1924年5月ドイツ国会選挙

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1924年5月ドイツ国会選挙
ヴァイマル共和政
1920年6月 ←
1924年5月4日
→ 1924年12月

内閣 第1次マルクス内閣
解散日 1924年3月13日
改選数 472議席
選挙制度 比例代表制
有権者 20歳以上のドイツ国民
有権者数 38,374,983人

  第1党 第2党 第3党
  Otto Wels.jpg Oskar Hergt.jpg Bundesarchiv Bild 183-R18733, Constantin Fehrenbach.jpg
党首 オットー・ヴェルス オスカー・ヘルクトドイツ語版 コンスタンティン・フェーレンバッハ
政党 ドイツ社会民主党 ドイツ国家人民党 中央党
党首就任 1919年 1919年 1923年
前回選挙 102議席
21.7%
71議席
15.1%
64議席
13.6%
獲得議席 100議席 95議席 65議席
議席増減 減少2議席 増加24議席 増加1議席
得票数 6,008,905票 5,696,475票 3,914,379票
得票率 20.5% 19.5% 13.4%
得票率増減 減少1.2% 増加4.4% 減少0.2%

  第4党 第5党 第6党
  Fischer-Ruth-1924-Bain.jpg Bundesarchiv Bild 146-1989-040-27, Gustav Stresemann.jpg
党首 ルート・フィッシャー グスタフ・シュトレーゼマン アルブレヒト・フォン・グレーフェ
政党 ドイツ共産党 ドイツ人民党 国家社会主義自由運動
前回選挙 4議席
2.1%
65議席
13.9%
新党
獲得議席 62議席 45議席 32議席
議席増減 増加58議席 減少20議席 増加32議席
得票数 3,693,280票 2,694,381票 1,918,329票
得票率 12.6% 9.2% 6.5%
得票率増減 増加10.5% 減少4.7% 増加6.5%

German Reichstag composition, May 1924.svg

選挙後の国会勢力図

選挙前首相

ヴィルヘルム・マルクス
中央党

選出首相

ヴィルヘルム・マルクス
中央党

1924年5月4日のドイツ国会選挙:Reichstagswahl vom 4. Mai 1924)は、1924年5月4日に行われたドイツ国会(Reichstag、ライヒスターク)の選挙である。 ブルジョワ政党が支持する少数与党政権だった第一次マルクス内閣が野党の反対動議を封じるために行った解散総選挙だったが、選挙戦中にドーズ案が提示されたことで選挙の争点はドーズ案の賛否となった。ドーズ案に賛成する与党と社民党が敗北し、ドーズ案に反対した国家人民党共産党国家社会主義自由党(当時禁止されていたナチ党の偽装政党)など極右極左が大勝する結果に終わった。

国会解散までの経緯[編集]

1923年のフランス軍のルール占領に対してドイツ政府は受動的抵抗(ルール住民にフランス占領当局への協力拒否を呼びかけ)を行っていたが、それによってハイパー・インフレが発生して経済が危機的状況となり、その収拾のために1923年8月にはドイツ人民党(DVP)のグスタフ・シュトレーゼマンを首相とし、人民党、中央党(Zentrum)、ドイツ社会民主党(SPD)、ドイツ民主党(DDP)、バイエルン人民党(BVP)など広範な政党が与党となる大連合政権が樹立された[1][2]

しかし社民党はザクセン・テューリンゲン問題(共産党を政権に参加させた社民党の州政府の解体に国軍が出動した事件)をめぐってシュトレーゼマン内閣に反感を持ち、与党から離脱[3]。1923年11月23日に野党ドイツ国家人民党(DNVP)がバイエルン問題(バイエルンへの国軍の出動)やルールの受動的抵抗中止への反発から提出した内閣不信任案には社民党も賛成し、231対156で可決された。これによりシュトレーゼマン内閣は総辞職を余儀なくされた[4]

代わって11月30日に中央党のヴィルヘルム・マルクスが首相となり、中央党とドイツ人民党(DVP)とドイツ民主党(DDP)を与党とする第一次マルクス内閣を成立させた[5]。通貨改革と財政再建という課題を前にしていた第一次マルクス内閣は、国会における基盤の弱さや時間的制約から議会審議は断念し、時限立法で授権法(全権委任法)を可決させて命令による事態の収拾を図った[6]

しかし1924年2月に国会が召集されるとそれらの命令の変更や廃止を求める野党の動議が続々と提出されたうえ、授権法の期限が切れる前日の2月14日に大統領緊急令で発令された第三次緊急課税令をめぐって野党の反感が高まった[6]。社民党の緊急令廃止の動議が可決する恐れがあることから、3月13日にマルクス内閣は先手を打つ形で国会解散を決定した[7]

選挙戦[編集]

選挙戦中の4月9日にドイツ賠償問題のドーズ委員会とマッケンナ委員会は国際連盟賠償委員会に報告書を提出し、4月11日に国連賠償委員会がこれを承認した(ドーズ案)。ドイツ政府はこのドーズ案を受諾する方針を示したが、これにより選挙戦の争点は一気にドーズ案への賛否となった[8]

