な援助を受け取っていたが、ボースは全て借款として処理しており、日本政府に借用書を差し入れていた。これは、インドが独立を果たした際に、それまでの援助を理由として日本が影響力を行使しようとすることを防ごうという、ボースの深慮遠謀によるものであった。ボースは革命家として、イギリスがこのような欺瞞策用いてインドを支配してきたのをつぶさに見ており、その成果でもあった[69]。
日本の敗戦
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ボースは11月29日に日本を離れビルマに戻ったが、インパール作戦での敗戦後にビルマの日本軍は総崩れ状態になっており、イギリス軍はビルマ全土奪還に向けて攻勢を強めていた。ボースは既に日本の敗北を予測していたが、最前線で戦うインド国民軍を激励するため頻繁に視察に出向いた。その視察には光機関の高橋喜代次少佐が同行したが、ボースは同行しているボースの幕僚や光機関の機関員が仮眠をとっている間にも、熱心に5~6cmはあろうかという分厚い本を読んでいたという。その本は「アイルランド独立史」で、ボースの座右となっており常に携帯していたものであった。ボースはインド国民軍兵士を激励する他にも、インド人の集落を見つけると必ず出向いて、独立がいかに大事かという演説を行った。すぐ近くで戦闘が繰り広げられ、銃声が聞こえる中でも全く怯まずに演説を続け、集落の住民も全員が熱心に聞き入っていたという[70]。
ボースは常に最前線に行きたがっていたので、高橋はそれを諫めるのに大変苦労していた。それでもついにマンダレー西方のインド人集落でイギリス軍戦車隊に遭遇してしまった。高橋は「これからはあぶないから、引き返してはどうですか」と撤退を求めたが、ボースは一晩様子を見ると言って撤退を拒否した。しかし、イギリス軍の戦車が集落近くまで迫ってくるとようやくボースは撤退に同意し、高橋は一計を講じて、ボースをインド人集落から借用した馬車に押し込み現地民に見せかけて、イギリス軍の目を欺いてどうにかメイクテーラーまで下がった。しかしここも安全ではなく、これからの対応についてボースと日本軍が協議を行った。その協議で日本軍は、イギリス軍の戦車は主要道路に日本軍陣地があれば、その陣地を迂回して側面や後方から攻撃してくるので、メイクテーラーの道路を防衛していても市街地は危険という、日本軍の常とう戦術に基づいた意見を述べたが[71]、ボースは日本軍の意見を否定し「イギリス軍の戦車は、必ず道路のいいところを選んで、正面から攻撃してくる、迂回などはしない」と述べている。ボースはイギリス軍の戦術にも精通しており、実際にボースの意見通り、イギリス軍戦車は主要道路を真っすぐに進撃してきた[72]。
高橋はどうにかボースをピンマナまで撤退させたが、イギリス軍はすぐに迫ってきた。ここでついにボースは討ち死にを決意し、インド国民軍第一師団長を呼ぶと以下の様に訓示した[73]。
アイルランド独立史を読んだら、アイルランドでは独立運動が始まったころには、志士たちはみんな戦って死んだ、しかし数十年経って、跡を継ぐものが出て、ついに独立をかちとった。我々もすでにこういう状態になってしまった。この上は手もとにいる第一師団の兵とともに、ここでイギリス軍を迎えて最後の一戦をやり、死のうと思う。
高橋や周囲は撤退するよう説得したが、今回はボースの意志は固く、全く聞き入れなかった。高橋は師団長とも協議して、仮政府の主席でもあるボースがこんな一戦場で戦死してしまうことはナンセンスであり、インド国民軍が存在する限りは最後まで指揮・指導するのが責務ではないかと説き伏せ、師団長が代わって死守することを申し出たので、ボースは不承不承でラングーンまでの撤退に同意した。ラングーンで、ボースは日本政府や軍関係者との協議を精力的にこなし、インド人の会合や、インド国民軍の兵舎にも足を運んでいたが、遂にイギリス軍はラングーン近くまで迫ってきた。ボースはラングーンから退く気はなかったが、インパール作戦の責任をとって更迭された河辺の後任の緬甸方面軍司令官木村兵太郎大将は、ラングーンを放棄して撤退することを決めたことを聞いて呆れている。そのため、木村からの撤退命令を拒否し、木村を立腹させたが[74]、インド軍婦人部隊ラニー・オブ・ジャーンシー連隊がラングーンにいたため、やむなく日本軍に対して、自分の撤退を条件にインド婦人部隊を鉄道で安全地帯に脱出させるようかけあって、了承された[75]。
