広南国

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広南国
主阮
Chúa Nguyễn
黎朝
莫朝
1558年 - 1777年 西山朝
鄭主
広南国の位置
1650年頃のベトナム
公用語 ベトナム語
官話
首都 フエ
1558年 - 1613年 阮コウ
1754年 - 1777年 阮福淳
変遷
建国 1558年
滅亡 1777年
Dien Thai Hoa.jpg
ベトナムの歴史






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広南国(かんなんこく、クァンナムこく,ベトナム語: Quảng Nam Quốc / Quảng-nam Quốc / 廣南國[1]1558年1777年)は、ベトナム後黎朝中期~後期において、重臣の広南阮氏が現在のベトナム南部に築いた半独立国家。阮氏広南国(げん / グエンし - )、あるいは広南朝( - ちょう)とも呼ばれる。

概要[編集]

黎朝中期、莫登庸(マク・ダン・ズン、Mạc Đăng Dung)が簒奪王朝の莫朝を開くと、黎朝重臣であった鄭氏と阮氏は王朝回復のための兵を起こした。しかし回復軍のなかで鄭氏が権力を専横していった結果、阮氏は南に追放され[注 2]、事実上の南部の王として200年に亘り振舞うことになった。この半独立国が広南国である。当時の口語では「ダンチョン(ベトナム語: Đàng Trong / 塘中)」、外国からは「広南」と呼ばれた[1]。表向きには黎朝に従い、独自の皇帝・年号こそ建てなかったが、皇帝を擁する鄭氏とは幾度も戦火を交え、周辺国からは事実上の独立国として扱われた。彼らの長期に亘る南部支配は、チャンパカンボジア王国に対するベトナムの南進を推し進めた[2]

広南国そのものは18世紀末に滅亡するが、後裔の阮福暎がのちにベトナム最後の王朝・阮朝を興したため、広南阮氏の一族は後世になって多くの諡号を得た。

歴史[編集]

鄭阮同盟[編集]

1540年ごろのベトナム。莫氏の支配域 (ピンク)、 鄭阮同盟における南部 (黄色)、チャンパ (緑)

広南阮氏は、清化(タインホア)に強い勢力を誇っていた氏族をその祖とする。一族の阮廌が、黎朝の祖である黎利(レ・ロイ)による対独立戦争を大いに輔けたことから、阮氏はベトナムでもっとも地位の高い貴族の一族となった。阮氏英(宣慈太后)は、黎朝の二世皇帝・太宗の皇后として、また幼年で即位した三世皇帝仁宗の摂政として国政を取り仕切きったこの時期の著名な人物である。

1527年、権臣の莫登庸が黎朝を簒奪し、新たに莫朝を開いた。黎朝の重臣であった鄭氏と阮氏の一族は故地である清化に依り、黎朝回復を掲げて莫朝に反旗を翻した。彼らの勢力は紅河より南を支配したが、東都(ドンドー、現在のハノイ)を攻略することはできなかった。この期間の阮氏と鄭氏の指導者は阮淦であった。阮淦の娘は鄭氏の当主である鄭検のもとに嫁いでいた。

1545年、阮淦は莫氏の降将・楊執一の手によって毒殺された。順当にゆけば阮淦の長子である阮汪が後継者となるはずであったが、阮汪は鄭検に殺され、同盟の主導権は鄭氏に移った。1558年、阮淦のもう一人の息子の阮潢は遥か南、かつてチャンパの領域(ウリク州)であった烏州(現在のクアンビン省クアンナム省)の行政官を任じられ北部から追われた。阮潢の烏州統治は富春(現在のフエ)から始まり、阮潢を当主とする阮氏は、鄭氏が北部で戦乱に対処する間にじわりじわりと南部へ領土を拡張していった。これが広南国の始まりとされる。

1592年、東都は鄭松によってついに奪還され、莫朝の皇帝も処刑された。その翌年、阮潢は莫朝の残党刈りを援助するために軍資金と兵を用意し北部を訪れた。しかしすぐに、鄭氏の専横する新政府の命令に従うことを拒否した。

緊張の始まり[編集]

1600年、黎朝の新皇帝として福恵皇帝・敬宗が即位した。敬宗はそれまでの皇帝と同じく、鄭氏(その権力から「鄭主」と呼ばれる)の傀儡でありなんの力も持たなかった。それだけでなく、寧平(現在のニンビン省)では鄭松の扇動によると思われる反乱が巻き起こった。これらの結果、阮潢は「もはや黎朝は皇帝のものに非ず。鄭氏の私物である」として政権との関係を断った。この不安定な情勢は、1613年に阮潢が死ぬまで13年続いた。阮潢の南部統治は55年に及んだ。

