中央党 (ドイツ)

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中央党(ちゅうおうとう、:Zentrumspartei)は、ドイツカトリック政党。ドイツ現存最古の政党である。現在のキリスト教民主同盟キリスト教社会同盟(後者はバイエルン人民党の後継を自任している)は、人的にこの政党の流れを汲んでいる。

党史[編集]

創設[編集]

ドイツ帝国成立の後の1871年3月にカトリック帝国議会議員58名により創設された。構成員は大多数がカトリックであり、カトリック政党の側面が強かったが、創設当初から少数ながらプロテスタントもおり、綱領の上では宗教的自由を擁護する政党とされているだけでどの宗派を擁護するとは書いていなかった[1]。なお党名の「中央(Zentrum)」とは、保守派と自由主義派の中間という意味である。

ドイツにおいてカトリックはバイエルン王国をはじめとした南部に多かったが、北ドイツ(プロイセン王国)はプロテスタントが多数派であった。プロイセン王国はドイツ帝国の中枢であったからカトリックはドイツにおいて少数派であった。

文化闘争への抵抗[編集]

帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクは、カトリックの反政府活動、またカトリックを媒介として反政府勢力がフランスオーストリアと結託することを恐れ、カトリック教会やその信徒へ激しい弾圧を加えた(文化闘争)。ビスマルクがカトリック弾圧を決意したきっかけの一つは中央党の結成にあった[2]。カトリック教会弾圧立法が次々と制定される中、1876年までにはプロイセンのカトリック司教全員が官憲に逮捕されるか国外追放されるかした。同様に1880年までにはカトリック司祭職4600人のうち1100人までが空席にされた[2]

カトリックたちの抵抗運動は教会と中央党が主体となった。プロテスタントからの自己防衛のために中央党の結束力は固まっていった[3]。カトリックの80%が中央党に投票し[3]、1873年のプロイセン王国議会下院選挙とドイツ帝国議会選挙では中央党が躍進した[2]。しかしカトリック以上に厄介な社会主義勢力の台頭により1870年代末からビスマルクはカトリックとの和解を図るようになり、弾圧を緩めた。結果、政府とカトリックの激しい敵対関係が終息に向かい、中央党の結束力も緩み、1880年代半ばから得票をだいぶ落とした[3]

1887年には教皇とビスマルクの間で和解が成立した。中央党は文化闘争以前の状態に戻すことを求めていたが、教皇はドイツ政府がカトリック聖職者の育成と任命に介入するという5月法の撤廃だけを求め、これに応じたビスマルクと教皇の間に和解が成立したのだった[2]。和解方法を巡って中央党と教皇の間に対立が生じたことからも分かるように中央党は完全なカトリック教会の従属政党というわけではなかった[1]

カトリックと同じくドイツ帝国で「少数派」にあたるのが自由主義勢力や社会主義勢力であったが、中央党はこれらの勢力とも関係が悪かった。自由主義者や社会主義者は宗教を公的生活からは切り離して、私的生活に押し込もうとしていたが、中央党はこれに激しく反発していた[1]。こうした人々から中央党は、聖母マリア無垢受胎信仰、誤謬表教皇不可謬説といった「非合理性」「退歩性」の象徴と看做されていた[3]

体制側政党へ[編集]

中央党の党内機構は「助任司祭制(カプラノクラティー)」と称する寡頭制が取られており、党内民主主義はほとんど存在しないに等しかった[4]。したがって中央党はドイツを民主化させるために闘うこともしなかったので、政府とカトリックの対立が終焉に向かうと自然と中央党と保守勢力は密接な関係を持つようになった[5]

1880年代から90年代前半にかけて中央党では同党の支持層である中間層や農民の声を反映して党指導部の交代が行われ、カトリック貴族や聖職者に代わってブルジョワが中央党議員団の中心となっていった[6]。ブルジョワが中心となったことで中央党は利益政党の性格を強め、反対政党から体制側の政党へと変化していく[7]。利益政党になるに従ってカトリック政党である必要性が薄くなり、中央党内では脱宗教論争も起こるようになった[8]

しかし産業化の進展とともに中央党内でも労働組合勢力が台頭し、中央党の農村保守的な要素は減退していき、マティアス・エルツベルガーら左派政治家の発言力が大きくなっていった[9]。彼らは政府への過度の接近に反対し、政府の植民地政策に反対し、ドイツ社会民主党(SPD)とも良好な関係を持っていた[7]。中央党指導部もこうした声を抑えきれなくなり、1907年にはベルンハルト・フォン・ビューロー宰相率いる政府との関係を絶った[7]。続く宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク時代には保守党とともに「黒青ブロック」という与党連合を形成したが、1912年の選挙で社民党に大敗を喫した。

