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ヴィルヘルム・ピーク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィルヘルム・ピーク
Wilhelm Pieck

1946年頃

任期 1949年10月11日 1960年9月7日
党第一書記 ヴァルター・ウルブリヒト
首相 オットー・グローテヴォール

任期 1946年4月22日 1950年7月25日
共同議長 オットー・グローテヴォール

任期 1933年3月3日 1946年4月22日

任期 1928年 1933年
国会議長 パウル・レーベ
ヘルマン・ゲーリング

任期 1921年 1928年
州議会議長 ロベルト・リーネルト
フリードリヒ・バルテルス

出生 (1876-01-03) 1876年1月3日
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセン王国の旗 プロイセン王国
ブランデンブルク州英語版
グーベン英語版
(現ポーランド領)
死去 (1960-09-07) 1960年9月7日(84歳没)
 ドイツ民主共和国
東ベルリン
政党 ドイツ社会民主党
ドイツ独立社会民主党
ドイツ共産党
ドイツ社会主義統一党
受賞 カール・マルクス勲章
祖国功労勲章など
配偶者 クリスチーネ・ヘフカー(1876-1936)
署名
ヴィルヘルム・ピーク
Wilhelm Pieck
1917年7月
所属組織 ドイツ帝国陸軍
軍歴 1915年1918年
除隊後 共産主義者、政治家
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フリードリヒ・ヴィルヘルム・ラインホルト・ピークドイツ語: Friedrich Wilhelm Reinhold Pieck, 1876年1月3日 - 1960年9月7日)は、ドイツ共産主義政治家東ドイツの初代大統領

彼以後は国家評議会議長元首となり、大統領職は廃止されたため、同国唯一の大統領となった。

概要

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ピークは1890年代からブレーメンドイツ社会民主党 (SPD)の党員として活動し、1917年ドイツ独立社会民主党(USPD)に移籍、1919年にはドイツ共産党(KPD)の共同創設者となり、党幹部となった。1931年から1943年まで、コミンテルン執行委員会(ECCI)の議長団の一員であった。1933年からパリに滞在し、1935年から1945年までは主にモスクワに滞在した。彼が中心的な役割を果たしたSPDとKPDのドイツ社会主義統一党(SED)への強制統合により、1946年に元SPDのオットー・グローテヴォールと並んでSEDの共同議長となり、1949年ドイツ民主共和国建国後、初代にして最後の共和国大統領の地位にあった。

息子のアルトゥール・ピークドイツ語版ソ連赤軍従軍の後、インターフルークの代表を務めた。

経歴

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生い立ち

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1876年、ドイツ東部ナイセ川沿いの街グーベン(Guben)[注釈 1]において、御者の家に父フリードリヒと母アウグステの息子として生まれた。ピークが2歳の時に母アウグステが死去し、以後は父フリードリヒと再婚したヴィルヘルミーネの下で育った。ピークは小学校を卒業後、1890年に大工見習いとなり、1894年に見習いを終えた頃、彼は初めて労働者運動と接触した。ピークは一般のブルジョア家庭に生まれ[1]、熱心なキリスト教徒の両親のもとで育ったたのが[2]、この出会いが彼の人生に大きな影響を与えることになった。1896年からブレーメンに住み、1906年まで大工として働いた。1898年に裁縫師クリスティン・ヘフカーと結婚し、3人の子どもを儲けた。

SPDでの政治活動

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SPDブレーメン市党第一書記時代のピーク(1906年)

