チャンパ王国

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チャンパ王国
चम्पा
後漢 192年 - 1832年 阮朝
チャンパの位置
チャンパ王国の領域(緑)
公用語 チャム語サンスクリット
首都 カンダプルプラベトナム語版
シンハプラベトナム語版(-758)
ヴィラプラ中国語版(758-859)
インドラプラ英語版(859-978)
ヴィジャヤ英語版(978-1485)
バル・カウ(1485-1579)
バル・カナールベトナム語版(1579-1832)
国王
192年 - ??? 区連
変遷
後漢からの独立 192年
ヴィジャヤ陥落1471年
順城鎮の設置1693年
阮朝に完全に併合1832年

チャンパ王国サンスクリット語: चम्पा, ラテン文字転写: Champa, チャム語: Campadesa)は、現在のベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心とする国家。主要住民の「古チャム人」はベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では代半ばまで林邑と呼び、その後環王を称したが、唐末以降は占城と呼んだ。

歴史[編集]

サフィン文化[編集]

考古学の知見によれば、紀元前1000年から紀元200年にかけて、ベトナム中部沿海・中部南端では鉄器が中心のサフィン文化英語版が広がっていた[1]。サフィン文化の遺跡から発見される遺物には台湾フィリピンタイ西部と共通するものが多く、マレー系海洋民族である古チャム人の遺構ではないかとされる。このサフィン文化を基にしてチャンパ王国が成立したと考えられている[1]。チャンパの歴史は漢文史料・チャム碑文・チャム写本に記録されている。チャム碑文には古チャム語インド系チャム文字で記録したものとデーヴァナーガリーで書かれたものがある。チャム語はオーストロネシア語族の一つで、現在のアチェ語に近い言語である。

林邑国とヒンドゥー文明[編集]

漢文史料によれば、西暦192年の最南端にあった日南郡象林県(現北中部フエ付近)で功曹という官吏の子であった区連という者が叛乱を起こし、林邑国ベトナム語版を建てた。象林県を占拠した林邑は、当初は中国文明の影響を受けていた[1]が、ベトナム南部からカンボジアにかけて存在した交易国家扶南国の影響を4世紀以降に受け、ヒンドゥー文明を受容した[1]。中国は唐代までおおむね現在のベトナム北部を領有しており、チャンパは中国南朝朝貢を繰り返しながらもしばしばこれを劫掠し、またの侵攻を受けた。『続日本紀』に見える8世紀の遣唐判官・平群広成が漂流した「崑崙国」は、チャンパ(林邑)と考証されている。また唐経由で日本に渡来した林邑僧仏哲が伝えたチャンパ舞踊は「林邑楽」として[2]今日まで雅楽の中に伝承されている。

占城国の勃興[編集]

扶南が衰えて真臘が勃興した8世紀半ば、林邑でも政変があり、環王中国語版が出現した。「占城中国語版」という漢語の国号はサンスクリットのチャンパーナガラ(占婆城)の音訳・省略である。ミーソン聖域に現存する碑文によれば、占城・クメールの両王家は共に『マハーバーラタ』に描かれたクルクシェートラの戦い英語版で敗れたカウラヴァの将アシュヴァッターマンの子孫である。

チャンパはキンコウボク英語版の意であり、カンボジアと同様にかつて北インドにあった都市の名前である。ヴィジャヤ時代の碑文によれば、チャンパの国号とその都名は同一(チャンパーナガラまたはナガラチャンパー)であり、同時代の漢文史料でも占城の都は「」であると記されている。なお、「チャム写本」では国号は「ヌガルチャム」である。

大越との抗争[編集]

チャンパ兵の浮彫(アンコール・トムバヨン

10世紀にベトナム北部の紅河デルタを中心にベト族大越を建てると、チャンパ王ヴィジャヤ中国語版は都を南中部北端のアマラーヴァティー中国語版(現在のクアンナム省ダナン)から南中部南端のヴィジャヤ英語版(現在のクアンガイ省ビンディン省)に移した。現存するチャム写本『チャム王家年代記』はこの遷都の年(西暦1000年)を建国の年とする。11世紀以降、チャンパは北の大越及び西のクメールとしばしば戦争を行った。ジャヤ・インドラヴァルマン3世中国語版の代にクメールのスーリヤヴァルマン2世にヴィジャヤを占領されたこともあり、アンコール遺跡には有名なチャンパ兵の浮彫が残されている。