4月23日にラニー・オブ・ジャーンシー連隊がラングーンを発った。それを見送っていたボースにベンガル州に残してきたボースの実母が死去したという知らせが入った。光機関の磯田もその知らせを聞き、ボースにお悔やみの言葉を送ったが、ボースは目に涙を浮かべながら「ぼくは小さいときから母には特別にかわいがられた」としみじみ語ったという。ボースがこんなに落ち込んだ姿を見せたのは後にも先にもこの1回限りであった[76]。24日に夜にボースはインド国民軍の殿の部隊とラングーンを脱出し、徒歩でモールメンに向かった。磯田はせめてボースだけでも自動車に乗るように勧めたが、ボースは「いや私は兵士とともに歩いていく」と断り、同行していた婦人部隊の兵士たちを感激させている。一行は川幅が1,500m~2,000mもあるシッタン川をどうにか渡河し、その後も原野を徒歩で国境に向けて急いだ。5月初めにようやく国境を越えてタイに入ったが、そこでボースは駐屯していた日本軍部隊からドイツの敗戦を聞かされて、苦悶の表情を浮かべていた[77]。
バンコクまで撤退したボースは、完全に枢軸国頼みでのインド独立を諦めて、一旦は暗礁に乗り上げていたソ連との交渉を再開することを決意し、遅れてバンコク入りした磯田と以下のような会話を交わしている[67]。
磯田「これからどうなさるおつもりですか?」
ボース「どうするって、そんなことは決まってます。私の生涯はインド独立運動に捧げています」
磯田「しかし、ドイツは敗北し、日本の前途も、もう絶望的になっているのは御存知でしょう」
ボース「むろん、よく知っています。しかし、私が独立運動をやめるときは、それは私が死んだときです。ですからわたしはまだあきらめない。もはやドイツも日本も頼れなくなった以上、この次は北方から祖国インドへ独立運動を働きかけたいと思っています」
磯田「北方というと?」
ボース「ソ連邦からです。今はソ連はアメリカ、イギリスと連合国になっているが、それは共通の敵のドイツを倒すために仮に手を結んでいるだけで、いずれは、ソ連はイギリスと敵対することになる。だから、私はソ連に行ってスターリン首相と会い、ソ連の援助を得て北方からインドへ独立運動を展開したいと思っている」
磯田「ソ連と握手するのですか?」
ボース「わたしはインド独立のためには、たとえ悪魔とでも握手をするのです」
磯田はボースの言葉に感動し、ボースこそが真の愛国者だと今更ながら痛感させられている[78]。
ボースは8月6日の広島への原爆投下を知り、いよいよ日本の敗戦も間近と悟ると、日本政府を通じて再度ソ連と接触するため、日本行きを申し出た。しかし、このボースの申し出を聞いた軍中枢は「ボースが日本に亡命しても、日本は間もなく連合軍に占領されるので、そのときにボースも戦犯として逮捕されてしまう可能性が高い、それよりむしろ、アメリカやイギリスの影響がない場所に脱出して再起をはかるべきではないか」と判断して、ボースの為にこの申し出を断っている。この判断をしたのが誰かは不明であるが、光機関の機関員も同じ考えで、ボースが日本に行ってイギリスに捕まれば、反逆罪で死刑になるかも知れないとボースを説得し、ボースも日本行きを諦めた[79]。それから数日後の1945年8月15日に日本は戦争に敗れ、ボースが日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることは不可能となった。
ボースが日本の敗戦を知ったのは、バンコクの日本大使館の坪上大使からの手紙であり、ボースはこの手紙を、シンガポールでのインド国民軍視察中の8月13日に、ボースの通訳を務めていた三菱商事シンガポール支店の根岸忠素から受け取った。手紙の内容を知った根岸は激しく動揺したが、ボースは慌てることもなく、インド国民軍の訓練視察を切り上げてシンガポールからバンコクに戻ることにすると、動揺する根岸に「ポツダム宣言を天皇の命令で受諾した以上、全日本人はこれに従わなねばならないと思う。しかし、私は信じている。決して日本は滅びないであろうと。ただ天皇は戦犯にとわれるかもしれないが、日本は天皇制を廃止してはいけない」と冷静に言って聞かせたという。それを聞いた根岸は「じゃあどうしたらいいんです」と尋ねると、ボースは「皇太子をたてRegentをつければいい」と即答した。根岸はRegentという英単語を今まで使ったことがなく、一瞬意味が解らなかったが、「摂政」のことだとようやくわかり、ボースは旧・皇室典範にまで精通していると知ってその大変な頭脳に驚愕するとともに、自分も大変な立場に置かれたのにも関わらず、日本の将来を考えていることに「やはり偉大な人物は違うな」と感心している[80]。
満州への脱出
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8月16日に空路でバンコクに戻ったボースは、自由インド仮政府主席代理のジャガナート・ラオ・ボンスレー少将と光機関の国塚一乗大尉に迎えられた。ボースと並んで歩いた国塚は「このたびは、大変残念なことで・・」とボースのインド独立という悲願に日本が応えられなかったことを詫びたが、ボースは「いや、本当に残念なことでした。私は、三度も東京に行って多くの将軍を知っているが、その方々が今度の敗戦の責任をとって切腹されるかと思うと、まことにお気の毒でたまらない。勝敗は天命だが、この責任をとって次々自害される方々は痛ましい」と答えている[81]。
