蘇轍

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蘇轍・『晩笑堂竹荘畫傳』より

蘇 轍(そ てつ、1039年3月17日宝元2年2月20日) - 1112年10月25日政和2年10月3日))は、中国・北宋文人で官僚。蘇洵の次子、蘇軾の三歳下の弟にあたる。子由潁浜遺老す。唐宋八大家の一人に数えられる。

略伝[編集]

眉州眉山(四川省眉山市東坡区)の出身。1057年、19歳の時に兄とともに進士に及第し、商州軍事推官となるが父・蘇洵を首都で養うこととし、兄・蘇軾が任地(鳳翔府)から帰ってきてはじめて大名(河北省大名県)推官となる。神宗の時に三司條例司の属官となったが、王安石青苗法に反対して河南推官に転出させられ、斉州掌書記をへて著作佐郎となる。いわゆる「烏台の詩案」で兄の蘇軾が罪を得たときに連座して、監筠州塩酒税・知績渓県に落とされる。

哲宗が即位して召されて秘書省校書郎となり、右司諫・起居郎・中書舎人・戸部侍郎と累進し、翰林学士となり権吏部尚書・御史中丞・尚書右丞をへて門下侍郎まで昇進した。しばしば上書直言したが、帝の意にかなわず知汝州(河南省)に左遷される。袁州の知とされたが赴任先に着く前に朝議大夫に落とされ、南京をへて筠州に到る。化州別駕・雷州安置・循州安置(広東省)、徽宗に代が替わっても永州・岳州(湖南省)と地方回りをさせられていたが、大中大夫に復帰させられ、提挙鳳翔上清・太平宮として許州に移った。崇寧年間(1102年1106年)に官を辞め、許州に室を築き、潁浜遺老と称し交友を絶ち、終日黙座して経史諸子を研究すること十年にして74歳で没する。端明殿学士を追贈され、南宋淳熙年間に文定とされる。

著作[編集]

蘇轍の詩は兄・蘇軾にはおよばないが鷹揚淡泊にして、沈静簡潔な人柄をあらわすと評される。また書を能くした。

著作として、『集』50巻・『後集』24巻・『三集』10巻・『應詔集』12巻・『詩集傳』20巻・『春秋集解』12巻・『論語拾遺』1巻・『孟子解』1巻・『古史』60巻・『龍川略志』10巻・『別志』8巻・『道徳経解』2巻などがある。

また、兄・蘇軾を慕っており、人生において兄に関わる作品を残してきた。その中でも、兄が亡くなり、遺骸を葬る際、長い墓誌銘を書いたのは、まさに兄を想ってのことだろう。(『宋史』蘇軾伝に記載されている。)

新釈漢文大系75 唐宋八大家文読本六』(向嶋成美・高橋明郎訳著、明治書院、2016年)に一部収録している。