ゲオルク・ミヒャエリス
| ゲオルク・ミヒャエリス Georg Michaelis | |
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| 生年月日 | 1857年9月8日 |
| 出生地 |
(現: |
| 没年月日 | 1936年7月24日(78歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 | ライプツィヒ大学、ヴュルツブルク大学 |
| 在任期間 | 1917年7月14日 - 1917年10月31日 |
| 皇帝 | ヴィルヘルム2世 |
| 在任期間 | 1917年7月14日 - 1917年10月31日 |
| 国王 | ヴィルヘルム2世 |
ゲオルク・ミヒャエリス(またはミハエリス、Georg Michaelis, 1857年9月8日 - 1936年7月24日)は、ドイツの法学者、政治家。第一次世界大戦中の1917年7月14日から10月31日までドイツ帝国の第6代帝国宰相を務めた。ドイツの首相で最初の非貴族出身の首相である。独逸学協会名誉会員[1]。
経歴[編集]
シュレージエン地方のハイナウ(現在のポーランド領シロンスク地方、ドルヌィ・シロンスク県ホイヌフ)出身。その後フランクフルト・アン・デア・オーダーに移る。1876年から1884年にかけてライプツィヒ大学とヴュルツブルク大学で法律学を学んだ。
この頃、独逸学協会(Society for German Sciences)などの政府高官の呼びかけで、官立ではないものの獨逸学協会学校(ドイツ学協会学校、現在の獨協大学の前身)が設置されており、当時の駐ドイツ公使青木周蔵もその設立に関わっていた。青木は法学博士の派遣をドイツ政府に要請し、ミヒャエリスが指名されたが、この時ミヒャエリスはまだ博士号を持っていなかった。しかし、ゲッティンゲン大学法学部長であるルドルフ・フォン・イェーリングが法学博士を与えるというので現地に向かうと、面接だけで博士号が与えられた。これは、イェーリングの代表作『権利のための闘争』(Der Kampf ums Recht) の初の日本語訳がの初代校長である西周によって進められており、イェーリングはその便宜を図るためにミヒャエリスへの博士号授与に同意したためであった[2]。
1885年(明治18年)日本に招聘され、1889年まで東京に滞在する。この間、獨逸學協會學校教頭、法学教授となり法律学を講義した。帰国後、プロイセン王国政府に入り、1909年に大蔵省(財務省)次官となる。第一次世界大戦中の1915年にプロイセン食糧庁 (Reichsgetreidestelle) 長官に就任し、小麦やトウモロコシなど穀物管理に当たった。
帝国宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークが辞任すると、1917年7月14日後任の帝国宰相・プロイセン首相となる[3]。1917年10月31日まで宰相の地位にあったが、帝国議会を中心とする政治家たちを懐柔しようとしたドイツ軍参謀本部のパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリヒ・ルーデンドルフによって無能を理由に解任された。ミヒャエリスの後任には、すでに75歳の高齢であったカトリック教徒のゲオルク・フォン・ヘルトリング伯爵が指名され、進歩党の領袖であるフリードリヒ・フォン・バイアーが副宰相となった。
辞任後、1918年4月1日から1919年3月31日までポンメルンの上級長官を務める。ドイツ革命に際してはポンメルンの労働者兵士評議会と協力したものの、プロイセンに成立したドイツ社会民主党政権によって解任。その後は、経済界や学生組織、プロイセンのルーテル教会などの分野で活動する傍らドイツ国家人民党にも参加している。1921年に回顧録『我が生涯──国家と人民のために』(Für Staat und Volk. Eine Lebensgeschichte)を発表した。
著述[編集]
脚注[編集]
- ^ #独逸学協会。
- ^ 新宮譲治『獨逸学協会学校の研究』校倉書房、2007年、ISBN 978-4751738405
- ^ 中井晶夫「教皇ベネディクト15世の和平工作とドイツ帝国宰相ゲオルク・ミヒャエ-リス」『上智史学』37、1992年、p.320
参考文献[編集]
- 独逸学協会『学林』第1号。1889年。
関連項目[編集]
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代: テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク |
第6代:1917年 |
次代: ゲオルク・フォン・ヘルトリング |
| 先代: テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク |
1917年 |
次代: ゲオルク・フォン・ヘルトリング |