その日の深夜まで、ボースは最高幹部を招集して今後の計画を練った。その中には、中国共産党の支配する延安に自由インド仮政府を置く計画もあったとされるが[82]、まずソ連に協力を仰ぐべく、8月9日のソ連対日参戦により、ソ連軍がなだれ込んでいた満洲国へ向かう計画に取り掛かった。ボースは最低限の副官らを連れ満州までどうにか行って、ソ連軍の指揮官に直談判しモスクワまで連れていってもらうことを望んだが、根岸はボースの計画を支援すべく、光機関にボースを満州に送り届けるようかけあった。ちょうど、緬甸方面軍の四手井綱正中将が関東軍の参謀副長に任じられ、戦後処理のためにサイゴンから満州に空路で行くこととなっており[83]、光機関長の磯田は、その輸送機にボースとその一行を乗り込ませるために南方軍司令部に直談判した。しかし、その輸送機は既に搭乗予定者が決まっており、南方軍からはボース1人の搭乗を許可してきたが、ボースが側近との同乗を強く望んだため、最終的に副官のハビブル・ラーマン大佐の同乗が認められ、他の外務大臣ら側近5人は後の便に搭乗することとなった[84]。ボースはこの危険な満州行きの計画を「未知なるものへの冒険」と称した[85]。
8月17日にボースはサイゴンまで行くと、九七式重爆撃機が待っていた。乗客はボースと副官のハビブル・ラーマン大佐と四手井の他に、機長の第7飛行師団参謀野々垣四郎中佐、同じく参謀の河野太郎少佐、第15軍参謀酒井忠雄中佐、高橋巌少佐、シンガポール航空補給処の軍属で科学者の荒井渓吉大尉の8人の乗客と、飛行班長で本機の操縦員であった滝沢参朗少佐、同じく操縦員の青柳准尉、整備士、無線士、機関士の合計13人もの乗員・乗客がこの機に乗り込むこととなっていた。この機体は、以前に着陸に失敗し左翼のプロペラが地面に設置して15cmほど折れ曲がったことがあったが、交換部品が無かったので、曲がったプロペラを叩き直して使用していた。そのため、実戦任務には使用せず、もっぱら輸送や連絡の任務に就いていた[86]。
九七式重爆撃機の通常の搭乗人員を超える人数のうえ、各乗客は大量の荷物を持ち込んでおり、積載能力に対して過剰気味であった[87]。さらにボースは、これまで独立運動の軍資金のためとして東南アジア在住300万のインド人から多額の寄付を受けており、その一部の宝石と貴金属が詰まった二つのスーツケースを持ち込んでいた[88]。また、この機体には、増加燃料タンクが機内中央部に設置されて満タンの航空燃料も搭載されており、その重量も足かせになっていた。午後5時に積載能力を超過していた九七式重爆撃機は滑走路いっぱい滑走してどうにか飛び立った。通訳の根岸とボースの側近で自由インド仮政府の重臣5人はボースを乗せた九七式重爆撃機を敬礼して見送った。根岸はいたたまれない気持ちになり「あなた方は日本をパートナーに選んだので、このようなことになったのだ。私はいち日本人として申し訳ないと思う」と重臣たちに泣きながら詫びたが、重臣は「そんなことは言わないでほしい。全てはこれからはじまるのではないですか。お互いにしっかりやりましょう」と逆に慰められている。この重臣たちはボースを追うことはできず、後日進駐してきたイギリス軍に捕らえられた[89]。
ようやく離陸できた九七式重爆撃機であったが、エンジンの回転数が最大許容数の毎分3,300回転を超過することもあった、操縦席後ろから計器を見ていた航空参謀の河野は不可思議に思い「人間は13人しか乗っていないのに、なぜこんなに重いんだ、出過ぎている」と操縦士に話しかけると、青柳が「重いからしょうがないんです」と答えている。機長の野々垣の判断で、夜間飛行を避けるため一旦トゥーロン飛行場に着陸し、ここの兵舎で一同は一泊した。四手井は英語、フランス語、ドイツ語が堪能で、荒井もドイツ語に通じていたので、ボースと四手井と荒井は夜更けまで語り合った。荒井の記憶では、ボースは戦後のインドについて熱っぽく語っていたとのことで、この窮地にあってもボースの祖国独立への熱意はいささかも衰えていなかった[90]。乗客が兵舎で休んでいる間、航空参謀の河野と操縦士の滝沢が、乗客と持ち込んだ荷物の数の割には機体が重すぎると疑い、爆弾倉を開けてみたところ、軍の上層部や大使館員が密かに運び込んでいた高級洋酒や立派な洋服の生地などの贅沢品が詰め込まれているのを見つけ、呆れた河野はそれら贅沢品を全部下ろすと、勝手に飛行場にいた兵士に配ってしまった。さらに、既に戦争は終わり、交戦の危険性もないことから装備していた対空機銃と弾薬を全て放棄して機体の軽量化を図った[91]。
