ナスィールッディーン・トゥースィー

ナスィールッディーン・トゥースィー[1](ペルシア語: محمد بن محمد بن حسن طوسی Muḥammad ibn Muḥammad ibn Ḥasan Ṭūsī アラビア語: ナスィールッディーン・アッ=トゥースィー Naṣīr al-Dīn Abū Ja‘far Muḥammad b. Muḥammad b. Ḥasan al-Ṭūsī、 نصير الدين ابو جعفر محمد بن محمد بن حسن الطوسي 1201年2月18日 –1274年6月26日[2])は、シーア派を代表するペルシア人[2][3][4][5] の神学者である。またイブン・スィーナーら系譜に連なる逍遥学派の中興の祖と目される哲学者であり、数学者、天文学者であり、13世紀のイスラーム世界を代表する偉大な学者である。
トゥースィーはイランのホラーサーン地方のトゥース生まれの人物を示す呼称で多くの学者がトゥースィー(アラビア語でアル=トゥースィー at-Tûsî)と呼ばれている。また「学識者トゥースィー」 محقِّقِ طوسى muḥaqqiq-i Ṭūsī、ホージャ・ナスィール・トゥースィーخواجه نصير طوسى Khwāja Naṣīr Ṭūsī、「人類の師」 استادِ بشر Ustād-i Bashar などの尊称で呼ばれて来た。
生涯・人物
[編集]情報源
[編集]トゥースィーの生涯に関する情報の情報源としては、14世紀の歴史学者クトゥビー(1363年歿)の人名辞典 Fawāt al-Wafayāt や、サファディー(1363年歿)の人名辞典 al-Wāfī bi-l-Wafayāt がある[6]。19世紀にはイランの学者モハンマドバーゲル・ハーンサーリーが、さらに23種の伝記を列挙してトゥースィーの生涯について論じている[6]。しかしトゥースィーの著作の中には Sayr va Sulūk という自伝があり、現在にまで伝存している(1998年には英語訳も公刊)[7][8]。Sayr va Sulūk はペルシア語で書かれた、短い書簡形式の自伝である[8]。
生い立ち
[編集]トゥースィーはヒジュラ暦597年ジュマーダー1月11日(ユリウス暦1201年2月17日前後)に、ニスバが示す通りトゥースで生まれた[9]。ハーンサーリーによると、父方はコム近くのジャフルード村から移り住んでいる[9]。父親は十二イマーム派の法学者として尊敬を集めていたワジーフッディーン・ムハンマド・イブン・ハサン・トゥースィーという人物で、トゥースィーの本名も父と同じムハンマドという[9]。自伝 Sayr va Sulūk によると、トゥースィーは、年少時代に郷里トゥースで父や母方の伯父から直接十二イマーム派のアラビア語学やイスラムの聖典クルアーンやハディース学といった宗教諸学について修め、父と親交があったカマールッディーン・ムハンマド・ハースィブから数学を学んだという[7]。さらなる学問の研鑽を志し、青年時代にはニーシャープールに移りイブン・スィーナーの系統に属す逍遥学派のアリストテレス哲学、論理学、医学をファリードゥッディーン・ダーマード・ニーシャープーリーやクトブッディーン・ミスリーから学んだ。またザンギー朝のヌールッディーンのもとで活躍した高名な数学者シャラフッディーン・ムザッファル・トゥースィーの弟子カマールッディーン・イブン・ユーヌスから数学、ムイーヌッディーン・サーリムから十二イマーム派法学について教授を受けた。詩学については、当時ニーシャープールに滞在していた高名な神秘主義者で詩人のファリードゥッディーン・アッタールに学んだとも言われている。こうして22歳の時にこれらの諸学を修めた免許状(イジャーザ ijāza )を授かっている。
クヒスターンおよびアラムート時代
[編集]その後、トゥースィーは、当時ホラーサーン南方のクヒスターンにおけるニザール派の太守(ハーキム)であったナースィルッディーン・ムフタシャムの庇護を受け、人間道徳や家族、政治についての倫理について論じた『ナースィルの倫理学』を献呈している。ムフタシャムは当時、哲学などの諸学に通じ賢明かつ寛大な人物として知られており、『ナースィル史話』の著者ジューズジャーニーは1224年から数回に渡りこの太守と接見しているが、彼をホラーサーン地方で最高の哲学者、賢者と評している。1220年にチンギス・ハン率いるモンゴル帝国軍がマー・ワラー・アンナフルに侵攻し、6月にはジェベがホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドを追ってニーシャープールへ到達。翌1221年2月には前年11月にニーシャープールでチンギスの第四女トムルンの娘婿であったトクチャルが戦死したことの報復として、ホラーサーン征服軍を指揮していたトルイによる同市の徹底的な破壊が記録されており、トゥースィーはこれらの戦乱を避けるために当時学識、人望ともに高く、モンゴルの戦火から免れた多くの人々を保護していたムフタシャムの宮廷に他の学者たちとともに赴いた物と思われる。