一次大戦[編集]

第一次世界大戦において社民党は「和解の平和」を主張していた。中央党ははじめ保守勢力の主張した「勝利の平和」を支持していた。しかし戦況の悪化で徐々に「勝利の平和」論から離れ、1916年7月初めの帝国議会ではエルツベルガーは海軍批判を行った[10]。1916年末から1917年初頭の冬にドイツは物質的窮乏と食料不足に苦しんだため[11]、エルツベルガーの主導の下、中央党も「和解の平和」の考えに乗るようになり、社民党と中央党と進歩人民党の三党で「平和決議」を帝国議会で採択させた[12]。大戦末期にはやはりエルツベルガーの強力な指導によって中央党はドイツの議会政治導入に中心的役割を果たすこととなった[9]

ヴァイマル共和政[編集]

一次大戦後のヴァイマル共和国に対して、中央党ではキリスト教の価値観が脅かされない限り共和国政府に協力すべきことが唱えられた[13]。ヴァイマル共和国初期に独立的なバイエルン州の中央党の人々がバイエルン人民党を組織して分離している。

小党分立のヴァイマル共和国においては連立内閣となることが前提であり、中道の中央党は左派・右派のどの勢力との連立も可能であった。特にドイツ社会民主党ドイツ民主党と連立して中道左派リベラル与党を形成することが多く、これを「ヴァイマル連合」と呼んだ。中央政府においては右翼と連立することもあったが、プロイセン州では中央党は一貫してヴァイマル連合で与党を形成していた[13]

そうしたこともあり、ヴァイマル共和国において社民党と並んで最も多くの首相を輩出し、歴代政権において主導的な役割を果たした。コンスタンティン・フェーレンバッハ(1920年6月-1921年5月)、ヨーゼフ・ヴィルト(1921年5月-1922年11月)、ヴィルヘルム・マルクス(1923年11月-1924年12月、1926年5月-1928年6月)、ハインリヒ・ブリューニング(1930年3月-1932年5月)の四人の宰相が中央党所属であった[14]フランツ・フォン・パーペンももともと中央党所属だったが、組閣要請を受けない約束を反故にして、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領から首相職に任命された経緯があったため、中央党はパーペンを除名し、その後も激しい攻撃を行っている。

中央党は常に政権与党にいることでヴァイマル共和国の政治に一貫性を与えていた。とりわけ三度にわたり首相を務めたマルクスと長きにわたり労相を務めたハインリヒ・ブラウンス(de)の存在によって政策の一貫性が担保されていた[13]。しかし党内には共和国を支持する勢力と、共和国の体制はあくまでも暫定的であるとする二つの勢力対立があった[15]。1920年には同党のバイエルン支部が独立し、バイエルン人民党を立ち上げた[16]。1928年には党内対立が激しくなり、聖職者のルートヴィヒ・カースを党首として調停をはかった[17]

ナチス・ドイツ体制成立期[編集]

中央党の一部には親ナチズム的傾向をもつ人々も存在したが、教会を敵視していた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と中央党の関係は良くなかった[18]。しかしボルシェヴィズムへの敵視と、「裏切者」パーペン内閣への敵対という点では両者の利害は一致していた。国家人民党アルフレート・フーゲンベルクは、「ヒトラーからカースまで」の右派連合を構想しているが[19]、結局連立は成立しなかった。1933年ヒトラー内閣が成立し、ドイツの治安権力がナチ党によって握られた後、カースと中央党は全権委任法への賛成を迫られた。中央党幹部会は拒否しても無駄であると考える者が多数となった。党内で予備投票が行われたが、反対者は12名ほどであり、多数決原理によって党員全員が全権委任法賛成投票を行うこととなった[20](全権委任法が第5条で時限立法であると規定していた事も原因している)。

全権委任法成立後まもなく、パーペンとカースが連れだってバチカンを訪れ、ドイツとバチカンの政教条約締結交渉を行った(ライヒスコンコルダート)。中央党はカースを裏切者として非難し、5月6日にブリューニングを党首としたが党内の混乱は収まらず、7月5日に党は自主解党した。これはナチス側も察知していない突然の事態であった[21]。ライヒスコンコルダートには聖職者が政党活動を行わないという条項が存在し、聖職者を多く党員としていた中央党にとっては、党の成立基盤を根底から否定するものとなった。ナチス・ドイツ期において旧中央党員の多くは沈黙し、またはブリューニングのように亡命を余儀なくされたが、ベルンハルト・レッターハウスドイツ語版ヤーコブ・カイザードイツ語版のように反ナチ運動に参加する者もいた。

戦後[編集]