翌8月18日の午前5時に一同を乗せた九七式重爆撃機はトゥーロン飛行場を飛び立ち、台湾の屏東に向けて飛びたった。トゥーロン飛行場の滑走路は1,300mしかなかったが、昨夜に機体を相当に軽量化していたので無事に離陸できた。一行は屏東で台湾の情勢を調べて次の目的地を決める予定であったが、無線士がソ連軍が急進撃を続け大連を目指してるという無線を傍受したので、四手井がソ連軍が到達する前に大連に到達する必要があると主張し、機長の野々垣は屏東を素通りし、一気に台北の松山飛行場に向かうことに決めた。九七式重爆撃機は高度4,000mを飛行していたが、ボースは寒かったらしく、持参していた服を重ね着して厚着となっていた[92]。これがのちにボースの命取りとなってしまう。九七式重爆撃機は正午少し前に松山飛行場に無事着陸し、一同はここで昼食をとった。ボースもサンドウィッチとバナナを食べたが、食べながら何かしきりにメモをとっていたという[87]。
事故死
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ボースらが食事と休憩をしている頃、航空参謀の河野と操縦士の滝沢と青柳と機関士の4人が機体の点検を行っていた。すると、これまではなかった左エンジンのぶれが生じており、異常な振動が操縦席まで伝わってきた。そこで一旦エンジンを停止し、エンジンカバーを外して点検してみたが、特に異常もなく、再度エンジンを始動するとさっきのぶれは収まっていたので、飛行可能と判断した[93]。点検と補給を終えた九七式重爆撃機は、8月18日午後2時に大連に向かうべく滑走を開始した[94]。 滑走中、河野は計器をにらんでいたが、明らかに異常なほどにエンジンの回転数がどんどん上がっていき、ついには最大許容の3,300回転に達した。軽量化を図ったといっても機体は依然として重く、なかなか離陸できなかったが、滑走路の3/4まで滑走したところでようやく機体が浮き上がった[95]。
機体は30mの高さに浮き上がっていたが、エンジンの回転数の異常さに河野は危険を感じて、咄嗟に風防のガラス越しに左翼を見ると、ガタガタと衝撃が来て目の前で左のプロペラが轟音と共に抜け飛び、ついで左エンジンが脱落した[96]。機体は左に大きく傾くと、そのまま機首から地面に激突したが[97]、高度が低かったのと、墜落時に土手に右翼が接触したことが、かえって緩衝の役目を果して機体の破壊は大きくはならなかった。しかし不幸にもボースと四手井が座っていた機体中心部には、増加燃料タンクが機体天井からぶら下がっており、四手井はタンクが直撃して即死、ボースは壊れたタンクから漏れた航空燃料を全身に浴び、厚着していた衣服にたっぷりと航空燃料がしみ込んでしまった。やがて火災が発生すると、ボースの衣服にも引火してたちまち火だるまとなった[98]。それでもボースは超人的な精神力で燃え盛る操縦席の上部を破って外に転がり出た。同乗していた副官のラーマンは奇跡的に軽傷で済んだので、慌ててボースのもとに駆け付けると、炎上する衣服を剥がしてボースを覆っていた火災を鎮火させようとした[95]。その後、飛行場大隊の兵士も駆け付け、どうにかボースについた火は鎮火したが、全身に大火傷を負ってしまった[99]。
力尽きたボースはラーマンの傍らで横になったが、自分が重症にも関わらずラーマンに「大けがをしているのではないか?」と声をかけている。ラーマンは自分は無事なことを伝えると、ボースは「私はもういけないかもしれない」とあきらめの言葉を口にした。そこでラーマンが「何をおっしゃるのですか、ネタージには神がついておられます」と励ましの言葉をかけると[100]、ボースは苦し気に呼吸しながら以下のような言葉を遺したという[101][102]。
インド独立の最後を見ずにして死ぬことは残念であるが、インドの独立は目睫の間に迫っている。それ故、自分は安心して死ぬ。自分の一生涯をインドの独立に捧げたことに対しては少しも遺憾がないのみではなく、非常にいいことをしたと満足して死ぬ。
ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ。
この事故での即死者は、四手井と操縦士の滝沢と無線士と整備士の4人であり、乗客8人のなかに即死者はいなかった[94]。ボースは台北市内の台北陸軍病院南門分院運ばれたが、頭のてっぺんから足まで焦げてないところは殆どなく、毛髪は完全になくなっていた。軍医の吉見胤義大尉は、運ばれてきたボースを一目見るなり、助からないと判断した[103]。治療は吉見を含む3人の軍医が行い、全身に消毒薬リバモールや白い軟膏を塗布して、包帯を巻いた。さらに、弱った心臓のために強心剤のビタカンフルとデジタミンを30分おきに合計6回注射で投与し、火傷で体から急速に水分が失われたため、リンゲル液を静脈内投与した。病室では看護助手三井一夫二等兵と数人の従軍看護婦が介助し[104]、通訳の中村が付き添っていた[105]。ボーズはこれほどの重症にも関わらず、意識ははっきりしていた。重度の火傷は激痛が伴うもので、他の負傷者たちは激痛で苦しみ悶えていたのに対し、ボースは苦悶の表情を浮かべることもなくじっと耐えており、治療にあたった吉見らは「偉い人はやはりどこか違うんだな」と感心している[106][100]。
