ブラックマンデー

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ダウ平均株価 (1987-07-19~1988-01-19)

ブラックマンデー暗黒の月曜日英語: Black Monday)とは、1987年10月19日月曜日)にニューヨーク証券取引所を発端に起こった、史上最大規模の世界株価大暴落フィデリティ・インベストメンツが猛烈な売り逃げを見せた。

背景[編集]

1970年代、連邦準備制度のインフレ政策とオイルショックによる資金需要がレーガノミックスの高金利時代につながり、投信マネー・マーケット・ファンドで食いつなぐほど株式は割安に放置され続けていた。1980年代、インフレ抑制に成功した世界ではディスインフレーション金融緩和が進行していた。1970年代の慢性インフレによって名目の利益水準は相当膨らんでいたため、世界中の割安な株式市場へ資金が流入し活況を呈した。しかし、行き過ぎた活況は金融引き締め観測により終わりを告げた。

アメリカの貿易収支の赤字幅が予想以上に膨らんでいたことや、1985年のプラザ合意以後のドル安を打開するためにドルの金利が引き上げられる観測が広がっていたこと、そしてブラックマンデーの2ヶ月前にFRB議長職がポール・ボルカーからアラン・グリーンスパンへ引き継がれていたことなどは株価下落の要因として挙げられる。

実際[編集]

ブラックマンデーの当日は、ニューヨーク証券取引所ダウ30種平均の終値が、前週末より508ドルも下がった。この時の下落率22.6%は、世界恐慌の引き金となった、1929年暗黒の木曜日(ブラック・サーズデー、下落率12.8%)を上回った。翌日アジアの各市場にこれが連鎖。日経平均株価は3,836.48円安(14.90%)の21,910.08円と過去最大の暴落を起こした[1]。更にヨーロッパの各市場へもつながってゆき、世界同時株安となった。下落幅の大きさは高度な情報技術によるとみられる。マイロン・ショールズフィッシャー・ブラックによるブラック-ショールズ方程式のように高度な金融工学の登場とコンピュータの普及とが相まって、オプション市場先物市場は爆発的な成長を見せていたのである[2]

日経平均株価については翌日2037.32円高(9.30%)となっている。これは上昇幅で当時の歴代1位、上昇率で当時の歴代2位の記録である[3][4]。金融緩和を続けた日本では、日経平均株価は半年後の1988年4月には下落分を回復。すでに1986年頃に始まっていたバブル景気は更なる膨張を続け、1989年12月29日には史上最高値(38,915.89円)をつけることになる[5]

非常時にドラマがないわけではなかった。アイヴァン・ボウスキーの仲間であったジョン・マルヘレン(John A. Mulheren)は同業者が損失を被る中ひとりで荒稼ぎをやってのけた。その後、ボウスキーの裏切りに銃を持って殺しに出かけたところを妻の通報で補導されたが、マイケル・ミルケンなどが逮捕される中では無罪を勝ち取った。その後、リーマン一族(Lehman family)と姻戚関係にあるベルツバーグ一族(Belzberg)と連邦準備制度理事を輩出しているティッシュ一族(Tisch)の資金でバッファロー・パートナーズという会社をつくり、メリルリンチベア・スターンズを通して証券業務に励んだ。

脚注[編集]

  1. ^ 日経平均プロフィル (html)”. 日本経済新聞社. 2010年6月5日閲覧。
  2. ^ コンピュータの普及とブラック-ショールズ方程式の登場は大規模な株式ポートフォリオに保険を提供するようになっていた。このポートフォリオ・インシュランスは先物を使ったヘッジ手段である。ポートフォリオの価値が市場を大きく上回っているときには先物売りは少ないが、市場が下落しだすと売りを増やし、損失と先物売りの利益がほぼ同じようになるようにする。従って、市場が下落し始めるとコンピュータが自動的に売り注文を出すようになり、売りが売りを呼ぶ展開となった。
  3. ^ [1] (リンク切れ)
  4. ^ 日経平均プロフィル (html)”. 日本経済新聞社. 2010年6月5日閲覧。
  5. ^ 日経平均で見る株式市場の歩み (html)”. 日本経済新聞社. 2010年6月5日閲覧。

外部リンク[編集]