黎聖宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
聖宗 黎思誠
後黎朝
第5代皇帝
黎聖宗像(ハノイ文廟)
王朝 後黎朝
在位期間 1460年 - 1497年
姓・諱 黎思誠(黎灝)
諡号 崇天広運高明光正至徳大功聖文神武達孝淳皇帝
廟号 聖宗
生年 大宝3年7月20日
1442年8月25日
没年 洪徳28年1月30日
1497年3月3日
太宗
光淑皇后
后妃 徽嘉皇后
陵墓 昭陵
元号 光順 : 1460年 - 1470年
洪徳 : 1470年 - 1498年

黎聖宗(れいせいそう、レ・タイントン、ベトナム語Lê Thánh Tông / 黎聖宗)は、後黎朝大越の第5代皇帝(在位:1460年 - 1497年)。黎 思誠(れい しせい、レ・トゥ・タイン、ベトナム語Lê Tư Thành / 黎思誠。別名は黎 灝(れい こう、レ・ハオ、ベトナム語Lê Hạo / 黎灝)。現在のベトナム各地にはその名を冠した「レ・タイントン通り(ベトナム語: Đường Lê Thánh Tông)」がある。

生涯[編集]

第2代皇帝太宗の四男として昇龍埬栘に生まれる。大和3年(1444年)に仁宗から平原王に封じられる。延寧6年(1459年)に長兄の黎宜民が仁宗を殺して即位すると、嘉王に封じられた。

即位前の政治、軍事の事績については『大越史記全書』に記されておらず、経籍を愛読したことが伝えられる。仁宗暗殺後の混乱の中、阮熾中国語版丁列中国語版ら軍部の元老を旗頭として禁軍(近衛兵)の将校が起こしたクーデターにより光順元年(1460年)に即位した[1]

外征・外交[編集]

軍制改革を行い、洪徳元年(1470年)8月にチャンパマハー・サジャンの侵入を退けて逆に親征し、チャンパの王都ヴィジャヤ英語版を陥落させるなどの成果を挙げた。

征服したチャンパの旧域に広南承宣中国語版を設置して現在のベトナム南中部のベトナム化を進め[2]、大越のチャンパに対する優位を確たるものとした。パーンドゥランガ中国語版に拠るチャンパ王ガライ(マハー・サジャンの孫)に対しては対立王にデーヴァターを立てて干渉した[3]。また洪徳10年(1479年)8月にラオスラーンサーン王朝へも親征し、5方向から軍を進めた。王都ルアンパバーンを破壊、現在のジャール平原にあたる地域に鎮寧府を設置し、7県を置いて統治した。その後勢いに乗ってラーンナーに侵攻するが、これは失敗している。雲南に数度派兵、マラッカ王国にも影響を及ぼそう[4]として後黎朝の最大版図を築いた。

に対してはチャンパへの侵攻を正当化して介入をかわそうとし[5]、明側は聖宗が偽証を述べたと知っていながら強硬に介入することはできず、土地の返還を勧奨するにとどまった[5]

洪徳16年(1485年)には周辺勢力に向けて大越に対する朝貢を行うように令を発し、その中にはラオス・チャンパのみならず、ジャワシャム・マラッカの名も含まれていた[6]

光順中興[編集]

明の制度にならい[2]相国を廃止して朝廷に六部を設置した。六部は吏部戸部礼部兵部刑部工部で構成され、翰林院国史院御史台が専門機関として設けられた。洪徳14年(1483年)に律令洪徳法典(国朝刑律)中国語版』を公布し、中央集権制度の整備に尽くした。『洪徳法典』は中国的な封建制を基盤としてベトナム本来の法律と慣習を成文化したものであり[7]、女性の権利の保護に関わる条文も存在した。

地方制度も整え、国土を13の承宣(トゥアティエン)に分けて昇龍を中都府に定め、承宣の内部を府県に細分化した。王朝初期からの土地制度を改良、紅河デルタ一帯に均田制を施行した。公田は6年に一度の検地に基づいて農民に公平に分配され、税収と兵数の把握に役立った[8]。また、紅河デルタに存在していた集落を社(サー)英語版という区画にまとめ上げ、社は徴税・徴兵・公共事業の単位として機能した。1954年ベトナム民主共和国によって行われる土地改革まで、500年近くの間公田と社が紅河デルタ地方の土地制度を形成した[9]

中国の史書『明史』においても聖宗の治績は称えられ[5]、「光順中興」と呼ばれるその治世はまさに後黎朝の全盛期であった[10]

科挙とベトナム文化[編集]