機長の野々垣は軽傷で済んだため、すぐに病院長にボースの容体を聞きに行ったが「全身火傷でもうダメらしい」ということだった。そこで台湾軍の憲兵隊に連絡を取り、大本営と南方軍にボースが航空機事故で余命いくばくもないことを報告してほしいと依頼した。その後、ボースの命が長くないのであれば、色々と話をきいておかないといけないと考えて、ボースの病室に行くと「何かおっしゃることはありませんか?」とたずねた。するとボースは聞き取れないほどのか細い声で「天皇陛下と寺内さんによろしく伝えてほしい」とだけ答えた[107]。また、病室で付き添っていた通訳の中村は3度ボースが呟くのを聞いている。1回目は、ボーズの側近が後ほど台北に到着するので、よく面倒を見てほしいとの要請であり、2回目は、身体中の血が頭にのぼっていくようだと軍医にうったえ、3回目は水を求めた[108]。
夜に入るとボースの容体は急変し午後11時41分に息を引き取った。吉見以下付き添いは立ち上がってボースの遺体に敬礼し、ラーマンは遺体の横に跪いて拝礼した[108][注釈 2]。死亡診断書の死因は「第三度火傷」とされた。大本営はボースの遺体を東京に送るように命じたが、夏期である上に火傷による損傷が激しく、止む無く現地で火葬することになった[101]。遺体は一晩病院に安置された後、台湾軍司令部が引き取り、8月20日に、台北市営火葬場で荼毘に付され、台北市内の西本願寺で法要が営まれた[109]。
葬儀
[編集]ボースが機内に持ち込んでいた宝石や貴金属は、炎に包まれたものの全てが焼失したわけではなく、2つのスーツケースに入れられていた数千カラットの宝石もしくは、1,000万ルピーの価値とも、30万ルピーの価値とも言われた財宝は[110]、事故後に日本軍が捜索した結果、ガソリンの一斗缶程度の量が回収されてラーマンに渡された。しかし、日本軍が組織的に崩壊していく中で、ボースの遺骨と遺品を抱いたラーマンには行き場所がなく、困ったラーマンは同乗者に「日本に行って大本営と相談したい」と申し出た。同乗者のなかで第15軍参謀酒井が台湾軍と交渉し、日本本土に飛行する緑十字の九七式重爆撃機に乗れることとなり、9月5日にボースの遺骨の入った白木の箱を抱いたラーマンと酒井と2人の台湾軍将校を乗せた九七式重爆撃機は福岡の雁ノ巣飛行場に到着した。福岡では西部軍からボースの遺骨と遺品を守るために3人の護衛兵を出してもらい鉄道で東京に向かった[111]。
9月7日にラーマンら一行は東京に到着し、ボースの遺骨と遺品は大本営に託されたが[101]、既に東京にはダグラス・マッカーサー元帥率いるGHQが進駐しており、GHQが関わるとややこしくなると考えた大本営の参謀は、インド独立連盟東京代表ラマ・ムルティを呼び出すと遺骨と遺品を引き渡した[112]。その後、ラーマンはGHQに拘束されて取り調べを受けたが11月には帰国を許されている。ムルティは、法要を営んでもらおうと、戦時中の戦勝祈願の法要でボースと関係があった日蓮宗妙法寺に遺骨を持ち込もうとしたが、打診を受けた妙法寺はGHQが目を光らせる中で、イギリスから見れば反逆者となるボースの法要を行うのは困難と考えて、同じ日蓮宗の蓮光寺の住職望月教栄に相談したところ、望月は戦勝祈願の法要で見たボースの立派な姿を忘れておらず、「坊主として亡くなった人の供養をするのは当然のこと、霊魂に国境はない」「仮に進駐軍が来て、あれこれ文句を言う様じゃ、彼らの占領政策がうまくいくわけない」と断じ、妙法寺からの打診を受け入れてボースの遺骨を引き受けることとした[113]。9月18日にムルティと約30人ほどの在日インド人がボースの遺骨を持って蓮光寺を訪れ葬儀が行われた[112]。ムルティは大部分の遺骨を蓮光寺に託し、以降蓮光寺によって遺骨は保管されたが、望月はボースの死を認めたくないインド人による遺骨奪回を怖れて、遺骨を抱いて眠ったこともあるという[114]。またムルティは遺骨の一部を個人的に保管し、その死後にはムルティの弟の元に渡り、2006年にはボースの兄の孫に返還されている[115]。
現在もラージェーンドラ・プラサード大統領、ジャワハルラール・ネルー首相、インディラー・ガンジー首相などといったインドの歴代首脳が訪日した際には蓮光寺を訪問しており、その時の言葉も碑文として残されている。また、多くのインド人観光客や在日インド人も訪れている。
ボースの遺品となった財宝は6年間ムルティが東京で保管していたが、1951年9月24日にインド政府により接収された。その後インドの国立博物館で調査が行われた結果、評価額は10万ルピーほどであったという。しかし、ボースが機内に持ち込んだ財宝がどのくらいであり、また日本軍が回収した全てをラーマンに渡したのか、ムルティが受け取った財宝が全てインドに接収されたかなどの謎は残った[116]。
死に対する議論
