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第1回十字軍

良質な記事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第1十字軍
十字軍
民衆十字軍を率いる隠者ピエールを描いた14世紀の細密画
隠者ピエール民衆十字軍を率いる様子を描いた細密画
1096年8月15日[A] – 1099年8月12日
場所レヴァントおよびアナトリア
結果 十字軍の勝利
領土の
変化
衝突した勢力

十字軍諸軍
レーモン伯軍英語版
ゴドフロワ軍英語版
ロベール公軍英語版
ロベール伯軍英語版
ユーグ伯軍英語版
ボエモン公軍英語版
民衆十字軍

ビザンツ帝国

イスラーム諸国
セルジューク朝
ルーム・セルジューク朝
ダニシュメンド朝

ファーティマ朝
指揮官

十字軍
レーモン・ド・サン=ジル
アデマール・ド・モンテイユ
ゴドフロワ・ド・ブイヨン
ボードゥアン・ド・ブローニュ
ユーグ・ド・ヴェルマンドワ
エティエンヌ・アンリ
ロベール2世
ロベール短袴公
隠者ピエール
ボエモン公
タンクレード
ビザンツ帝国
アレクシオス1世コムネノス
タティキオス英語版

マヌエル・ボウトミテス英語版

セルジューク朝
クルチ・アルスラーン1世
ヤースィヤン英語版 
ケルボガ
ドゥカーク
リドワーン
トゥグ・テキーン英語版
ジャナーフ・アッ=ダウラ英語版
ファーティマ朝
イフティハール・アッ=ダウラ英語版

アル=アフダル・シャハンシャー英語版
戦力

十字軍
推定13万〜16万人[1]

  • 歩兵:8万〜12万人
  • 騎士:1万7千〜3万人

イスラーム側

不明
被害者数
中〜甚大(推定により差異あり) 極めて甚大

第1回十字軍(だい1かいじゅうじぐん、1096年–1099年)とは、中世ヨーロッパにおいて、ラテン教会英語版が主導して敢行した宗教戦争「十字軍」遠征の最初のものである。7世紀に正統カリフ勢力征服英語版した聖地を、キリスト教の支配下へ回復することが目的であった。11世紀、エルサレムはすでに数百年にわたりイスラーム勢力の統治下にあったが、この地域を支配していたセルジューク朝の統治は、現地のキリスト教徒社会、西欧からの巡礼、さらにはビザンツ帝国そのものにとっても脅威となりつつあった。第1回十字軍の直接的な契機は、1095年にビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスが、セルジューク系トルコ勢力との戦争への軍事支援を西ヨーロッパ諸国に求め、ピアチェンツァ公会議に使節を派遣したことであった。これに続き、同年後半に開催されたクレルモン公会議において、教皇ウルバヌス2世はビザンツ側の要請を支持し、信徒たちにエルサレムへの武装巡礼を呼びかける演説を行った。

この呼びかけは西ヨーロッパ全域で熱狂的な反応を引き起こした。フランス人司祭隠者ピエールに率いられた、主として貧しい人々からなる集団が最初に行動を起こした。後に民衆十字軍として知られるこの集団はドイツを通過する過程で、大規模な反ユダヤ人迫害事件を引き起こした。彼らはビザンツ領アナトリア英語版を離れた後、1096年10月にクルチ・アルスラーン1世率いるセルジューク軍の待ち伏せを受け、キボトシュの戦いで壊滅した。

民衆十字軍に続いて、西ヨーロッパの高位貴族たちとその従者が1096年の晩夏に出発し、翌1097年4月までにコンスタンティノープルへ到着した。この遠征軍は大規模な封建軍であり、南フランス軍、上ロートリンゲンおよび下ロートリンゲン公国英語版軍、イタリア=ノルマン軍、さらに北フランスおよびフランドルの諸部隊から構成されていた。非戦闘員を含めると、その総数は最大で約10万人に達したと推定されている。十字軍諸軍は段階的にアナトリアへ進軍した。クルチ・アルスラーン1世が不在であったため、1097年6月のニカイア包囲戦では、十字軍とビザンツ帝国海軍の連携によって最初の大きな勝利を収めた。同年7月、十字軍はドリュラエウムの戦いにおいて、軽装の騎馬弓兵を主力とするテュルク軍を撃退した。困難を極めたアナトリア横断行軍ののち、十字軍はアンティオキア包囲戦を開始し、1098年6月に同市を占領した。そして1099年6月、当時ファーティマ朝の支配下にあった聖地エルサレムに到達した。続くエルサレム包囲戦の結果、十字軍は1099年7月15日に市を攻略した。この際、エルサレムの虐殺英語版として知られる大規模な住民殺害が行われた。同年後半、ファーティマ朝軍による反攻をアスカロンの戦いで撃退。これをもって第1回十字軍は事実上終結した。その後、多くの十字軍参加者は帰国した。

結果、聖地には4つの十字軍国家が成立した。すなわち、エルサレム王国エデッサ伯国アンティオキア公国、そしてトリポリ伯国である。十字軍勢力は、1291年のアッコン陥落により最後の主要拠点を失うまで、レヴァントにおいて一定の勢力を維持し続けた。

歴史的背景

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キリスト教国家とイスラーム国家は、7世紀にイスラームが成立して以降、対立関係にあった。632年にイスラームの預言者ムハンマドが死去してから約120年の間に、ムスリム勢力は一連の征服遠征英語版を通じて(エルサレム英語版を含む)レヴァントを征服し、さらに北アフリカおよびイベリア半島の大部分を支配下に置いた。これらの地域はいずれも、それ以前はキリスト教勢力の統治下にあった[2]。11世紀までに、キリスト教勢力はレコンキスタを通じて、8世紀のイベリア半島のムスリム勢力英語版を徐々に制圧しつつあったが、聖地に対してはその限りではなかった。レヴァントにおけるイスラーム支配層は、キリスト教信仰に対してしばしば厳しい規制を課していた[3]。第1回十字軍以前の段階で、キリスト教徒がかつて保持していた土地のおよそ3分の2は、すでにムスリム勢力によって征服されていた[2]

第1回十字軍は、ファーティマ朝およびセルジューク朝による、聖地およびビザンツ帝国への勢力拡大に対する、キリスト教世界の反動であった。西ヨーロッパにおいて、エルサレムはキリスト教徒の聖地巡礼英語版の目的地として、次第に重要性を増していた。セルジューク朝によるエルサレム支配は脆弱であり(同市は後にファーティマ朝によって奪回される)、帰還した巡礼者たちは、道中での困難やキリスト教徒に対する抑圧について報告している。ビザンツ帝国が軍事的支援を必要とする中、西ヨーロッパの戦士階級もまた、教皇の軍事的指導を受け入れる意欲を高めつつあったのである[4]

ヨーロッパの情勢

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11世紀までに、技術革新および農業技術の進展によって交易が活発化した結果、ヨーロッパの人口は大きく増加していた。カトリック教会は西欧文明において支配的な影響力を持つ存在となっていた。社会は荘園制および封建制からなっており、騎士やその他の貴族は土地や荘園から地代を得る権利と引き換えに、主君に対して軍役を負っていた[5]

1050年から1080年にかけて、グレゴリウス改革運動は次第に強硬な政策を打ち出すようになり、教皇権の拡大と影響力の強化を志向した。これは、教皇首位権という教義をめぐり、東方キリスト教会との対立を引き起こした。東方教会は、教皇を五大総主教英語版アレクサンドリア総主教アンティオキア総主教コンスタンティノープル全地総主教エルサレム正教会英語版)の一人にすぎないと見なしていた。1054年には、慣習・信条・実践の相違が原因となり、教皇レオ9世はコンスタンティノープル総主教ミカエル1世ケルラリオスのもとへ使節団を派遣したが、これは相互破門という結果に終わり、東西教会分裂が決定的となった[6]

初期のキリスト教徒は、共同体の目的を果たすために暴力を用いることに抵抗がなかった。ローマ市民権とキリスト教が結びついた時点から、キリスト教における戦争神学は必然的に発展していった。市民は帝国の敵と戦う義務を負っていたためである。4世紀の神学者ヒッポのアウグスティヌスの著作に始まり、聖戦の教義が形成された。アウグスティヌスは、侵略戦争は罪であるとしつつも、正当な権威(王や司教)によって宣言され、防衛目的または失われた領土の回復を目的とし、過度な暴力を伴わない場合には、戦争は正当化され得ると論じた。また、西ヨーロッパにおけるカロリング帝国の崩壊は、戦うこと以外に役割を持たない戦士階級を生み出した。紛争解決の手段として暴力が日常的に用いられるようになり、教皇庁はこれを抑制しようと試みた[7]

そんな中、教皇アレクサンデル2世は、軍事資源動員のための誓約制度を整備し、これを教皇グレゴリウス7世がヨーロッパ全域へと拡張した。これらの制度は、イベリア半島におけるムスリムとのキリスト教側の紛争や、ノルマン人による南イタリア征服#シチリアの征服、1061年–1091年において教会によって活用された。グレゴリウス7世はさらに踏み込み、1074年には、セルジューク朝に対抗するビザンツ帝国を支援する聖戦を通じて、教皇主権の原理を強化するための軍事力誇示政策を構想したが、支持を集めることはできなかった。神学者ルッカのアンセルムス英語版は、正当な目的のために戦うことが罪の赦免につながり得ると主張し、本格的な十字軍思想への決定的な一歩を踏み出した[8]

1060年のイベリア半島地図
1060年におけるイベリア半島のキリスト教勢力とムスリム勢力の支配領域

当時のイベリア半島には支配的なキリスト教国家は存在しなかった。レオン王国ナバラ王国カタルーニャ公国といったキリスト教諸国は、部族的・民族的な共通のアイデンティティや歴史を欠いており、11世紀から12世紀にかけて、頻繁に統合と分裂を繰り返した。とはいえ、これらはいずれも小規模ながら貴族的軍事技術を発展させており、1031年に南スペインのコルドバ・カリフ国が崩壊すると、後にレコンキスタとして知られる領土拡張の機会が生まれた。1063年には、アキテーヌ公ギヨーム8世が、フランス人、アラゴン人、カタルーニャ人の騎士から成る連合軍を率いてバルバストロ包囲戦英語版を行い、711年以来ムスリムの支配下にあった同市を占領した。この遠征はアレクサンデル2世の全面的支持を受け、カタルーニャでは停戦が宣言され、参加者には免償が与えられた。これは聖戦であったが、巡礼・誓願・教会による正式な認可を欠いていた点で、第1回十字軍とは異なっていた[9]。第1回十字軍直前には、教皇ウルバヌス2世が後にヨーロッパ各地で十字軍を説く際に用いたのとほぼ同じ象徴表現と修辞を用いて、イベリアのキリスト教徒にタラゴナ奪取を奨励していた[10]

