機関投資家

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機関投資家(きかんとうしか、英語: institutional investor)とは、個人投資家らの拠出した巨額の資金を有価証券(株式・債券)等で運用・管理する社団や法人である[1][2][3][4][5]。保険会社、投資信託信託銀行投資顧問会社、年金基金など。財団もふくむ[5]ビッグバンを実現したりオフショア市場を開拓したりして、金融市場に大きな存在感を示してきた[1]

概要[編集]

機関投資家は厳密に定義されない用語である。財団に対する寄付や政府系投資ファンドが運用する租税を、個人投資家の拠出した資金と言うには語義的に無理がある。したがって機関投資家という名詞は、個人でない組織としての投資家を広く指す。もっとも普通は、系列間で自己金融を志向する事業法人を含めない。なぜなら、機関投資家は社会的責任投資を通じて資本の自由化を達成しうるところに歴史的な特筆性があったからである。実際は貪欲な存在であった。

機関投資家は政府や個人投資家の持分を大量に譲り受けて企業を買収する。これがもっとも単純な機関化である。マーケットメイクをふくむ社債の買収も、社外取締役または社外監査役を派遣するきっかけとなるので機関化である。ここで問題とするのは小規模単発のものではない。機関投資家は、自身が保有する資産の流動性を確保するために多くの手段を講じてきた。本来の自由通貨を排斥しながら管理通貨制度を開拓し、変動為替相場制公開市場操作も導入した。各国証券取引市場をふくむシャドー・バンキング・システムを構築した。機関投資家は世界の流動性を独占し、各国の政治・経済に干渉している[注釈 1]。機関投資家はユーロクリアクリアストリームを中心として相互に連携し、個々の企業やナショナリズムから見た利益相反を既得権化している。

生保と戦争[編集]

機関投資家は、その名詞を与えられる以前に暗い過去を秘めている。生命保険をはじめとする各種の保険・年金基金・投資信託は、二度の世界大戦で総力戦の歯車となっていたのである[6]。機関投資家は往々にして「ファンド」と呼ばれるが、「ファンド」はかつてモーゲージ担保としての租税徴収権を指した[7]。その好例が、オスマン債務管理局の六間接税である。当時オスマン帝国にはイギリス系保険会社が著しく進出していた[8]。「ファンド」には国債を指す用法もあるが[7]、少なくともイギリス系保険会社はオスマン公債をかなり保有していた。そうでなければ、管理局ができる手前で内国債を迅速に買い集めたり、管理局ができた後で債権者として政治的影響力を示したりすることはできなかった。彼らは第一次世界大戦が始まると英国債も大量消化した[9]

また、債務管理局自身も償還のため運用利益を追求する機関投資家であった。

アメリカでは1907年恐慌のころ大銀行が生保を系列化して欧州に対する優位性を確立した。

そして、プルデンシャル・ファイナンシャルなどが第二次世界大戦米国債を消化した。

紳士の退場[編集]

投信の発祥地英国に関するかぎり、1920年代の直接金融源は依然として個人投資家であった。保険にしても、インベストメント・トラストにしても、機関投資家の支配率は高が知れていた。しかし第二次世界大戦は戦中も戦後復興でも大衆貯蓄を総動員しなければ資金需要を満たすことができなかった。復興中は相続税が増税され、個人投資家は節税策として機関投資家へ資産を託すようになった。個人投資家は英国債の暴落でキャピタルロスを被っていたが、相続税を支払うことによって価格を支えたとしても、投信の「タコ足配当」に等しかった。結局イギリスは国内資本で復興資金需要をまかなうことができず、バークレイズを一つの窓口とする欧米機関投資家の進出が必至となった。そこにあやかる形でラザードを例とするマーチャント・バンカー(merchant banker)は機関投資家の人材を兼ねるようになり、エクイティ・ビジネスのような投資顧問業務をこなして収益を上げた。顕著な例は1888年発足した王立看護婦年金(Royal National Pension Fund for Nurses)である。この機関投資家において1959年時点、その経営陣にマーチャント・バンカーが勢ぞろいしていた。ハンブローズ(現ソジェン)出身の会長を筆頭に、モルガン・グレンフェル(現ドイツ銀行)とアンソニー・ギブズ(現HSBC)から銀行家一人ずつと、エドムンド・レオポルド・ド・ロスチャイルドが重役として列席していたのである。[10]

