十四か条の平和原則

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十四か条の平和原則(じゅうよんかじょうのへいわげんそく、: Fourteen Points)は、1918年1月8日アメリカ大統領ウィルソンが、アメリカ連邦議会での演説のなかで発表した平和原則である。

概要[編集]

アメリカは前年1917年3月の参戦によって協商国(連合国)側の勝利を決定づけ、この演説によって第一次世界大戦の講和原則、ひいては大戦後に実現されるべき国際秩序の構想を全世界に提唱した。この提案はドイツの降伏を引き出すことになり、同年11月、大戦の休戦協定において講和の基本原則とすることが約された。翌1919年1月に開会されたパリ講和会議で、米国全権代表となったウィルソンはこの十四か条をアメリカの中心的主張とした。

内容[編集]

「十四か条」の各項目は以下の通りである。

  • 第1条:秘密外交の廃止
    列強中心の「旧外交」の温床となっていた秘密外交の廃止と、外交における公開原則を提唱した。
  • 第2条:海洋の自由
  • 第3条:経済障壁の撤廃
  • 第4条:軍備の縮小
  • 第5条:植民地問題の公正解決
    民族自決」の一部承認(後述)。
  • 第6条:ロシアの回復
  • 第7条:ベルギーの回復
  • 第8条:フランス領の回復
    普仏戦争の結果ドイツ領となったアルザス・ロレーヌ地方のフランスへの返還が含まれる。
  • 第9条:イタリア国境の調整
  • 第10条:オーストリア=ハンガリー帝国の自治
    オーストリア=ハンガリー統治下の諸民族の自治の保障。
  • 第11条:バルカン諸国の回復
  • 第12条:トルコ少数民族の保護
    オスマン帝国統治下の諸民族の自治の保障とダーダネルス海峡の自由航行。
  • 第13条:ポーランドの独立
    18世紀ポーランド分割の結果消滅していたポーランドの復活・独立。
  • 第14条:国際平和機構の設立

影響[編集]

「十四か条」のうち、第14条はヴェルサイユ条約の第1章「国際連盟憲章」として条文に盛り込まれ国際連盟設立という形で結実した。しかしほとんどの内容は、パリ講和会議ではイギリスフランスに無視され、ドイツに対して過酷な賠償を科すこととなった。

「十四か条」と民族自決[編集]

「十四か条」は、1917年の十一月革命で成立したロシアのソヴィエト政権が出した「平和に関する布告」(1917年11月18日 / 以下「布告」)に対抗して出された色合いが強いが、それは「民族自決」に関する規定にも現れている。「布告」がヨーロッパ・非ヨーロッパの区別なく植民地を含めた領土・民族の強制的「併合」を否定して民族自決の全面的承認の規定になっているのに対し、同じ連合国で植民地大国であった英・仏などに配慮し、「関係住民(=属領・植民地住民)の利害が、法的権利を受けようとしている政府(=支配国・本国政府)の正当な請求と同等の重要性を有する」とかなり限定的な規定になっており、その具体的な適用範囲も、第10〜13条に現れているように、ほとんど敵対する同盟国の領土(ドイツ帝国オーストリア・ハンガリー帝国オスマン帝国)に限定されている。

この結果、ヴェルサイユ条約を初めとする一連の講和条約で民族自決原則を適用され独立を認められたのは、旧ドイツやオーストリア・ハンガリー(およびロシア)支配下にあった東欧・中欧諸国のみであった。しかもそれはあくまでもロシア革命ハンガリー革命から西欧を防衛することを目的とした方便によるものであった(そして、70年後のチェコスロバキアユーゴスラビア解体後にこの事が批判を受けることになる)。オスマン帝国領においてはサウジアラビアが自力で独立を達成したのを唯一の例外に、その他の中近東地域は英仏の委任統治領(A式が適用され近い将来に独立するものとされた)となった。また、同じドイツ領でもアフリカ・太平洋島嶼部の植民地はB式・C式委任統治領とされ戦勝国である英仏日の事実上の植民地となった。他の植民地・半植民地地域では講和成立後の1921年にイギリスの支援でイランが独立し、1922年にはエジプトの独立が認められた程度である。

しかし、ともかくも帝国主義列強の一角であったアメリカ(およびロシア)が「民族自決」を容認したことの反響は大きく、十四か条における民族自決の適用から外されていたアフリカの大部分やアジアなど植民地・半植民地地域では、この規定を逆手にとって本国(連合国)の政府に対し、より高度の自治や独立を要求する運動が盛んになった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]