イタロ=ノルマン人英語版は、第1回十字軍以前の数十年間に、ビザンツ帝国および北アフリカのアラブ勢力から南イタリアおよびシチリアの大部分を奪取することに成功していた[11]。これにより彼らは教皇庁と対立し、教皇レオ9世は遠征を行ったが、チヴィターテの戦い英語版で敗北した。それにもかかわらず、1059年にムスリム支配下のシチリアへ侵攻した際、彼らは教会の軍旗英語版、すなわち「聖ペテロの旗英語版」の下で戦った[12]ロベルト・イル・グイスカルドは1071年にビザンツの都市バーリ占領し、1081年および1085年にはドゥラス周辺を含むアドリア海東岸で軍事行動を展開した[13]

東方の情勢

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9〜11世紀の東ローマ帝国地図
ビザンツ帝国地図(867年–1081年)

創建以来、ビザンツ帝国は富・文化・軍事力の歴史的中心地であった[14]バシレイオス2世の治世下では帝国は大きく領土を回復し、1025年には最大の範囲に達した。帝国の国境は東方ではイラン方面にまで及び、ブルガリアと南イタリアの大部分を支配下に置き、地中海における海賊行為も抑圧されていた。イスラーム世界との関係は、スラヴ人や西方キリスト教徒との関係以上に対立的であったわけではない。イタリアのノルマン人、北方のペチェネグ人セルビア人クマン人、そして東方のセルジューク・トルコ人はいずれも帝国と競合しており、こうした脅威に対処するため、皇帝たちは時に敵対勢力からも傭兵を雇用した[15]

イスラーム世界もまた、7世紀の成立以降、大きな成功を収めてきたが、やがて重大な変化を迎えることとなった[16]。9世紀以降に始まったテュルク系民族による移住英語版第一波は、アラブ史とテュルク史を密接に結びつけるきっかけとなった。西アジアにおける当時の状況は、のちのテュルク系民族の移動、特に10世紀に到来したセルジューク朝によって大きく揺さぶられた[17]。 セルジューク家はトランスオクシアナ出身の小規模な支配氏族にすぎなかったが、イスラームに改宗したのちイランへ移住し、勢力拡大を図った。続く20年間で彼らはイラン、イラク、近東を征服した。セルジューク朝とその支持者はスンナ派ムスリムであり、これによりパレスチナおよびシリアにおいて、シーア派のファーティマ朝との対立が生じた。

13世紀半ばの細密画『ワルカーとグルシャー英語版』に描かれたアナトリア・セルジューク朝の騎兵(部分)[18][19]

セルジューク朝は遊牧民であり、テュルク語を話し、時にシャーマニズム的要素も保持していた点で、定住的かつアラビア語話者であった被支配民とは異なっていた[20]。この差異は、セルジューク朝が地理的区分よりも、政治的恩顧や独立諸侯間の競争に基づいて領土統治を行うという慣行と相まって、既存の権力構造を弱体化させた。ロマノス4世ディオゲネスは、セルジューク朝による散発的な略奪行為を抑えようとしたが、1071年のマンジケルトの戦いで敗北した。この戦いは、ビザンツ皇帝がイスラーム側の司令官の捕虜となった史上唯一の例である。この敗北は、セルジューク朝の顕著な領土拡大を予告する重大な打撃であり、第1回十字軍要請の一因ともなった[21]ニカイアアンティオキアといった重要都市は、それぞれ1081年および1086年に失われた。これらの都市は歴史的重要性から西欧でも特に知られており、後に十字軍諸軍による奪回目標ともなった[22]

1092年以降、セルジューク帝国の実質的支配者であったニザーム・アル=ムルクの死を契機として、中東における勢力均衡は崩壊した。これに続いて、セルジューク朝スルタンマリク・シャー1世およびファーティマ朝カリフアル=ムスタンスィル英語版が相次いで死去した。混乱と分裂に見舞われたイスラーム世界は外部世界への注意を失い、第1回十字軍の到来はまさしく不意打ちが如き出来事となった。マリク・シャーの後継者として、アナトリアのルーム・セルジューク朝ではクルチ・アルスラーン1世が、シリアでは兄弟のトゥトゥシュ1世英語版が権力を握り、後者はスルタン位をめぐってバルキヤールクに対する内戦を開始した。1095年にトゥトゥシュが戦死すると、その子であるリドワーンドゥカークが、それぞれアレッポおよびダマスクスを継承し、シリアは互いに敵対するアミールや、モースルのアタベク英語版であるケルボガを含む勢力によって、さらに分断された。エジプトおよびパレスチナの大部分はファーティマ朝の支配下にあり、名目的にはカリフのムスタアリーの統治下にあったが、実際には宰相アル=アフダル・シャハンシャー英語版が権力を掌握していた。ファーティマ朝は1073年にエルサレムをセルジューク朝に奪われたが、十字軍到来直前の1098年、セルジューク朝と関係の深い小規模なテュルク系部族であるアルトゥク朝から同市を奪回することに成功した[23]

キリスト教徒迫害

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歴史家ジョナサン・ライリー=スミス英語版および社会史家ロドニー・スターク英語版によれば、聖地におけるイスラーム支配者層は、しばしば「公然としたキリスト教信仰の表明」に対して厳しい規制を課したとされる[24][25][26][27]。 また、11世紀前半の事例として、ミサを行っているところを目撃された聖職者が殺害されたとする記述や、巡礼者の一団が襲撃を受けて多数の死者を出したとする記述が、後世の叙述に見られる。

1026年、サン=ヴァンヌのリシャールは、ミサを行っているところを目撃された後、石打ちによって殺害された。イスラーム当局はまた、キリスト教巡礼者に対する度重なる強盗や虐殺を黙認した。たとえば1064年には、ムスリムが聖地に入ろうとしていた4人のドイツ人司教と数千人から成る巡礼団を待ち伏せし、そのうち3分の2を殺害した事件があった。

セルジューク・トルコ人の侵入後、キリスト教徒に対する迫害英語版はさらに悪化した。エルサレムへ向かう途上のトルコ人が占拠した村々では、キリスト教巡礼者に通行料が課されるようになった。原則としてセルジューク朝は巡礼者のエルサレム入城を認めていたが、しばしば莫大な関税を課し、地域的な襲撃を黙認した。多くの巡礼者は誘拐され、奴隷として売られ、他の者たちは拷問を受けた。やがて、大規模で十分に武装した集団のみが巡礼を試みるようになったが、それでも多くが死亡し、さらに多くが引き返した。このような極度に危険な旅を生き延びた巡礼者たちは、「疲弊し、貧窮した状態で西方へ戻り、恐るべき物語を語った」。巡礼者に対するこれらの致命的な攻撃や、在地の東方キリスト教徒に対する迫害の報は、ヨーロッパに怒りを引き起こした[28]

これらの迫害に関する報は、1071年のマンジケルトの戦い後の数年間に、西欧のキリスト教徒のもとへ届いた。あるフランク人の目撃証言は次のように述べている。 「至る所で、彼ら(ムスリムのテュルク人)は都市や城砦、そしてそれに付随する集落を荒廃させた。教会は地に倒され、捕らえられた聖職者や修道士のうち、ある者は殺害され、他の者は言語に絶する邪悪さをもって、司祭もろとも彼らの恐るべき支配に引き渡された。修道女たちは彼らの欲望の対象とされた[29]。」

このような状況のもとで、ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスは、フランドル伯ロベール2世に宛てた書簡の中で、次のように記している。

聖なる場所は、数え切れないほどの方法で冒涜され、破壊されている。高貴な婦人やその娘たちは、すべてを奪われ、獣のように次々と陵辱されている。ある者たちは、母親の目前に処女を引きずり出し、卑猥で忌まわしい歌を歌わせながら、欲望を満たすまでそれを強要する……。あらゆる年齢と身分の男たち――少年、若者、老人、貴族、農民、そしてさらに恐るべきことに、聖職者や修道士、さらには前例のない悲惨として、司教にまで及んでいる。司教の一人が、忌まわしいソドミーの罪に屈したことが、今や公然と喧伝されている[30]

皇帝は、もしコンスタンティノープルがテュルク人の手に落ちれば、さらに数千人のキリスト教徒が拷問され、陵辱され、殺害されるのみならず、「何世紀にもわたって集められてきた、救い主の最も神聖な聖遺物」が失われるだろうと警告した。 「ゆえに神の御名において……この都へ、キリストの忠実な兵士すべてを率いて来てほしい。あなたが来れば、天において報いを見いだすであろう。もし来なければ、神はあなたを断罪されるであろう[31]。」

聖墳墓教会の破壊

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996年、「狂気のカリフ」として知られるアル=ハーキム・ビ=アムル・アッラーが、当時エルサレムを支配していたファーティマ朝において権力の座に就いた。彼が実際に狂気であったのか、あるいは単に奇矯な人物であったのかについては史料によって見解が分かれている。しかし確かなことは、彼がキリスト教徒およびユダヤ教徒の臣民を完全に根絶しようと決意していたという点である。彼の統治は、財産没収、略奪、屈辱、投獄、処刑によって特徴づけられていた。アル=ハーキムはキリスト教徒に対して識別的な服装を強制し、重量約5ポンドの十字架を身に着けるよう命じた。またユダヤ教徒には、首から重い鈴を下げることが義務づけられた。キリスト教徒は行政職から排除され、教会は破壊された[32]

1009年、アル=ハーキムはラムラ総督ヤルークに対し、「復活の教会を破壊し、その象徴を除去し、あらゆる痕跡と記憶を消し去れ」と命じた。これは、キリスト教徒がイエスが埋葬された場所であると信じていた聖墳墓教会を指していた。教会は「基礎に至るまで破壊」され、洞窟の大部分までもが削り取られた。コンスタンティヌス帝時代に建設された殉教者聖堂マルティリオンは完全に破壊され、今日に至るまで再建されていない[33]

その後、アル=ハーキムの後継者は教会の再建を許可したが、洞窟に加えられた破壊は不可逆的なものであった。この暴挙の知らせは、オルレアン司教ウルリク英語版アデマール・ド・シャバンヌ英語版を含む複数の目撃者によってヨーロッパ全域に伝えられ[34]、教皇ウルバヌス2世による第1回十字軍の呼びかけに対する熱狂的反応の一因となった。

クレルモン公会議

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教会の奥中央に立つ教皇ウルバヌス2世を、周囲の聖職者や多数の一般民衆が見上げている。教会内は人々で満ちている。
教皇ウルバヌス2世がクレルモン公会議で演説する様子。(セバスティアン・マムロ英語版の『海外行路の書英語版』写本に含まれる挿絵。ジャン・コロンブ英語版作。1472–75年、フランス国立図書館蔵、Fr.5594)。

