ミハイル・カラシニコフ

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ミハイル・チモフェエヴィチ・カラシニコフ
Michael Kalashikov.jpg
2009年12月、モスクワクレムリンにて
外国語 Михаи́л Тимофе́евич Кала́шников
生誕 1919年11月10日
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 アルタイ地方クーリャ村ロシア語版
死没 2013年12月23日(満94歳没)
ロシアの旗 ロシアイジェフスク
所属組織 トゥーラ造兵廠
最終階級 技術中将
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ミハイル・チモフェエヴィチ・カラシニコフロシア語: Михаи́л Тимофе́евич Кала́шников ミハイール・ティマフィェーヴィチ・カラーシュニカフ1919年11月10日 - 2013年12月23日[1][2])は、ロシアの軍人、銃器設計者、政治家。史上もっとも大量に製造され拡散しているアサルトライフルである「AK-47」(: Автомат Калашникова образца 1947 года、1947年式カラシニコフ突撃銃)の設計者であり、第二次世界大戦後の旧ソ連を代表する銃器デザイナーである。

経歴[編集]

カラシニコフの一族は元々クバン地方に暮らすコサックで、かつては「カラシニク(Калашник)」という姓だった。ロシア風のカラシニコフという姓は、19世紀半ばに一族が農民になった頃に改めたものである。1910年、皇帝ニコライ二世がアルタイ地方への入植と引き換えに農地の譲渡を行うという政策を発表し、カラシニコフ家もこれに従い同地方クーリャ村に入植した。1919年、ミハイル・カラシニコフは18人兄弟の8人目として生を受ける。ただし、18人のうち生き残ることができたのは8人のみであり、カラシニコフが実際に何番目に生まれたのかは定かではない。一家は小さな丸太小屋に暮らし、カラシニコフは他の兄弟と共に農作業を手伝いつつ過ごした。幼少期は病弱な子供だったが外で遊ぶことを好み、また当時から何かを作ることに興味を持っていたという。

第一次五カ年計画が推し進められる中、やがてクーリャ村でも富農撲滅運動に関連した会議が盛んに開かれるようになり、1930年にはカラシニコフ家も富農に認定された。一家は財産のほとんどを没収された上に市民権を剥奪され、トムスク州のニージュニャヤ・マホヴァーヤ(Nizhnyaya Mokhovaya)という追放農民の集落に追放された。この時の貧しい暮らしの中で父が死去している。1934年、カラシニコフは集落を脱走して故郷クーリャ村へと向かった。しばらくは追放前に結婚して故郷近くの村に残っていた姉や兄たちの元で暮らしていたが、まもなく自らの居場所がないと感じた為にニージュニャヤ・マホヴァーヤに戻った。

1936年、コルホーズの会計係と共謀して再度脱走を遂げる。この際、パスポートの取得に必要な書類を偽造する為、検印と国の印章を偽造した。カラシニコフはのちに偽装印章について、「これこそ私の最初の発明品である」と語っている。また、再びクーリャ村に向かう途中、会計係の故郷であらかじめ隠してあった拳銃1丁を回収している。この為にカラシニコフらは地元警察に数日間拘束された。彼はこの拳銃の分解・組立・整備に熱中していたが、村を離れる際にばらばらにしてあちこちに捨てたという。カラシニコフはこの出来事こそが銃器への興味を抱くきっかけだったと回想している。その後は会計係の兄が鉄道員として働いていたカザフスタンに移り、寝台列車に寝泊まりしつつ、鉄道技師や鉄道機関区の政治局技術秘書として働いていた。

大祖国戦争[編集]

1938年、西ウクライナにて兵役を果たすべく赤軍に入隊する。カラシニコフは入隊式で担当者に機械工作への情熱やその分野での能力をアピールし、戦車操縦士兼整備士としての訓練を受けることとなった。この頃にも戦車兵向けに支給されていたTT-33拳銃を銃眼から射撃しやすくする為の装置を開発している。1940年5月からキエフ軍管区司令官に就任したゲオルギー・ジューコフ将軍は、兵士の創意工夫を奨励する方針を採っており、週ごとに様々な技術的課題が発表されていた。カラシニコフはこの技術的課題の解決に熱心に取り組み、多数の装置を開発した。戦車のエンジン作動状況を計測する装置を開発した際にはジューコフ自身から直々に賞賛を受け、記念品の腕時計を送られたという。やがてこの装置の量産が決定し、1941年春にはレニングラードの工場へと派遣された。しかし、6月22日にはナチス・ドイツによる侵攻を受け、独ソ戦大祖国戦争)が勃発する。結局、カラシニコフは装置の量産プロジェクトにほとんど着手することなく連隊へ送り返されることとなった。

