和泉式部

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菊池容斎『前賢故実』より
小倉百人一首56番
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」

和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年(978年)頃 - 没年不詳)は平安時代中期の歌人である。越前大江雅致の娘。中古三十六歌仙女房三十六歌仙の一人。

経歴[編集]

越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれる。はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしい(母が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。

長保元年(999年)頃までに和泉守・橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に入る。後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名を合わせたものである。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。帰京後は道貞と別居状態であったらしく、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されるが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。

為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受けた。親王は式部を邸に迎えようとし、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作った。敦道親王の召人として一子・永覚を儲けるが、敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世した。寛弘年間の末(1008年 - 1011年頃)、一条天皇中宮藤原彰子に女房として出仕。長和2年(1013年)頃、主人・彰子の父・藤原道長家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下った。万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが晩年の動静は不明。娘を亡くした愛傷歌は胸を打つものがある。「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」は、性空上人への結縁歌であり、式部の勅撰集(拾遺集)初出歌である。仏教への傾倒が伺われる。歌の返しに性空から袈裟をもらい、それを着て命を終えた[1]

戒名は誠心院専意法尼

人物[編集]

和泉式部続集切
  • 恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。真情に溢れる作風は恋歌哀傷歌釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され、赤染衛門と並び称されている。
  • 敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』があるが、これは彼女本人の作であるかどうかは疑わしい。ほかに家集『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』が伝存する。『拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に246首の和歌を採られ、死後初の勅撰集である『後拾遺和歌集』では最多入集歌人の名誉を得た。
  • イワシが好きだったという説話があるが、その根拠とされる『猿源氏草紙』は室町時代後期の作品であり、すなわち後世の作話と思われる。

受容史[編集]

和泉式部は、あらかじめ決められた歌題について和歌を詠む、12世紀初頭の題詠成立以前の歌人であった。和泉式部が活躍した10世紀後半から11世紀前半は、源融の旧宅であった河原院という場に、和泉式部の実家である大江氏を始めとして、清原氏平氏などという中下級貴族が集う和歌のサロンが形成されていた。このような和歌サロンの中で、後の題詠へと繋がっていく文芸性を重んじる和歌が形作られていく。曽根好忠は河原院の和歌サロンの代表的な歌人であるが、身分が低い曽根は上級貴族の歌会に参加することが難しく、勅撰和歌集の撰者となることもなかった。その一方でそのような公共性が強く、制約の多い立場から自由に歌を詠むことに繋がった。和泉式部はこのような和歌サロンの流れを受けて和歌を詠むようになっていった[2]

和泉式部は同時代の紫式部から、優れた歌人として評価を受けつつも、多くの男性と浮名を流した好色な女性という風評を踏まえ、人の道を外しているところがあると批判されている。高名な紫式部による和泉式部評は、後世に和泉式部の好色な女性像を広めることに繋がった。この好色なイメージは平安時代の後期になるとより強化された[3]

中世前期から室町時代にかけて、仏教的な説話が和泉式部像に強く反映されるようになる。中世の説話では和泉式部が遊女であると捉えられているものがあり、そのような中で、法華経の教えを踏まえながら、仏教的な救済を求める女性として和泉式部が描かれるようになる[4]

近世に入ると、与謝野晶子が「情熱的な」歌人として和泉式部を高く評価し、その評価が定着していったとの説がある。しかし実際には、藤岡作太郎が、与謝野晶子が和泉式部に関する著作を発表する以前に情熱的な歌人として評価しており、また、与謝野晶子による評価も情熱を全面に押し立てるようなものではなく、和泉式部の作品には、多情であるばかりではなく純情、愛欲とともに哀愁、そして奔放でありながら寂寥という相反した感情が詠み込まれていることを指摘したものであった[5]

しかしながら、与謝野晶子自身が「情熱的歌人」として捉えられるのと期を同じくするように、和泉式部も情熱に結び付けられていく。そして情熱は「愛欲」、「爛熟した性」、「刹那的な詩人」などといった和泉式部像の形成に繋がってしまった。この和泉式部、そして与謝野晶子と「情熱」との結び付きは、両者の人物像把握に大きな影響を与え続けている[6]

もちろんそのような和泉式部、そして与謝野晶子と「情熱」や「愛欲」、そして「性」との安易な結びつけには批判があり、求道者として、そして近代的な自我的なものに依る解釈も見られる。しかしそのような和泉式部の受容もまた、近現代からの眼を安易に古典に敷衍するものであるとの批判がある[7]

遺跡・逸話[編集]

