ジャライ王国

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Jarai Kingdom=ジャライ王国
安南大国画図(1838年);南蟠(NAM BÀN)がジャライ王国

ジャライ王国(Ala Car P'tao Degar、ベトナム語Tiểu quốc J'rai)はベトナムタイグエン(中部高原)にジャライ族エデ族が建立した、一連の政権。ベトナムの史料では南蟠ベトナム語Nam Bàn / 南蟠、ナムバン)と呼ばれた。

ジャライ王国はもともとチャンパ(占城)の一部分であった。1471年にベトナム黎聖宗がチャンパを滅ぼすと、チャンパの残存勢力は三カ国に分裂した。チャム族パーンドゥランガ朝(賓童龍/Panduranga)に、エデ族はカウタラ朝(Kauthara/कौथर、華英/Hoa-anh、慶和/Khánh-hòa、古笪羅/Cổ-đát-la)に、そしてまたジャライ族は南蟠を建国し、これらはいずれもチャンパ連合的に構成した。黎聖宗は石碑山より西をチャンパの子孫に分け与え、南蟠国に封じた。

ジャライ王国は現在のジャライ省コントゥム省ダクラク省に位置した。その中でも二つの最大勢力は、北部に存在した水舎火舎であった。ジャライ王国は19世紀に消滅した。

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