1894年、ピークは自由労働組合であるドイツ木材労働者組合ドイツ語版に参加し、翌年マールブルクにてドイツ社会民主党(SPD)に入党した。ブレーメン移住後の1897年には党会計担当委員、1899年には党都市部委員長、1900年には木材労働者組合のブレーメン支部長に就任した。1904年には同市で開催されたSPD党大会に参加し、同年ブレーメン労働組合カルテルの代表として派遣された。ブレーメン市民新聞の編集長ハインリヒ・シュルツの影響を受け、ピークは次第に党内左派としての立場を強めていった。1905年からはブレーメンSPDの報道委員会委員長を務め、ブレーメン市議会ドイツ語版議員にも選出され、1910年まで議員を務めた。1906年にはSPDブレーメン市党第一書記を務め、翌年から1908年にかけては、ベルリンのSPD党中央学校で学び、そこで党内左派のローザ・ルクセンブルクフランツ・メーリングと知り合い、この頃からSPD国際主義派に加わるようになった。1910年には、シュルツが率いるSPD中央教育委員会の第二書記、およびベルリン党中央学校の書記長に就任した。

戦前、ピークはメーリング、ルクセンブルク、シュルツなどの党内左派の活動家だけでなく、SPD右派に属し、後にヴァイマル共和国初代大統領を務めるフリードリヒ・エーベルトとも緊密な関係を築いている。

第一次世界大戦

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1914年、ピークはベルリンのシュテーグリッツの3部屋のアパートに引っ越し、書籍がたくさん並んだ自身の書斎を持っていた。

第一次世界大戦勃発後、ピークは党内左派の一員であったため、平和主義に賛同して戦争に反対の立場をとった。ピークはルクセンブルク、メーリング、ヘルマン・ダンカードイツ語版カール・リープクネヒトと共に、戦争に積極的なエーベルトら率いる党内右派と袂を分かち、党内反対勢力を結集し、国際主義派を結成した。ピークらは戦争支持に断固として反対し、1915年5月には大規模な反戦女性デモを組織した疑いで逮捕され、10月まで軍によって勾留された。

1916年1月、ピークはルクセンブルク、メーリングと共に、スパルタクスグループを形成した。同年にブレーメンの党書記としてアントン・パンネクークに党学校で社会主義理論の教鞭を依頼した[3]

軍による保護拘禁の中でピークは、ドイツ帝国陸軍徴兵に応じ、最初の数週間はエルザス=ロートリンゲン地方エッティンゲン[注釈 2]で電話交換手としての訓練を受けていたため、最前線での任務を免れることができたが、6か月間の軍事訓練を受けた後、1916年3月からは歩兵隊員として西部戦線に従軍し、ヴェルダンソンムの戦いなどに参加した。同年8月に休暇で故郷に戻った後、9月リール近郊の野戦病院にて静脈瘤の手術を受け、回復後にドイツに送り返された。

同年12月、ピークはSPDの全役職を解任され、翌年4月にはスパルタクスグループを率いて、ゴータで開催されたドイツ独立社会民主党(USPD)の創立党大会に参加した。

1917年6月、手術から復帰した後、彼は上官の命令に対して、戦争は犯罪であるとして前線への復帰を拒否した。ピークの反戦的な態度から憲兵に逮捕され営倉に入れらたが、1917年10月17日ブレスラウで行われた上訴審で無罪となり、再び前線に派遣された。脱走後ピークはしばらくベルリンの地下組織に潜伏し、1918年1月の軍需工場労働者のストライキの準備に協力した。のち12月に徴兵通知を受けたばかりの18歳の息子アルトゥールと共にアムステルダムに逃れた。

ヴァイマル共和国時代・KPDでの政治活動

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ミース・ファン・デル・ローエ作の共産党殉難者碑を除幕し挨拶するピーク(左端)(1926年6月、ベルリン)