第1回十字軍を促した主要な教会的契機は、いずれも1095年に開催されたピアチェンツァ公会議およびそれに続くクレルモン公会議であり、いずれも教皇ウルバヌス2世によって主宰された[35]。これらの公会議は、聖地遠征へと西ヨーロッパの民衆を突き動かす契機となった[36]。セルジューク朝の領土拡張を憂慮していたビザンツ皇帝アレクシオスは、1095年3月、侵入するトルコ勢力に対する援助を求めて、ピアチェンツァ公会議に使節を派遣した[37]

ウルバヌス2世はこの要請に好意的に応じたが、その背景には、40年前の東西教会分裂を修復し、東方教会を支援することで教皇首位権の下に教会を再統合しようとする意図があった可能性がある。アレクシオスとウルバヌスは、1089年以降、緊密な連絡を保っており、キリスト教会再統一の可能性についても率直に議論していた。十字軍直前の数年間には、ローマとコンスタンティノープルの間に顕著な協力関係が見られた[38]

1095年7月、ウルバヌス2世は遠征のための兵力募集を目的として、祖国であるフランスへと向かった。その旅の最高潮が、10日間にわたって開催されたクレルモン公会議であり、11月27日、彼はフランスの貴族および聖職者から成る大聴衆を前に、情熱的な説教を行った[39]。この演説については、公会議に出席していた可能性のある人物(ドールのバルドリク英語版ノジャンのギベール英語版修道士ロベール英語版シャルトルのフルシェ英語版)や、実際に十字軍に参加した者(フルシェおよび『フランク人の事績英語版』の匿名著者)によって、5つの異なる記録が残されている。さらに、マルムズベリーのウィリアムギヨーム・ド・ティールなど、後世の歴史家による別稿も存在する[40]。しかしこれらの記録はいずれもエルサレム陥落後に書かれたものであり、実際にこの会議にて何が語られ、また何が成功した十字軍の事後的再構成であったのかを判別することは困難である。 同時代の記録として確実に残るのは、1095年にウルバヌス自身が書いた数通の書簡のみである[41]。また、ウルバヌスがピアチェンツァでも十字軍を説いた可能性があると考えられているが、これを伝える唯一の史料は、聖ブラジエンのベルノルト英語版が著した『年代記(Chronicon)』である[42]

演説の5つの異本は細部において大きく異なっているが、『フランク人の事績』版を除くすべてに共通して、ウルバヌスがヨーロッパ社会に蔓延する暴力と神の平和英語版の維持の必要性、援助を求めてきたギリシア人(東ローマ人)への救援、東方でキリスト教徒に対して行われている犯罪行為、そして武装巡礼という新しい形態の戦争について語った点が挙げられる。また、この事業において命を落とした者には、罪の赦免という天上の報いが与えられると説いた[43]。ただし、すべての異本が最終目的地として明確にエルサレムを挙げているわけではない。一方で、ウルバヌスのその後の説教内容から、彼が当初から遠征の到達点をエルサレムと想定していたとする見解も提示されている[44]。演説の一異本によれば、熱狂した群衆は「神の御旨なり (Deus lo volt / Deus vult!)」と叫んで応えたとされる[45]

隠者ピエールと民衆十字軍

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農民と軍勢がセルジューク・トルコ軍と戦う様子が描かれている。
民衆十字軍の敗北を描いた挿絵。セバスティアン・マムロ英語版の『海外行路の書英語版』より。(ジャン・コロンブ英語版作。1472–75年、フランス国立図書館蔵Fr. 5594)。

フランスの大貴族と訓練された騎士軍が、エルサレムへの遠征に最初に乗り出したわけではなかった[46]。ウルバヌス2世は第1回十字軍の出発を1096年8月15日、すなわち聖母被昇天祭に予定していたが、それより数か月前、予期せぬ農民や下級貴族の軍勢が、隠者ピエールと呼ばれるカリスマ的司祭に率いられて、独自にエルサレムへ向け出発した[47]。ピエールはウルバヌスの呼びかけを説いた説教師の中で最も成功した者であり、追随者の間にほとんどヒステリックとも言える熱狂を生み出したが、クレルモンにおいて教皇によって認可された公認の説教師ではなかった可能性が高い[48]。 一般には、ピエールの追随者はエルサレムの所在すら知らない、訓練も読み書きもできない農民の巨大集団であったと考えられがちである。しかし実際には、農民に交じって多くの騎士も含まれており、その中にはピエールの副官として別働軍を率いた無一文のゴーティエなどといった貴族らも参加していた[49]

軍事規律を欠いていたため、ピエールの率いる未熟な軍勢は、キリスト教支配地域を通行中にたちまち問題を起こした[50]。 ゴーティエ率いる軍はベオグラードおよびゼムン一帯を略奪し、ほとんど抵抗を受けることなくコンスタンティノープルに到達した。これと並行して、ゴーティエ軍とは別行動を取っていたピエールの軍もハンガリー人と衝突し、ベオグラードを占領した可能性がある。 ニシュでは、ビザンツ帝国の総督が補給を試みたが、ピエールは追随者をほとんど統制できず、彼らの攻撃を鎮圧するためにビザンツ軍の介入が必要となった。 ピエールは8月にコンスタンティノープルへ到着し、すでに到着していたゴーティエ軍と合流したほか、フランス・ドイツ・イタリアから来た別個の十字軍集団とも合流した。なお、ボヘミア人およびザクセン人から成る別の軍勢は、本隊からわかれるまでハンガリーを越えることができなかった[51]

ピエールとゴーティエが率いる軍団は統制を失い、物資と食料を求めて市外で略奪を始めたため、アレクシオス1世は、彼らを急いでボスポラス海峡を越えて対岸へ渡らせた。小アジアへ渡った後、十字軍は分散し、ニカイア周辺のセルジューク領内へ入り込んで農村部を略奪した。しかし、はるかに経験豊富なテュルク軍はこの集団の大半を虐殺した[46]。 9月末には、イタリア人およびドイツ人の十字軍がクセリゴルドンを包囲した英語版が、落とすことができず敗北した。 一方、戦闘経験に乏しい者が大半であったが約50人の騎士に率いられていたゴーティエおよびピエールの軍団は、1096年10月のキボトシュの戦いでトルコ軍と交戦した。結局、こちらもトルコ軍の弓兵によって壊滅させられ、ゴーティエも戦死した。 当時コンスタンティノープルに不在であったピエールは、その後キボトシュでのわずかな生存者とともに諸侯軍に合流した[52]

聖地に向けた遠征の契機となった第1回十字軍の説教は、ユダヤ人虐殺事件英語版を誘発するきっかけにもなった。1095年末から1096年初頭にかけて、8月に予定されていた正式な十字軍の出発予定時期より数か月も前に、フランスおよびドイツのユダヤ人共同体が攻撃を受けた。 1096年5月、フロンハイムのエミコ英語版(しばしば誤ってエミコ・フォン・ライニンゲンとも呼ばれる)がシュパイアーおよびヴォルムスのユダヤ人を襲撃した。さらに、ディリンゲン伯ハルトマン(Hartmann of Dillingen)率いるシュヴァーベン人の非公式な十字軍や、ネールのドロゴ英語版およびギヨーム副伯(通称 大工のギヨームに率いられたフランス人・イングランド人・ロートリンゲン人・フランドル人の志願者、ならびに多数の地元民がエミコに合流し、5月末にマインツのユダヤ人共同体を壊滅させた[53]。 マインツでは、あるユダヤ人女性が十字軍に殺されるのを避けるため自らの子どもを殺害し、主任ラビであったカロニムス・ベン・メシュラム英語版は殺害を予期して自殺したという。エミコの一団はその後ケルンへ向かい、他の集団はトリーアメスなどの都市へ進軍した[54]。 隠者ピエールもユダヤ人に対する暴力に関与していた可能性があり、フォルクマール(Folkmar)という司祭に率いられた軍勢が、さらに東方のボヘミアでユダヤ人を襲撃した[55]

当時のハンガリー王カールマン(通称 文人王)は、1096年に聖地へ向かう途中で自国を通過した第1回十字軍諸軍が引き起こした問題に対処しなければならなかった。彼は王国を略奪していた二つの十字軍の群衆を撃破した。エミコの軍勢も最終的にはハンガリーへ進軍したが、カールマンに敗北し、追随者は離散した。一部は後に主力軍に合流したが、エミコ自身は帰国した。攻撃者の多くは、ユダヤ人に改宗を強制しようとしていたように見えるが、同時に金銭の獲得にも関心があった。ユダヤ人に対する物理的暴力は、十字軍に関する教会階層の公式方針の一部ではなく、特にケルン大司教をはじめとするキリスト教司教たちは、ユダヤ人を保護しようと最善を尽くした。10年前には、シュパイアー司教英語版が、市内のユダヤ人をキリスト教徒の暴力から守るために城壁で囲まれた居住区を設け、さらにその区域内の司法を主任ラビに委ねる措置を取っていた。それでもなお、一部は保護の見返りとして金銭を受け取っていた。 これらの攻撃は、ユダヤ人とムスリムが等しくキリストの敵であり、敵は戦うか、あるいはキリスト教へ改宗させられるべきだ、という信念から生じた可能性がある[56]

クレルモンからコンスタンティノープルへ

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動員

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Origin of the known participants on the First Crusade
第1回十字軍の既知の参加者の出身地域

これほど大規模な軍事遠征の参加者募集は、西ヨーロッパ各地に及んだ。ウォルター・ポージズによれば、ウルバヌス2世がフランスを巡歴する一方、教皇書簡と使節はイングランド、ノルマンディー、フランドル、ジェノヴァ、ボローニャへ送られ、説得・命令・勧誘が行われた[57]。十字軍諸軍の規模については、クレルモン公会議の翌年に西ヨーロッパを出発した人数を7万〜8万人とする推定があり、その後の3年間の遠征期間中にもさらに多くが加わったとされる。騎士の数については7,000〜10,000、歩兵は35,000〜50,000、さらに非戦闘員を含めると総数は60,000〜100,000と見積もられている[58]

ウルバヌス2世の呼びかけは、単なる即興の演説にとどまらず、教会側の組織的活動に結びついていた。ポージズは、聖職者たちが遠征を構想・計画しただけでなく、その組織化にも関与したと説明している[57]。彼はル・ピュイのアデマール[59]およびトゥールーズ伯レーモン4世[60]の参加を得た。スーザン・エッジントンは、教皇使節であったアデマールがレーモンおよびプロヴァンス勢とともに行動したと説明している[61]。アデマール自身は公会議に出席しており、最初に「十字を取った」人物でもあった[62]。1095年の残りから1096年にかけて、ウルバヌス2世はフランス各地を巡歴し、教皇書簡と使節もイングランド、ノルマンディー、フランドル、ジェノヴァ、ボローニャなどへ送られた[57]

