チューリップ・バブル

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チューリップ愛好家によるパンフレット(1637年出版)

チューリップ・バブル: Tulpenmanie: Tulip mania, Tulipomaniaチューリップ狂時代とも)は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1637年に起こった世界最初のバブル経済事件である。オスマン帝国から輸入されたチューリップ球根が人気を集め、チューリップの価格が釣り上がっていくことで人々はチューリップ投資に熱狂し、わずか数年のうちにチューリップ価格は信じられない高値を付け、その後、価格が100分の1以下にまで下がり、オランダ諸都市は経済的混乱に陥った。チューリップ・バブルは南海泡沫事件イングランド)やミシシッピ計画フランス)と並んで近世ヨーロッパの三大バブルに数えられる。[誰?]

バブルの前提[編集]

バブルをもたらした原因が何であるのか、いまもって明らかにされていない。後述するような民衆の狂気と貪欲さに求める偶発説や、このような価格の乱高下は日常的であったとする説などがある。[要出典]オランダは当時、経済大国であったが、バブルの担い手となった民衆は貧しい暮らしにあえいでいた。

オランダの北部7州は八十年戦争に勝利し、17世紀の始めには実質上、独立を獲得していた。そこからオランダは一躍オランダ海上帝国としてヨーロッパに君臨した。これには、ポルトガルから香料貿易を奪ったこと、三十年戦争により中部ヨーロッパが混乱してアムステルダムに商取引が集中したこと、オランダ東インド会社バタヴィア経営から利益をあげていたことなどが背景にある。結果、所得は最高水準になり、海外の美術品がオランダに集中してきていた。

その一方で、物価もまた他地域にくらべて割高になっていた。賃労働者や職人らの年収はおよそ250フロリンと推定されている。これは家族4人が食べていくだけで精一杯な収入であり、肉を口にすることはめったになかったといわれる。かれらがバブルに参入するとき、家財道具や家畜など換金できそうなものを取引に投じた。[要出典]

さらにバブルが生じたマイナス材料として、カルヴァン主義の浸透があげられる。勤勉と倹約を美徳とするカルヴァン主義が広まっていた当時のオランダでは、華美な服装などが慎まれた。富める者も貧しい者も同じような服装をしており、街なかで人の貧富を見分けるのは難しかったといわれる。[要出典]こうした信条のオランダ人たちがなぜ投機に走ったのか、いまのところ解明されていない。

オランダへの伝播[編集]

1453年コンスタンティノープルを陥落させ、全ヨーロッパに衝撃を与えたオスマン帝国において、チューリップは、モスクの装飾の意匠やスルタンの衣服の模様として使われるなどされ、愛されていた。この花が、ヨーロッパに伝えられたのは、16世紀のことである。

膨大な品種が系統だてられてチューリップが認識されるようになるのは、植物学者カロルス・クルシウスの研究による。フランクフルトで細々と球根植物を研究していたクルシウスは1593年ライデン大学に招聘された。彼は豊富なチューリップの球根とともにライデンに移り、そこでチューリップの研究・栽培をすすめた。このことが、オランダにチューリップを伝えることになった。

クルシウスが発見した特性のなかに、のちにブレーキングとよばれる突然変異がある。ブレーキングをおこした球根は美しい斑入りの花をつけた。これはウイルスに感染した球根がモザイク病に罹患したためであったが、その仕組みが解明されるのは20世紀になってからである。

チューリップの特性[編集]

チューリップは短期間に増やすことが難しい種であり、それが後述するように品薄状態をおこして高値がついた。チューリップは種子から育成する方法と母球(球根)からクローン子球を育成する方法とがある。種子から育てると交配で新種が生まれる可能性があるものの、花を咲かせるまで3-7年かかる。母球から育成する場合はその年にすぐ花が咲くが、母球が作り出す子球は2-3個程度になり、子球を母球に成長させるのにしばらくかかる。さらに発芽しない種子・母球も少なくなかった。こうした事情から、急激な需要の増大に生産が追いつかなかった。

チューリップブームの到来[編集]

Semper Augustus(センペル・アウグストゥス)

バブルの進展は三段階に分けて説明できる。需給の不均衡による高値がついた第一段階、投機家が参入してきた第二段階、そして元手をもたない庶民をまきこんだ第三段階である。この第三段階に至ってバブルの様相を呈し、暴落と混乱を招いた。

愛好家たち[編集]

1610年代、最初にチューリップの美しさに心を奪われたのは、ゆとりのある植物愛好家たちであった。手に入りにくいチューリップの球根は、当初から高値で取り引きされた。また園芸家・愛好家たちは自分で品種改良や栽培も行い、多様な名のチューリップが生まれた。「Admiral Liefken」(アドミラル・リーフキン、日本語訳:リーフキン提督)、「Admiral Von der Eyk」(アドミラル・フォン・デル・アイク、日本語訳:フォン・デル・アイク提督)、「Viceroy」(ヴィセロイ、日本語訳:副王)、「Generalissimo」(ジェネラリッシモ、日本語訳:大元帥)などが代表的な高級品種である。なかでも愛好家たちが絶賛したのは、ブレーキングを起こして紫と白の縞模様の花を持つ「Semper Augustus」(センペル・アウグストゥス、同:無窮の皇帝)であった。単色の品種は安く売買されたが、こうした美しい花の球根は少なくとも1,000フロリンの値がついていた。そしてチューリップの人気が高まるにつれ値上がりしていった。