1918年、ベルリンに戻ると革命的オプロイテのメンバーとしてドイツ革命に参加した[4]。ピークはルクセンブルクやリープクネヒトらと共に、同年11月11日スパルタクス団を結成し、中心メンバーの一人として、ヤコブ・ヴァルヒャードイツ語版とともにベルリンで宣伝活動を担当した。12月30日から翌年1月1日まで、ベルリン州議会議事堂で、ドイツ共産党(KPD)の結党に参加し、政治局員となった。1月5日スパルタクス団蜂起では虐殺されたルクセンブルクやリープクネヒトらと共に政府側の義勇軍に捕えられたが、息子のアルトゥールやロッテ・プレフカらの助けで脱出することができた。なお、ピークの脱出には疑惑があり、彼がルクセンブルクとリープクネヒトを義勇軍に密告したから脱出できたとの疑惑が蔓延っていたため、1929年にKPD党首エルンスト・テールマンは、ピークを党名誉裁判にかけた。ハンス・キッペンベルガードイツ語版が裁判長を務めたが、彼は1937年モスクワヨシフ・スターリンによる大粛清の被害に遭い、処刑された。1950年代の終わりに、リープクネヒトとルクセンブルクを処刑する命令を下した義勇軍将校ヴォルデマール・パブストドイツ語版は、ピークがKPD指導者の放棄計画や隠れ家について、詳細な情報を提供から解放したと主張した[5][6]

1920年4月、ピークは共産党第4回党大会に参加した。中央委員会附属の軍事委員会にも所属し、同年12月にベルリンで開催されたUSPD左派とKPDの合併大会において、党中央委員会書記に選出された。しかし、ピークの書記選出にクララ・ツェトキンは反対し、ピークやニコライ・ブハーリンに宛てた手紙の中で、KPDのスターリン化や党内民主制の侵害を批判し続けた[7]

ピークはKPD中央委員会の代表としてエッセンに滞在し、ルール赤軍の指導部を設立し、ビーレフェルト協定後の党の利益のために、ルール蜂起の経過を政治的、軍事的に指示することになった。しかし、エッセン中央協議会をルール赤軍の執行協議会や戦闘指導部のような統制機関として機能させることには失敗した[8] 。 回顧すると、労働者委員会やストライキ委員会との交渉における彼の役割は異なって評価されており、一部では、ビーレフェルト協定が破られた後に、国軍と右翼のドイツ義勇軍ルール地方に進駐し労働者を弾圧し、残忍な報復を行ったことの、一部責任がピークにあるとも言われている。後にドイツ民主共和国の歴史家は、ピークの「現実的な志向」[9]であると賞賛した。ピークは1921年にはKPDによりコミンテルンの代表委員に選ばれ、レーニンに接する機会を得た。1924年のレーニンの追悼式典ではヨシフ・スターリンと出会った。

同時期にプロイセン自由州議会議員に就任し、1928年には国会議員に当選している。1926年からはKPDの勢力の最も強いベルリン・ブランデンブルク地区を率いたが、1929年に辞任し、ヴァルター・ウルブリヒトに後任を譲った。

国際的な共産主義活動が認められ、1931年にはコミンテルン代表委員長に選出された。翌1932年1月には再びプロイセン自由州議会議員に選出されている。同年4月24日にはモスクワの国際レーニン学校の学長に就任し、5月にベルリンに戻り、6月にはKPD中央委員会書記局員候補に選手された。

1930年8月5日の演説で、ピークは「労働者男女」に向けて彼のマルクス・レーニン主義的な世界観を概説している。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の勃興に憂慮を示し、ピークは彼の考える共産主義の体制とナチスの理想とする体制との違いを情熱的に解説している。彼は「共産主義者だけが労働者を救う」と論じ、これに反してナチスは労働者の味方になるどころか「党の指導のもとに大衆の過激化が進む」と述べている。ピークは「労働者たちが団結すれば強力だ」と信じ、ドイツ人は「戦争とファシズム帝国主義的脅威に対する闘争を続け、社会主義の『ソビエト・ドイツ』実現のための闘争を続けなければならない」と主張した。

ソ連での活動

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ピークはアドルフ・ヒトラーの政権獲得への反対と、ヨシフ・スターリンとの連携を行った。1933年のナチスの政権獲得と権力集中、共産党の非合法化により、ピークは1934年5月にフランスに亡命し、1935年ブリュッセルで開かれた党会議では獄中にあるエルンスト・テールマン議長に代わる議長代行に選出されモスクワに移った。モスクワでは彼はソ連共産党に様々な形で協力した。スターリンによる大粛清の時はソ連に亡命したドイツの共産主義者も多くが犠牲となったが、ピークはヴァルター・ウルブリヒトらのスターリンに忠実なグループに属してこれを免れた。1938年から1943年まではコミンテルンの総書記(General Secretary)となった。またピークは、ドイツの意図と将来の戦争への道に関してスターリンに助言する重要な役割を果たした。

