トゥール・ポワティエ間の戦い

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トゥール・ポワティエ間の戦い
ウマイヤ朝のガリア侵攻
Bataille de Poitiers.jpg
ヴェルサイユ宮殿美術館所蔵
732年10月10日
場所フランストゥールポワティエの間
結果 フランク王国の勝利
衝突した勢力
フランク王国
ランゴバルド王国
Umayyad Flag.svg ウマイヤ朝
指揮官
カール・マルテル
アキテーヌ公ウード
Umayyad Flag.svg アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー英語版
戦力
15,000-75,000(Goreの説によると15,000〜20,000人) 60,000-400,000(Goreの説によると20,000〜25,000)
被害者数
約1,500 不明(被害甚大)

トゥール・ポワティエ間の戦い(トゥールポワティエかんのたたかい、フランス語: Bataille de Poitiersアラビア語: معركة بلاط الشهداء‎)は、732年フランス西部のトゥールポワティエの間で、フランク王国ウマイヤ朝の間で起こった戦い。ツール・ポアティエの戦いと呼称することがある。英語では「ツアーズ(トゥールの意)の戦い[1]、アラビア語では「バッラト・アル=シュハダ(殉教者の道)の戦いアラビア語: معركة بلاط الشهداء‎)」[2][3]と呼ばれる。[4]イスラム側の呼称の由来は14世紀モロッコマラケシュの歴史学者イブン・アダリ=アル=マラッキの歴史書「アル=バヤン・アル=マグリブ(アラビア語: البيان المغرب في اختصار أخبار ملوك الأندلس والمغرب‎、略称“バヤン(بيان )”)」に由来する。[5][6]同書のアンダルシアの歴史の中で、イブン・ハイヤーン・アル・クルトゥビの資料から「アンダルシア支配者であるアブド=アル=ラフマン=イブン・アブド=アッラーフ=アル=ガフィキーはローマ人の土地に侵入し、ヒジュラ暦115年に「殉教者の道(بلاط الشهداء)」として知られる場所で、彼の軍隊と殉教した。」という記述があることによる。イブン・ハイヤーンは戦いの地で、アザーンが長い間聞かれるようになったと語っている。[7]

その後も735-739年にかけてウマイヤ軍は侵攻したがカール・マルテル率いるフランク王国連合軍により撃退された。

背景[編集]

イスラム世界初の帝国であるウマイヤ朝は第十代カリフ ヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの時代で比較的安定していた。 第六代カリフ ワリード1世の時代に進行したイスラム軍は当時のスペイン(アル=アンダルス)を支配下に置いた。この征服に対し、現地のキリスト教領主たちは対抗し小競り合いが絶えなかった。イスラム法のジズヤを貢納することで信仰の自由は認められていたものの、アラブ人とそれに追従したベルベル人、そして現地のキリスト教徒たちは相容れない生活を送っていた。またアラブ人が直轄する街ではイスラム色が濃く、問題も発生していた。[8]

アル=アンダルス総督(ワリ)[9]であったアル=サム=イブン・マリク=アル=カウラニトゥールーズの戦い(721)[2]でヨーロッパへの領土拡張を行っている。トゥールーズの戦いでは、アキテーヌのウード大公の活躍により勝利した。

この戦いでアル=サム=イブン・マリク=アル=カウラニは重傷を負い、まもなく亡くなった。しかしイスラム勢力の脅威が消えた訳ではなく、緩衝地帯に位置するアキテーヌには常に不安があった。

この後、アキテーヌのウード大公が自分の娘(おそらく名前はランペジア)をアル=アンダルスの副知事であるウスマン=イブン・ナイッサ(サルディーニャのムヌザ:カタロニアの領主、ベルベル人)に嫁として送った。アキテーヌ公と和睦することで、アキテーヌを緩衝地帯とする目的があったと思われる。[10]しかし、新しくアル=アンダルス総督に任命されたアブド=アル=ラフマン=イブン・アブド=アッラーフ=アル=ガフィキー(以下、アル=ガフィキー)から反乱を企てているとウスマン=イブン・ナイッサは疑われることになる。対するメロヴィング朝フランク王国宮宰カールも、イスラム国家と通じることを良しとせず、アキテーヌへと侵攻した。