しかし、この呼びかけへの反応は、ウルバヌス2世が制御しきれる範囲を超えて広がった。エッジントンは、ウルバヌス2世が自らの呼びかけに対する広範な反応を予見していなかったと説明している[63]。またポージズによれば、巡礼の伝統と巡回説教師たちによって高められた熱狂は、参加者を限定しようとする教皇の試みを圧倒した[64]。またエッジントンは、アレクシオス1世が、過去に雇用してきたような比較的小規模で有能な傭兵部隊を想定していた可能性が高く、大群がコンスタンティノープルへ向かっているという知らせは彼に大きな懸念を抱かせたはずだと説明している[61]。フランス巡歴の途上、ウルバヌス2世は特定の人々(女性、修道士、病者など)が十字軍に参加することを禁じようとしたが、禁じることは能わなかった[64]。結果として、呼びかけに応じた者の大多数は騎士ではなく、裕福ではなく戦闘技能も乏しい農民であった。それは、教会権力および俗人貴族層によって容易には統制できない、新たな情動的・個人的敬虔の噴出でもあった[65]。通常、説教の締めくくりとして、志願者は聖墳墓教会への巡礼を完遂する誓願を立て、さらに十字章(多くの場合は衣服に縫い付けられたもの)を授けられた[66]

史料記録が残らない数千人の参加者、あるいは物語が修道士や聖職者によって繰り返し語り継がれがちな有力騎士であっても、彼らの動機を評価することは困難である。多くの十字軍参加者にとって、個人的敬虔が主要因であった可能性は高い[67]。このような民衆的熱狂がある一方で、ウルバヌス2世の呼びかけは騎士層に向けられていた。エッジントンは、ウルバヌス2世の呼びかけが騎士階級に向けられていたと説明しており、また1096年の晩夏には主要な軍勢が出発したと述べている[63][61]。アデマールとレーモン以外に、彼が1096年を通じて指導者として動員した者には、改革を推進する教皇たちの南イタリアにおける同盟者であったターラント公ボエモン[68]と、その甥タンクレード[69]、かつて神聖ローマ皇帝の反改革派同盟者であったゴドフロワ・ド・ブイヨン[70]とその弟ブローニュのボードゥアン[71]、破門されたフランス王フィリップ1世の弟であるヴェルマンドワ伯ユーグ1世[72]ノルマンディー公ロベール短袴公[73]イングランド王ウィリアム2世の兄弟)およびその親族であるブロワ伯エティエンヌ・アンリ[74]フランドル伯ロベール2世[75]などが含まれる。

十字軍は、北フランスと南フランス、フランドル、ドイツ、南イタリアを代表する諸集団から成り、4つの別個の軍勢に分かれていた。これらは常に協調的であったわけではないが、最終目標を共有することで結びつけられていた[76]

十字軍はフランス屈指の有力貴族たちによって率いられ、彼らの多くはあらゆるものを後にして出発した。また、全家族が多大な私費を投じて十字軍に参加する例もしばしば見られた[77]。十字軍参加者は出発前に、所領を教会の保護下に置いたり、長く続いていた紛争を処理したりすることもあり、エッジントンは、こうした証書研究が主要な十字軍参加者間の親族的結びつきも明らかにしていると述べている[61]。たとえばノルマンディー公ロベールは、十字軍参加の費用を賄うため、ノルマンディー公国を弟であるイングランド王ウィリアム2世に抵当に入れた[78]。ゴドフロワは自身の財産を教会に売却または抵当に入れた。タンクレードについて、ライリー=スミスは、ラルフ・オブ・カーンの叙述に基づき、彼がキリスト者としての生き方と騎士としての戦闘行為の矛盾に悩んでいたが、ウルバヌス2世による罪の赦しの宣言後、キリストに奉仕する戦いとして十字軍参加の理由を見いだしたと説明している[79]。タンクレードとボエモン、ならびにゴドフロワ、ボードゥアン、そして彼らの兄であるブローニュ伯英語版ウスタシュ3世[80]は、一族として共に十字軍に参加した事例である。十字軍への熱意の多くは一族関係に基づいており、フランス人十字軍の多くは遠縁の親族関係にあった。それでも、少なくともいくつかの事例では個人的出世が動機の一部を占めた。たとえばボエモンは東方に領土を切り開くことを望み、これ以前にもその目的でビザンツに対する遠征を行っていた。十字軍は彼にとって更なる領土獲得の機会となり、彼はアンティオキア包囲戦の後にその機会を掴み、都市を占有してアンティオキア公国を樹立した[81]

コンスタンティノープルへの道

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第1回十字軍における主要な行軍路。
アジアにおける第1回十字軍の経路
アジアにおける第1回十字軍の経路

4つの主要な十字軍諸軍は、定められていた1096年8月頃にヨーロッパを出発した。彼らはコンスタンティノープルへ向かうために異なる経路を取り、東欧とバルカンを経由した者もいれば、アドリア海を渡った者もいた。彼らは1096年11月から1097年4月にかけて、ローマ時代のコンスタンティノープルの城壁の城外に集結した。最初に到着したのはヴェルマンドワ伯ユーグであり、続いてゴドフロワ、レーモン、ボエモンが到着した[82]

ゴドフロワはバルカンを通る陸路を取った[50]。カールマン文人王は、ゴドフロワの兵が良好な行状を保つ保証として、弟のボードゥアンが人質として差し出されることを条件に、ゴドフロワとその軍勢のハンガリー通過を認めた[83]

トゥールーズ伯レーモン4世は、プロヴァンス勢を率い、スラヴォニアまたはダルマチアの内陸および沿岸を南下した。これはクロアチア王国に相当する地域である。そこで彼らは敵対的な住民と遭遇した(クロアチア王ドミタル・ズヴォニミルの死後、無政府状態にあったため)。[84][85]。その後、ドゥクリャ英語版コンスタンティン・ボディン英語版の王国を経て、ドゥラスへ至った[86]。そしてそこから東へ進み、コンスタンティノープルへ向かった[87]

ターラント公ボエモン1世とタンクレードは、ノルマン勢を率いて海路でドゥラスへ渡り、そこから陸路でコンスタンティノープルへ向かった[88]

諸軍は食料に乏しい状態でコンスタンティノープルに到着し、アレクシオス1世からの食糧供給と援助を期待していた。アレクシオスが警戒心を抱いたのは当然であった。というのも、彼はすでに民衆十字軍への対応を経験しており、加えて騎士たちの中には、旧来のノルマン人の敵であるボエモンが含まれていたからである。ボエモンは父とともに幾度もビザンツ領へ侵入しており、かつて都市外に野営していた際には、コンスタンティノープル攻撃を計画しようとした可能性さえあった。しかし今回は、アレクシオスは十字軍への備えをより整えており、道中での暴力事件も以前より少なかった[89]

十字軍側は、アレクシオスが自分たちの指導者になることを期待していた可能性があるが、彼は遠征への同行に関心を持たず、主として十字軍をできる限り速やかに小アジアへ送り込むことを重視していた。食料と補給の見返りとして、アレクシオスは指導者たちに対し、自らへの臣従(忠誠)を誓い、テュルク人から回復した土地はすべてビザンツ帝国へ返還することを約束するよう求めた。最初に誓約したのはゴドフロワであり、他の指導者たちもほぼ全員がこれに続いた。ただし彼らが誓約したのは、供給のための略奪に走ろうとする十字軍と市民との間で一触即発状態になった後のことであった。レーモンだけは誓約を避け、帝国に害を与えないことだけを約した。諸軍を順次ボスポラス海峡の対岸へ渡らせるに先立ち、アレクシオスは、まもなく遭遇することになるセルジューク軍への対処法について指導者たちに助言した[90]

ニカイア包囲戦

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ニカイア包囲戦の様子。『ゴドフロワ・ド・ブイヨンとサラディンのロマンス』所収の細密画

十字軍諸軍は1097年前半に小アジアへ渡り、そこで隠者ピエールと、彼が率いていた比較的小規模な残存部隊と合流した。さらに、アレクシオス1世コムネノスは自軍の将軍であるマヌエル・ボウトミテス英語版およびタティキオス英語版の2名を派遣し、十字軍を支援させた。彼らの最初の作戦目標はニカイアであった。この都市はかつてはビザンツ領であったが、当時はクルチ・アルスラーン1世の下で、セルジューク朝のルーム・スルタン国の首都となっていた[91]。当時アルスラーンは、中央アナトリアでダニシュメンド朝と戦っており、十字軍の戦力を過小評価したまま、財宝と家族をニカイアに残していた[92]

1097年5月14日に十字軍が到着すると、都市は包囲下に置かれた。包囲の報を受けたアルスラーンは急ぎニカイアへ引き返し、5月16日に十字軍を攻撃したが、予想外に大規模であった十字軍の軍勢に撃退された。この戦闘では双方に大きな損害が出た。包囲戦はその後も続いたが、都市がイズニク湖に面しており、湖上から補給を受けることができたため、十字軍は完全な封鎖に失敗し、攻略は難航した。この状況を打開するため、アレクシオス1世は十字軍の船を丸太の上に載せて陸路で運ばせ、湖へ投入させた。これを目の当たりにしたトルコ守備隊は、最終的に1097年6月18日に降伏した[93]

フランク人の間では、都市の略奪を禁じられたことに対する不満が生じたが、アレクシオスが金銭によって十字軍に報奨を与えたことで、ある程度緩和された。後世の年代記はギリシア人とフランク人の間の緊張を誇張して描いているが、エティエンヌ・アンリが妻のアデルに宛てた書簡は、この時点では両者間で善意と協調関係が維持されていたことを示している[94]。ニカイアの陥落は、十字軍とビザンツ帝国との緊密な協力関係が実を結んだ稀有な成功例とみなされている[95]