1941年、ピークはウルブリヒトとともにスターリンと会い、ヒトラーについて徹底的に分析して警告を発し、赤軍を西へ進軍させるスターリンの希望について議論している。会合の指揮やその記録など、ピークの果たした役割はその50年後に記録が公開されるまで不明であった。1943年、ピークはナチスに抵抗するソ連主導のドイツ人抵抗組織、自由ドイツ国民委員会Nationalkomitee Freies Deutschland、NKFD)の創設者のひとりとなった。NKFDは第二次世界大戦後のドイツの社会主義化という将来も視野に入れていた。1945年の終戦後、ピークは赤軍とともにドイツに入りドイツ共産党を再建し、ソ連をモデルにしたプロレタリアート独裁や共産主義体制を導入するため、ソ連占領地域の社会民主党と共産党を半強制的に併合させて元SPDのオットー・グローテヴォールと共にドイツ社会主義統一党 (SED) を誕生させ共同議長になった。

東ドイツ大統領

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ピーク(左)とオットー・グローテヴォール

1949年、ソ連占領地域はドイツ民主共和国(東ドイツ)として独立し、ピークは初代大統領Präsident der Republik)となった。1950年ヴァルター・ウルブリヒトが党の第一書記に就任すると、彼はSEDの議長の座を失った[10]。それでもヨシフ・スターリンの信頼により、他のポストは維持された。[11]ピークは新たにドイツ社会主義統一党の指導者となったヴァルター・ウルブリヒトと違い、彼は国民の間からの人気もあった。ただしその在任の後期には健康状態の悪化から公式の場に現れることはほとんどなかった。

ピークは1960年心臓麻痺による死去まで東ドイツの初代にして唯一の大統領を務めた。スターリニズムを世界へ、とりわけ東西の境界に位置するドイツへ広げるピークの能力をスターリンは信頼していた。彼のイデオロギーはスターリンからの全面的な信頼を得るのに役立ち、その結果東ドイツの指導者として最後まで務め上げることができた。ピークが大統領になった時はすでに73歳であった。彼は名目上、ドイツ民主共和国においてグローテヴォール首相に次ぐ国家最高ポストを持ち、党設立後の4年間はSED共同議長を務めたが、党内で大きな影響を持つことはなかった。1953年7月13日、2度目の脳梗塞を患う。また、肝硬変が進行し、腹水が溜まっている状態であった。2度目の脳梗塞の前に作成された詳細な診断書には、「右の軽い麻痺、口角が少し下がり、呼吸は喘ぎかいびき、脈拍は遅くなり、四肢筋の調子は低下・・・」と記されている[12]。1960年9月7日心臓発作で亡くなった。

ベルリンにあるピークの墓

旧東ドイツ時代には彼の出身地グーベンが公式には「ヴィルヘルム・ピーク都市グーベン」と呼ばれたほか、ロストック大学も彼の名が冠されヴィルヘルム・ピーク大学と改名され、また各都市で大通りや広場に彼の名が付けられた。そのほとんどは1990年の東西ドイツ再統一の際に東ドイツ以前の旧名に戻されるか改名されたが、少数ながら現在も残っている所もある。

ギャラリー

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ドイツ民主共和国のドイツ郵政公社は、ピークの肖像画が描かれた切手や記念シートに使用した。またドイツ民主共和国記念硬貨の20マルクコインにもピークの横顔の肖像が描かれていた。

北朝鮮咸興市のメインストリートは、朝鮮戦争後、ドイツ民主共和国の復興支援を受けて「ヴィルヘルム・ピーク大通り」と呼ばれていたが、その後、「忠誠の通り」と改名された。南極大陸のピーク海嶺には、彼の名前が刻まれている。またピークは、ベルリンホイエルスヴェルダプラウエンの名誉市民(それぞれ1946年に任命)をはじめ、さまざまな分野で名を馳せた。

