大西洋憲章
大西洋憲章(たいせいようけんしょう、英:Atlantic Charter)は、1941年8月9日から12日に行われた大西洋会談(たいせいようかいだん、Atlantic Conference)において、アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトと、イギリス首相のウィンストン・チャーチルによって調印された憲章である。
背景[編集]
ドイツのヨーロッパでの勢力拡大と1939年9月のイギリスの対独宣戦布告の中、アメリカ議会は11月に中立法(米国内法1935年8月成立)を改正して維持したが、ルーズベルト大統領は戦争状態にある国(英国とフランス)への武器の輸出を、政府の認可制度によって可能にした。
1940年7月には英国への無制限の援助を行うことを表明した。さらに1941年2月にはヨーロッパまで1400キロの西経26度線まで拡張し、ドイツ商船の位置を通報(「中立精神」への違反)するなど、ドイツに対して敵対的な行動を増大させていた[要出典]。 アメリカ議会は1941年3月には武器貸与法を成立させた。
会談にはチャーチルの戦時内閣で軍需大臣となっていたマックスウェル・エイトケンも参加していた[1]。
憲章は、ニューファンドランド島沖の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上で調印された。太平洋戦争開戦前であり、合衆国はまだ枢軸国に対して宣戦布告をしていなかったが、この憲章は戦後の世界構想を述べたものであった。
1941年9月24日にはソビエト連邦など15ヵ国が参加を表明した。
内容[編集]
8項目からなり、その内容は要約すると以下になる。
- 合衆国と英国の領土拡大意図の否定
- 領土変更における関係国の人民の意思の尊重
- 政府形態を選択する人民の権利
- 自由貿易の拡大
- 経済協力の発展
- 恐怖と欠乏からの自由の必要性(労働基準、経済的向上及び社会保障の確保)
- 航海の自由の必要性
- 一般的安全保障のための仕組みの必要性
憲章の第3条については、ルーズベルトとチャーチルの間で見解の相違があった。
ルーズベルトがこの条項が世界各地に適用されると考えたのに対し、チャーチルはナチス・ドイツ占領下のヨーロッパに限定されると考えた。つまり、イギリスはアジア・アフリカのイギリス帝国領植民地にこの原則が適用されるのを拒絶していた。
2011年に日本で出版された書籍[2]に、”ルーズベルトも実際には、「大西洋憲章は有色人種のためのものではない。ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べたものだ」と側近に語った”、との記述があるが、同書は出典は一切記載されておらず、著者は1942年生まれ[3]であるので直接取材したことはありえず、発言は確認できない。
脚注[編集]
- ^ Joint Statement by President Roosevelt and Prime Minister Churchill, August 14, 1941. Lillian Goldman law library, Yale Law School.
- ^ 高山正之『白い人が仕掛けた黒い罠ーアジアを解放した日本兵は偉かった』(ワック、2011年)p108
- ^ 同書の奥付の著者プロフィール
参考書籍[編集]
- 『日本国憲法制定経過年表』、憲法制定の経過に関する小委員会(1961年)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 大西洋憲章(英米共同宣言) - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室