コンスタンティン・ヒールル

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ハンス・フランクアルフレート・ローゼンベルクと(右側制服姿の座っている人物がヒールル)

コンスタンティン・ヒールル(Konstantin Hierl、1875年2月24日- 1955年9月23日)は、ドイツ政治家国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の勤労組織、国家労働奉仕団(RAD)総裁を務めた。

略歴[編集]

1875年2月24日にバイエルン王国パースベルクde:Parsberg)にて生まれる。高等学校卒業後の1893年にバイエルン王国軍の士官候補生となり、1895年に中尉、1909年には大尉へと昇進する。

第一次世界大戦においては西部戦線へと従軍し、中佐へと昇進した。

戦後、ヒールルはドイツ義勇軍の指揮官となり、1919年1月のスパルタクス団蜂起鎮圧に参加した。

1923年11月のミュンヘン一揆に参加したが、陸軍司令官ハンス・フォン・ゼークト大将の不興を買い大佐の階級で軍から除隊させられた。1927年秋には 「タンネンベルク団」(de:Tannenbergbund)に参加している。

1929年にナチス入党(党員番号126,752)。1930年9月のドイツ国会総選挙に当選し、国会議員となる。1929年から友人のグレゴール・シュトラッサーによって第二組織全国指導部長に任命され、1932年まで務めた。1931年から国家社会主義義勇勤労奉仕団(NSAD)の総裁も務めるようになった

ナチスの政権獲得後、1933年3月に労働省次官、1934年7月には労働問題帝国弁務官に任命される。1935年6月6日に国家勤労奉仕法によって、国家社会主義義勇勤労奉仕団は国家組織となり、国家労働奉仕団となった。総裁であるヒールルは全国労働指導者(Reichsarbeitsführer)に任命され、1936年には全国指導者の一人となっている。 1943年8月23日には無任所大臣に任命されている。 戦時中の国家労働奉仕団は、損傷を受けた道路の修復、滑走路の構築及び修復、前線部隊への食料や弾薬の供給などの作業に従事し、後期には軍事訓練や国防軍への徴用も行われた。末期に設立された国民突撃隊に国家労働奉仕団が吸収される可能性があったものの、ヒールルは自身の権力維持のためにこれを拒否した。1945年2月24日にドイツ勲章を授与をされている。

戦後、非ナチ化裁判により有罪判決を受け、労働強制収容所で5年過ごした。1955年9月23日にハイデルベルクで死去。

参考文献[編集]