ゲオルク・ミヒャエリス

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ゲオルク・ミヒャエリス
Georg Michaelis
Bundesarchiv Bild 183-2004-0720-500, Georg Michaelis.jpg
生年月日 1857年9月8日
出生地 プロイセン王国の旗 プロイセン王国 シュレジエン地方ハイナウ
(現:ポーランドの旗 ポーランド ドルヌィ・シロンスク県ホイヌフ英語版
没年月日 (1936-07-24) 1936年7月24日(78歳没)
死没地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国 ブランデンブルク州バート・ザーロウ=ピースコウ英語版
出身校 ライプツィヒ大学ヴュルツブルク大学

ドイツの旗 ドイツ帝国第6代帝国宰相
在任期間 1917年7月14日 - 1917年10月31日
皇帝 ヴィルヘルム2世

Flag of Prussia (1892-1918).svg プロイセン王国首相
在任期間 1917年7月14日 - 1917年10月31日
国王 ヴィルヘルム2世
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ゲオルク・ミヒャエリス(またはミハエリス、Georg Michaelis, 1857年9月8日 - 1936年7月24日)は、ドイツ法学者政治家。第一次世界大戦中の1917年7月14日から10月31日までドイツ帝国の第6代帝国宰相を務めた。ドイツの首相で最初の非貴族出身の首相である。

経歴[編集]

シュレジエン地方のハイナウ(現在のポーランド領シロンスク地方、ドルヌィ・シロンスク県ホイヌフ)出身。その後フランクフルト・アン・デア・オーダーに移る。1876年から1884年にかけてライプツィヒ大学ヴュルツブルク大学法律学を学んだ。

この頃、日本で獨逸学協会学校(ドイツ学協会学校、現在の獨協大学の前身)が、官立ではないものの政府高官の呼びかけで設置されており、当時の駐ドイツ公使青木周蔵もその設立に関わっていた。青木は法学博士の派遣をドイツ政府に要請し、ミヒャエリスが指名されたが、この時ミヒャエリスはまだ博士号を持っていなかった。しかし、ゲッティンゲン大学法学部長であるルドルフ・フォン・イェーリングが法学博士を与えるというので現地に向かうと、面接だけで博士号が与えられた。これは、イェーリングの代表作『権利のための闘争』(Der Kampf ums Recht) の初の日本語訳がの初代校長である西周によって進められており、イェーリングはその便宜を図るためにミヒャエリスへの博士号授与に同意したためであった[1]

1885年明治18年)日本に招聘され、1889年まで東京に滞在する。この間、獨逸學協會學校教頭、法学教授となり法律学を講義した。帰国後、プロイセン王国政府に入り、1909年に大蔵省(財務省)次官となる。第一次世界大戦中の1915年にプロイセン食糧庁 (Reichsgetreidestelle) 長官に就任し、小麦トウモロコシなど穀物管理に当たった。

帝国宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークが辞任すると、1917年7月14日後任の帝国宰相・プロイセン首相となる[2]。1917年10月31日まで宰相の地位にあったが、帝国議会を中心とする政治家たちを懐柔しようとしたドイツ軍参謀本部パウル・フォン・ヒンデンブルクエーリヒ・ルーデンドルフによって無能を理由に解任された。ミヒャエリスの後任には、すでに75歳の高齢であったカトリック教徒のゲオルク・フォン・ヘルトリング伯爵が指名され、進歩党の領袖であるフリードリヒ・フォン・バイアーが副宰相となった。

辞任後、1918年4月1日から1919年3月31日までポンメルンの上級長官を務める。ドイツ革命に際してはポンメルンの労働者兵士評議会と協力したものの、プロイセンに成立したドイツ社会民主党政権によって解任。その後は、経済界や学生組織、プロイセンのルーテル教会などの分野で活動する傍らドイツ国家人民党にも参加している。1921年に回顧録『我が生涯──国家と人民のために』(Für Staat und Volk. Eine Lebensgeschichte)を発表した。

脚注[編集]

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  1. ^ 新宮譲治『獨逸学協会学校の研究』校倉書房、2007年、ISBN 978-4751738405
  2. ^ 中井晶夫「教皇ベネディクト15世の和平工作とドイツ帝国宰相ゲオルク・ミヒャエ-リス」『上智史学』37、1992年、p.320

関連項目[編集]

公職
先代:
テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク
ドイツの旗 ドイツ帝国宰相
第6代:1917年
次代:
ゲオルク・フォン・ヘルトリング
先代:
テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク
Flag of Prussia (1892-1918).svg プロイセン王国首相
1917年
次代:
ゲオルク・フォン・ヘルトリング