730年(ヒジュラ暦112年)に総督(ワリ)に任命されたアル=ガフィキーは 、サルディーニャで独立政権を打ちたてようとしたウスマン=イブン・ナイッサ(サルディーニャのムヌザ)を攻撃した。彼は殺され、妻(ランペジア)はヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクハレムへと送られた。アキテーヌのウード大公は援軍を送りたかったが、不信を買った宮宰カールと交戦中でできなかった。[11]

ウードも宮宰カールに敗れ、アキテーヌは没収された。その後ピレネー山脈を越えてウードの領地であるアキテーヌへと侵攻するアル=ガフィキー率いるイスラム勢力を、領土を失ったウードと家臣たちは、ガロンヌ川の戦い(ボルドーの戦い)で対決する。アキテーヌのウード大公の軍を破って、アキテーヌ北部まで侵攻し略奪を行った。

だが、ウードは逃げ延び体制を建て直すため、宮宰カールへと救援要請を行った。イスラム勢力の侵攻を知った宮宰カールはウード公を自軍の右翼に組み込み、他の領主たちを集めてフランク連合軍を組織。トゥールポワティエ間にある平野でアル=アンダルス総督であるアル=ガフィキー軍と衝突することになった。

戦闘[編集]

宮宰カール率いるフランク王国連合軍は、騎兵の多いアル=ガフィキーの軍隊に対し場所を選んだイスラム側の多くは騎兵であり機動力を発揮できないよう、丘や樹木などの地形とファランクスを上手く活用し防衛体制と整えた。歩兵と騎兵の戦闘ながら決着はつかず、七日の間小競り合いが続いた。イスラム側はフランク王国連合軍の主体が歩兵であることから、戦闘を楽観視していた。

トゥールとポワティエの間のクライン川とウィーン川の合流点で2つの軍が合流したと想定しており、両軍の兵士の数は不明。ラテン語資料である「754年のモサラベ年代記」においては、詳細な人数においては言及されていない。両陣営の動員数は当時の兵站を鑑みるにフランク王国連合軍が15,000〜20,000人。アル=ガフィキー率いるアル=アンダルス遠征軍が20,000〜25,000人とされている。[12]

歴史家のポール・デイビスは1999年にイスラム教徒の軍隊を約80,000人、フランク王国連合軍を約30,000人と推定した。歴史家のエドワード・シェーンフェルトはウマイヤ朝の数が60,000-400,000とフランク王国連合軍が75,000の範囲であったという古い見積もりを拒否した。戦地の広さと、当時の補給事情を鑑みるに50,000人を超える兵数は運用できないと指摘した。ゴール(Gore)はフランク王国連合軍15,000〜20,000人、イスラム教徒の軍隊を20,000〜25,000人と見積もった。[13][14][15]

最終日において、フランク軍がイスラム軍の略奪品の荷車などを襲撃した。[16]人種・民族・宗教入り乱れるアル=ガフィキーの軍では戦利品の防衛と攻撃とで指揮系統が乱れた(当時の略奪品は、そのまま兵士たちの給料でもあった。また、イスラム側は家族を同伴していたことも理由である[17])、アル=ガフィキーは混乱した自軍をまとめようとして、前に出たところを矢で射られ死亡した。(アル=ガフィキーの死亡は「754年のモサラベ年代記」でも言及されている。)[18]

イスラム側の記録によると、アル=ガフィキーの死後に有力者たちで会議を行ったが意見が纏まることは無く夜の内に撤退したという。(アル=ガフィキーはイスラム側では、民族や文化の垣根を越えた優秀な指導者であったと評価されている。)[19]

フランク王国連合軍は、後日の攻撃に備えて直ぐには武装解除しなかった。[20]

影響[編集]