ドリュラエウムの戦い

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6月末、十字軍はアナトリアを進軍した。彼らにはタティキオス指揮下のビザンツ帝国軍が同行しており、また、アレクシオス1世が後に本格的な帝国軍を派遣してくれるのではないかという期待も依然として抱いていた。十字軍は行軍を容易にするため、軍を2つの部隊に分割した。ひとつはノルマン人が率いる部隊、もうひとつはフランス人が率いる部隊であった。両部隊はドリュラエウム英語版で再合流する予定であったが、7月1日、フランス軍に先行していたノルマン軍が、クルチ・アルスラーン1世によって攻撃を受けた[96]。アルスラーンは、ニカイアでの敗北後に以前よりもはるかに大規模な軍を集結させており、高速で移動する騎馬弓兵を用いてノルマン軍を包囲した。ノルマン軍は「密集した防御陣形を展開」し、行軍に同行していた全ての装備や非戦闘員を中央に囲い込んだうえで、もう一方の部隊に救援を求めた。フランス軍が到着すると、ゴドフロワ・ド・ブイヨン率いる部隊がテュルク軍の戦列を突破し、また教皇使節であるアデマール司教が率いる軍勢は背後からテュルク軍を側面攻撃した。ノルマン軍の殲滅を想定しており、フランス軍の迅速な到着を予期していなかったテュルク軍は、連合した十字軍との戦闘を避け、退却した[97]

この戦い以後、十字軍のアナトリア横断は大きな軍事的抵抗を受けることなく進んだが、その行程は過酷なものであった。アルスラーンは撤退の際、通過した地域のあらゆるものを焼き払い、破壊していたためである。時期は真夏であり、十字軍は食料と水の深刻な不足に直面した。その結果、多くの兵士や馬が命を落とした。同じキリスト教徒が食料や金銭を与えることもあったが、多くの場合、十字軍は機会があれば略奪や掠奪に頼った。個々の指導者たちは引き続き総指揮権を巡って対立していたが、精神的指導者としてのアデマールの地位は常に認められており、単独で全軍を掌握できるほどの権力を持つ者はいなかった[98]

アルメニアでの出来事

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エデッサに入城するボードゥアンを描いた歴史画。(en:Joseph-Nicolas Robert-Fleury作 1840年)

キリキア門英語版を通過した後、ボードゥアンとタンクレードは主力軍から離脱し、アルメニア人の土地へと向かった[99]。ボードゥアンは聖地において自らの封土を築くことを望んでおり[100]、アルメニアでは、とりわけバグラト英語版という名の冒険家をはじめとする地元住民の支持を期待することができた[101]。ボードゥアンとタンクレードはそれぞれ別個の部隊を率い、9月15日にヘラクレイアを出発した。タンクレードは先にタルススに到着し、セルジューク朝の守備隊を説得して城塞に自らの旗を掲げさせた。翌日ボードゥアンがタルススに到着すると、事態は逆転し、トルコ側はボードゥアンに二つの塔の占拠を認めた。数で大きく劣っていたタンクレードは、この町を巡って戦うことを断念した。その後まもなく、ノルマン人騎士の一団が到着したが、ボードゥアンは彼らの入城を拒否した。その夜、トルコ兵はこのノルマン人たちを虐殺し、ボードゥアンの部下たちはその責任を彼に帰し、残っていたセルジューク守備隊を皆殺しにした。ボードゥアンは塔に避難し、自らの無実を部下たちに納得させた。海賊船長ギネメール・ド・ブローニュ英語版ベルダン川英語版を遡ってタルススに到達し、ボードゥアンに臣従を誓った。ボードゥアンは彼の部下を雇い、都市の守備を任せたうえで、自身は遠征を継続した[102]

一方、タンクレードはマミストラ英語版を占領していた。ボードゥアンは9月30日頃に同地へ到着したが、ノルマン人騎士リカルド・ディ・サレルノイタリア語版がタルススでの出来事の報復を望んだため、ボードゥアンとタンクレードの兵の間で小競り合いが発生した。ボードゥアンはマミストラを離れ、マラシュで主力軍と合流したが、バグラトの説得により、アルメニア人が密集して居住する地域への遠征を決意し、10月17日に再び主力軍を離れた。アルメニア人たちはボードゥアンを歓迎し、地元住民はセルジューク兵を虐殺して、1097年末までにラヴァンデルおよびトゥルベッセル英語版の要塞を掌握した。ボードゥアンはバグラトをラヴァンデル総督に任命した[103]

1098年初頭、アルメニア人統治者トロス英語版は近隣のセルジューク勢力に対抗するため、ボードゥアンに援助を求める使者を送った[104]。エデッサへ向かう前、ボードゥアンはセルジューク側との内通を理由にバグラトの逮捕を命じた。バグラトは拷問を受け、ラヴァンデルの引き渡しを余儀なくされた。2月初旬、ボードゥアンはエデッサへ出発したが、途中でサモサタ英語版の首長バルドゥク(Balduk)の軍勢に悩まされた。エデッサに到着すると、トロスおよび地元のキリスト教徒住民の双方から歓迎を受けた。特筆すべきことに、トロスはボードゥアンを養子とし、彼をエデッサの共同統治者とした。エデッサからの援軍によって勢力を強めたボードゥアンはバルドゥクの領土を襲撃し、サモサタ近郊の小要塞に守備隊を配置した[105]

この遠征からの帰還後まもなく、地元の有力者たちはトロスに対する陰謀を企て始めた。これはボードゥアンの同意を得ていた可能性が高い。都市では暴動が発生し、トロスは城塞に避難した。ボードゥアンは養父を救うと誓ったが、3月9日、暴徒が城塞に侵入してトロスとその妻を殺害した際、彼はこれを阻止しなかった。翌日、市民がボードゥアンを支配者として認めると、彼はエデッサ伯の称号を名乗り、こうして最初の十字軍国家であるエデッサ伯国が成立した[106]

ビザンツ帝国は1087年にエデッサをセルジューク朝に奪われていたが、皇帝はボードゥアンに対して都市の返還を要求しなかった。さらに、ラヴァンデル、トゥルベッセル、エデッサの獲得は、後のアンティオキア包囲戦において十字軍主力の立場を強化した。ユーフラテス川沿いの領土は補給路を確保し、要塞群はセルジューク軍の移動を妨げた[107]

ボードゥアンの軍勢は小規模であったため、彼は外交を用いてエデッサでの支配を確立した。彼はアルダ・オブ・アルメニア英語版と結婚し、彼女は後にエルサレム王国の王妃となった。また、家臣たちにも現地女性との結婚を奨励した。都市の豊富な財宝により、彼は傭兵を雇用し、さらにバルドゥクからサモサタを買収することができた。このサモサタ譲渡に関する条約は、十字軍指導者とムスリム支配者との間で結ばれた最初の友好的協定であり、ムスリム側は引き続き都市の総督を務めた[108]

12世紀の同地域における重要人物の一人が、かつてのエルサレム総督アルトゥク・ベイロシア語版の孫であるベレク・ガーズィーロシア語版であった。彼はアルトゥク朝のエミールとして、サルージュ英語版での反乱鎮圧のためにボードゥアンを雇っていた[109]。町のムスリム指導者たちが救援を求めてバルドゥクに接触すると、彼は急いでサルージュへ向かったが、包囲戦に耐えられないことが明らかとなり、守備側は降伏した。ボードゥアンはバルドゥクの妻子を人質として要求し、拒否されると彼を捕らえて処刑した。サルージュを掌握したことで、ボードゥアンは伯領を統合し、十字軍主力との連絡線を確保した[101]。十字軍撃滅を常に警戒していたケルボガは、ボードゥアン排除のため大軍を集結させた。アンティオキアへ進軍する途上、1098年5月にエデッサを3週間包囲したが、陥落させることはできなかった。この遅延は、アンティオキアにおける十字軍の勝利に決定的な役割を果たした[110]

アンティオキア包囲戦

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十字軍は、ボードゥアンおよびタンクレードを欠いたまま、アンティオキアへと進軍した。同市はコンスタンティノープルとエルサレムの中間に位置しており、ブロワ伯エティエンヌ・アンリは書簡の中でこれを「非常に広大で、信じがたいほど堅固に要塞化され、ほぼ攻略不可能な都市」と描写している[94]。 この都市を正面攻撃で陥落させるという発想は、十字軍にとって意気をくじくものであった。そのため彼らは、降伏に追い込むか、あるいは内部の裏切り者を見つけることを期待した。これは以前、アンティオキアがビザンツ帝国、次いでセルジューク朝の支配下に入った際にも用いられた戦術であった。こうして1097年10月20日、十字軍は包囲を開始した。アンティオキアはあまりに巨大であったため、十字軍は完全に包囲するだけの兵力を持たず、その結果、都市は部分的に補給を受け続けることができた[111]。この後に続くアンティオキア包囲戦は、「歴史上もっとも興味深い包囲戦」と評されてきた[112]

翌年1月、消耗戦として8か月続いた包囲によって、数百人、あるいは数千人に及ぶ十字軍兵士が餓死した可能性がある。教皇使節アデマールは、これは彼ら自身の罪深さが原因であると考え、断食、祈り、施し、行列といった儀式が行われた。女性は野営地から追放された。ブロワ伯エティエンヌを含む多くの者が脱走した。周辺地域での食糧徴発によって状況はやや緩和され、またキリキアおよびエデッサから、最近占領されたラタキアおよびサン・シメオン港英語版を経由して補給が行われた。3月には小規模なイングランド艦隊が物資を運んで到着した。フランク人たちは、イスラーム世界の分裂、ならびにムスリム側が十字軍をビザンツ帝国の傭兵と誤認していた可能性から利を得た。セルジューク朝の兄弟である、シリアのドゥカークおよびアレッポのリドワーンは、12月と2月にそれぞれ別個の救援軍を派遣したが、もしこれらが統合されていれば、おそらくムスリム側が勝利していたであろう[113]

これらの失敗の後、モスルのアタベクであったケルボガは、アンティオキア救援のためにジャズィーラ地方の諸侯軍を率いて出発し、のちにシリアのアミールたちの軍勢やアラブ人部隊、トルクメン兵、義勇兵などを加えた大規模な連合軍を形成した[114]。この連合軍は規模の点では大きな脅威であったが、諸指導者の利害は一致しておらず、現地のアミールたちは十字軍以上にケルボガによる自立性の侵害を警戒していた[115]。さらに、連合軍の大部分を占めたトルクメン兵は有能な騎馬弓兵であった一方、戦利品の獲得を主要な動機としており、規律や長期的な統制に難があった[116]。ケルボガは途上でエデッサを包囲したが、同市を攻略できないまま包囲を解いた。近年の研究では、このエデッサ攻撃は単なる無意味な寄り道ではなく、十字軍の補給拠点を奪い、ボードゥアンによる補給妨害を防ぎ、トルクメン兵に戦利品を与えて連合軍の結束を保つための戦略的選択であったとされる[117]。しかし、エデッサ攻略に失敗したことで、連合軍は補給基地も戦利品も得られず、長期化した遠征費用と兵士の不満によって脱走を招くことになった[118]

