ピピンの寄進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ピピンの寄進の様子

ピピンの寄進とは、756年にフランク王であるピピン3世がローマ教皇にランゴバルド王国を倒して獲得したラヴェンナ地方を寄進した出来事である。ラヴェンナはウマイヤ朝の北アフリカ領を牽制できる拠点であったが、ピピンは765年にアッバース朝バグダードへ使者を派遣し後ウマイヤ朝を孤立させた。ラヴェンナが一時東ローマ帝国のものであったことから、ピピンの寄進は教皇庁と東ローマ帝国を対立させた。イコノクラスムの最中に行われ、近代まで続く宗教戦争の原因となった。

ラヴェンナ総督領[編集]

751年当時、ランゴバルド王国アイストゥルフ英語版の治世の下、ラヴェンナ総督領英語版を支配していた。ラヴェンナ総督領はビザンツ帝国イタリア統治の中心であり、領内を管轄する総主教ローマ教皇からは独立しビザンツ皇帝の支配下にあった。

総督領にはコルシカ島がふくまれる。紀元前534年にエトルリア人ギリシア人を破り、コルシカを共和政ローマ建国の礎とした。帝政ローマの末期に民族移動時代を先駆け、西ゴート族モエシアから西ゴート王国までやってきた。建国の過程でアラリック1世が402年、西ローマ帝国の宮廷をミラノからラヴェンナへと移転させた。後にラヴェンナは東ゴート王国の首都になった。553年に東ゴートが滅び、領土がラヴェンナごと東ローマ帝国のものとなった。しかし、この地にランゴバルド王国が興ってしまった。

概要[編集]

ピピンはメロビング朝の宮宰時代にカトリック教会と妥協するため教会領没収をめぐる紛争解決に貢献していた。ピピンは王位に就くためローマ教皇の支援を求め、サン=ドニ大修道院長に教皇との面会を求めた。教皇は彼に王権を認める代わりに、ランゴバルド人を打ち破ることを要求した。スポレート公とランゴバルド王はローマの支配権を脅かし、アイストゥルフは有能な外交官でもある教皇ザカリアスに貢物を求めていた。ピピンはザカリアスによってソワソン戴冠を受けてピピン3世となり、ザカリアスの跡を継いだローマ教皇ステファヌス3世はローマ教皇誕生以来初めてアルプスを越え、ピピン3世とケルジー英語版で面会した。

754年7月28日、ステファヌス3世はピピン3世と2人の息子(カールマンシャルルマーニュ)をサン=ドニ大聖堂で聖別した。これはフランス革命が起こりアンシャン・レジームが終わるまではフランス王の戴冠式とされていた。

756年、ピピン3世はその見返りに最後のランゴバルド王を打ち倒し、教皇にラヴェンナ地方を寄進した。ピピン3世は同年にローマでも寄進を行い、彼の子のカール大帝774年に寄進を行った。

東方問題の原点[編集]

教皇への寄進とバグダード遣使は後ウマイヤ朝を孤立させた。この政策は後世のカピチュレーションに等質である。

7世紀末にウマイヤ朝が東ローマ帝国のヘラクレイオス王朝を無政府状態に陥らせた。後継のイサウリア朝がウマイヤ朝を押し返し弱らせた。ウマイヤ朝はトゥール・ポワティエ間の戦いでピピンの父カール・マルテルに敗れ、やがてアッバース朝に交代した。

イサウリア朝の軍費はレバント貿易から捻出されていたが、商圏の文化は当然に政治を動かした。726年レオーン3世聖像禁止令を出したのである。イコノクラスムが117年間も続いた。732年、トゥール・ポワティエ間の戦いが起こった年にローマ教皇と東ローマの対立が深まった。やがて、東ローマのものだったラヴェンナ総督領は寄進されてしまった。

カール大帝の戴冠から2世紀にわたり、ノルマン人が欧州を略奪しながら東方の商圏と交流した。843年ヴェルダン条約が成って、ノルマン人が西フランク王国を集中攻撃できるようになった。この年、コンスタンティノープル公会議で絵画・壁画・ステンドグラス等、平面像に限り崇拝が許された。それから20年ほど、イサウリア朝とアッバース朝は戦争と和議をくり返し、つまりはイコノクラスムをひきずり独自外交を展開した。ローマ帝国の東西分離は1054年に決定的となった。

寄進の前後における大局的な交戦勢力はカトリックと聖像破壊勢力であった。双方から十字軍が派遣され、荒廃したレバントにオスマン帝国が興った。聖像破壊勢力はユグノー戦争カルヴァン派という名前を得た。フォンテーヌブローの勅令により世界へ散ったユグノーは、東方問題をめぐり旧教のドイツ・イタリアと争い続け、第一次世界大戦で勝利する。

外部リンク[編集]