投機家の参入[編集]

チューリップの人気に投機家が目をつけたのは、1634年ごろと伝えられる。かれらはチューリップを栽培することや花の美しさに興味はなく、その値上がりを目的として市場に参入していった。チューリップ人気がライデンからアムステルダムハールレムなど他都市に伝わり、需要の増大を見込んで球根の売買を行った。はたして彼らの目論みは当たり、一攫千金をなす者も現れた。高級品種の球根ひとつと邸宅が交換されることもあった。

高価な球根はエース(aas、1エース=0.05g)単位で量られ値がつけられた。そうでない品種は個数売り、さらに安いものは袋づめで量り売りされた。

このときはまだチューリップ取引は球根が現物で売買されていた。また現物取引のため、チューリップ売買が行われるのは冬の間にとどまっていた。しかし過熱するチューリップ人気は、季節を問わず取引できる仕組みを希求していた。

過熱化[編集]

チューリップで短期間に莫大な富を得られるという噂が職人や農民などに広がると、かれらが徐々に市場に参入してきた。元手をもたない彼らはまず自分でも買える程度の球根から始めた。その程度の品種でも値は上がり、転売で利益を得る者が続出した。それに伴い、市場に大きな変化が起きた。通年取引とそれに伴う先物取引制度の導入である。

こうした取引は、正規の証券取引所ではなく居酒屋で行われた。取引において現金や現物の球根は必要なかった。「来年の4月に支払う」「その時に球根を渡す」という手形ですませることができ、わずかな内金で売買できた。内金といっても現金とは限らず、家畜や家具など換金できそうなものなら何でも通用した。その手形が取引をくりかえすうちに幾人かを経由していき、債権者や債務者がどこの誰だかわからないという状況になりつつあった。この先物取引システムによって元手がない者も投機に参加できた。パン屋や農民までチューリップ市場に参加し、それによって需要がふくらみ、安価な品種でさえ急騰した。しかし価格の上昇に伴って、本来の買い手である植物愛好家が買わなくなっていった。特に民衆が取引していた安価な球根は愛好家に見向きもされなかった。

当時の逸話がいくつか残っている。イギリスから来た植物愛好家が、オランダの友人宅を訪ねた。その愛好家は珍しいタマネギのようなものを発見し、その皮をむいて中を開いてみた。友人が帰ってきて「これは何というタマネギですか」と聞いた。「「アドミラル・フォン・デル・アイク」といいます」「ありがとう」愛好家はノートにメモをとりながら質問した。「これはオランダではよくある品種なのですか」友人は愛好家の襟首をつかみ「一緒に行政長官のところに来ればわかります」と答えた。愛好家は金貨2,000枚の賠償金を支払うまで、債務者監獄に監禁された。

急落[編集]

1637年2月3日、突然の暴落が起こった。価格が下がったというよりも、むしろ買い手がまったく見つからない状態だった。手形は不渡りとなり、支払いきれない債務を負った者は3000人ともいわれる。オランダ各都市は混乱の淵に叩き込まれ、そこかしこで払え払わぬの押し問答、債務者の雲隠れがおこった。いまやあらゆる債権者が同時に債務者となっていた。債務履行を求めて裁判を起こす者もいたが、債務者に履行能力がないことは明らかであり、事態の解決に有効な手だてとはならなかった。

抜き差しならぬ情勢に議会・市当局もようやく動きだした。債務者と債権者の強烈なロビイング合戦の末「調査が終わるまでチューリップ取引は保留とする」というその場凌ぎの決定が下された。しかしこれによって一挙に解決に向かった。手形による契約はなし崩し的になかったことになり、少数の破産者と成金を残してチューリップ狂時代は幕を閉じた。

バブルの影響[編集]

チューリップ・バブルは、オランダ経済やその後の歴史にほとんど影響を残さなかった。植物愛好家は高価なチューリップを求め続けたし、他の産業が打撃を受けたという史料も見つかっていない。例外的に見てとれるのは精神文化への影響である。節制・禁欲を旨とするカルヴァン主義的美徳観が復活し、チューリップ相場に参加した者を露骨に批判するパンフレットが出版された。チューリップをローマ神話の女神フロラに喩え「貪欲なフロラに貢ぐ愚か者たち」と批判された。その後オランダ人は一時的にチューリップを憎むようになり、オランダ人の間で教訓として語り継がれた。

歴史学的見解[編集]

チューリップ・バブルはアレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)の小説・「黒いチューリップ」や絵画に描かれるのみで、歴史学的視点から研究されることはほとんどなかった。[要出典]スコットランド人チャールズ・マッケイの著した物語によって1841年世界に伝えられ、この事件は一躍脚光を浴びることとなる。その中で、チューリップ・バブルはスキャンダラスで大衆の狂気によるものと描かれた。近年までマッケイのバブル像がおおむね受け入れられ、まともな研究対象とはならなかった。[要出典]しかしE.A.トンプソンおよびJ.トラザード (2002) は、チューリップのみならず当時の物価は常に不安定であり、大衆の狂気から事件を説明するのは誤りであるとした。これをきっかけに近年、研究が活発になってきており、チューリップ・バブルの全体像や歴史的位置付けについて今後の議論を待たねばならない状況にある。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]