一方その頃、ボエモンは、何らかの計略によって都市を獲得した者にアンティオキアを与えるべきだと提案していた。当初、諸侯たちはこれを拒み、同じ苦労をした以上、都市も平等に保持すべきであると主張した。しかし、ケルボガ軍接近の報が届くと、諸侯たちは、ボエモンが自力または他者の助けによって都市を獲得した場合、皇帝アレクシオス1世が約束どおり援軍を送り、合意を履行するならば都市を皇帝へ返還し、そうでなければボエモンが保持するという条件で、彼にアンティオキアを与えることを認めた[119]

ブロワ伯エティエンヌ・アンリはすでに脱走しており、彼がアレクシオス1世に「状況は絶望的である」と伝えたため、彼のアドバイスを受けた皇帝はフィロメリオン英語版で進軍を中止し、コンスタンティノープルへ引き返した。この皇帝の不在は、後にボエモンが、約束されていた都市返還を拒否する正当化の根拠として用いられた[120]

アンティオキア守備側の司令官フィルーズ英語版は、ボエモンとの使者の往来を通じて、自らが守る三つの塔へ十字軍を迎え入れることを約束した[119]。さらに彼は、自分の息子を人質としてボエモンへ送り、フランク軍がサラセン人の土地へ出撃するように見せかけた後、夜間に山を越えて引き返すよう伝えた[119]。ボエモンはこの計画をゴドフロワ、フランドル伯、サン=ジル伯レーモン、ル・ピュイ司教アデマールに打ち明け、6月2日夜から3日未明にかけて部隊を城壁へ接近させた[119]。約六十人の十字軍兵士が梯子で城壁を登って塔を確保し、さらに近くの門を破って都市内へ入った。夜明けになると、外の陣営にいた十字軍も山上に掲げられたボエモンの旗を見て都市へ流入した[119]。略奪と殺戮の過程で、ムスリム住民の大多数が殺害され、混乱の中で一部のギリシア人、シリア人、アルメニア人のキリスト教徒も殺されたとされる[121]

6月上旬、ケルボガの大規模な連合軍の先鋒が到着し、フランク軍は今度は都市内で包囲される側となった。ケルボガの連合軍の規模については諸説あるが、近年の研究では、最大時には6万から9万人に達した可能性がある一方、アンティオキア前面での脱走後には3万5000から4万5000人程度まで減少していた可能性も指摘されている[115]。6月10日から数日間、ケルボガ軍は波状攻撃で城壁を攻め続けた。ボエモンとアデマールは大量脱走を防ぐため城門を封鎖し、持ちこたえた。その後ケルボガは戦術を変更し、十字軍を飢えで屈服させようとした。都市内の士気は低下し、敗北は目前に思われたが、ペトルス・バルトロメオという農民の幻視者が、使徒聖アンデレが自分のもとに現れ、キリストを刺した聖槍の所在を示したと主張した。これは十字軍を鼓舞したとされるが、実際には最終決戦までさらに2週間を要しており、記録は慎重に読む必要がある。6月24日、フランク軍は降伏条件を求めたが拒否された[122]

1098年6月28日夜明け、フランク軍は城外へ進軍し、敵と交戦した。ケルボガは十字軍を野戦で包囲・殲滅しようとしたが、彼の軍勢はすでに長期遠征、補給費用の増大、戦利品不足、トルクメン兵の脱走、アミール間の不和によって統制を失いつつあった[118]。そのため、連合軍は数的優位を十分に活かすことができず、部隊の後退と離脱が連鎖して、最終的に総崩れとなった。Brossetは、この敗北をケルボガ個人の単純な戦術的無能ではなく、連合軍の構造的脆弱性と、決戦以前から進んでいた自己崩壊の結果として説明している[123]。他方、従来の叙述では、フランク軍が4つの戦闘集団に分かれて城外へ進軍し、ムスリム軍が統制を失って潰走したことが強調されている[124]

ブロワ伯エティエンヌは、アンティオキアの情勢を知ったときアレクサンドレッタにいた。状況は絶望的に見えたため、彼は中東を離れ、帰路でアレクシオスとその軍に警告を与えつつフランスへ戻った[125]。この重大な裏切りと見える行動を受け、アンティオキアの指導者たち、とりわけボエモンは、アレクシオスが十字軍を見捨てたと主張し、皇帝への誓約はすべて無効であると論じた。ボエモンはアンティオキアの支配権を主張したが、全員がこれに同意したわけではなく、特にトゥールーズ伯レーモンが反対した。その結果、諸侯間の争いによって十字軍は年末まで足止めされた。この時期について、一部の研究者は、北フランスのフランク人、南フランスのプロヴァンス人[note 1]、南イタリアのノルマン人がそれぞれ別個の民族であると自己認識しており、各自が地位向上を図ったことが混乱の原因であったと論じている。他方で、これらの対立は、個人的野心によって十分説明できるとする見解もある[126]

一方、疫病が発生し、多くの兵士が死亡した。その中には、8月1日に没した教皇使節アデマールも含まれていた[127]。馬の数は以前にも増して不足し、さらに周辺のムスリム農民が食糧供給を拒否した。そのため、12月、マアッラ攻囲戦の後、一部の歴史家は十字軍による最初の人肉食の発生を記録している[128]。ただし、この記述は同時代のムスリム年代記には現れない[129]。同時に、下級騎士や兵士たちは不満を募らせ、指導者たちの争いを無視してエルサレムへ進軍すると脅した。最終的に1099年初頭、進軍は再開され、ボエモンはアンティオキア公としてとどまった[130][131]

Bohemond of Taranto is illuminated in the engraving as he is shown being the only one climbing the rampart of Antioch. The soldiers on the ground, armed for battle, are stopping and watching Bohemond.
ボエモンがアンティオキアの城壁をよじ登る様子

アンティオキアからエルサレムへ

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地中海沿岸を南下する過程において、十字軍はほとんど抵抗に遭遇しなかった。各地の支配者たちは戦うよりも、十字軍と和平を結び補給を提供することを選んだからである。十字軍の内部構成も変化しつつあり、ロベール短袴公とタンクレードは、彼らの奉仕に十分な報酬を与えることができるほどの財力を有していたトゥールーズ伯レーモン4世の封臣となることに同意した。一方、エデッサにおいて弟の領土から支援を受けるようになっていたゴドフロワ・ド・ブイヨンはこれを拒否した。1月、レーモンはマアッラを攻め落とし市街の城壁を破却し、裸足で巡礼者の姿に身をやつしてエルサレムへ向けて南進を開始した。これにロベールとタンクレードが、それぞれの軍勢を率いて続いた[132]

レーモンはアンティオキアに匹敵する国家を築くため、まずトリポリを占領する計画を立てていたが、その前段階として、1099年2月14日、レバノン北部の都市アルカに対する包囲戦英語版を開始した。一方、ゴドフロワは、同じくレーモンへの臣従を拒否していたフランドル伯ロベール2世とともに、残る十字軍とラタキアで合流し、2月に南進した。ボエモンは当初これに同行していたが、進出しつつあったビザンツ勢力に対抗して自らの支配を強化するため、ほどなくアンティオキアへ引き返した。タンクレードはレーモンの配下を離れ、ゴドフロワの側に加わった。ゴドフロワ軍と連携する別働隊は、ベアルン副伯フランス語版ガストン4世フランス語版が率いていた[132]

ゴドフロワ、ロベール、タンクレード、ガストンは3月にアルカへ到着したが、包囲は継続された。この間、ポン・ド・バラズン英語版は石弾を受けて死亡した。緊張は軍事指導者たちの間にとどまらず、聖職者たちの間にも広がっていた。アデマールの死以降、十字軍には実質的な指導者が存在せず、また聖槍の発見以降、その真正性をめぐって聖職者の諸派閥の間で詐欺であるとの告発が続いていた。4月8日、アルヌール・ド・ショック英語版はペトルス・バルトロメオに神明裁判を受けるよう申し出た。ピエールは神判に臨んだものの、負った傷のため数日にわたって苦しんだ末に死亡し、これにより聖槍は偽物であるとして信用を失った。この出来事は、聖槍の真正性を主として擁護していたレーモンの、十字軍内における権威をも損なう結果となった[133]

アルカ包囲戦は5月13日まで続いたが、十字軍は何ら成果を得ることなく撤収した。ファーティマ朝は前年、セルジューク朝からエルサレムを奪回しており、十字軍に対して交渉を試みていた。すなわち、十字軍が自らの支配領域に進軍しないことを条件として、聖地への巡礼者に自由な通行を認めるという提案であったが、十字軍はこれを拒否した。ファーティマ朝の家臣イフティハール・アッ=ダウラ英語版はエルサレム総督であり、十字軍の意図を十分に理解していたため、エルサレムのキリスト教徒住民をすべて追放し、さらに周辺の井戸の大半に毒を投じた。5月13日、十字軍はトリポリに到着し、同地のアミールであるジャラール・アル=ムルク・アブー・ル=ハサン英語版は十字軍に馬を提供し、十字軍がファーティマ朝を打ち破ったならばキリスト教へ改宗すると誓った。十字軍はさらに海岸沿いに南下し、5月19日にベイルート、5月23日にティルスを通過した。ヤッファで内陸へ進路を取り、6月3日には住民に放棄されていたラムラに到達した。ここで十字軍は、リッダ司教座英語版聖ゲオルギオス教会英語版に設置したのち、エルサレムへ向けて進軍を続けた。6月6日、ゴドフロワはタンクレードとガストンにベツレヘムの占領を命じ、タンクレードは降誕教会の上に自らの旗を掲げた。6月7日、十字軍はエルサレムに到達し、長い旅路の末に目にしたその都市を見て、多くの十字軍兵士が涙を流した[134]

エルサレム包囲戦

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中世写本に描かれたエルサレム包囲戦の様子

十字軍がエルサレムに到達したとき、彼らの前に広がっていたのは、水や食糧の乏しい乾燥した土地であった。現地のファーティマ朝支配者による差し迫った攻撃が懸念される中、救援を期待する余地はなかった。アンティオキアのときのように都市を封鎖する望みもなく、十字軍は兵力・補給・時間のいずれもが不足していた。そのため、彼らは包囲による消耗戦ではなく、強襲によって都市を攻略することを決断した[135]。十字軍にはほとんど選択肢が残されていなかったとも考えられており、彼らがエルサレムに到着した時点で、騎兵1,500名を含め、残存兵力はおよそ12,000人に過ぎなかったと推定されている[136]。こうして、エルサレム包囲戦が始まった[137]。出身地も忠誠関係も異なるこれらの部隊は、結束という点でも再び最低水準に近づいていた。ゴドフロワとタンクレードは都市の北側に陣を敷いた一方、レーモンは南側に布陣した。また、プロヴァンス軍は1099年6月13日の最初の攻撃には参加しなかった。この初回の攻撃は、断固たる決行というよりも試験的な性格が強く、外壁をよじ登ることには成功したものの、内壁の前で十字軍は撃退された[134]

