呉朝
呉朝(ごちょう、ベトナム語: Nhà Ngô / 家吳、939年 - 968年)は、現在のベトナム北部を支配した王朝。首都は古螺(コロア、現在のハノイ市ドンアイン県)。
ベトナムで編纂された史書『大越史記全書』では、建国者の呉権(ゴ・クエン)は前呉王、呉権の息子である呉昌岌(ゴ・スオン・ガップ)と呉昌文(ゴ・スオン・ヴァン)の2人は後呉王と称されている[1][2]。
歴史[編集]
王朝成立まで[編集]
南越滅亡後にベトナム北部は中国王朝の支配下に置かれ、唐代には交州に設置された安南都護府の支配下に置かれていた[3]。唐が滅亡する前年の906年に海陽(ハイズオン)の領主・曲承裕(クック・トゥア・ズー)が交州節度使を自称するが、力の衰えていた唐に曲承裕を抑える力は残っていなかった[4]。曲承裕の一族は大羅(ダイラ、現在のハノイ)を本拠として節度使を名乗り、行政区画と租税制度を制定し、戸籍を作成して交州を統治した[4]。曲承裕の孫である曲承美(クック・トゥア・ミー)は後梁から節度使を名乗る許可を得るが、交州に近接する嶺南を支配する南漢は自国を無視した曲承美の外交政策に不快感を表した[5]。930年に南漢は交州に進攻して曲承美を捕虜にし、紅河デルタ地帯の中心部を占領した。
だが、曲承美の部将・楊廷芸(ズオン・ディン・ゲ)が拠る愛州(現在のタインホア)には南漢の支配は及ばず、931年に楊廷芸は南漢の占領下に置かれていた大羅を奪還した[6]。戦後に楊廷芸は南漢から節度使の称号を認められるが、937年の春に楊廷芸は部下の矯公羨(キェウ・コン・ティエン)に殺害される[7]。楊廷芸の女婿である呉権は岳父の死に対して決起し、北ベトナムは反中国的な政策を採る呉権と親中国的な方針を採る矯公羨の二派に分かれて対立した[7]。
矯公羨は南漢に援軍を要請し、南漢皇帝劉龑の皇子・劉弘操の率いる10,000人超の軍隊が北ベトナムに派遣された[8]。938年の秋に呉権は矯公羨を殺害し、白藤江(バクダン江)で劉弘操の艦隊を撃破した(白藤江の戦い)。939年の春、呉権はかつての甌雒国[注 1]の首都である古螺を都として王を自称した[9]。呉権の統治下で北ベトナムは一時的に平和を取り戻した[10]。
後呉王[編集]
944年に呉権が病死した後、北ベトナムは多数の土豪が独立する群雄割拠の時代に入る[9]。
944年に呉権の義兄弟である[11]楊三哥(ズオン・タム・カー)が王位を簒奪して平王(ビンヴオン)を称し、各地で土豪が独立の動きを見せた[12]。950年に呉権の次子・呉昌文は将兵の支持を得て楊三哥を倒し、王位を回復した[12][13]。呉昌文は古螺から出奔していた兄の呉昌岌を呼び寄せて共同統治を行い[13][14]、954年に呉昌岌が没すると呉昌文は単独で統治を行う[13]。
しかし、呉昌岌・呉昌文兄弟の支配力は弱く[11]、内部矛盾を抱えた呉朝の国力は衰退する[14]。965年に呉昌文は大羅北西部で発生した反乱の鎮圧中に戦死する[13]。呉昌文の死後に北ベトナムは12人の有力な土豪が互いに争う十二使君時代に突入する[2][14]。
呉使君[編集]
966年に呉昌岌の子・呉昌熾(ゴ・スオン・シー)が平橋(現在のフンイエン、あるいはタインホア)に拠って「呉使君」を称した[15][16][17]。しかし、呉氏の王権はすでに有名無実化していたため、他の使君は彼の命令に従わなかった[18]。 呉氏は十二使君の中の一勢力でしかなく[9]、呉昌熾は他の使君と同じく丁部領によって平定された[19]。
政策[編集]
呉権は従来の中国支配の象徴である大羅に代えて古螺を都としたが、中国的な秩序を完全に否定することはできなかった[9]。呉権は節度使に代えて王を自称したが[10][11]、呉氏が南漢と交渉した際には節度使の肩書を用いたこともあった[20]。呉昌文は南晋王を称したが、五代十国諸国に対抗して類似した国号を名乗ったと考えられている[13]。
新たに朝廷を設置し、文官と武官を置いた[10]。建国の功臣には地方の統治を行わせ、その中には十二使君の1人である矯公罕や丁朝の建国者・丁部領の父親である丁公著が含まれていた[10]。また王朝が代わると官吏の服の色を変える中国のしきたりに則り、中国からの支配を脱したことを示すために新たな服の色を定めた[9]。
歴代国王[編集]