当時の赤軍では装備や人員の不足が深刻だったこともあり、カラシニコフは戦闘が始まってすぐに戦車長に任命されている。ある日、カラシニコフがハッチから身を乗り出して周囲の様子を伺っていた時、至近距離に砲弾が着弾した。全身に砲弾片を受けたカラシニコフは意識を失い、負傷者として収容された。その後、他の負傷者らと共に後送されることとなり、ドイツ軍からの襲撃を受けつつもトルブチェフスクまで撤退することに成功した。

病院で療養中、カラシニコフは前線での経験や負傷兵らとの会話を通じて、近代的な自動火器の不足こそが敗北の原因と考えるようになり、短機関銃への関心を強めていった。かつてソ連では国防人民委員代理兼砲兵総監グリゴリー・クリーク元帥のように短機関銃を軽視する高官も多く、ウラジーミル・フョードロフ (火器設計者)英語版ヴァシーリー・デグチャレフゲオルギー・シュパーギンといった自動火器の価値を高く評価する銃器開発者らは政府当局と対立する立場にあった。1939年の冬戦争を経て短機関銃の評価は改められたものの、独ソ戦が幕を開けた1941年の時点では未だ十分に普及していなかったのである。カラシニコフはかつて自らも使用したデグチャレフの短機関銃より優れた銃器を設計しようと考え、病院の図書室で銃器関連の蔵書を読み漁り、様々な兵科の負傷兵が交わす自動火器についての議論に耳を傾けた。

その後もカラシニコフは研究を続けたが、やがて療養休暇を命じられ、戦前働いていた鉄道機関区に向かった。ここで彼は機関区長を説得し、機関区内の作業所や設備を利用する許可を得た。必要なだけの工員を集めたカラシニコフは、現地の軍当局の協力も受けつつ短機関銃の設計を続けた。カラシニコフが手がけた試作銃を検討した地方軍事委員会は、研究施設が疎開していたアルマアタに彼を送ることとした。ここで試作銃に改良が加えられた後、カラシニコフは砲兵士官学校が疎開していたサマルカンドに移動した。ここではアナトリ・ブラゴヌラーヴォフロシア語版と出会っている。ブラゴヌラーヴォフはカラシニコフの試作銃について未だ未完成であるとしつつ、カラシニコフ自身の能力は高く評価していた。その後、モスクワの砲兵総局を経てセルゲイ・シモノフ英語版と共にショーロヴォ武器試験場に向かった。カラシニコフはここで短機関銃の設計を完成させた(カラシニコフ短機関銃ロシア語版)。結局採用には至らなかったものの、カラシニコフは軍曹という低い階級に留まりつつも銃器設計者としての身分を認められ、それに対する俸給も受け取るようになっていた。次いで手がけた軽機関銃もシモノフやデグチャレフの設計とのコンペを経て不採用に終わったが、この時の失敗から銃の信頼性や部品の単純さを重視する必要性を感じ始めたという。その後、ショーロヴォ武器試験場にて自動式カービンの設計に参加した。この頃、短機関銃の設計者として著名なアレクセイ・スダエフと出会っている。

新型突撃銃 AK-47[編集]

AK-47突撃銃

カラシニコフが次に参加したのは、新型突撃銃の設計であった。1945年に始まったコンペに際し、カラシニコフは自動式カービンの設計を元に設計を行った。この時、後に妻となる女性技師エカテリーナ・ヴィクトロヴナ・モイセーエワ(Ekaterina Viktorovna Moiseyeva)と知り合っている。カラシニコフの草案から新型突撃銃の設計図面を引いたのは彼女だった。

ドイツ軍の自動小銃に影響を受け(ただし実際の発射機構はアメリカのM1ガーランドに範をとって)、1946年に後にAK-47として知られることになる全自動発射可能な自動小銃を設計した。その年に行われた試験で他の小銃と比較した結果、信頼性と火力の高さを評価され、既に1946年に半自動式のSKS(シモノフ・カービン)が制式採用されていたにもかかわらず、新たにAK-47の生産が決定される。1949年からソビエト連邦軍内で配布が始まり、1950年代中期以降は広く普及した。のち改良型・派生型の「AKM」や「AK-74」も出現している。

AKはシンプルな設計で量産にも向いており、「どんなに乱暴に扱われても壊れない」「グリスが切れようが水に浸かろうがまだ撃てる」と言われるほどの、並外れた耐久性を備えていた。このため旧共産圏をはじめ、発展途上国等でライセンス生産品やその改良型、コピー商品が続出した。半世紀を経た後も世界中で広く用いられている。

彼の設計した小火器は、一般にソ連の兵器らしく簡潔な設計で、並外れて耐久性に優れ、過酷な環境でも確実に作動して、多くの軍人からの信頼をかち得た。

これらの功績により、2度も社会主義労働英雄称号を与えられ、ソ連共産党にも入党する[3]ソビエト社会主義共和国連邦解体後の1998年には、聖アンドレイの守護勲章 (орден Святого Андрея Первозванного) を受けた。引退時の最終的な階級は技術中将であり、この階級は彼の功績から特例として終身有効であった(「退役中将」ではない)。技術工学の博士号を持つ。また、故郷のアルタイ地方には銅像も建てられている。