後継者となった阮福源は、東都の政権からの独立性を保つという阮潢の政治方針を受け継いだ。彼はこの頃来航していたヨーロッパ人達と親密な関係を築き、ポルトガルとの貿易所が會安(現在のホイアン)に設けられた。1615年にはポルトガル人技術者の援助を受け、青銅製の大砲を製造した。1620年に敬宗が鄭松により自決に追い込まれ神宗が即位すると、阮福源は公式に新帝を認めないと宣言し、もはや東都に南部からの税が納められることはないであろうと公言した。南北の緊張は高まり、7年後の1627年には鄭主の新しい当主・鄭梉ベトナム語版との間についに戦端が開かれ、1673年に和平が結ばれるまで永い戦争時代が続いた(詳細は鄭阮戦争を参照)。

広南国は鄭主の攻撃に対して戦うだけでなく、南部に向けて海岸沿いに領土を広げることも続けていた。1620年に阮福源の娘はクメール(カンボジア)国王のチェイチェッタ3世のもとに嫁いだ。3年後の1623年には、阮氏はクメール人居住地のプレイ・ノコール(後のサイゴン。現在のホーチミン市)への移民を公式に認めた。

鄭主との戦争が終わったため、広南国はより多くの力をチャンパの征服と、クメール人居住地への領土拡張へ注げるようになっていった。

南進[編集]

ベトナムの南進

1681年、ダナン沖に明朝遺臣を名乗る楊彦迪(ユオン・ガン・ディック、Dương Ngạn Địch)、陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、Trần Thượng Xuyên)らの率いる50隻余の艦隊が出現し広南国への亡命を申し出る。広南国は巨大な軍事力の扱いに苦慮し、メコンデルタへの入植に彼らを活用することとなった[3]

1714年、広南国はクメール王朝(カンボジア)の政争に介入して兵を送った。シャムがこれに対抗し、1717年にはシャムの援助した側が勝利し、クメールに新たな王が立った。しかしこれによって、広南国は弱体化したカンボジアから多くの領土を得ることに成功した。

20年後の1739年、カンボジアは失われた海岸沿いの土地の奪還に乗り出し、戦闘は数十年間に亘って続いた。しかし最終的に広南国はカンボジアを撃退し、豊かなメコンデルタを保持することに成功した。また、シャムが泰緬戦争に対処する間、1755年に新たにカンボジア征服の軍を派遣し首都ウドンプノンペンまでを脅かした。このころ河僊(現在のキエンザン省ハティエン)には、当初カンボジアの支援で興ったが後に広南国に朝貢するようになった華人の半独立国・港口国があり、その二代目の支配者・鄚天賜ベトナム語版の協力によって、広南国は弱体化したカンボジアから多くの領土を得た。

シャムでは王朝がアユタヤー朝からトンブリー朝に替わり、新しい王のタークシンのもとで、東の隣人カンボジアに対する介入が開始され、1769年には再びシャムと広南国は戦争に突入した。初期においては広南国が優勢であったが後に敗北し、1773年には後述する国内反乱の影響でカンボジア戦線から手を引かざるを得なくなった。

滅亡[編集]

1771年、カンボジアでの戦争による敗北と重税が原因で、西山県で農民反乱(西山党の乱)が起こり、反乱軍が2年で地方政庁のある歸仁(現在のクイニョン)を陥落させると、またたく間に乱は広南国全体に広がった。1774年にはそれを好機と見た鄭主が100年の休戦を破り、広南国に侵攻した。鄭主の軍勢はすぐに広南国の首都である富春(現在のフエ)を陥落させたため、阮氏の一族は、嘉定と名を変えていたプレイ・ノコール(現在のホーチミン市)へと落ち延びた。阮氏は西山党と鄭氏の両方を相手に戦ったが、1777年には嘉定も陥落し、富国島に落ち延びたわずか12歳の阮福暎を除き、阮氏の一族は処刑された。

阮福暎は諦めることなく故国回復に努め、1780年にシャムのタークシン王の力を借り、西山軍へ戦いを仕掛けた。しかしタークシン王は宮廷クーデターで殺され、王朝がチャクリー朝に交代したためにシャム軍は兵を引き、阮福暎も行方をくらます他はなかった。阮福暎は後にフランスの助けを借りようとしたが成せず、再度シャムの助けを借りたラックガム・ソアイムットの戦いでも大敗北を喫したが、それでも諦めず故国回復運動を続けた。西山朝の内紛や、西洋人・少数民族・チャンパ遺臣勢力の援助もあり、1788年9月には嘉定を奪還、1799年には歸仁を占領。1801年には遂に富春を陥し、翌年に阮朝を興した。