それからのイギリス経済はセカンダリー・バンキング市場から機関化されていった。

米投資会社法[編集]

セカンダリー・バンキングは機関投資家の勝利であって、アメリカン・ナショナリズムのそれではなかった。

1932年、アメリカでボーナスアーミーが反乱した。世界恐慌に窮した軍人が、法律で強制的に預託させられている年金を前倒しで支払うよう求めた事件であった。年金は機関投資家である。当時のアメリカ資本はヤング案成立前からヴァイマル共和政に貸し込んでいた。連合国に対してもトマス附属書で債権回収の手を緩めていた。このトマス附属書は、JPモルガンのラッセル・レフィングウェル(Russell Cornell Leffingwell)から賞賛された[11]IGファルベンデュポンその他大勢のカルテルが十分に儲けてくれたら、賠償金で払い戻せるという計画だったのだろう。しかしライト・パットマン(Wright Patman)は財閥の独占と見抜いて、払い戻しを議会に働きかけた。その彼が1966-68年に膨大なデータを集めて合同運用信託・保険・投信の独占経済をレポートしていたときである。もはや1940年投資会社法(Investment Company Act of 1940)では独占を阻止できないと考えた議会が、独占事実の数々を示して機関投資家を厳しく批判し法改正を検討していた[12]ロバート・ケネディが射殺されて改正案は流れてしまい、アメリカの会社規制はディスクロージャー主体に落ち着いてしまった。以来、アメリカ経済は機関化の一途をたどった[13]

MFと証券化[編集]

1950年代にアメリカ労組がペンション・ドライブを展開したことで企業年金の普及が進んだ[注釈 2]。セカンダリー・バンキング商戦が地球規模に展開される中で、ミューチュアル・ファンド(MF)と年金基金は大衆投資家の資金を一流企業(しばしば多国籍企業)の優良株を中心に長期保有で運用した。1952-1966年の株式投資において、キャピタルゲインは年平均7.21%増加した。総合利回りでは社債を大きく上回って14.50%を記録していた。商戦がユーロ債市場の台頭で収束してゆくと、信用逼迫で商業銀行は大企業へ直接金融を要請するようになった。1970年代末にかけてのスタグフレーションにおいて、機関投資家は短期売買をして小幅なキャピタルゲインを吸い取るようになった。1967-1974年の全米株式取引に占めるMFの割合は平均20.5%に達し、全機関投資家では実に44.0%を占めた。政治は手数料論争の劇場と化した。機関投資家はニューヨーク証券取引所から疎開した。残されたNY市場の流動性と厚みは失われた。そっちこっちの取引所で上場銘柄の価格が分裂した。そこで1975年、証券取引委員会がNY市場の固定手数料制を廃止、併せて証券改革法により全米市場システム(National Market System)が導入された。こうしてNY市場は機関投資家に陥落された。1980年代はM&Aレバレッジド・バイアウト(LBO)が利用されたが、MFはLBOのために発行されたジャンク債を買って、受託者のために保有株を売り飛ばした。これは投信だけのパターンではなかった。1988年、発行済みジャンク債の75%がMFと保険会社および年金基金が保有していたのである。対照的に不憫な機関投資家もいた。証券化の道具にされていた貯蓄貸付組合である。1989年整理信託公社が設立された。この公社が性懲りも無く証券化で組合の不良債権処理をやってのけた。[15]

執事の仮面[編集]