チャンパ王国は13世紀後半にはの侵攻(モンゴルのベトナム侵攻英語版、元越戦争とも)を受けた。この頃にはマルコ・ポーロら南海を航海したヨーロッパ人の記録にもチャンパが登場する。元軍撃退の過程で陳国峻陳朝大越の軍勢と連携(白藤江の戦い)したチャンパ王ジャヤ・シンハヴァルマン3世(制旻とも)は、和平後に仁宗の皇女(英宗の妹)玄珍公主ベトナム語版を娶り、大越との蜜月を醸成して、域内平和に貢献した。しかし、花嫁代償として1306年にジャヤ・シンハヴァルマン3世が大越に北中部―ウリク英語版(現クアンビン省クアンチ省トゥアティエン=フエ省)を割譲したことは、将来に領土紛争の禍根を残した。チャンパの北端であったウリクは、大越に割譲されて以後、里州ベトナム語版と漢字表記され、更に順化州中国語版順州中国語版化州中国語版)と改称、分割された。現在のベトナム語地名のフエは化州(フエチャウ、ホアチャウ)に由来する。

ジャヤ・シンハヴァルマン3世の死後は大越との抗争が再燃し、王ビナスオールは大越の都昇龍を3回にわたり劫掠し、睿宗を敗死させた。1390年にはビナスオールが戦死しジャヤ・シンハヴァルマン6世に王位が簒奪された。この混乱期に、サマルカンド出身のスーフィーであるマウラナ・マリク・イブラヒム1391年から訪れ、ジャヤ・シンハヴァルマン6世の娘デウィ・チャンドラウラン[3]と結婚したという。1400年、ジャヤ・シンハヴァルマン6世が死去するとインドラヴァルマン6世が王位についた。

胡季が権威の失墜した大越を簒奪し胡朝大虞を建てた。1402年胡漢蒼に都ヴィジャヤを占領されたが、インドラヴァルマン6世がに救援を求めたため、両国の抗争は明の永楽帝の干渉戦争(明胡戦争英語版、明・大虞戦争)を招くところとなり、1404年にマウラナ・マリク・イブラヒムはジャワ島マジャパヒト王国に亡命し、その一族はワリ・サンガと呼ばれるようになった。1407年までに胡朝大虞は滅亡。1408年にインドラヴァルマン6世は明の鄭和艦隊の訪問をクイニョンで受け歓待している。

楊文安中国語版撰『烏州近録中国語版』(1543年、現存のものは18世紀 - 19世紀に大幅に加筆)によれば、順化州には、元々ここに住んでいたチャム貴族に加えて、チャンパ国内の政争に敗れた貴族層が続々と亡命した。土里人(里州土着民の意)と呼ばれたチャム系の貴族・住民は陳朝に重用されて忠義を尽くし、胡朝の簒奪や明の侵攻に際しては潘猛ら陳朝恩顧の土里人土豪が激しく抵抗した。土里人の名家であるチェー(制)家中国語版は今もフエの東に住む。

大越の侵攻とヴィジャヤの崩壊[編集]

黎朝大越の黎利による明軍撃退後、チャンパは再興された。『チャム王家年代記』は中部南端のパーンドゥランガ中国語版の系譜だけを記している。パーンドゥランガは属国とはいえ固有の王(檳榔族)を戴いていた。また、その国号は白蓮を意味すると同時に真臘・占城の祖であるカウラヴァに敵対したパーンダヴァを意味し、真臘・占城・大越・広南の侵略をよく防いで、自治を貫徹した。ヴィジャヤは1471年に大越の聖宗の親征によって崩壊した[1]チャンパ=大越戦争 (1471年)英語版)、この時、王マハー・サジャンが、息子シャー・パウ・リン(後のアリ・ムハヤット・シャー英語版)をアチェの統治へと送り出したのがアチェ王国の始まりであるという。チャンパの地であったアマラーヴァティー、ヴィジャヤは大越に併合され、順化州は中部行政の中心となったが、パーンドゥランガは残った。

阮氏とパーンドゥランガの支配[編集]