このクヒスターン時代に、上述の『ナースィルの倫理学』の他に『服従の花園』(Rauḍat al-taslīm)、『品行と振舞い』(Sair wa Sulūk)、『友情と拒絶についての論文』(Risāla dar Tawallā wa Tabarrā)など多くのイスマーイール派の教義に関わる書物や論文を著している。
トゥースィーはモンゴル帝国のフレグがイラン地域を征服しに来た時、アラムートのニザール派第26代教主アラーウッディーン・ムハンマド (ムハンマド3世)と第27代教主ルクヌッディーン・フルシャーによってアラムート近傍のマイムーン・ディズという城塞に幽閉されていたことが知られている。
『集史』や13世紀後半の歴史家カーシャーニーなどはクヒスターンの太守ムフタシャムの怒りを買ってアラムートの教主アラーウッディーンのもとに連行されたことのみが書かれているが、『ワッサーフ史』やティムール朝時代の歴史家ホーンダミールによると、トゥースィーがクヒスターン滞在中にアッバース朝最後のカリフムスタアスィムに頌詩を書き送り、宰相(ワズィール)ムアイイドゥッディーン・ムハンマド・イブン・アル=アルカミーを介してムスタアスィムに仕えようとしたという。それによると宰相イブン・アル=アルカミーは、トゥースィーの学識の高さから彼がカリフの宮廷に仕えるようになったら自らの地位を危うくするに違い無いと怖れ、頌詩を送り返して太守ムフタシャムにカリフと文通をはじめたトゥースィーは油断ならない人物だから警戒するように促した。この書簡を読んだムフタシャムは怒ってトゥースィーを監禁し、アラムートのアラーウッディーンのもとに来訪したとき、彼も連行してアラムート側に引き渡したと伝えている。
しかし、別の伝承では、教主アラーウッディーンが太守ムフタシャムのもとにトゥースィーが庇護を受けている事に羨望し、手勢のフェダーイーンを派遣してアラムートに赴くよう勧めたという。トゥースィーがこれを拒絶したため教主は殺すと脅迫して無理に連行させたともいう。いずれにしろ不本意なかたちでアラムートへ連れて来られたようで、1246年に彼が書いた『諸指示の注解』(Sharḥ Ishārāt)には現在の自らの困難な状態から救われるよう神への祈りの言葉が述べられており、アラムート時代のトゥースィーの境遇ははなはだ良くない状況だったようである。
フレグの西征とマラーガ天文台の建設
[編集]チンギス・ハーンの遠征によってトゥースが滅ぼされると、イスマーイール派のもとになどに逃れ、転々とするが、最終的にイルハン朝フレグのもとで働くことになった。
フレグはトゥーシーのために1259年、マラーガに天文台を建て、天文学の進歩に貢献したマラーガの天文学者の最初の一人であると考えられている。マラーガで天文学を学んだ有名な学者にはムアイヤドゥッディーン・ウルディーや医学者クトゥブッディーン・シーラーズィーなどがいる。
神学者・哲学者としてのトゥースィー
[編集]トゥースィーは膨大な著作をのこした[10]。その中でも哲学・思想に関する作品は、イスマーイール派的な環境の下で書かれている点に特徴がある[10]。イブン・ムカッファアの倫理学に関する小論のペルシャ語訳や、実践倫理にかんする Ak͟hlāq-i Muḥtas͟hamī は、彼の最初のパトロンであり、イスマーイール派の信奉者でもあったムフタシャム・ナースィルッディーン・アブドゥッラヒームの委嘱に応じてなしたものである[10]。Ak͟hlāq-i Muḥtas͟hamī ではイスマーイール派宣教師たちの詩や演説が次から次へと引用されるため、同書は彼らをよく知るための手引書となることを意図して書かれたものと推測されている[10]。その2年後に書かれた哲学書 Ak͟hlāq-i Nāṣirī もムフタシャムに献じられている[10]。
