マンフレーディ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
マンフレーディ
Manfredi
シチリア王
Manfred Crowned.jpg
戴冠するマンフレーディ
在位 1258年 - 1266年

出生 1232年
King Manfred of Sicily Arms.svg シチリア王国ヴェノーザ
死去 1266年2月26日
King Manfred of Sicily Arms.svg シチリア王国ベネヴェント
配偶者 ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア
  ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナ
王家 ホーエンシュタウフェン家
王朝 ホーエンシュタウフェン朝
父親 フリードリヒ2世
母親 ビアンカ・ランチア
テンプレートを表示

マンフレーディ(Manfredi, 1232年 - 1266年2月26日)は、ホーエンシュタウフェン朝シチリア王(在位:1258年 - 1266年)。マンフレッドマンフレートとも呼ばれる。ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ)と愛人であるピエモンテ貴族ビアンカ・ランチアの間に生まれた。ハインリヒ7世コンラート4世(コッラード)、サルデーニャ王エンツォアンティオキア公フリードリヒ3世らの異母末弟。

生涯[編集]

1254年に異母兄コッラードが死亡した際、後を継いだ甥のコッラディーノはまだ幼く(2歳)、ドイツに住居していたため、シチリア摂政としてシチリア王領を実質支配した。1258年にコッラディーノが死んだという誤報を受け、シチリア王位を継いだ。間もなく誤報であることが判明したが王位を譲らず、その後北イタリア支配をめぐってローマ教皇と対立した。

1266年、ローマ教皇クレメンス4世の要請でフランスルイ9世の弟シャルル・ダンジューがイタリアに侵攻し、マンフレーディはベネヴェントの戦いで戦死した。シャルル・ダンジューは代わってシチリア王位に就くが、後にシチリアの晩祷が発生、続いてマンフレーディの婿であるアラゴン王ペドロ3世に敗れてシチリア島を失い、ナポリ王国とシチリア王国の分立に至る。

マンフレーディの残された家族である2番目の妻ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナエピロス専制公ミカエル2世息女)とその間に生まれた子供たちは、祖父フリードリヒ2世が築いた城カステル・デル・モンテ世界遺産)に幽閉された最初の囚人となった。

家族[編集]

1247年サヴォイア伯アメデーオ4世の娘ベアトリーチェ・ディ・サヴォイアと結婚し、1女をもうけた。

エピロス専制公ミカエル2世の娘ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナと再婚し、以下の子女をもうけた。

脚注[編集]

  1. ^ a b Karl R. Schnith. Mittelalterliche Herrscher in Lebensbildern. Von den Karolingern zu den Staufern.Styria Premium, 1990. Stammtafel