チャンパ征服後、今のベトナム中部全域を支配した黎朝はまもなく簒奪により莫朝に取って代わられたが、黎朝恩顧の重臣である鄭氏と阮氏の連合による抵抗を受けて内戦状態に陥っていた(南北朝時代)。後に鄭氏と阮氏の間に溝ができると、阮氏の若い跡取りの(仙主)は半ば追われるように順化州に南下し半独立政権を立てた。

順化州に成立した阮氏政権を、大越の漢文史料は「南河国」、明・は「広南国」、チャム族は「ウリク国」、史家は「広南阮氏」と呼ぶ。広南阮氏は1774年の滅亡まで形式上は大越の臣下であり、広南国は正式には大越の南半分である(北半分の北河国は鄭氏が支配)。

広南阮氏は1611年以後南進してパーンドゥランガの領土を急速に侵食し、1692年にチャム王ポー・サオト中国語版が広南の支配に反発して兵を挙げると、翌1693年に明王阮福中国語版の将阮有鏡中国語版がパーンドゥランガを征服して順城鎮中国語版と改称した。順城鎮は広南に併合されて[1]いったん自治を失ったが、間もなくチャム貴族のオクニャ・ダット(屋牙撻)が清人である呉朗の加勢を得て広南軍を各地で撃破し、包囲した。阮福はカンボジアに駐留していた広南軍を呼び戻してチャム軍を打ち破るとともに講和を図り、1694年末にポー・サオトの弟であるポー・シャクティライ・ダ・パティー中国語版による再興を認めた。また、阮福1712年に順城鎮との間に議定五条を結び、パンラン道(ニントゥアン省ファンラン=タップチャム)、クロン道(ビントゥアン省リエンフオン)、パリク道(ビントゥアン省ファンリベトナム語版)、パジャイ道(ビントゥアン省フォーハイ、ファンティエット)の四つの道におけるチャム王(順城鎮藩王)の広範な自治権を認めた。

順城鎮の自治とその終焉[編集]

広南阮氏は1760年代に政治が乱れ、1773年西山県で西山阮氏(西山朝)が興った。1774年、広南阮氏は南下してきた鄭氏(鄭氏東京国)と北上してきた西山朝に挟撃されて都の富春を落とされ、一旦滅亡した。1777年以後、生き残りの王子阮福暎(後の嘉隆帝)が広南阮氏の再興のための兵を募り、1802年まで阮福暎と西山朝の間で凄惨な戦いが続いた。1794年以後、順城鎮のチャム貴族は阮福暎に味方し、西山朝討伐で活躍するポー・クレイ・ブレイ中国語版(阮文昭)、ポー・ラドゥワン・ダ・パグー中国語版(阮文豪)、ポー・チョンチャンベトナム語版ポー・クラン・トゥー中国語版(阮文永)らを輩出した。

阮朝越南初期には嘉隆帝の厚遇を得て順城鎮による自治は最盛期を迎え、チャム王(順城鎮掌奇)は中部高原南方の山地民族をことごとく支配下に置いた。しかし1832年、中央集権化を進める明命帝の方針により順城鎮は遂に廃絶され、チャム王であったポー・フォク・ター中国語版(阮文承)は黎文𠐤中国語版の乱(南部大反乱)に連座した廉により極刑(凌遅刑)に処された。その後も自治回復を求めるチャム貴族と山地民族は蜂起(羅奔王の乱中国語版)を起こしたが、これも1835年までに鎮圧された。

貿易[編集]

古チャム人は優れた航海技術を持ち、チャンパは交易国家としても繁栄した。中国に渡航するイスラム商船にとってチャンパは重要な寄港地であり、現在のホイアンも港湾として発達した。チャンパ産の沈香は重要な交易品目であった[2]。日本の正倉院に所蔵されている香木蘭奢待は、9世紀頃にチャンパから日本に持ち込まれたと考えられ、14世紀から15世紀にかけて交易国家として繁栄した琉球王国はチャンパと通好関係があった[4]

17世紀前半に活躍した日本の朱印船はしばしばチャンパを渡航先に選んでいるが、これはチャンパの物産そのものが目的というよりも、明は日本船の来航を禁止していたため明の商船との出会い貿易の場として朱印船貿易に利用されたためである。1606年徳川家康がチャンパ王宛てに伽羅を求めた信書も残っている[2]

