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紀元前13世紀(きげんぜんじゅうさんせいき)は、西暦による紀元前1300年から紀元前1201年までの100年間を指す世紀。
アブ・シンベル大神殿。青年期から壮年期までの4体の
ラムセス2世像が置かれている。
『アニのパピルス』。古代エジプトでは死後の世界を詳細に記した「
死者の書」が作られた。テーベで発見されたこの作品は書記官アニに捧げられたもので、現在は
大英博物館に所蔵されている。
できごと[編集]
紀元前1300年代[編集]
紀元前1290年代[編集]
紀元前1270年代[編集]
紀元前1260年代[編集]
紀元前1250年代[編集]
紀元前1240年代[編集]
- 紀元前1244年頃 - ラムセス2世によるアブ・シンベル神殿が完成する(着工は紀元前1264年頃)。
- 紀元前1240年頃 - ヒッタイトの王トゥドハリヤ4世が即位。
- この王の治世にヤズルカヤの祭祀遺跡やエフラトゥン・プナルの水辺祭祀遺跡が築かれる。
紀元前1230年代[編集]
- 紀元前1237年頃 - ニフリヤの戦いで、アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世がヒッタイトの王トゥドハリヤ4世に勝利。
- 紀元前1235年頃 - アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世がカッシートの王カシュティリアシュ4世を捕縛しバビロニアを征服。
- この戦いがもととなり『トゥクルティ・ニヌルタ英雄叙事詩』が編纂される。
紀元前1210年代[編集]
- 紀元前1212年頃
- エジプト王ラムセス2世が90歳前後で死去、息子のメルエンプタハが即位。
紀元前1200年代[編集]
- 紀元前1208年頃
- エジプト王メルエンプタハがペルイレルの戦いでリビア人と「海の民」連合軍に勝利。
- この戦いを記念した「メルエンプタハ戦勝碑」の記録は「海の民」のについての最古の記録である。
- 「海の民」としてアカイワシャ人・トゥルシア人・ルッカ人・シェルデン人・シェケレシュ人の5部族の名が挙げられている。
- 「メルエンプタハ戦勝碑」の碑文には、現存最古の「イスラエル」に言及した一節が見られる。
- アッシリアのトゥクルティ・ニヌルタ1世が暗殺される。
- 建設途上の新都カール・トゥクルティ・ニヌルタは放棄され、アッシリアは停滞期に入る。
- 紀元前1200年以前 - トロイア戦争に先立ちテーバイ戦争が起きる(伝承に基づくエラトステネス説による)。
- 紀元前1200年頃 - 殷の23代王武丁の時代(武丁中興)に相当する。
- 殷墟で発掘された武丁の后妃婦好の墓は唯一盗掘を免れた墓で大量の副葬品が発見された。
- 同じく発掘された武丁の后妃戊の墓からは殷代最大の青銅器「后母戊大方鼎(北京中国国家博物館蔵)」が出土。
- アダド・ニラリ1世 - アッシリア王(在位前1307年 - 前1275年)
- トゥクルティ・ニヌルタ1世 - アッシリア王(在位元前1244年 - 前1208年)
- ラムセス2世 - エジプト第19王朝のファラオ(在位前1290年 - 前1224年)
- メルエンプタハ - エジプト第19王朝のファラオ(在位前1212年 - 前1202年)
- カエムワセト - エジプト第19王朝ラムセス2世の王子(前1281頃 - 前1225年頃)・「考古学者の祖」と呼ばれる
- ムワタリ2世 - ヒッタイト王(在位前1290年頃 - 前1272年頃)
- ハットゥシリ3世 - ヒッタイト王(在位前1266年頃 - 前1236年頃)
- モーセ - イスラエルの預言者・出エジプトを行ったのはこの世紀とする説がある
- テセウス - アテナイ王(在位前1234年 - 前1204年)・アッティカ地方を統一した
- 武丁(高宗) - 殷の第23代王(在位前1250年 - 前1192年在位)・傅説を重用し殷の中興の祖となる
- 婦好 - 殷の武丁の后妃・祖庚と祖甲の母・女性政治家であり軍事にも参加
- 戊 - 殷の武丁の后妃・青銅器「后母戊大方鼎(司母戊大方鼎)」が副葬された
- 傅説 - 殷の武丁の宰相・土木工事をしていたが武丁に見いだされ宰相となり殷の中興に尽くす
参考文献[編集]
関連項目[編集]
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