右翼野党の国家人民党はドーズ案を「第二のヴェルサイユ条約」として激しく批判した[9]。一方左翼野党の社民党はドーズ案を容認した[10]

国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチ党)は当時党を禁止されていたので、ドイツ民族自由党とともに国家社会主義自由党(NSFP)という偽装政党を創設して選挙戦に臨んだ。共産党は1924年4月7日に禁止が解除されたのでそのまま選挙戦に参加した[9]。国家社会主義自由党も共産党もドーズ案には反対を表明した[11]

選挙結果とその後の政局[編集]

5月4日の総選挙の結果は、ドーズ案に反対した極右と極左の大勝となった。国家人民党が65議席から96議席へ躍進。10議席獲得した農村リスト(Landliste)と合流して国会の第一党となった。共産党も17議席から一気に62議席へ躍進。ナチ党の偽装政党である国家社会主義自由党も初挑戦にして32議席を獲得した[12]

ドーズ案に賛成した与党と社民党は軒並み得票率を落とした。特に社民党は改選直前の議席171議席を100議席に落とす大敗を喫した[12][13]。ブルジョワ政党では人民党と民主党も大きな打撃を受け、人民党は議席の三分の一を失って45議席、民主党は28議席しか取れなかった[14]

選挙に勝利した国家人民党はマルクス内閣に退陣を要求し、マルクス内閣はその要求通り5月26日に総辞職したが[15][12]、結局6月2日には第1次内閣とほとんど同じ顔ぶれの第2次マルクス内閣が成立[16]。マルクス内閣は国家人民党を与党に引き込もうという多数派工作を行い、ドーズ案関連法案の採決では国家人民党議員の投票を分裂させることに成功したが、同党を完全な与党に引き込むことはできず、また社民党を与党に引き込む工作にも失敗したので多数派工作を断念。10月20日には再び国会が解散され、12月7日に総選挙が行われることとなった[17]

各党の得票と獲得議席[編集]

  • 選挙制度は比例代表制。選挙権は20歳以上の男女。
  • 投票率は77.42%(前回選挙より2.04%減少)
党名 得票 得票率 (前回比) 議席数 (前回比)
ドイツ社会民主党 (SPD) 6,008,905票 20.52% -1.40% 100議席 -3
ドイツ国家人民党 (DNVP) 5,696,475票 19.45% +4.38% 95議席 +24
中央党 (Zentrum) 3,914,379票 13.37% -0.27% 65議席 +1
ドイツ共産党 (KPD) 3,693,280票 12.61% +10.52% 62議席 +58
ドイツ人民党 (DVP) 2,694,381票 9.20% -4.70% 45議席 -20
国家社会主義自由党 (NSFP)
(ドイツ民族自由党と旧ナチ党勢力)
1,918,329票 6.55% New 32議席 New
ドイツ民主党 (DDP) 1,655,129票 5.65% -2.63% 28議席 -11
バイエルン人民党 (BVP) 946,648票 3.23% -0.92% 16議席 -4
農村リスト 574,939票 1.96% 10議席
ドイツ中産階級経済党 (WP) 500,820票 1.71% New 7議席 New
ドイツ社会党ドイツ語版 333,427票 1.14% 4議席
ドイツ=ハノーファー党 (DHP) 319,792票 1.09% -0.14% 5議席 ±0
ドイツ独立社会民主党 (USPD) 235,145票 0.80% -18.01% 0議席 -84
バイエルン農民同盟ドイツ語版 192,786票 0.66% 3議席
その他諸派 597,363票 2.04% 0議席
有効投票総数 29,281,798票 100.00%   472議席 +21
無効票 427,582票  
投票有権者/全有権者数(投票率) 29,709,380人/38,374,983人(77.42%)
出典:Gonschior.de
各選挙区の最多得票政党とその得票率

この選挙で初当選した著名な議員[編集]

出典[編集]

  1. ^ 阿部良男 2001, p. 96.
  2. ^ 林健太郎 1963, p. 103-104.
  3. ^ 林健太郎 1963, p. 115.
  4. ^ 阿部良男 2001, p. 106.
  5. ^ 阿部良男 2001, p. 107.
  6. ^ a b 平島健司 1991, p. 23.
  7. ^ 阿部良男 2001, p. 110.
  8. ^ 平島健司 1991, p. 24.
  9. ^ a b 阿部良男 2001, p. 111.
  10. ^ モムゼン 2001, p. 182.
  11. ^ 林健太郎 1963, p. 118.
  12. ^ a b c 阿部良男 2001, p. 112.
  13. ^ モムゼン 2001, p. 180.
  14. ^ モムゼン 2001, p. 181.
  15. ^ アイクII巻 1983, p.131
  16. ^ アイクII巻 1983, p.144
  17. ^ アイクII巻 1983, p.159/167-168

参考文献[編集]