トゥースィーは Ak͟hlāq-i Nāṣirī を、20年後に序論と結論を変更して改訂したが、初版と改訂版の間にはアラムートのイスマーイール派の壊滅という事件があった[10]。Ak͟hlāq-i Nāṣirī は、イスマーイール派教義により倫理的美徳の秘教主義的側面を解説している[10]。全体で3部に分かれ、第1部はイブン・マスクーエ(ミスカワイヒ)の倫理学書 Tahd͟hīb al-Ak͟hlāq に基づいて書かれている[10]。イブン・マスクーエの倫理学書はアリストテレスの『ニコマコス倫理学』を下敷きにしているが、トゥースィーの Ak͟hlāq-i Nāṣirī はアリストテレスだけでなく、プラトンや、新プラトン主義の哲学者たちの説にも基づいている点が特徴である[10]。つづく第2部と第3部はそれぞれ経済と政治について論じ、クセノフォンの『家政論』、イブン・スィーナーやファーラービーの著作が参照されている[10]。 Ak͟hlāq-i Nāṣirī は実践に重きを置いているという特徴があり、そのために長く読み継がれることとなった[10]。
トゥースィーの著作の中でイスマーイール派の世界観がもっともよく表されているのが、Rawḍat al-taslīm yā taṣawwurāt という著作である[10]。新プラトン主義的溢出論に基づいたイスマーイール派の世界観・世界創造神話(コスモロジー)が示され、全体としては肉体の世界から精神の世界への旅路をサポートする手引書となっている[10]。不可知の至高存在の意思が歴代イマームと彼らの原型であるアリー・イブン・アビー・ターリブの中に受肉し、イマームらが相互に交信することにより「第一知性」が溢出する[10]。「第一知性」の原型はサルマーン・ファーリスィーである[10]。そこからさらに「普遍霊魂」が溢出する[10]。「普遍霊魂」の原型は預言者ムハンマドである[10]。そこからさらに「人類霊魂」が溢出する[10]。このように新プラトン主義的コスモロジーに紐づいたかたちでイスマーイール派のイマーム論や、真理が隠蔽されたサトル期論、真理を知る救世主がいるキヤーマ期論といった教義が示される[10]。本書のコスモロジーにおいては、世界に対する完全な知識を持つというイマーム観に基づいてイマームへの絶対帰依が要請され、霊魂の位階の上昇のために宗教的義務の注意深い見直しが必然となる[10]。ここでいう宗教的義務は、たんにシャリーアの遵守をいうのではなく、秘教的修行も含む[10]。
モンゴルが東方イスラーム世界を征服したこの時期、スーフィーたちの活動が活発化していた[10]。トゥースィーは1264年ごろ、フレグ・ウルスの宰相シャムスッディーン・ムハンマド・ジュワイニーの求めに応じて一編の論文、Awṣāf al-as͟hrāf を書いた[10]。これは、信仰から始まり神的合一と自己消滅へと至る、スーフィーのための手引書である[10]。スーフィーの勤行を通して神にアプローチすることを説いた本論文は、トゥースィーにとって最後の倫理思想書になった[10]。
しかし、その後のマラーガ在住期に、トゥースィーは十二イマーム・シーア派の学者サドルッディーン・クーナウィーと書簡を交し合い、さらにいくつかのことを語っている[10]。「単一の原因から複数のものが生じるのはどのようにしてなのか」というクーナウィーの問いに対して、トゥースィーは「複数性は互いを前提とする多くの原因の結果であって、結局は単一の原因に帰一するのだ」と応答する[10]。この問題はトゥースィーが生涯にわたって考えてきたものである[10]。ファフルッディーン・ラーズィーによるイブン・スィーナー批判からイブン・スィーナーを擁護する内容の註解書をはじめ、複数の著作や書簡でトゥースィーはこの問題に触れている[10]。12世紀の分派学者シャフラスターニーはイブン・スィーナーの存在論に対して、「絶対的一者からは一つのものしか生じえない」と批判した[10]。この批判はシャフラスターニーのイスマーイール派教義の理解に基づいているが、晩年のトゥースィーはクーナウィーとの議論と同様の説を唱えてこれに反駁した(Maṣāriʿ al-muṣāriʿ)[10]。
業績
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1272年に惑星の位置を計算し、恒星の名を記した天文表『イルハン天文表』を作成した。2つの円運動から直線状の動きを得る、トゥースィーの対円 (Tusi-couple) と呼ばれる惑星モデルを考え、クラウディオス・プトレマイオスの惑星運行モデルの難点の一つであったエカントの除去に成功した。地動説が現れるまで、トゥースィーの宇宙の体系は最も進んでいた。また天文上の分点の歳差が51秒であることを計算した。
月のナスィールッディーン・クレータに命名されている。イランのK. N. Toosi工科大学 (en: K. N. Toosi University of Technology) もトゥーシーに因んで命名された。
主な著作
[編集]- 『ナースィルの倫理学』(Akhlāq al-Nāsirī:ペルシア語)
- 『イルハン天文表』(Zīj-i Īl-khānī)
脚注