[編集]ボースの死の知らせを受けたインド総督アーチボルド・ウェーヴェルや連合国東南アジア方面軍司令官ルイス・マウントバッテンのみならず、ガンディーでさえも日本の発表を信じず、ボースが独立闘争の継続のために日本の協力のもとに逃亡したと考えていたように、公式情報を信じない向きはその当時から存在した[101]。また戦後からしばらくの間、世界各地でボースの目撃情報が相次いで伝えられている[101]。
加えてボースと近い立場にあったA.M.ナイルも自書内で、今や敗戦国となった日本を経由して日本の旧敵国のソ連へ向かおうとする事が不可能であったことや、ボースの敵であるイギリスと同じ連合国の1国であるソ連と協力を行おうとすることの不可解さ、さらに事故の際に「死んだ」とされる日本人の複数の同乗者がその後も生存していたことや、ボースとS.A.アイエルが持ち出した、宝飾品などを中心とした仮政府の資産が行方不明になっているとして、ボースの「飛行機事故死」に疑問を投げかけている。特にインドにおいてボースの事故死を信じない者を中心として、生存説を支持する論説もたびたび出されている[117]。
これらの疑問に対し、インド政府は過去3度にわたって調査委員会を組織し、1956年(シャー・ナワズ委員会、シャー・ナワズはインド国民軍で最高幹部の一員を務め、戦後のインド国民軍裁判被告のひとり)、1970年(コスラ委員会)、2006年(後述)にそれぞれ報告書を作成している。最初の2回(実施時の政権与党はいずれもインド国民会議派)は「飛行機事故で死亡し生存の可能性がない」と結論づけた。
しかし、インド人民党が与党であった1999年に組織した3度目の調査委員会であるムカルジー委員会は「飛行機事故は連合軍によるボースの追跡をかわすために日本軍が作り上げた」とし、蓮光寺の遺骨はボースのものではなく、ボースがすでに死亡していることは間違いないものの死因については「説得力のある証拠がない」として具体的に言及せず[注釈 3]、恐らくソ連に向かったとしたうえ、シベリアで厚遇されるボースを見たという証言、ソ連のニキータ・フルシチョフ第一書記が「45日以内にインド(当時はネルー首相)に返せる」と語ったなどの通訳の証言を集めた[119]。

この3度目の報告書が発表された2006年には、政権与党は再びインド国民会議派などによる統一進歩同盟 (UPA) 連立政権に移っており、発表時のインド政府はムカルジー委員会の「調査結果に同意しない」と表明した。ただし同意しない理由については「複数の友好国との関係」を理由に公表を拒んだ。
このほかボースの甥の妻は「政府の考えに賛成だ。墜落死には多くの証拠があり、遺骨はチャンドラ・ボースのものだ」とコメントした[120]。
その一方で、1985年9月にウッタル・プラデーシュ州ファイザーバードで死亡したバーグワンジー(またはグムナミ・ババ)という人物こそボースだったという主張もインドでは根強い[注釈 4]。
さらに2012年には 『India's Biggest Cover-up』という書籍が通常版、Kindle版で刊行されプラナブ・ムカルジー大統領の隠蔽工作への関与が名指しされて論争が再燃(最大級の英字紙ザ・タイムズ・オブ・インディアなど[121] 各メディアがこぞって取り上げた)、2013年1月にはイラーハーバード高等裁判所が実際にボースであったかの再調査を命じている[122]。
2017年5月30日、インド政府は市民団体の情報公開請求に対し、ボースが「1945年8月18日、飛行機事故のため台北で死亡したと結論付けた」と回答し、生存説を公式に否定した[123]。
死後のインド
[編集]
戦後すぐにイギリス軍は、インド国民軍を反逆罪にあたる「国王・皇帝に対する戦争遂行」の罪で軍事裁判で裁くべく準備を進めた。日本からも外務省や大本営や光機関などインド国民軍に関わった関係者が軍事法廷に証人としての出廷を命じられた。この裁判はオールド・デリーのレッド・フォートで開廷されたので、レッド・フォート裁判とも呼ばれた。当初は7,600人ものインド国民軍将兵が裁かれる予定であったが、犯罪の立証が困難であったため被告は300人に絞られた。しかし、インドではインド国民軍を英雄視する世論が高まりつつあり、イギリス軍は「国王・皇帝に対する戦争遂行」の罪で裁くのは困難だと考えて、まずは、部隊指揮官であったプレム・サガル大佐、グルバクシュ・シン・ディロン大佐、シャー・ナワーズ・カーン少将を、同じインド人を殺害や暴行したという、苦し紛れの一般の殺人罪や暴行罪といった罪状で起訴することとした[124]。
3人の裁判は全インド国民の注目を集め、反英感情を駆り立てた。裁判の証人として軍事法廷への出廷を命じられていたF機関の藤原岩市が、事前に起訴された3人と面会したが、予想に反して血色はよく闘志満々であり、「日本軍に騙された」などとの批判を覚悟していた藤原に対してサガルは開口一番「メイジャー・フジワラ(藤原少佐)」と抱き着いてきて、驚いている藤原に対して以下の様に話したという[125]。
