ベアトリーチェ・ディ・ホーエンシュタウフェン

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ベアトリーチェ・ディ・ホーエンシュタウフェン
Beatrice di Hohenstaufen
Beatrice of Sicily as Antiope.jpg

出生 1260年
Flag of the Kingdom of Sicily (Hohenstaufen).svg シチリア王国パレルモ
死去 1307年
bordr サルッツォ侯国
配偶者 サルッツォ侯マンフレード4世
子女 カテリーナ
フェデリーコ1世
家名 ホーエンシュタウフェン家
父親 シチリア王マンフレーディ
母親 ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナ
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ベアトリーチェ・ディ・ホーエンシュタウフェン(Beatrice di Hohenstaufen、1260年 - 1307年)あるいはベアトリーチェ・ディ・シチリア(Beatrice di Sicilia)は、シチリアの王女。シチリア王マンフレーディと王妃ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナの娘[1]

生涯[編集]

ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナエピロス専制侯国の公女で、マンフレーディの2番目の妃だった。ベアトリーチェは、母ヘレナが18歳のときに生まれた。

1266年、父マンフレーディが戦死すると、母ヘレナはベアトリーチェらを連れて逃走しようとした。しかしベアトリーチェと母ヘレナや兄弟たちは囚われの身となり、敵方のシャルル・ダンジューによってカステル・デル・モンテ城(世界遺産になった)に監禁された[1]。6歳の頃より解放されるまで、ベアトリーチェは牢獄の中で育てられた。

1284年のナポリ湾の海戦の後、ベアトリーチェはルッジェーロ・ディ・ラウリア英語版によって解放された[2]。その後、1286年にサルッツォ侯トンマーゾ1世の世子マンフレード4世と結婚した[3]。1296年、マンフレード4世は父トンマーゾ1世の死によりサルッツォ侯位を継承した。1307年にベアトリーチェが亡くなると、マンフレード4世はイザベラ・ドーリアと再婚した。

子女[編集]

マンフレード4世との間に2子が生まれた。

脚注[編集]

  1. ^ a b Parks 2016, p. 141.
  2. ^ Nicol 1996, p. 22.
  3. ^ Gregorovius 2010, p. 537.

参考文献[編集]

  • Gregorovius, Ferdinand (2010). History of the City of Rome in the Middle Ages. Cambridge University Press 
  • Nicol, Donald M. (1996). The Byzantine Lady: Ten Portraits, 1250-1500. Cambridge University Press 
  • Parks, Annette (2016). “"Thy Father's Valiancy Has Proved No Boon": The Fates of Helena Angelina Doukaina and her children”. Medieval Hostageship C.700-c.1500: Hostage, Captive, Prisoner of War, Guarantee, Peacemaker. Routledge