コンスタンサ・デ・シシリア

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Konstancie Sic.jpg

コンスタンサ・デ・シシリア(Constanza de Sicilia, 1249年 - 1302年4月9日)は、シチリア王マンフレーディとサヴォイア家出身のベアトリーチェの娘として1249年にシチリア島東部の都市カターニアに誕生した。1262年にアラゴンペドロ3世と結婚し、シチリアの晩祷事件以降シチリア王妃となる。イタリア語名はコスタンツァ・デ・シチーリア

経歴[編集]

年代記作家ラモン・ムンタネー(Ramon Muntaner 1265-1336年)によると、1262年7月5日モンペリエにて14歳のコスタンサは、アラゴン王ハイメ1世征服王と妻ビオランテデ・ウングリアの長男ペドロ3世と結婚した。

父マンフレーディは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の嫡出子コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)(1228-1254年)が成人になるまでシチリア王の摂政を命じられたに過ぎなかったが、教皇の反対を抑えて1257年までに王国全土をほぼ支配下に置いていた。バイエルンにいたコンラートが死去したという噂に乗じて1258年パレルモ大聖堂にてシチリア王として戴冠した。)教皇ウルバヌス4世はホーエンシュタウフェン家の支配を封じるため、1263年フラン王聖ルイの弟シャルル・ダンジュー(アンジュー家カルロ1世)をシチリア王とした。

1266年、父マンフレーディが南イタリアのベネヴェント近郊にてシャルル・ダンジューとの戦いに敗れシチリア支配権だけでなく命を奪われると(ベネヴェントの戦い)、ラウリア家、ランツァ家、プロチダ家等のシチリアの有力な家柄がアラゴン王国へと亡命した。

シチリア王位を継承したコンラート4世の息子コッラディーノ(1252-1268年)もシャルル・ダンジューとの戦いに敗れナポリで断首されたことにより、ホーエンシュタウフェン家の唯一の子孫となった1268年にコスタンサはその後シチリア王国奪還を目指して夫ペドロ3世を後押しした。

ペドロ3世はまず1281年、アンジュー家支配に不満を持つ貴族に対しイスラム地域チュニジア攻略のため十字軍への参加を募り、教皇マルティヌス4世から支援を受けることなく、翌1282年6月バルベリアに上陸した。1282年春のシチリアの晩祷事件に乗じて、コスタンサは夫ペドロにシチリア人に介入するよう導いた。ペドロはこれを承諾し、8月にはシチリアの港湾都市トラーパニに600人の兵士、8000人の歩兵隊と共に上陸した。7月25日にメッシーナを包囲していたシャルル・ダンジューは、アラゴン兵上陸後のトラーパニの攻撃を試みるも無益に終わり撤退した。ペドロ3世はそれから間もなくシチリア全島征服を達成し、ペドロ3世とコスタンサ夫妻は1282年8月30日パレルモにてシチリア王として戴冠した。

1283年、教皇マルティヌス4世が夫ペドロを破門し、アラゴン王国の王座を失効したいう通告を受けて、バルセロナへと帰還する際、ペドロは妻コスタンサにシチリア王国の統治を委任した。

夫の死後も(1285年)コスタンサは次男ハイメ2世にアラゴン王国支配を任せ、彼の代わりにシチリア王国の統治を続けた。

長男アルフォンソ3世(1265-1291年)が独身のまま死去した後、アラゴン王位を継いだハイメ2世は1297年にナポリ王カルロ2世と講和条約を結びシチリア王位を弟フェデリーコに就けた。コスタンサはこうしてアラゴン王国へと帰還し、晩年を修道院にて過ごした。

1302年4月9日にバルセロナにて没し、バルセロナのサン・フランチェスコ修道院に埋葬された。

子女[編集]

ペドロ3世との間に4男2女を儲けた。