(裁判は)大丈夫に決まっている。我々が逆にイギリスを裁いている。
我々の一人でも銃殺にしたら、インドにいるイギリス人は、最後の一人まで生きては帰れまい。
独立の日まで徹底的に戦うんだ。
藤原はボースの遺志を継いでインド独立の為に戦い続けている3人を見て、熱いものがこみあげて胸がいっぱいになった[126]。
インドのマスコミはインド国民軍を英雄視する報道を流し続け、被疑者であるはずの300人のインド国民軍兵士は、一応レッド・フォートの収容所に拘置されていたが、家族などとの面会は自由で、毎日インド国民軍の軍歌を合唱して気炎を上げていた。インド国民軍兵士は戦時中から来ていたボロボロの軍服を着続けており、気を使っていたイギリス軍から新しい制服を支給されたが、「ネータージー(ボース)からもらった服は絶対に脱がん」と着替えるのを拒否した[127]。裁判の期間中、カルカッタ、デリー、カラチ、ポンペイなどで反英暴動が起こり、イギリス軍は治安維持に手を焼き、治安責任者が「この裁判を継続したらインドの治安に責任は持てない」とイギリス本国に泣き言めいた報告をする有様であった[128]。
結局、3人には階級はく奪と無期懲役の判決が下されたが、執行は猶予された。さらに国外追放も言い渡されたが、インド国民の反発を見たインド駐留軍総司令官クロード・オーキンレック元帥はその取り消しを余儀なくされた。そして残る300人のインド国民軍将兵の裁判は全て中止されて全将兵が釈放された[129]。この裁判に対する国民的反発が、イギリスがインド支配をあきらめる一因となったとも評され、インド独立運動における国民軍とボースの貢献は現在では高く評価されている[130]。
ただし、ガンジーの非暴力不服従路線と違い、多くの犠牲を出した点や、日本やドイツと手を組み活動したことから否定的な見方も存在する[129]。実際、独立後のインドを主導したネルーは、10年以上ボースの話題を口にせず、ラジオでも極力報道しないよう指導していたという[115]。
なお、インドの国会議事堂の中央大ホールにはガンディー、ネルーらの肖像画のみが掲げられていたが、1978年にはそれに並んでボースの肖像画も掲げられるようになった[131]。またデリーのレッド・フォートには、かつてイギリス国王にしてインド皇帝でもあったジョージ5世の銅像が存在したが、代わりに現在はインド国民軍とボースの銅像が建っている[131]。また1998年にはネータージー・スバース工科大学が設立されている。
ボースの出身地であるベンガルの中心地コルカタには、彼がインドを脱出する直前まで住んでいた邸宅(ネタージ・バワン)もあり、記念館となっている(2007年に安倍晋三首相が訪問した)。またコルカタには彼の名を冠したネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港があり、2005年にはインド映画『Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero』が公開されるなど、インドでは現在も人気が高い。
前進同盟は戦後に政党全インド前進同盟として再結成され、ボース流の民族主義的な社会主義を唱えて活動しており(現在はインド共産党マルクス主義派などとともに左翼戦線を構成)、ボースの出自にあたる西ベンガル州を中心に根強く支持されている。ほかマレーシア・インド人会議も党の行事でボースの活動を顕彰している。
2022年9月8日、インド門の近くの天蓋に設置される高さ28フィートのボースの花崗岩像が公開され、インド首相のナレンドラ・モディが公開式に参加した[132]。
人物評
[編集]- 独立運動家のA.M.ナイルはボースの人柄について自己顕示欲が旺盛で自信過剰、そして非妥協的な闘争性を持っていたと指摘している[3]。このため、ボースの態度が横柄であると感じる者も多かった。来日直後にボースと面会した日本政府関係者も「やけに尊大ぶる男」であると報告し[133]、またイタリア外相のチャーノも「横柄な人物」と評している[12]。
- 一方でそのインド独立に対する情熱や人柄によって東條英機や河辺正三を魅了した。ボースとの会見後、東条英機は「ありゃあ、人物だあ」ともらしている[134]。しかしこれらの人間関係が、日本の戦略に大きな影響を与えたという指摘も存在する。
- ボースはインド独立という目標を成し遂げるためにどんなことでもやるつもりであった。ボースはヒンドゥー教徒であったが、インド国民軍の兵士にはパキスタン系のイスラム教徒もいた。ヒンドゥー教徒は牛肉を食さず、イスラム教徒は豚肉を食さないため、インド国民軍では献立に苦労していたが、ある日、ボースを含むインド国民軍幹部と光機関が会食した際、磯田が気を使って「献立は何がいいですか?」と尋ねると、ボースは即座に「すき焼きがいい」と答えて、運ばれてきた牛肉が入ってるすき焼きを美味しそうに平らげてしまったという。この様子を見ていた磯田は、ボースが率先して宗教上で禁じられている食べ物を食することにより、インド独立を成し遂げるためには、宗教上のことでいがみ合っている場合ではないと自ら垂範しているのだと感心し、やはり偉い人物だとつくづく感じたという[135]。