最初の攻撃の失敗を受け、諸将による会合が開かれ、次回はより統一的で周到な攻撃が必要であるとの認識で一致した。6月17日、グリエルモ・エンブリアーコ英語版率いるジェノヴァの水夫団がヤッファに到着し、十字軍に熟練した技術者を提供したほか、より重要なことに、包囲兵器(攻城兵器)を建造するための木材を船を解体することで供給した[138][139]。さらに、司祭ピエール・デジデリウス英語版が、ル・ピュイ司教アデマールの神的幻視を見たと主張し、断食ののち裸足で城壁の周囲を巡行すれば、聖書のエリコの戦いの故事にならって都市は陥落すると告げたことで、十字軍の士気は高揚した[134]。3日間の断食の後、7月8日、十字軍はデジデリウスの指示どおり城壁の周囲を巡行し、オリーブ山で行程を終えた。そこでは隠者ピエールが説教を行った[140]。その直後、それまで対立していた諸派閥は公然と和解に至った。ほどなく、エジプトからファーティマ朝の救援軍が出発したとの報がもたらされ、十字軍には都市に対する再攻撃を急ぐ強い動機が与えられた[134]

エルサレムに対する最終攻撃は7月13日に始まった。レーモンの軍勢は南門を攻撃し、他の部隊は北側城壁に対して攻撃を加えた。当初、南門におけるプロヴァンス軍の攻撃はほとんど進展しなかったが、北側城壁を攻めた部隊はより良好な戦果を挙げ、防衛側を徐々に消耗させていった。7月15日、都市の両側で総攻撃が開始され、最終的に北側城壁の内側防塁が突破された。これにより防衛側は恐慌状態に陥り、都市の両端で城壁を放棄したため、十字軍はついに市内へ突入することに成功した[141]

虐殺

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エルサレム陥落後に起きた虐殺は、「極端な暴力と苦悩に満ちた信仰との並置」として、特に悪名高いものとなっている[142]。十字軍自身による目撃証言は、包囲戦後に大規模な殺戮が行われたことにほとんど疑いの余地を残していない。しかし一方で、後代の中世史料において虐殺の規模が誇張されている可能性を指摘する歴史家もいる[143][144]

北側城壁への攻撃が成功すると、防衛側は神殿の丘へと逃走し、タンクレードとその部下たちがこれを追撃した。防衛側が地域を確保する前に到着したタンクレードの部隊は、その区域を襲撃し、防衛側の多くを殺害した。生き残った者たちはアル=アクサー・モスクへ避難した。タンクレードはそこで殺戮の中止を命じ、モスク内に逃れた者たちに保護を与えると申し出た[141]。南側城壁の防衛側が北側城壁の陥落を知ると、彼らは城塞へ逃走し、これによってレーモンとプロヴァンス軍は市内へ入ることができた。守備隊司令官であったイフティハール・アッ=ダウラはレーモンと交渉を行い、安全な通行をアスカロンまで保証されることと引き換えに、城塞を引き渡した[141]

その日の残りの時間も殺戮は続き、ムスリムは無差別に殺害された。また、シナゴーグに避難していたユダヤ人も、十字軍によって建物が焼き払われたために命を落とした。翌日には、モスクに拘束されていたタンクレードの捕虜たちも殺害された。しかし、それでもなお、市内の一部のムスリムおよびユダヤ人が虐殺を生き延びたことは明らかであり、彼らは逃走するか、身代金目的で捕虜として連行された。アスカロンのカライ派長老の書簡英語版は、アスカロンのユダヤ人たちが多大な努力を払ってこうしたユダヤ人捕虜を買い戻し、アレクサンドリアへ安全に送り届けたことを伝えている。都市の東方キリスト教徒住民は、包囲戦以前に総督によって追放されていたため、この虐殺を免れた[141]

エルサレム王国の成立

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聖墳墓教会に残る十字軍の落書き

7月22日、エルサレムの統治体制を確立するため、聖墳墓教会において評議会が開催された。ギリシア正教会総主教が死去していたため、当地を領有する明確な権利を有する聖職者候補は存在しない、という見解が一定の支持を得ていた。1098年以降、トゥールーズ伯レーモンは十字軍の最有力指導者であると主張することができたが、アルカ英語版包囲の失敗や自らの領国建設の試みが挫折したことにより、その支持は低下していた。このため彼は、キリストのみが王冠を戴くべきであるとして、敬虔な理由から王位を拒否したと考えられる。これは他者にも称号の受諾を思いとどまらせる意図があった可能性もあるが、結局ゴドフロワは同様の要求を受け入れた。より説得力を持った受諾の要因は、ゴドフロワおよびその兄弟であるウスタシュ伯ボードゥアンが率いるロレーヌ出身の大軍の存在にあるのかもしれない。彼らはみなアルデンヌ=ヴェルダン家英語版の一族であったのである[145]。こうしてゴドフロワは指導者に選出され、「聖墳墓の擁護者英語版」、または「聖墳墓の守護者」という称号を受諾した。この決定に憤慨したレーモンは、都市を去る前にダビデの塔を占拠しようと試みた[146]

教皇ウルバヌス2世は、十字軍によるエルサレム陥落から14日後の1099年7月29日に死去したが、この出来事の報がローマに届く前であった。後継者には教皇パスカリス2世が就任し、約20年間にわたって在位した[147]

エルサレム王国は1291年まで存続したが、英語版、1187年、サラディンによって征服される。これは決定的な敗戦となったハッティンの戦いの結果であった。その後約40年間にわたるムスリムが支配し、のちの一連の十字軍によって再びキリスト教勢力の支配下に戻ることになる[148]

アスカロンの戦い

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1099年8月、ファーティマ朝の宰相アル=アフダル・シャハンシャー英語版は、北アフリカ兵約2万人からなる軍勢を率いてアスカロンに上陸した[149]。ゴドフロワとレーモンは、騎士1,200名と歩兵9,000名のみからなる軍を率い、8月9日にアスカロンの戦いにおいてこの軍勢と対峙した。兵力では2倍以上の劣勢に立たされていたものの、フランク軍は夜明けとともに奇襲を敢行し、油断し準備の整っていなかったムスリム軍を撃破した。しかし、この好機は無駄に終わった。というのも、レーモンとゴドフロワの対立によって、市の守備隊がより信頼されていたレーモンに降伏しようとする試みが妨げられたためである。十字軍は決定的な勝利を収めたものの、都市そのものはムスリムの手に残り、新生エルサレム王国にとっての軍事的脅威であり続けた[150]

余波と遺産

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第1回十字軍から第2回十字軍の間に存在した十字軍国家

十字軍の大多数は、これで巡礼の目的を果たしたと考え、帰国した。パレスチナ防衛のために残ったのは、騎士300名と歩兵2,000名にすぎなかった。エルサレムの指導権をめぐってはレーモンの主張もあったが、ロレーヌ出身の騎士たちの支持によってゴドフロワがその地位を確保した。彼が1年後に死去すると、同じロレーヌ勢が教皇使節ピサのダゴベルト英語版と、そのエルサレムを神権国家としようとする彼の計画を阻止し、代わってボードゥアンを最初のラテン人エルサレム王として擁立した[151]。ボエモンはヨーロッパへ戻り、イタリアからビザンツ帝国に向かい、帝国と戦ったが、1108年にデュッラキウムの包囲戦英語版で敗北した。レーモンの死後、その相続人たちはジェノヴァの支援を受けて1109年にトリポリ伯国を占領した[152]。新たに成立したエデッサ伯領とアンティオキア公国の関係は一定しておらず、1104年のハッラーンの戦いでは共に戦って敗北したものの、アンティオキア側は宗主権を主張し、捕虜となったエルサレム王ボードゥアン2世の帰還を妨げた[153]。フランク人は近東政治に深く関与するようになり、ムスリム勢力およびキリスト教勢力のあいだでは、宗教的対立だけでは説明できない同盟や敵対関係も生じた[154]。アンティオキアの領土拡張は、1119年にトルコ勢に大敗を喫した血の原の戦い英語版によって終焉を迎えた[155]。この戦いは、ムスリム側の軍事的反応における初期の転換点とも位置づけられている[156]

A map of western Anatolia, showing the routes taken by Christian armies during the crusade of 1101
1101年の十字軍においてキリスト教軍が通過した西アナトリアの経路を示す地図

エルサレムに到達する前に帰国した者や、そもそもヨーロッパを出なかった者も多く存在した。十字軍の成功が知られるようになると、こうした人々は家族から嘲笑と軽蔑を受け、教皇から破門を示唆されることもあった[157]。1101年には、未履行の誓願を理由として、脱落者に対する破門が示唆された[158]。一方、西ヨーロッパでは、エルサレム到達を果たした生存者たちは英雄として扱われた。フランドル伯ロベール2世は、その武勲によって「Hierosolymitanus」の渾名を得た。のちの1101年の十字軍には、エルサレム到達前に帰国していたブロワ伯エティエンヌ・アンリヴェルマンドワ伯ユーグ1世も参加していた。この十字軍は小アジアでセルジューク朝によってほぼ壊滅させられたが、生き残った者たちはエルサレム到着後、王国の戦力強化に寄与した[159]

1160年以前にさかのぼるイスラーム側の反応については、文献史料が限られており、十字軍がほとんど注目されていなかった、あるいはトルコ人やアラブ人が十字軍を征服と定住を目指す宗教的動機を持つ戦士として認識せず、長く続くビザンツ傭兵の一団の最新例にすぎないと考えていた、と説明されることがあった[160]。ただし、この理解については、ムスリム側が十字軍についてほとんど知らず、ビザンツ人とフランク人を混同していたとする見方は誤解であり、ムスリムの知識人や宗教者はフランク人の行動や動機を観察し、さまざまな形で反応していたとする研究もある[161]。イスラーム世界はカイロダマスカスアレッポバグダードといった諸都市の競合する支配者によって分裂した状態にあり、ムスリム側の軍事的反応も当初は統一的・組織的なものではなかった[162]。このため、汎イスラーム的な反攻は起こらず、十字軍は体制を固める機会を得た[160]。しかし1110年代になると、セルジューク朝スルタンのムハンマド・タパルは、マウドゥードロシア語版アクスンコル・アル=ブルスキーロシア語版ブルスーク2世ロシア語版イルガジロシア語版らに関わる遠征を通じてフランク人への軍事的対応を試みたが、それらは内部分裂や地域支配者の利害に妨げられ、十分な成果を挙げなかった[163]。ムスリム側の軍事的反応がより組織化されるのは、イマードゥッディーン・ザンギーが1127年にモースル、1128年にアレッポのアタベグとなり、1144年にエデッサを攻略して以降であった[164]。ザンギー、その子ヌールッディーン、さらにサラーフッディーンらは、フランク人に対する軍事的反応とジハード理念の再活性化において重要な役割を果たした[165]