AKが犯罪、テロ、紛争で用いられることが多い事実について、カラシニコフは「祖国を守るために銃を作っただけだ。AK-47のせいで人々が死んでいる原因は政治家にある[4]」とコメントしている。実際に、日本の雑誌社ホビージャパンが自社で刊行していた、少女が軍人に扮している日本の漫画魔法の海兵隊員ぴくせる☆まりたん』のために、サインを貰いに行った際には「子供を持たせちゃいかんよ!」と編集者を叱り付けていた[5]

また、中華人民共和国によるAK-47のコピー商品生産にも「中国はライセンス切れにもかかわらず、ロシア政府や関係者にことわりなくAKの生産を続けている。彼らは、買い手さえあればどこにでも売る。それがAKの評価を落とすことになる。開発者としてはきわめて不愉快なことだ[6]。」と嫌悪感を隠していない。

彼の息子であるヴィクトル・カラシニコフも、後に武器の設計を手がけて試作銃を設計し、コンペに試作銃を出品するが、後に正式採用されるAN-94ニコノフ銃に敗退している。

2009年11月10日、カラシニコフは90歳の誕生日を迎え、モスクワクレムリンメドベージェフ大統領からロシア連邦では最高位の勲章「ロシア連邦英雄」を授与された。ちなみに式典の際、「私は母国の領土を守るための武器をつくった。時に不適切な場所で使われたこともあるが、それは私の責任ではない。政治家の責任だ」と事実上の批判をしている[7]

2012年、カラシニコフはイジェフスクにある3LDKのアパートで、孫と二人で暮らしていた。兵器会社であるIzhmash社の月給は400ドル。国家功労賞の報賞金や年金を含めても月800ドル程度である。会社の民営化後、AKの生産に対して0.5%のライセンス料が支払われるようになった。ソ連解体後は、民生用スポーツライフルの開発をしていたが、AK-74の改良モデルである「AK-200」など、軍用ライフルの設計にも参加している[8]

長期間発射テストを行ってきため、聴力に障害が出ていたという[9]

2013年4月、ロシア正教会のトップであるキリル総主教に対し書簡を送り、自ら開発したAK-47により多数の人命が奪われたことに対する心の痛みを告白。敵であったとしても人々の死に罪があるのか等の問いかけを行った。これに対して総主教は、「カラシニコフ氏は愛国主義の模範」とする返信を送っている[10]

ウォッカと時計[編集]

2004年にカラシニコフは、「カラシニコフ」ブランドウォッカを売り出した。テレビインタビューで、なぜウォッカにと同じ名前をつけたかと聞かれ、「私はいつも著名な自分の銃の名前を良いことをすることで広め、向上させたいと思っている」と答えている。

2005年には時計ブランドとして「カラシニコフ・ウォッチ」を立ち上げる。ブランドキーワードは『自由 (LIBERTAD)』、『正義 (JUSTICE)』、『団結 (SOLIDARIDAD)』、『独立 (INDEPENDENCE)』そして『平和 (PEACE)』。デザインコンセプトとして、旧ソ連の象徴である赤い星を使用しており、全てのケースバックにはロシア語で「テロリズムのない自由な人生を」というメッセージが刻印されている。

死去[編集]

カラシニコフの葬列(2013年12月26日、イジェフスク市内)

胃の出血のため2013年11月17日からイジェフスク市内の病院に入院し、同年12月23日に死去[2]。満94歳没。

出典[編集]

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  1. ^ カラシニコフ氏が死去 自動小銃「AK47」を開発 - 朝日新聞DIGITAL、2013年12月24日
  2. ^ a b M・カラシニコフ氏死去 自動小銃AK47生みの親 - スポニチアネックス、2013年12月24日
  3. ^ Дело по приему в члены КПСС Калашникова Михаила Тимофеевича
  4. ^ 「世紀の銃」発明・カラシニコフ氏 「控えめな人だった」”. MSN産経ニュース (2013年12月24日). 2014年8月2日閲覧。
  5. ^ まりたん日記2006/8/17
  6. ^ 朝日文庫 松本仁一著:カラシニコフII (ISBN 9784022615756) 140ページ
  7. ^ AK47の設計者、カラシニコフ氏死去AFPBB2・2013年12月24日、2013年12月24日観覧。
  8. ^ Russia to test new model of Kalashnikov assault rifle in 2011
  9. ^ ギデオン・バロウズ著、大量破壊兵器、カラシニコフを世界からなくす方法
  10. ^ “カラシニコフ氏「懺悔の書簡」 昨年、露正教会に「痛み耐え難い」”. 産経新聞. (2014年1月13日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/140113/erp14011320050002-n1.htm 2014年1月14日閲覧。 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]