機関投資家はスチュワードシップ・コードに則り、投資先の企業統治に堂々と干渉している。そもそも企業統治は1970年代以降、アメリカで盛んに議論されてきた。1994年にアメリカ法律協会(American Law Institute)がALI原則(Principles of Corporate Governance: Analysis and Recommendations)を公表した。マイケル・ミルケンらは逮捕されたが、ジャンク債に群がった機関投資家は企業統治に対して発言力を持ちつづけた[注釈 3]フランスでは1995年ヴィエヌ(Vinot)報告書が、オランダでは1997年ペーテルス(Peters)報告書が、ベルギーでは1998年カルドン(Cardon)報告書が、それぞれ提出された。ドイツでも2000年に企業統治原則が打ち出され(German Corporate Governance Code)[注釈 4]、更新をつづけている。カナダではトロント証券取引所の企業統治報告書が1994年に出ている。オーストラリアでは1993年ボッシュ(Bosch)委員会報告書が、南アフリカ共和国では1994年キング報告書(King Report)が、OECDでは1999年に企業統治原則が、それぞれ公表されている。ちなみに、機関投資家同士は干渉せず助け合う(AIG救済)。さて世界金融危機では、オリバー・ウィリアムソンエリノア・オストロムノーベル経済学賞を受賞、ニューヨーク・タイムズ新制度派経済学が認められたものと評した[18]。この分野は企業統治に応用されている。

機関化された日本は、金融商品取引法における適格機関投資家などの金融規制緩和で機関投資家を優遇している。「金融商品取引法第二条に規定する定義に関する内閣府令」はGPIFなどを含む適格機関投資家の範囲を示している。

州立銀行いじめ[編集]

ドイツ再統一後の1990年代から空前のM&Aブーム、株式ブーム、そして証券化ブームが起こり、ドイツ銀行がモルガン・グレンフェルとバンカーズ・トラストを買収したり、ドレスナー銀行がクラインワートを買収したりするようなことになった。業容の拡大先はニューヨークと似たり寄ったりで、すなわちM&A仲介や証券化という投資銀行業務と、それから投信というロールオーバーを展開したのである。ここで証券化というのは国債価格の安定性を基礎とする部分が大きいのであるが、そこで機関投資家は財政に干渉するのである。2005年7月18日、欧州委員会とその諮問委員会がドイツへ圧力をかけて公的債務保証を廃止させた。この保証は州立銀行(Landesbank)に対して無制限に行われていた。州立銀行保有資産は国内金融機関総計の20%を占めていた。追い詰められた州立銀行は、証券化商品を買い込むような投資銀行業務をやったり、中東欧の機関化に手を貸したりするようになった。完全に大手民間銀行の後追いだった。世界金融危機で巨大な損失を計上した金融機関は、ヒポ・レアル・エステート(HRE)やコメルツ銀行だけでなかった。預金供託金庫と提携していたバイエルン州立銀行英語版ドイツ語版もである。HSHノルトバンクも取りざたされた。これら大規模州立銀行は、金融市場安定化基金(SoFFin)が膨大な公的資金を投入して救済した。欧州全銀は危機までに5100億ドルを資産担保コマーシャルペーパー導管に投資していたが、そのうちドイツ勢は1/4を占めていた。しかもその大部分がサブプライムローン市場に関するものであった。危機の直前、ドイツ銀行、ゴールドマン・サックスモルガン・スタンレーリーマン・ブラザーズの4行は、サブプライムローン関係の債務担保証券をドイツの州立銀行に売りつけて難を逃れた。[19][注釈 5]

ブレトンウッズ2.0[編集]

年金基金をふくめた日本の機関投資家は、厳しい運用環境でもリターンを向上させようと海外債券投資額を増やしている。ただし、これは主に為替リスクを排するヘッジ付きの債券を対象とする。ヘッジコストは内外金利差だけでなくドル不足によっても高くなっている。世界金融危機ユーロ危機の時期に国際協調がなされて、一時的にドル不足は目立たなくなっていた。2013年ごろからドル不足が再び顕著となり、ヘッジコストを上昇させた。バーゼルⅢが欧米の金融機関に「売りオペ」をさせている。[21]

銀行だけが資産を売却したところで、効果は高が知れている。このドル高はユーロドル債の大量発行を主因とする。

かつて機関投資家は運用収益だけを目的とするなどと考えられていたが、それは資本が自由化されていなかったころの動態である。現在の機関投資家はユーロ債によって資金を調達し、対象国の経済を通貨高で締め上げながら多様な方法で買収できるのである。国際化の犠牲となった通貨は時代順に挙げると、まずはUSドル(1960-70年代)、次にドイツ・マルクと日本円(1980-90年代)、それから人民元(2000年代)[注釈 6]、そしてスイス・フラン(2010年代)である[注釈 7]。国際化のプロセスにはデリバティブも関係して急激な相場変動がともなう。このときに外貨準備を流出させる国も出てくる(アジア通貨危機[注釈 8]。このような外貨の流出は必ずしも保有国のカントリー・リスクに関係しない。なぜなら機関投資家は、そこで取得した通貨を発行国経済に投下するからである。強引な資金調達に遭ったマレーシアは、輸出をのばそうと無理に外資を呼び込んでスキャンダルにはまった(1MDB)。マレーシアは資本市場がすでに十分機関化されていたが、今や機関化された政権交代が起こるまでになった。