このフランク人の勝利はムハンマドの死から100年後にあたり、しばらくの間、スペインを経由でヨーロッパにアラブ人が侵入するという深刻な脅威を終わらせた。この勝利により、宮宰カールは「マルテル」の称号を得て、「カール・マルテル」と呼ばれるようになる。この戦いにより、フランク王国内における地位を確固たるものとした。アウストラシア宮宰出身であったカール・マルテルの息子ピピン3世(小ピピン)は教皇を味方につけ、メロヴィング朝を廃して自ら王位に即き、カロリング朝を開いた。ピピン3世(小ピピン)は息子に王位の世襲を行わせたため、ピピン3世(小ピピン)の息子であるカールが王位についた。これが有名なシャルルマーニュことカール大帝(774年ランゴバルト王800年皇帝。)である。

ヨーロッパにおいては、キリスト教圏の防衛と中世の始まりから評価が高い戦いだが、イスラム側ではそこまで大きい評価はされていない。キリスト教圏の防衛という一事と、カール・マルテルがフランク王国内で絶対的な地位を確立し、それが後のシャルルマーニュに繋がってヨーロッパの礎になったことによる評価が大きい。(エドワード・ギボンは自著である『ローマ帝国衰亡史』の中で高く評価している。)

一方で、イスラム圏からすれば小さい小競り合いという印象の評価である。事実上、アル=アンダルスとアキテーヌ公の問題にカール・マルテルが介入したことから「領主の小競り合い」あるいは「略奪による富が目的」だったなどヨーロッパとは違い著しく異なる。[21]

備考[編集]

SF作家アーサー・C・クラークは『楽園の泉』の作中にて、もしこの戦いでイスラム側が勝利してヨーロッパを征服していれば、キリスト教支配による中世暗黒時代は回避され、産業革命は1000年早まって人類は既に他の恒星にまで到達していたかも知れないとして「人類史最大の悲劇の一つ」と評している。

脚注[編集]