  • 岩手県北上市 - 和賀町竪川目に墓所がある。付近が出生地あるいは没地と伝えられ、ここが和泉式部伝説の北限とされる。早世した小式部を哀れんだ隣人が五輪塔を建てたという伝説に準えて明治2年に奉建された五輪塔などがある。
  • 福島県石川郡石川町 - この地方を治めた豪族、安田兵衛国康の一子「玉世姫」(たまよひめ)が和泉式部であると言い伝えが残る。式部が産湯を浴びた湧水を小和清水(こわしみず)、13でこの地を離れた式部との別れを悲しんだ飼猫「そめ」が啼きながら浸かり病を治したといわれる霊泉が猫啼温泉として現存する。
  • 岐阜県可児郡御嵩町 - 旧中山道の途中に和泉式部の廟所と言われる石碑が存在する。同地に伝わる伝承によると晩年は東海道を下る旅に出て、寛仁3年(1019年)にここで病を得て歿したとされている。碑には「一人さへ 渡れば沈む 浮橋に あとなる人は しばしとどまれ」という一首が刻まれている。
  • 愛知県豊川市小坂井町平口 - 報恩寺境内に和泉式部の墓との伝承がある和泉式部供養塔がある。
  • 三重県四日市市曽井町 - 「和泉式部化粧の水」があり、和泉式部がここで顔を洗ったら顔のあざが消えたと言われている。
  • 大阪府堺市西区平岡町 - 居宅跡である「和泉式部宮」がある[8]
  • 大阪府岸和田市 - 阪和線下松駅周辺の大阪府道30号大阪和泉泉南線沿いには和泉式部にまつわる池、塚などが存在する[9]
  • 兵庫県伊丹市に和泉式部の墓所がある[10]
  • 京都府京都市右京区太秦 - 太秦和泉式部町という地名がある。
  • 京都府亀岡市 - 称名寺に和泉式部の墓所があると伝えられる。
  • 山口県山陽小野田市 - 和泉式部の墓所がある。
  • 佐賀県白石町嬉野市 - 白石町の福泉禅寺で生誕し、嬉野市の大黒丸夫婦に育てられたとされる言い伝えがある[11]。寺には故郷を偲んで詠んだとされる和歌の掛け軸が伝わっており、境内には歌碑と供養塔が建立されている。
  • 長野県温泉寺 (諏訪市) 和泉式部の墓がある。下諏訪宿が、和泉式部の出身地という説がある。

  しかしこれらの逸話や墓所と伝わるものは全国各地に存在するが、いずれも伝承の域を出ないものも多い。柳田國男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。

脚注[編集]

  1. ^ 柴佳世乃「和泉式部」 / 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 26ページ
  2. ^ 久保木(2014)pp.56-62
  3. ^ 崔(2005a)pp.211-213、pp.233-235
  4. ^ 崔(2005a)pp.232-235、崔(2005b)pp.25-27
  5. ^ 楫野(2005)pp.56-62
  6. ^ 楫野(2005)pp.63-68
  7. ^ 楫野(2005)pp.68-73
  8. ^ 堺市西区の概要・区域図(堺市ウェブサイト)
  9. ^ 和泉式部ゆかりの地名(岸和田市公式サイト)
  10. ^ 伝和泉式部の墓 Archived 2012年9月5日, at the Wayback Machine.、伝和泉式部の墓[リンク切れ](伊丹市ウェブサイト)
  11. ^ 九州物語 福泉禅寺の和泉式部生誕伝説

出典[編集]

  • 楫野政子「二人の情熱歌人 和泉式部と与謝野晶子 近代における古典受容の一場面」『大阪大学日本学報』(24)、大阪大学大学院文学研究科日本学研究室日本学報編集委員会、2005
  • 久保木寿子「和泉式部の群作歌 評価の基軸と和歌史上の位置」『白梅学園大学・短期大学教育・福祉研究センター研究年報』(19)白梅学園大学・白梅学園短期大学教育、福祉研究センター、2014
  • 崔恵珍「平安から中世前期まで和泉式部像の一考察 和泉式部像の再検討(その1)」『大谷大学大学院研究紀要』(22)、大谷大学大学院、2005a
  • 崔恵珍「和泉式部像の再検討 中世後期に変化する和泉式部像の一考察」『文芸論叢』(65)、大谷大学文芸学会、2005b

関連項目[編集]

  • 大江氏
  • 誠心院 - 和泉式部が初代の住職とされ通称「和泉式部寺」と呼ばれる。境内に和泉式部の墓所がある。毎年3月21日に和泉式部忌の法要が営まれる。

外部リンク[編集]