| 代数 | 名 | 在位期間 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1 | 呉権 |
939年 - 944年 | • 建国者 |
| 2 | 平王・楊三哥 |
944年 - 950年 | • 呉権の妃である楊氏の兄弟。楊廷芸の子。[21] |
| 3 | 天策王・呉昌岌 |
951年[22] - 954年 | • 呉権の長子。弟の呉昌文と共同統治を行った。 |
| 4 | 南晋王・呉昌文 |
954年 - 965年[13][23] | • 呉権の次子 |
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 杉本「呉権」『アジア歴史事典』3巻収録
- ^ a b 杉本「呉朝」『アジア歴史事典』3巻収録
- ^ 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、48頁
- ^ a b 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、56頁
- ^ 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、57頁
- ^ 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、57-58頁
- ^ a b 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、58頁
- ^ 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、59頁
- ^ a b c d e 小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、61頁
- ^ a b c d ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、153頁
- ^ a b c 桃木「唐宋変革とベトナム」『東南アジア古代国家の成立と展開』、38頁
- ^ a b ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、154頁
- ^ a b c d e f 和田「呉昌文」『アジア歴史事典』3巻収録
- ^ a b c ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、155頁
- ^ 『大越史記全書』外紀全書呉紀、呉使君(東京大學東洋文化研究所校合本)、175頁。
- ^ 陳仲金『越南史略』第3巻第1章(北京商務印書館中譯本)、58-59頁。
- ^ 越南社会科学委員会『越南歴史』第一集、第二部、第五章(北京人民出版社中譯本)、153頁
- ^ 郭振鐸、張笑梅『越南通史』第3編第7章、241-242頁
- ^ 『大越史記全』本紀全書、丁紀、先皇帝(東京大學東洋文化研究所校合本)、179頁。
- ^ 桃木「唐宋変革とベトナム」『東南アジア古代国家の成立と展開』、42頁
- ^ 『大越史記全書』外紀全書、呉紀「三哥楊后之兄一作弟前呉王家臣僭称平王。」
- ^ 『大越史記全書』外紀全書、呉紀、辛亥元年
- ^ 『大越史記全書』外紀全書、呉紀、乙丑15年
参考文献[編集]
- 小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』(中公新書, 中央公論社, 1997年7月)
- 杉本直治郎「呉権」『アジア歴史事典』3巻収録、363頁(平凡社, 1960年)
- 杉本直治郎「呉朝」『アジア歴史事典』3巻収録、400頁(平凡社, 1960年)
- 和田久徳「呉昌文」『アジア歴史事典』3巻収録、387頁(平凡社, 1960年)
- 桃木至朗「唐宋変革とベトナム」『東南アジア古代国家の成立と展開』収録(岩波講座 東南アジア史2, 岩波書店, 2001年7月)
- ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』(今井昭夫監訳, 伊藤悦子、小川有子、坪井未来子訳, 世界の教科書シリーズ, 明石書店, 2008年8月)