  1. ^ “Battle of Tours” (英語). Wikipedia. (2021-04-23). https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Battle_of_Tours&oldid=1019389013. 
  2. ^ a b “معركة بلاط الشهداء” (アラビア語). ويكيبيديا. (2021-03-09). https://ar.wikipedia.org/w/index.php?title=%D9%85%D8%B9%D8%B1%D9%83%D8%A9_%D8%A8%D9%84%D8%A7%D8%B7_%D8%A7%D9%84%D8%B4%D9%87%D8%AF%D8%A7%D8%A1&oldid=52994156. 
  3. ^ “ابن حيان القرطبي” (アラビア語). ويكيبيديا. (2020-12-11). https://ar.wikipedia.org/w/index.php?title=%D8%A7%D8%A8%D9%86_%D8%AD%D9%8A%D8%A7%D9%86_%D8%A7%D9%84%D9%82%D8%B1%D8%B7%D8%A8%D9%8A&oldid=51908947. 
  4. ^ MIZUKAMI, Ryo (2014). “The Group Ijāza Referred to by Ibn al-Fuwaṭī in the Late 13th Century”. Bulletin of the Society for Near Eastern Studies in Japan 57 (1): 62–72. doi:10.5356/jorient.57.1_62. ISSN 0030-5219. http://dx.doi.org/10.5356/jorient.57.1_62. 
  5. ^ “Al-Bayan al-Mughrib” (英語). Wikipedia. (2020-12-25). https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Al-Bayan_al-Mughrib&oldid=996315615. 
  6. ^ “البيان المغرب في اختصار أخبار ملوك الأندلس والمغرب” (アラビア語). ويكيبيديا. (2021-02-09). https://ar.wikipedia.org/w/index.php?title=%D8%A7%D9%84%D8%A8%D9%8A%D8%A7%D9%86_%D8%A7%D9%84%D9%85%D8%BA%D8%B1%D8%A8_%D9%81%D9%8A_%D8%A7%D8%AE%D8%AA%D8%B5%D8%A7%D8%B1_%D8%A3%D8%AE%D8%A8%D8%A7%D8%B1_%D9%85%D9%84%D9%88%D9%83_%D8%A7%D9%84%D8%A3%D9%86%D8%AF%D9%84%D8%B3_%D9%88%D8%A7%D9%84%D9%85%D8%BA%D8%B1%D8%A8&oldid=52669635. 
  7. ^ “معركة بلاط الشهداء” (アラビア語). ويكيبيديا. (2021-03-09). https://ar.wikipedia.org/w/index.php?title=%D9%85%D8%B9%D8%B1%D9%83%D8%A9_%D8%A8%D9%84%D8%A7%D8%B7_%D8%A7%D9%84%D8%B4%D9%87%D8%AF%D8%A7%D8%A1&oldid=52994156. 
  8. ^ “Umayyad conquest of Hispania” (英語). Wikipedia. (2021-04-21). https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Umayyad_conquest_of_Hispania&oldid=1019179760. 
  9. ^ “Wali (administrative title)” (英語). Wikipedia. (2021-03-21). https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Wali_(administrative_title)&oldid=1013423636. 
  10. ^ “الثغر الإسباني” (アラビア語). ويكيبيديا. (2020-12-03). https://ar.wikipedia.org/w/index.php?title=%D8%A7%D9%84%D8%AB%D8%BA%D8%B1_%D8%A7%D9%84%D8%A5%D8%B3%D8%A8%D8%A7%D9%86%D9%8A&oldid=51741111. 
  11. ^ Legal History Review (34): 436–439. (1984). doi:10.5955/jalha.1984.436. ISSN 1883-5562. http://dx.doi.org/10.5955/jalha.1984.436. 
  12. ^ battle of poitiers 732 battle of Moussais, battle of Tours, Charles Martel Eudes of Aquitaine, Abd. er-Rahman, medieval warfare”. czwycxwwzbsbbrp3hh5xi36ugy-ac4c6men2g7xr2a-home-eckerd-edu.translate.goog. 2021年4月24日閲覧。
  13. ^ Google 翻訳”. translate.google.com. 2021年4月24日閲覧。
  14. ^ battle of poitiers 732 battle of Moussais, battle of Tours, Charles Martel Eudes of Aquitaine, Abd. er-Rahman, medieval warfare”. czwycxwwzbsbbrp3hh5xi36ugy-ac4c6men2g7xr2a-home-eckerd-edu.translate.goog. 2021年4月24日閲覧。
  15. ^ battle of poitiers 732 battle of Moussais, battle of Tours, Charles Martel Eudes of Aquitaine, Abd. er-Rahman, medieval warfare”. czwycxwwzbsbbrp3hh5xi36ugy-ac4c6men2g7xr2a-home-eckerd-edu.translate.goog. 2021年4月24日閲覧。
  16. ^ battle of poitiers 732 battle of Moussais, battle of Tours, Charles Martel Eudes of Aquitaine, Abd. er-Rahman, medieval warfare”. czwycxwwzbsbbrp3hh5xi36ugy-ac4c6men2g7xr2a-home-eckerd-edu.translate.goog. 2021年4月24日閲覧。
  17. ^ “Abd al-Rahman ibn Abd Allah al-Ghafiqi” (英語). Wikipedia. (2021-03-03). https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Abd_al-Rahman_ibn_Abd_Allah_al-Ghafiqi&oldid=1010072470. 
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  20. ^ Google 翻訳”. translate.google.com. 2021年4月24日閲覧。
  21. ^ “معركة بلاط الشهداء” (アラビア語). ويكيبيديا. (2021-03-09). https://ar.wikipedia.org/w/index.php?title=%D9%85%D8%B9%D8%B1%D9%83%D8%A9_%D8%A8%D9%84%D8%A7%D8%B7_%D8%A7%D9%84%D8%B4%D9%87%D8%AF%D8%A7%D8%A1&oldid=52994156. 

参考文献[編集]

関連項目[編集]