家族
[編集]
1937年に秘書のオーストリア人女性[注釈 5]エミーリエ・シェンクルとオーストリアのザルツブルク州バート・ガスタインで結婚した。しかし結婚の事実は公表していない。結婚生活では一女・アニタ・ボース・プファフをもうけた。
著書
[編集]日本語訳
[編集]- 『印度の闘争』田中正明訳、興亜書房、1942年。
- 『闘へる印度 S.チヤンドラ・ボース自伝』綜合インド研究室訳、綜合インド研究室、1943年。
- 『独立印度への道』 興亜小冊子 大政翼賛会、1944年。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ラクシュミは自由インド仮政府で女性組織担当大臣も務めている。
- ^ 戦記作家児島襄によれば、ボースの最期は以下の様だったという。「夜に当番兵がボースに「何か食べたいものがあるか」と聞くと、「カレー」と答えたように聞こえた。当番兵がカレーライスを作り、スプーンで食べさせると、ボースは「グッド」と答えた。しかし2口3口食べると、ボースはそれきり動かなくなった。午後11時41分のことであった。」[94]
- ^ ムカルジー委員会の委員長によると、蓮光寺の遺骨のDNA型鑑定も検討したが、技術的に困難といわれたため断念した[118]。
- ^ ムカルジー委員会の委員長は後に個人的印象として100%、ボース本人だと述べた
- ^ 翌年にオーストリアがドイツに併合されたこともあり、歴史書の中でしばしば「ドイツ人」とされている
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- 土門周平『最後の帝国軍人―かかる指揮官ありき』講談社、1982年。ISBN 978-4062000864。
- 土門周平『インパール作戦 日本陸軍・最後の大決戦』PHP研究所、2005年。ASIN B0777GJMV8。
- 池田佑 編『大東亜戦史』 2 ビルマ・マレー編、富士書苑、1969年。ASIN B07Z5VWVKM。
- 浜地利男『インパール最前線』叢文社、1980年。ASIN B000J8AUJO。
- 浜地利男『インパール最前線 続』叢文社、1983年。ISBN 978-4794700896。
- 関口高史『牟田口廉也とインパール作戦 日本陸軍「無責任の総和」を問う』光文社、2022年。ISBN 978-4334046163。
- ウィンストン・チャーチル『第二次世界大戦〈4〉勝利と悲劇』佐藤亮一(訳)、河出書房新社、1975年。ASIN B000J9EIUA。
- 棟田博『革命児チャンドラ・ボース』国土社〈国土社ノンフィクション全集13〉、1976年。ISBN 978-4337189171。
- 国塚一乗『インパールを越えて: F機関とチャンドラ・ボーズの夢』講談社、1995年。ISBN 978-4062074674。
- 長崎暢子『インド独立: 逆光の中のチャンドラ・ボース』朝日新聞出版、1989年。ISBN 978-4022560483。
- 伊藤正徳『帝国陸軍の最後』 3(死闘編)、角川書店〈角川文庫〉、1973年。全国書誌番号:75087525。
- Gordon, Leonard A. (2006), “Legend and Legacy: Subhas Chandra Bose”, India International Centre Quarterly 33 (1): 103–112, JSTOR 23005940
- Gordon, Leonard A. (1990), Brothers against the Raj: a biography of Indian nationalists Sarat and Subhas Chandra Bose, Columbia University Press, ISBN 978-0-231-07442-1 2013年11月16日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Real Understanding of Netaji : Subhas Chandra BOSE
- 杉並区の蓮光寺に眠り続けるボースの遺骨
- 『チャンドラ・ボース』 - コトバンク
- 『S.C. ボース Chandra Subhas Bose』 - コトバンク
- 『ボース』 - コトバンク
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 (創設) |
1943 - 1945 |
次代 (消滅) |
| 先代 (創設) |
1943 - 1945 |
次代 (消滅) |