戦後再建されたが、戦前からの党員の多くは新党キリスト教民主同盟(CDU)の結成に参加した。このため1949年の選挙は連邦議会に10議席を獲得したものの1953年の選挙では3議席に留まり、1957年以降は国政レベルでの議席獲得はない。

現在の党首はノルトライン=ヴェストファーレン州ドルマーゲン市(en)副市長のゲルハルト・ヴォイツィク(de)である。

ライヒスターク(議会)選挙結果[編集]

ドイツ帝国時代[編集]

選挙日 得票率 獲得議席数(総議席数) 議席占有率 順位
1871年3月3日 18.6% 60議席(382議席) 15.7% 第2党
1874年1月10日 27.9% 91議席(397議席) 22.9% 第2党
1877年1月10日 24.8% 93議席(397議席) 23.4% 第2党
1878年7月30日 23.1% 94議席(397議席) 23.7% 第2党
1881年10月27日 23.2% 100議席(397議席) 25.2% 第1党
1884年10月28日 22.6% 99議席(397議席) 24.9% 第1党
1887年2月21日 20.1% 98議席(397議席) 24.7% 第1党(得票率では第2党)
1890年2月20日 18.6% 106議席(397議席) 26.7% 第1党(得票率では第2党)
1893年6月15日 19.1% 96議席(397議席) 24.2% 第1党(得票率では第2党)
1898年6月16日 18.8% 102議席(397議席) 25.7% 第1党(得票率では第2党)
1903年6月16日 19.7% 100議席(397議席) 25.2% 第1党(得票率では第2党)
1907年1月25日 19.4% 105議席(397議席) 26.4% 第1党(得票率では第2党)
1912年1月12日 16.4% 91議席(397議席) 22.9% 第2党

1890年の選挙からドイツ社会民主党(SPD)に得票率の上で下回るようになった。しかし社民党を不利にするため、農村に有利な選挙区制度が取られたため、中央党は得票より4分の1多い議席を獲得していた[5]。しかし1912年の選挙では有利な選挙制度であっても社民党に第一党を奪われることとなった。

ヴァイマル共和政時代[編集]

1930年のライヒスターク選挙で宣伝活動する中央党の運動員
選挙日 得票率 獲得議席数(総議席数) 議席占有率 順位
1919年1月19日 19.7% 91議席(421議席) 21.62% 第2党
1920年6月6日 13,6% 67議席(459議席) 14.6% 第5党
1924年5月4日 13,4% 65議席(472議席) 13.78% 第3党
1924年12月7日 13,6% 69議席(493議席) 14% 第3党
1928年5月20日 12,1% 61議席(491議席) 12.43% 第3党
1930年9月14日 11,8% 68議席(577議席) 11.79% 第4党
1932年7月31日 12,4% 75議席(608議席) 12.34% 第4党
1932年11月6日 11,9% 70議席(584議席) 11.99% 第4党
1933年3月5日 11,3 % 73議席(647議席) 11.29% 第4党

ドイツ社会民主党ドイツ国家人民党に次ぐ議席数を有する政党であったが、1930年の選挙で国家社会主義ドイツ労働者党ドイツ共産党に抜かれて第四党に落ちた(逆にドイツ保守人民党と分裂して大きく議席を落とした国家人民党は追い抜いた)。以降は第四党で推移した。1933年の国家社会主義ドイツ労働者党政権が出した全権委任法は中央党の賛成があればこそ可決された法律である。中央党は全権委任法が時限立法である点から中道政党として賛成したが、結果的にはこれによりヒトラー独裁が決定的となった。

主な出身政治家[編集]

参考文献[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c 世界大百科事典の「中央党」の項目
  2. ^ a b c d 世界大百科事典の「文化闘争」の項目
  3. ^ a b c d ヴェーラー(1983)、p.128
  4. ^ ヴェーラー(1983)、p.130
  5. ^ a b ヴェーラー(1983)、p.129
  6. ^ 飯田(1999)、p.50
  7. ^ a b c 飯田(1999)、p.51
  8. ^ 飯田(1999)、p.52
  9. ^ a b 平野(1991)、p.13
  10. ^ アイク(1983)、p.23-24
  11. ^ アイク(1983)、p.23
  12. ^ 林(1968)、p.8
  13. ^ a b c 平野(1991)、p.14
  14. ^ 林(1968)、p.214
  15. ^ 中井晶夫 1984, pp. 12-13.
  16. ^ 中井晶夫 1984, pp. 13.
  17. ^ 中井晶夫 1984, pp. 26.
  18. ^ 中井晶夫 1984, pp. 13-14.
  19. ^ 中井晶夫 1984, pp. 14.
  20. ^ 中井晶夫 1984, pp. 34.
  21. ^ 中井晶夫 1984, pp. 31.

外部リンク[編集]