SN 1054
| SN 1054 | |
|---|---|
| 仮符号・別名 | SN 1054[1] |
| 星座 | おうし座 |
| 視等級 (V) | -6[2][3] |
| 分類 | II型[3] |
| 発見 | |
| 発見日 | 1054年7月4日 |
| 位置 元期:J2000.0[1] | |
| 赤経 (RA, α) | 05h 34m 31.93830s[1] |
| 赤緯 (Dec, δ) | +22° 00′ 52.1758″[1] |
| 銀河座標 | G.184.6–5.8[要出典] |
| 銀河 | 銀河系[3] |
| 物理的性質 | |
| 残骸の部類 | 星雲[要出典] |
| 別名称 | |
| 別名称 | おうし座CM星[1]
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SN 1054(1054年(おうし座)超新星、別称かに超新星)は、1054年7月4日に世界各地で広範囲に観測された超新星である。この超新星は、中国や日本、アラブにおいて、23日間にわたって日中でも見えるほどに輝いたと記録されており、また653日間にわたって夜空に見えた。[4]
SN 1054の雲状の残骸は、今はかに星雲として知られ、また、1774年にメシエカタログの最初に記載されたので、M1(メシエ1)とも呼ばれている。地球からの距離はおよそ7000光年。
観測記録[編集]
中国[編集]
中国の歴史書『宋史』(宋王朝についての正史。元代の1345年完成)には、「客星」(突然現れた明るい星)に関する以下の記述がある。
【原文】
至和元年五月己丑、出天関東南可数寸、歳余稍没。(『宋史』「天文志」)
【原文】
嘉祐元年三月辛未、司天監言:自至和元年五月、客星晨出東方、守天関、至是没。(『宋史』「仁宗本紀」)
すなわち、北宋・仁宗の治世である至和元年五月己丑(ユリウス暦1054年7月4日)、天関星(おうし座ζ星)付近に「客星」が現れ、2年近く経過した嘉祐元年三月辛未(1056年4月5日)に至って見えなくなったとある。南宋の歴史家李燾による『続資治通鑑長編』(1184年完成)の巻百七十六にも同種の記述ある。
宋代に編纂された会要『宋会要』巻五十二には以下の記述がある。
【原文】
至和元年七月二十二日、守将作監致仕楊維徳言:伏睹客星出現、其星上微有光彩、黄色。謹案《黄帝掌握占》云:客星不犯畢、明盛者、主国有大賢。乞付史館、容百官称賀。詔送史館。嘉祐元年三月、司天監言:客星没、客去之兆也。初、至和元年五月、晨出東方、守天関、昼見如太白、芒角四出、色赤白、凡見二十三日。
これによれば、至和元年五月に現れた「客星」は金星のように明るく、昼間でも23日間にわたって観測できたという。
日本[編集]
藤原定家の日記『明月記』には、陰陽師が報告した過去の「客星」出現事例の一つとして、以下が挙げられている[5]。
午前2時頃に、觜・参の星宿(おおむね現在のオリオン座にあたる)と同じ赤経にあたる、天関星(おうし座ζ星)付近に出現したとするもので、木星のように輝いていたというものである。ただし、時期については曖昧であり、旧暦四月中旬(1054年5月20-29日)ではおうし座が太陽方向にあたって超新星が観測できないため、「五月中旬」(1054年6月19-28日)の誤りであろうと考えられる[6]。
また著者不詳の『一代要記』にも記録が残っている。
アラブ[編集]
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バグダッドの医師イブン・ブラトンの記録が、天文史家ブレッチャーらの手によって発掘されている[7]。彼は1054年当時、コンスタンティノープルに住んでいたとされる。
われわれの時代の有名な厄病の一つはあのすばらしい星がヘジラの446年にふたご座にあらわれたときのものである。その年の秋には14,000人の死者がでて、コンスタンティノープルのすべての墓地が一杯になり、ルカ教会にも埋葬されたほどである。
ここでヘジラ(ヒジュラ暦)の446年とは、1054年4月12日から1055年4月1日までの一年にあたるとされた。また、かに星雲がふたご座の東端に境を接していることからも、この記述は SN 1054 に関する記録であると考えられる[7]。
アメリカ大陸[編集]
1000年頃にアメリカ・インディアン(ミンブレス族やアナサジ族)によって描かれたアリゾナの壁画に残されている星の画を、この超新星とする説もある[8]。一方で、この画は部族が用いるシンボルマークにすぎないという反対意見もある[9]。
近代天文学において[編集]
『明月記』の記録を含む日本の「客星」記録は、アマチュア天文家である射場保昭の寄稿によって1934年『ポピュラー・アストロノミー』に掲載された[10][11]。当時はかに星雲の起源が研究者の関心を集めており、時機を得ていた射場の論文は欧米の天文学者に注目された[12]。1942年、ニコラス・メイオールやヤン・オールトらは、『明月記』の記録などをもととして、1054年の「客星」が超新星であり、かに星雲がその残骸であることを明らかにする論文を発表した[13]。
この天体からのX線が、米国海軍研究所で開発されたX線探査機を積んだエアロビー(Aerobee )型の高高度ロケットで、1963年4月に検出された。このX線源は、おうし座X-1と名づけられた。かに星雲からX線の形で放出されるエネルギーは、可視光として放出されるエネルギーの約100倍になる。
1968年11月9日に、脈動する電波源かにパルサーが、プエルトリコにあるアレシボ天文台の300m電波望遠鏡の天文学者によってM1の中に発見された。このパルサーは、1秒間に30回転している。
出典[編集]
- ^ a b c d e “SIMBAD Astronomical Database”. Results for CM Tau. 2016年9月24日閲覧。
- ^ SEDS, Supernova 1054 – Creation of the Crab Nebula
- ^ a b c 『理科年表 国立天文台編』 丸善出版、平成25年 第86冊、117頁。ISBN 978-4-621-08606-3。
- ^ 超新星1054―かに星雲の誕生 (英語)
- ^ 斉藤国治 『定家『明月記』の天文記録』 慶友社、1999年。ISBN 4-87449-029-8。
- ^ 臼井正 2009, p. 12.
- ^ a b 斉藤国治 1982, p. 90-91.
- ^ ペナスコ・ブランコ(Penasco Blanco )の偉大な家の近くのアナサジの断崖の絵画は、SN 1054を表現したものかも知れない。
- ^ 斉藤国治 1982, p. 92.
- ^ 竹本修三 2015, p. 431.
- ^ 斉藤国治 1982, p. 75.
- ^ 斉藤国治 1982, p. 75, 84-87.
- ^ 竹本修三 2011, pp. 1-2.
参考文献[編集]
- 竹本修三 (2011年). “明月記の客星出現の記録を海外に紹介した日本人-射場保昭氏について (doc)”. 京1000年天文学街道(小山勝二). 2017年4月5日閲覧。
- 臼井正「藤原定家は、なぜ超新星の記録を残したか (PDF) 」 、『あすとろん』第5号、京都大学大学院理学研究科附属花山天文台、2009年、 11-15頁、2017年4月5日閲覧。
- 斉藤国治 『星の古記録』 (1版) 岩波書店〈岩波新書(黄版)〉、1982年。ISBN 978-4004202073。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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