[編集]- ^ Muḥammad ibn Muḥammad ibn Ḥasan Ṭūsī 、en:Nasir_al-Din_al-Tusi
- ^ a b Encyclopædia Britannica. “"Tusi, Nasir al-Din al-." . Encyclopædia Britannica Online. 27 December 2007”. 2021年5月9日閲覧。
- ^ Arthur Goldschmidt, Lawrence Davidson. "A Concise History of the Middle East", Westview Press, 2005. Eighth edition, pg 136
- ^ Rodney Collomb, "The rise and fall of the Arab Empire and the founding of Western pre-eminence", Published by Spellmount, 2006. pg 127: "..Nasr ed-Din Tusi, the Persian, Khorasani, former chief scholar and scientist of "
- ^ Nanne Pieter George Joosse, Bar Hebraeus, "A Syriac encyclopaedia of Aristotelian philosophy: Barhebraeus (13th c.), Butyrum sapientiae, books of ethics, economy, and politics: a critical edition, with introduction, translation, commentary, and glossaries", Published by Brill, 2004. excerpt: " the famous Persian scholar Naslr al-Dln al-Tusi "
- ^ a b Daiber, H. (2000). “al-Ṭūsī”. In Bearman, P. J. [英語版]; Bianquis, Th.; Bosworth, C. E. [英語版]; van Donzel, E. [英語版]; Heinrichs, W. P. [英語版] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume X: T–U. Leiden: E. J. Brill. pp. 747l – 748r. ISBN 90-04-11211-1. Bibliography.
- ^ a b 黒柳, 恒男「ナスィール・ウッ・ディーン・トゥースィーの生涯と業績」『オリエント』第9巻第2-3号、1966年、163-186,232,、doi:10.5356/jorient.9.2-3_163、2025年9月2日閲覧。
- ^ a b Poonawala, Ismail K. “Contemplation and Action: The Spiritual Autobiography of a Muslim Scholar, A New Edition and English Translation of Nasir al-Din Tusi’s Sayr Wa Suluk by S. J. Badakhchani, London: I. B. Tauris in Association with The Institute of Ismaili Studies, 1998, Xiii + 86 + 22 Pp. (Includes Text in Persian).” Iranian Studies 33, no. 1–2 (2022): 206–7. https://doi.org/10.1017/S002108620000195X.
- ^ a b c Daiber, H. (2000). “al-Ṭūsī”. In Bearman, P. J. [英語版]; Bianquis, Th.; Bosworth, C. E. [英語版]; van Donzel, E. [英語版]; Heinrichs, W. P. [英語版] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume X: T–U. Leiden: E. J. Brill. pp. 747l – 748r. ISBN 90-04-11211-1. 1. Life.
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