財団という脇役[編集]

財団は往々にして企業支配の道具となっている[5]。特許プールまで行う(Wisconsin Alumni Research Foundation)。特許は1980年のバイ・ドール法(Bayh–Dole Act)により大学基金等にもプールできるようになった。証券化により特別目的信託会社へ集約することも可能である。バイ・ドール法も特別目的信託会社も、現在の日本で制度採用されている。

ライト・パットマンが財団を取り上げなかったわけではないが[注釈 9]フォード財団のような特定の産業と結びついたものはその保有する銘柄が相応の範囲であった。ノーベル財団のような元々「職種」の広いタイプであれば時流に沿うこともできた。機関投資家の中で財団は、大衆貯蓄からの資本集中が限定的で、なおかつ資本関係が明瞭であった。しかし、判例は寄付態様を全然制限していない[5]。歳入法の目的制限による運用差し止めを司法長官が行うことはめったにない[5]

パットマン報告書の時代、財団の運用資産は主に普通株であった。キャッシュよりも普通株を寄付されることが多いためであった。課税率が低くても評価額が大幅に上がると節税のため寄付するというわけであった。財団保有銘柄の偏りは、こうして生じたのである。大学基金の約半分と民間財団の2/3が普通株を所有している。たとえ小規模の同族財団であろうとも、硬直的なポートフォリオは、課税されることなくブルーチップから運営費を稼ぎ出す。[5]

ただし、これは1967年の文献だから言えたことである。新興財団はもっと手広い。エドモンド・サフラ財団は好例であろう。

節税以外の動機を具体例で紹介すると、2016年10月フィデリティ・インベストメンツのウィリアム・ダノフが、上場後にロスチャイルドが経営顧問となる阿里巴巴集団の未公開株をハーバード大学へ寄付したことがある。

機関投資家の一覧[編集]

キャピタルゲインだけを目的とするトレードに建設性を認めないスチュワードシップ・コードの観点からは、大規模で長期運用の投資をする法人投資家を機関投資家といい、ヘッジファンドなど短期運用の法人投資家は機関投資家といわないことが多い[1]。スチュワードシップ・コードは世界金融危機を反省する建前で、利益相反と企業支配を正当化している。機関投資家は世界金融危機までに、投資銀行とヘッジファンドがレバレッジを拡大するのを支援していた。一世紀以上大衆貯蓄を振り回してきた機関投資家の自主規制に任せるというのが、そもそもの間違いである。機関投資家の結束は国家を超越した権力となる。個々の状態ですら強大な機関投資家は、民間資本であるのを良いことに憲法の権力分立を免れ、スチュワードシップ・コードを国際標準とすることで連携を強化し、未来永劫に金融の民主化を全世界で完封しようとしている。


脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ユーロ危機への対応としてマリオ・ドラギはOMT(Outright Monetary Transactions)という欧州レベルの財政改革を断行した。
  2. ^ ピーター・ドラッカーが「年金基金社会主義(pension fund socialism)」を見出した時代であった[14]
  3. ^ このころから投信勢力が全地方債に対する消化割合を増やして、2000年に3割を超えた[16]
  4. ^ ドイツは1990年代から機関化されていた[17]
  5. ^ ユーロ危機への対応をめぐっては2012年10月8日に欧州安定メカニズム(European Stability Mechanism)が発足した。この国際機関には銀行資格を与えて信用創造機能を付与する議論もあったが、ドイツなどの反対で実現しなかった。12月13日、欧州サミットが催された。欧州中央銀行が直に監督する銀行は資産300億ユーロ以上のものだけになった。国債の償還およびユーロ債発行における財政統合は見送られた。これらの結論はドイツ政府の意見を尊重したものであった。[20]
  6. ^ 中国は機関投資家の開拓した世界最大のエマージング市場(Emerging markets)である[22]。財政部のユーロ円債発行が突破口となった。
  7. ^ 2015年1月15日、スイス国立銀行は相場上限を放棄した。スイス・フラン相場は一時、対ユーロで約30%急騰した。機関投資家の買い圧力は、ユーロ危機からの逃避という消極的動機と、外国で住宅ローンを貸し付けるという積極的動機により生じた。後者は国際化と信用創造を兼ねて、恒常的にスイス・フランが流出する構造である。
  8. ^ 2003年6月、アジア債流動化のためアジアン・ボンド・ファンド(ABF)1号が投資信託として設定された。日銀が10%の1億ドルを外貨準備から拠出した[23]。運用は国際決済銀行が対応した[24]
  9. ^ パットマンは1963年まで下院小企業委員会(House Small Business Committee)の議長として、財団の量的な影響力を調査実証した。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 知恵蔵2015 熊井泰明 証券アナリスト / 2007年
  2. ^ 株式公開用語辞典
  3. ^ a b c d e f 保険基礎用語集
  4. ^ 「機関投資家 初めてでもわかりやすい用語集 SMBC日興証券」
  5. ^ a b c d e f 坂野幹夫 訳 『機関投資家と会社支配』 東洋経済新報社 1967年10月 35、60、142-147頁 (原書 D. J. Baum and N. B. Stiles, The Silent Partners - Institutional Investors and Corporate Control, Syracuse University Press, New York, 1965.)
  6. ^ 山之内靖 他2名編 『総力戦と現代化』 柏書房 1995年 31頁
  7. ^ a b E.L.ハーグリーヴズ 『イギリス国債史』 新評論 1987年
  8. ^ 赤川元章 「第1次大戦前におけるオスマン帝国の対外的経済関係」 三田商学研究 24(6), 1982年2月28日 35頁
  9. ^ 代田純 『ロンドンの機関投資家と証券市場』 法律文化社 1995年 20頁
  10. ^ 代田純 『ロンドンの機関投資家と証券市場』 法律文化社 1995年 41-42、64-67、101頁
  11. ^ William E. Leuchtenburg, Franklin D. Roosevelt and the New Deal, Harper & Row, 1963, pp.232-3.
  12. ^ Investment company act amendments of 1967. : Hearings, Ninetieth Congress, first session, on H.R. 9510, H.R. 9511. Part1. p.798. (Read by HathiTrust)
  13. ^ 鎌田信男 米国金融市場における機関化の帰結と日本への示唆 現代経営経済研究 2(2), 35-61, 2008-03-31
  14. ^ The New Society: The Anatomy of the Industrial Order, Harper & Brothers, 1950.
  15. ^ 柴田徳太郎 『世界経済危機とその後の世界』 日本経済評論社 2016年 112-116、118頁
  16. ^ 連邦準備制度調べ("Flow of Funds Accounts of the United States")
  17. ^ 陳浩 ドイツのコーポレート・ガバナンスの変容と監査役会改革の課題 立命館国際研究 24-2,October 2011, pp.241-268.
  18. ^ The New York Times, "An institutional economics prize", October 12, 2009, Retrieved May 26, 2018.
  19. ^ 柴田徳太郎 『世界経済危機とその後の世界』 日本経済評論社 2016年 156-160頁
  20. ^ 長部重康 「ユーロ危機からの脱出戦略 OMTとEUニューディール」 経済志林 2013年3月15日発行 27-28頁
  21. ^ 大野早苗 「超低金利下における外国債券投資 ヘッジコストの影響」 『マイナス金利と年金運用』 金融財政事情研究会 2017年12月発行所収
  22. ^ 奥田宏 エマージング市場の登場とドル体制 世界銀行の役割と機関投資 立命館国際研究 13(2) 2000年12月 第3図
  23. ^ 竹内淳 アジアの債券市場育成とアジアボンドファンド 国際局 2005年10月
  24. ^ 竹内淳 アジアの債券市場育成とアジアボンドファンド(URLが前掲と異なる) 国際局 2005年10月