ウーマニの戦い

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ウーマニの戦い
Eastern Front 1941-06 to 1941-09.png
ウーマニの戦い時の戦線
戦争第二次世界大戦独ソ戦
年月日1941年7月15日 - 8月8日
場所:西ウクライナウーマニ
結果枢軸軍の勝利
交戦勢力
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国
ハンガリーの旗 ハンガリー王国
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
指揮官
ナチス・ドイツの旗 ゲルト・フォン・ルントシュテット ソビエト連邦の旗 セミョーン・ブジョーンヌイ
ソビエト連邦の旗 ミハイル・キルポノス
ソビエト連邦の旗 イワン・チュレネフ
戦力
400,000
戦車 600両
300,000
損害
不明 総計 203,000
捕虜 103,000
負傷・死傷 100,000
戦車 317両
鹵獲 銃858丁
独ソ戦

ウーマニの戦い(-たたかい、: Kesselschlacht bei Uman: Битва под Уманью)とは、バルバロッサ作戦中の1941年8月に、ウクライナの都市ウーマニ近くのブーフ川東岸で行われた、枢軸軍によるソビエト赤軍の包囲戦のこと。

経過[編集]

バルバロッサ作戦でウクライナの攻略を担った南方軍集団の中で、第1装甲集団エヴァルト・フォン・クライスト上級大将指揮)がポーランド領からキエフ軍管区方面へ先行していたが、スターリンがドイツの主攻勢地点をウクライナであると判断していたため兵力が厚く、北部・中央の戦線のように国境でソ連軍主力を殲滅するに至らなかった。 ドイツ軍は第1装甲集団に第6軍ヴァルター・フォン・ライヒェナウ元帥指揮)・第17軍カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル大将指揮)を加えて攻勢をかけたが、西部国境の軍管区(沿バルト特別・レニングラード・西部特別・キエフ・オデッサ)の中で、KV-1重戦車・KV-2重戦車・T-34中戦車の過半がキエフ軍管区に置かれており、6月24日ソ連南西戦線(ミハイル・キルポノス大将指揮)が、これらの強力な機械化兵力を繰り出してくると、非力なドイツ戦車部隊(5個装甲師団定数624両中、IV号戦車80両・III号戦車284両)では力攻めで突破することはできなかった。

中央軍集団とは通行不能のプリピャチ湿地で隔てられており、7月2日ルーマニアで待機していた、ドイツ第11軍オイゲン・フォン・ショーベルト上級大将指揮)をキエフ方面へ、ルーマニア軍をオデッサ方面へ発進させた(オデッサの戦い (1941年)参照)。

南部ウクライナでは善戦していたものの北部バルト三国・中部白ロシアの戦線で敗北を重ねていたソ連軍は、スターリン線に後退することに決めた。この後退に乗じて第1装甲集団はスターリン線を突破し、7月9日までにジトームィルベルドィチウを落とし、装甲師団はキエフの目前に迫った。

ここで、装甲師団が市街戦に突入し被害が出るのを恐れたアドルフ・ヒトラーが作戦に介入してきた。「装甲師団は南下して、第11軍とともに包囲陣を形成せよ」という命令である。 7月10日、ソ連側でもスターリンが統一した指揮を執るため統帥権を掌握し、ドイツ側の軍集団に対応して北西・西・南西総軍を設置した。南西総軍司令官にはセミョーン・ブジョーンヌイ元帥・軍事会議員にはニキータ・フルシチョフを起用、同時にキエフに迫るドイツ軍に反撃を開始した。

第1装甲集団だけでは戦局を打開できない事を見た南方方面軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥は、第6軍にプリピャチ湿地帯南面を守るソ連第5軍を押さえさせ、第17軍を第11軍の補強に回し南方から大きい包囲陣の完成を目指したが、失敗に終わった。最終的には、第11軍が7月末ブーフ川に達し、第17軍と装甲師団はウーマニに向かい、8月2日ウーマニ=ブーフ川間に小規模な包囲網が完成した。ソ連第6軍(イワン・ムズィチェンコ中将指揮)・第12軍(パーヴェル・ポネジェーリン少将指揮)・第18軍(アンドレイ・スミルノフ中将指揮)を包囲し、10万人余りを捕虜にした。

この後8月末に南方軍集団はドニエプル川に達した。ドイツの攻勢の主軸を南方の資源地帯にあると考えた部隊配置により、比較的強力なソ連軍の南方の部隊に対し、1個装甲軍集団の片翼包囲では限界があったといえる。ただし、キエフを迂回したのは正確な判断で、キエフ正面には強力なソ連軍が待ち構えており、抜くのは不可能であった。キエフの陥落は中央軍集団からのグデーリアンの南方旋回によるキエフの戦いまで待たなければならない。ここでは第1装甲軍集団と第2装甲軍集団の両翼包囲作戦により、ソ連軍の作戦的な齟齬も手伝い、ソ連のこの方面の野戦軍を壊滅させることに成功した。この南方旋回により2ヶ月間を無駄にした代償は、モスクワの戦いの開始の遅れとして響いたとされているが、実際には後方からの徒歩部隊の進撃と補給網の追走が間に合っておらず、野戦軍の撃滅を狙い続けたドイツ軍の方針を正しいとする考え方が主流となっている。