史料と研究史

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ラテン・キリスト教世界英語版では、第1回十字軍の成功は神の摂理によるものと理解され、その後の十字軍理念の定着にも大きな影響を与えた。第1回十字軍は中世においても多く記録・叙述された出来事であり、その後の十字軍史叙述は、著者自身の思想や時代状況を反映しながら発展した[166][167]。こうした十字軍史叙述に対する批判的検討は、ジョナサン・ライリー=スミス英語版クリストファー・タイアマン英語版らの研究に見ることができる[168]

一次史料

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第1回十字軍については、ラテン語、ギリシア語、アラビア語、アルメニア語、シリア語、ヘブライ語など、複数の言語による史料が残されている。19世紀フランスの『十字軍史料集英語版』(Recueil des historiens des croisades、通称 RHC)は、ラテン語、アラビア語、ギリシア語、アルメニア語、シリア語による第1回十字軍の原叙述史料を収録した史料集であり、ジャック・ボンガール英語版が編纂した17世紀の著作『Gesta Dei per Francos』を基礎としている[169]。第1回十字軍に関するヘブライ語史料については、『The Routledge Companion to the Crusades』に文献目録が収められている[170]

ラテン語史料では、匿名著者による『フランク人の事績英語版』、シャルトルのフルーシェ英語版の『エルサレム巡礼フランク人の事績英語版』、レーモン・ダギュイエ英語版の『エルサレムを占領したフランク人の歴史英語版』、アーヘンのアルベルト英語版の『Historia Hierosolymitanae expeditionis』などが重要である。これらには、クレルモン公会議および十字軍そのものに関する複数の第1級証言が含まれている[171]

ただし、これらのラテン語史料は相互に独立しているわけではない。匿名の『Gesta Francorum』、ピエール・テュドボード英語版の『Historia de Hierosolymitano itinere』、レーモン・ダギュイエ英語版の『エルサレムを占領したフランク人の歴史英語版』、シャルトルのフルーシェ英語版の『エルサレム巡礼フランク人の事績英語版』は、第1回十字軍に関する主要なラテン語目撃史料とされる[172]。このうちテュドボードの叙述は匿名の『Gesta Francorum』と非常に近い関係にあり、『Gesta』からまとまった箇所を取り入れているとされる[173]。また、ノジャンのギベール英語版ドールのバルドリック英語版修道士ロベール英語版の3作品は、いずれも『Gesta Francorum』の改作・再叙述とされる[174]。一方、アーヘンのアルベルトの記述は『Gesta』やフルーシェ、レーモンの同時代叙述を知らずに執筆されたとされ、帰還した十字軍参加者の口承証言を集めて書かれた可能性がある[175]

ビザンツ側の視点を伝える史料としては、アンナ・コムネナの『アレクシアス』がある[176]。イスラーム側から見た初期十字軍史については、イブン・アル=カラーニスィーの年代記をもとにした『The Damascus Chronicle of the Crusades』が重要な史料である[177]。アルメニア語史料ではエデッサのマタイ英語版の『年代記』が、10世紀から12世紀の中東史、特に十字軍に関する独自情報を伝える史料として用いられてきた[178]。シリア語史料では、シリアのミカエル英語版の年代記があり、同書は天地創造から1195年までを扱う年代記である[179]。ヘブライ語史料では、ソロモン・バル・シムソン年代記英語版が、1096年のマインツにおけるユダヤ人迫害を記録している[180]。第1回十字軍期の北シリア・アンティオキア公国とその周辺については、クロード・カーン英語版の『La Syrie du nord à l'époque des croisades et la principauté franque d'Antioche』が、東方史料の重要性を踏まえて論じている[181]

第1回十字軍に関する書簡史料については、ハインリヒ・ハーゲンマイヤーの『Die Kreuzzugsbriefe aus den Jahren 1088–1100[182]ダナ・カールトン・マンロー英語版の『Letters of the Crusaders[183]などがある。ハーゲンマイヤーはまた、第1回十字軍を日ごとに追った詳細な年代記『Chronologie de la première croisade 1094–1100』を作成し、原史料への相互参照と注解を付している[184]

研究史

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後代の歴史叙述では、オルデリック・ヴィターリス英語版が『Historia Ecclesiastica』に第1回十字軍の記述を含めており、その叙述は主にシャルトルのフルーシェとドールのバルドリックに基づいている[185]。また、ギヨーム・ド・ティールの『Historia rerum in partibus transmarinis gestarum』は1095年から1184年までを扱う歴史叙述であり、シャルトルのフルーシェの叙述が終わる1127年以降のエルサレム王国史について主要な典拠とされた。ギヨームは、ピエール・テュドボードの『Gesta』、シャルトルのフルーシェ、ドールのバルドリック、アーヘンのアルベルトらの叙述を利用したとされる[186]。近世に始まる十字軍通史は、17世紀に至るまでギヨーム・ド・ティールの著作に大きく依拠した。これらの歴史書は一次史料を用いていたものの、その使用は選択的であり、「聖戦」(bellum sacrum)としての側面、著名な人物、戦闘、そして高度政治の策謀に重点を置いていた[187]

近世以降、十字軍の理解は時代ごとの宗教的・政治的・思想的状況を反映して変化した。16世紀には、十字軍をロマン的・娯楽的に捉える見方が現れる一方、より批判的に論じる著述家もいた[188]

17世紀には、トマス・フラー英語版が『The Historie of the Holy Warre』を著した。同書は、十字軍を本格的に扱った最初期の英語著作の一つであり、フラーは十字軍を悲劇的で浪費的な事業として批判的に描いた[189]。 また、17世紀フランスのイエズス会士・歴史家ルイ・メンブール英語版は『Histoire des Croisades pour la délivrance de la Terre Sainte』を著した[190][191]。ただし、「十字軍」に相当する語の汎用的用法はポスト中世的な現象であり、現代的な意味での一般用語としての croisade などは、17世紀初頭のフランスで用いられ始めたとされる。メンブールの『Histoire des croisades』とその翻訳は、17世紀後半から18世紀初頭にかけて、この用法をフランス語以外のヨーロッパ諸語へ普及させる上で重要な役割を果たした[192]


18世紀の啓蒙思想家たちは、十字軍を道徳的・宗教的・文化的観点から批判した[193]ヴォルテールは『Histoire des Croisades』で、セルジューク朝の台頭から1195年までの十字軍史を扱った[194]。スコットランドの哲学者・歴史家デイヴィッド・ヒュームは第1回十字軍を直接扱ってはいないが、『イングランド史英語版』において、十字軍を「西洋文明の最暗黒期英語版」と描写した[195]エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』から抜粋された『The Crusades, A.D. 1095–1261』も刊行されている[196]

19世紀には、ロマン主義や国民史的関心の高まりの中で十字軍への関心が再び強まり、フランス、ドイツ、イングランドで十字軍史研究が進展した[197]。19世紀初頭、フランスの歴史家ジョゼフ・フランソワ・ミショー英語版によって『Histoire des Croisades』が刊行された[198][199]。これはジャン・プージュラ英語版の編集のもとでまとめられ、英訳『The History of the Crusades』としても刊行された[200]

ドイツ語圏では、フリードリヒ・ヴィルケン英語版が『Geschichte der Kreuzzüge』を著した[201][202]。その後、ハインリヒ・フォン・ジーベル英語版ギヨーム・ド・ティールの著作を二次的なものとして批判し、『Geschichte des ersten Kreuzzugs』を著した[203][204]。同書は第1回十字軍研究に史料批判を適用した著作として、十字軍史学上の画期とされる[205]。彼の研究は、英語作家ルーシー・ダフ=ゴードンによって『History and Literature of the Crusades』として翻訳された[206][207]

ラインホルト・レールリヒト英語版の第1回十字軍史『Geschichte des ersten Kreuzzuges[208]およびエルサレム王国の王たちの歴史『Geschichte des Königreichs Jerusalem[209]は、近代十字軍研究の基礎を築いた[210]ハインリヒ・ハーゲンマイヤー英語版の『Peter der Eremite』は、第1回十字軍史および隠者ピエールの役割に関する研究である[211]

20世紀には、ルネ・グルッセの『Histoire des croisades et du royaume franc de Jérusalem』、スティーヴン・ランシマンの全3巻『十字軍の歴史英語版』、およびウィスコンシン協同『十字軍史』英語版が代表的な総合叙述となった[212]。グルッセの第1回十字軍に関する巻は『L'anarchie musulmane, 1095–1130』である[213]。ランシマンの第1巻『The First Crusade and the Foundation of the Kingdom of Jerusalem』も、第1回十字軍を扱っている[214]。ウィスコンシン版の第1巻『Volume 1: The First One Hundred Years』は1969年に初めて刊行され、第1回十字軍とその前後の西欧、ビザンツ帝国、イスラーム世界、セルジューク朝などを扱う章を含んでいる[215]。また、ランシマンの著作は英語圏で広く読まれた十字軍史の一つであり、ウィスコンシン版『十字軍史』は20世紀基準で記念碑的な事業と評される[216]

20世紀後半から21世紀初頭にかけて、十字軍研究はさらに拡大し、国際十字軍・ラテン東方研究学会(International Society for the Study of the Crusades and the Latin East)も設立された[217]。第1回十字軍の研究では、ジョナサン・ライリー=スミス英語版が『The First Crusade and the Idea of Crusading』および『The First Crusaders, 1095–1131』で第1回十字軍と十字軍思想を論じた[218][219]キャロル・ヒレンブランド英語版の『The Crusades: Islamic Perspectives』は、イスラーム側から見た十字軍研究を代表する著作である[160]。また、クリストファー・タイアマン英語版トマス・アズブリッジ英語版トマス・F・マッデン英語版らも、第1回十字軍を含む十字軍史の総合的叙述を著している[220][221][222][223]。文献案内としては、アズブリッジの著作に付された文献目録や『The Routledge Companion to the Crusades』所収のものがある[224][170]

関連項目

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脚注

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  1. 教皇ウルバヌス2世は、聖母被昇天の祝日(1096年8月15日)をこの聖戦の公式な開始日として定めたが、民衆十字軍の部隊はそれより数か月早い1096年4月の段階で進軍を開始していた[225]
  1. 当時、「プロヴァンス人(Provençal)」や「プロヴァンス(Provence)」という語は、現在のプロヴァンス地方に限定されるものではなく、オック語(Occitan language)を話す南フランス一帯を含む概念であった。

出典

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文献

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外部リンク

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