遺跡[編集]

12世紀に建造されたドゥオンロン塔ベトナム語版(ビンディン省タイソン県タイビンベトナム語版

ヒンドゥー文明を受容したチャンパでは煉瓦造りのヒンドゥー寺院や仏教寺院が建立された。世界遺産になったフォンニャ洞ミーソン聖域を始め、チャキエウ城英語版(茶故城)、ドンドゥオン塔ベトナム語版(桐楊古塔)など、中部沿海・中部南端や中部高原など中部全域にチャンパ遺跡(カランドイツ語版)が分布し、ドンナイ川上流(ラムドン省)のカッティエン(バタウリンカ)聖域英語版もチャンパ遺跡と考えられる。中部沿海のチャンパ遺跡は廃墟であるが、中部高原のヤンプロン塔ベトナム語版、ヤンムム塔などの遺跡は近代までジャライ族の重要な祭祀の場であった。また、チャム族やラグライ族(山地チャム人)が多く暮らしている中部南端では、カインホア省ニャチャン市内のポー・ナガル塔英語版(天依阿那祠)、ファンラン=タップチャム郊外のポー・ロメ塔ポーランド語版(厚生古塔)、ポー・クロン・ガライ塔英語版(得仁古塔)、ヤンバクラン塔ベトナム語版(和来古塔)、ファンリ郊外のポー・ダム塔ベトナム語版(楽治古塔)、ファンティエット市内のポー・シャー・ヌー塔ベトナム語版(鋪諧古塔)などのチャンパ遺跡では現在もヒンドゥーとイスラームが習合した祭祀が続けられている。

研究[編集]

南中部クアンナム省に残るヒンドゥー教遺跡シュリーシャーナヴァドレーシュヴァラは、20世紀初め以来フランス極東学院 (EFEO) のパルマンティエ英語版クレイ、ポーランド文化財保護アトリエ (PKZ) のクフャトコフスキポーランド語版らにより修復・保存・補強工事が続けられ、1999年、「ミーソン聖域」としてユネスコ文化遺産に登録された。2005年には日本の国際協力機構の技術協力でミーソン遺跡展示館が作られた。チャンパ王国の歴史研究は仏領インドシナ時代にフランス人学者によって先鞭がつけられ、エーモニエ英語版カバトン英語版デュラン英語版ミュス英語版パリ外国宣教会のミナンカバウ教区神父であったムセー英語版らによる写本研究、フィノー英語版マジュムダール英語版、クロード・ジャック、石澤良昭による碑文研究、アンリ・マスペロオールソー馮承鈞中国語版杉本直治郎山本達郎による漢文史料研究がそれぞれなされた。現在は、フランス極東学院の在仏チャム人ポー・ダルマベトナム語版[1]を中心に、ベトナム国内のチャム人であるタイン・ファン(ホーチミン市大学人類学講師)、サカヤー(ニントゥアン省チャム文化研究センター研究員)らによりチャム写本の保存・共有事業が進められている。

余談[編集]

明史』『星槎勝覧中国語版』『瀛涯勝覧』『東西洋考』『西洋朝貢典録』『赤雅』には占城の怪異として「目に瞳がない女子で、夜に頭を飛ばして赤子の糞を食らう」という、飛頭蛮によく似た「屍頭蛮」に関する記述がある。『蟲集中国語版』にも「占城には頭を飛ばす者がおり、婦人に多い」という記述がある。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 桃木, p. 74
  2. ^ a b c “<連載>ベトナム行~名香を訪ねて(下)(10/26)”. 読売新聞. (2011年10月26日). http://spe.yomiuri.co.jp/servlet/view?PAGE_ID=00017002&NEWS_ID=PcvAeGj0fvo&GROUP_ID=00004131 2018年12月5日閲覧。 
  3. ^ 後にドゥマク王国デウィ・スリ英語版にちなんで呼ばれたジャワ名。チャンパでの名前は不明。
  4. ^ 歴代宝案

参考資料[編集]

  • 桃木至朗 『歴史世界としての東南アジア』 山川出版社〈世界史リブレット12〉、1996年12月25日。ISBN 978-4-63-434120-3

関連項目[編集]

外部リンク[編集]