聖宗は先代の前廃帝黎宜民が目指した官僚主導の政権の構築を目指し[11]、「光順中興」の時代に聖宗の治世から始まった科挙制度が確立された[12]。受験者の資格の制定(儒教の徳目に反する者は郷試の受験が認められなかった)、会試の方法の改定によって合格者の質の向上を図り、制度の確立に貢献があったのは仁宗、聖宗の治世に登用された科挙官僚であった[13]。合格者の名前は石碑に刻まれ、そこにはベトナム史に残る政治家、学者、文人の名前が多く記されていた[14]。科挙による朱子学の振興と試験を通過した文人官僚の増加は、史学とベトナム漢文学の隆盛ももたらした[15]。ベトナム各地の伝説を集めた『嶺南摭怪中国語版』の編纂、呉士連によって献上された、それまでのベトナム史書の集大成である編年体の通史『大越史記全書』の完成が聖宗期の史学界を代表する出来事として挙げられる。

文人官僚だけでなく聖宗自身も詩作を好み、文芸サロンの騒壇(タオダン)会ベトナム語版を主宰するほどだった。その著作には、漢文による『瓊苑九歌』『珠璣勝賞』『征西紀行』『明良錦繍』『文明古師』『古心百詠』、チュノムを用いた『洪徳国音詩集』、詩集『天南余暇集ベトナム語版』がある。

聖宗は軍部で要職の多くを占めていた清華出身者を抑えるために、科挙合格者に南策出身者を多く加えた[16][17]。死後は長男の憲宗が跡を継ぐが、清華出身の軍人と南策出身の新興官僚の対立が深まり、後黎朝は次第に衰退期に入ることになる。

聖宗の治世に緑と深緑の地域が大越の支配下に入った

子女[編集]

合わせて14男20女を儲けた。

男子[編集]

  1. 憲宗 黎暉
  2. 梁王 黎銓
  3. 宋王 黎
  4. 唐王 黎鎬
  5. 建王 黎鑌中国語版 - 昭宗により徳宗建皇帝と追尊された。
  6. 福王 黎錚中国語版
  7. 演王 黎
  8. 広王 黎
  9. 臨王 黎鏘
  10. 応王 黎{金+昭}
  11. 義王 黎{金+耿}
  12. 鎮王 黎鋞
  13. 肇王 黎鋑
  14. 荊王 黎鍵

脚注[編集]

  1. ^ 八尾、211頁
  2. ^ a b 桜井、189頁
  3. ^ 『明史』巻324、列伝212、外国5、占城
  4. ^ 『明史』巻325、列伝213、外国6、満剌加、成化10年の条
  5. ^ a b c 『明史』巻321、列伝209、外国2、安南
  6. ^ 桜井、198頁
  7. ^ 『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、242頁
  8. ^ 桜井、187-188頁
  9. ^ 桜井、188頁
  10. ^ 小倉、129-130頁
  11. ^ 八尾、211-212,216頁
  12. ^ 小倉、132頁
  13. ^ 八尾、216-217頁
  14. ^ 小倉、133頁
  15. ^ 桜井・八尾「レ・タイントン」
  16. ^ 八尾、212頁
  17. ^ 桜井、191頁

参考文献[編集]

  • 藤原利一郎「聖宗」『アジア歴史事典』 5巻、平凡社、1984年、182頁。 
  • 小林知生「聖宗」『東洋歴史大辞典』 中(縮刷復刻)、臨川書店、1941年、695頁。ISBN 465301471X 
  • 小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』中央公論社中公新書〉、1997年7月。 
  • 桜井由躬雄 著「亜熱帯の中の中国文明」、石井米雄; 桜井由躬雄 編『東南アジア史 1 大陸部』山川出版社〈新版世界各国史〉、1999年12月。 
  • 八尾隆生「山の民と平野の民の形成史 一五世紀のベトナム」『東南アジア近世の成立』岩波書店〈岩波講座 東南アジア史3〉、2001年8月。 
  • 桜井由躬雄; 八尾隆生「レ・タイントン」『東南アジアを知る事典』平凡社、2008年6月。 
  • ファン・ゴク・リエン監修 著、今井昭夫監訳, 伊藤悦子、小川有子、坪井未来子 訳『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』明石書店〈世界の教科書シリーズ〉、2008年8月。 
  • 石井米雄・桜井由躬雄『東南アジア世界の形成』。ISBN 4-06-188512-X 

外部リンク[編集]

先代
前廃帝
後黎朝の第5代皇帝
1460年 - 1497年
次代
憲宗