著書

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  • ドイツ共産党の歴史』大木理人(訳)、青木書店〈青木文庫〉、1954年10月15日。
  • 統一戦線への歴史的転換阪東宏(訳)、大月書店〈国民文庫〉、1976年4月26日。ISBN 9784272844401
    • コミンテルン第7回大会での報告

脚注

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注釈

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  1. 現在グーベンは、ナイセ川を境にドイツ側のグーベン市とポーランド側のグービン英語版市に分かれているが、彼は川の東側の現ポーランド領出身
  2. 現在のフランス極東オタンジュ

出典

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  1. Sven Felix Kellerhoff: Wie Ulbricht Wilhelm Pieck ins Schloss abschob. In: Die Welt. 7. September 2010, abgerufen am 21. Juni 2020.
  2. Pieck, Friedrich Wilhelm Reinhold. In: Werner Röder, Herbert A. Strauss (Hrsg.): Biographisches Handbuch der deutschsprachigen Emigration nach 1933. Band 1: Politik, Wirtschaft, Öffentliches Leben. Saur, München u. a. 1980, ISBN 3-598-10087-6, S. 558 f.
  3. Bourrinet, Philippe. The Dutch and German Communist Left (1900–68). p. 55.
  4. Andreas Michaelis (DHM, Berlin): Wilhelm Pieck 1876–1960. 14. September 2014, abgerufen am 13. Juli 2020 (tabellarischer Lebenslauf).
  5. Günther Nollau: Die Internationale. Wurzeln und Erscheinungsformen des proletarischen Internationalismus. Verlag für Politik und Wirtschaft, Köln 1959, S. 381 f. (Anhang III. Die Rolle Wilhelm Piecks bei der Festnahme von Rosa Luxemburg und Karl Liebknecht).
  6. „Ich ließ Rosa Luxemburg richten.“ In: Der Spiegel, Nr. 16/1962, S. 38–44 (Interview mit Pabst).
  7. Jens Becker: Zetkin, Clara, geb. Eißner. In: Manfred Asendorf, Rolf von Bockel (Hrsg.): Demokratische Wege. Ein biographisches Lexikon. J. B. Metzler, Stuttgart 2006 (Erstausgabe 1997), ISBN 978-3-476-02135-9, S. 706–708 (hier: S. 707).
  8. Dieter Dreetz, Klaus Geßner, Heinz Sperling: Bewaffnete Kämpfe in Deutschland 1918–1923 (= Schriften des Militärgeschichtlichen Instituts der DDR, Kleine Militärgeschichte). Militärverlag der Deutschen Demokratischen Republik, Berlin (Ost) 1988, ISBN 3-327-00511-7, S. 191.
  9. Dieter Dreetz, Klaus Geßner, Heinz Sperling: Bewaffnete Kämpfe in Deutschland 1918–1923. Berlin 1988, S. 201f.
  10. David Priestand, Red Flag: A History of Communism," New York: Grove Press, 2009
  11. Eric D. Weitz, Creating German Communism, 1890–1990: From Popular Protests to Socialist State. Princeton, NJ: Princeton University Press, 1997
  12. Der Spiegel, 22 July 1953

関連項目

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外部リンク

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公職
先代
カール・デーニッツ
ナチス・ドイツの旗ドイツ国大統領
東ドイツの旗 ドイツ民主共和国大統領
初代:1949 - 1960
次代
ヴァルター・ウルブリヒト
ドイツ民主共和国国家評議会議長
党職
先代
エルンスト・テールマン
ドイツ共産党議長
1933 - 1946
次代
ドイツ社会主義統一党の結成
先代
(創設)
ドイツ社会主義統一党議長
オットー・グローテヴォールと共同
初代:1946 - 1950
次代
ヴァルター・ウルブリヒト
(ドイツ社会主義統一党書記長)