世界との関係[編集]

今もホイアンに残る「来遠橋」。日本橋とも呼ばれ、日本人街と中国人街を結んでいたとされる

広南国は、鄭主とは対照的にヨーロッパ諸国との貿易や交流に開放的であり、洋式兵器も取り入れた。また中国や日本とも大規模な貿易を行った[4]。首都である富春の南約100kmに位置する會安(ホイアン)には日本人街・中国人街が設けられ、交易で賑わった。

  • 中国との関係
    • 広南国は亡命を希望するの遺臣を多く受け入れ、南部領土拡大のために利用した。
  • 日本との関係
    • 日本では、1601年に徳川家康が「安南国都元帥・瑞国公」[5]と書簡を交わしているが、この瑞国公は阮潢のことだとされる[6]
    • 徳川幕府の朱印船貿易により広南国を訪れた日本船は71隻にのぼるという[7]
    • 1728年に中御門天皇に謁見し、徳川吉宗に献上された象「広南従四位白象」はこの広南国出身と言われる。江戸っ子の間に象ブームを引き起こした。
    • 阮福源の養女、阮福玉華は、長崎の商人、荒木宗太郎のもとに嫁いだ[8]
  • ポルトガルとの関係
    • 1615年、ポルトガルは当時ヨーロッパ人にファイフォと呼ばれていた會安(ホイアン)に貿易所を設けた。しかし鄭阮紛争が終わると洋式の武器の需要は激減し、ついにこの貿易所はゴアやマカオのような一大センターになることはなかった。

歴代君主[編集]

  • 仙王(太祖)・阮潢(Nguyễn Hoàng) 在位1558年–1613年
  • 仏王(熙宗)・阮福源(Nguyễn Phúc Nguyên) 1613年–1635年
  • 上王(神宗)・阮福瀾(Nguyễn Phúc Lan) 1635年–1648年
  • 賢王(太宗)・阮福瀕ベトナム語版 (Nguyễn Phúc Tần) 1648年–1687年
  • 義王(英宗)・阮福溙(Nguyễn Phúc Thái) 1687年–1691年
  • 明王(顕宗)・阮福淍ベトナム語版 (Nguyễn Phúc Chu) 1691年–1725年
  • 寧王(粛宗)・阮福澍(Nguyễn Phúc Trú) 1725年–1738年
  • 武王(世宗)・阮福濶(Nguyễn Phúc Khoát) 1738年–1765年
  • 定王(睿宗)・阮福淳(Nguyễn Phúc Thuần) 1765年–1777年 ※副王として、新政王・阮福暘(Nguyễn Phúc Dương) 1776年–1777年

出典[編集]

  1. ^ a b Trần Trọng Kim. Việt Nam Sử Lược. p. 140. "ngoại-quốc thường gọi đất chúa Nguyễn là Quảng-nam quốc." [注 1]
  2. ^ Andrew David Hardy, Mauro Cucarzi, Patrizia Zolese(2009), p61"Vietnam's southward expansion as it took place before the period of the Nguyễn Lords ..."
  3. ^ 石井・桜井、pp228-229 ※カナ・ベトナム語表記は参照者
  4. ^ Phan Khoang (2001) (Vietnamese). Việt sử xứ Đàng Trong. Hanoi: Văn Học Publishing House. pp. 414–425. 
  5. ^ 国立公文書館デジタルアーカイブ
  6. ^ 小倉、p176
  7. ^ 石井・桜井、p223
  8. ^ 伊藤、p135

脚注[編集]

  1. ^ 漢訳:外國常呼 阮主之地 是 廣南國
  2. ^ 石井・桜井(1985)では自ら逃れたとしている。

参考文献[編集]

  • Dupuym R. Ernet and Trevor N. The Encyclopedia of Military History. New York: Harper & Row.
  • Andrew David Hardy, Mauro Cucarzi, Patrizia Zolese (2009). Champa and the Archaeology of Mỹ Sơn (Vietnam). 
  • Trần Trọng Kim. Việt Nam Sử Lược. PDF版
  • 小倉貞男 (1997). 物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム. 中公新書. ISBN 4-12-101372-7. 
  • 桃木至朗 (1996). 歴史世界としての東南アジア. 山川出版社. ISBN 978-4-63-434120-3. 
  • 石井米雄桜井由躬雄 (1985). ビジュアル版世界の歴史12 東南アジア世界の形成. 講談社. ISBN 4-06-188512-X. 
  • 伊藤千尋 (1995). 観光コースでないベトナム 歴史・戦争・民族を知る旅. 高文研. ISBN 4-87498-167-4.