ビッグバン (金融市場)

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ビッグバン (Big Bang) とは、機関投資家の成長を背景として[1]サッチャー政権下の1986年10月27日ロンドン証券取引所が実施した金融改革である。ブローカーまたはジョバーの単一資格制を廃しマーケットメイカー制をイギリスに定着させた[1]

1908年ルール[編集]

そもそもイギリス史が欧州(特にフランス)との絶え間ない駆け引きなのであるが、ビッグバンも例外ではない。

ネイサン・メイアー・ロスチャイルドナポレオン戦争で財を成した頃、取引所以外にも市場が成立していた。ロンドン取引所非会員業者は1838年までイングランド銀行においても取引できた。ロイヤル・エクスチャンジでも一定の取引が行えた。1815年にロンドン取引所総務委員会はイングランド銀行の株式を正式市場から削除すべきである、と命じている。一応、ブローカーとジョバー(Stockjobber)の会員分離は19世紀初頭にコンソル国債市場で普及していた。他の市場でも採用されたが、分離の境界線は必ずしも明らかでなかった。1847年に取引所ルールブックでブローカーとディーラーの提携が厳禁された。すると翌年欧州諸国で革命が起こった。ジョバーに対しては賛否両論であった。ジョバーの働きで、売りを委託されたブローカーが買いを委託されたブローカーを早く探せた。けれどもジョバーは自己のポジションで売買するディーラーだったので公平な気配値を示さなかったのである。結論より早くドーバー海峡海底ケーブルが開通した。19世紀最後の四半世紀を通じてジョバーとブローカーの区別は業務の機械化にしたがい明確でなくなってきた。知られざるビッグバンが既に起きていたのであった。民衆の貯蓄を投資銀行と保険会社が運用する欧州仕込の金融が上陸していたのである。結果としてイギリス系投信1907年恐慌で被害を受けた。翌1908年、取引所会員においてブローカーとジョバーを峻別することになった。また、非会員との取引も原則禁止された。もっとも、ブローカーはより良い条件を得られる場合、ジョバーは国外の鞘取り業務について、それぞれ非会員との取引が許された。[1]

モルガンの米国預託証券[編集]

「1908年ルール」が一定の歯止めとなり、第一次世界大戦の戦後処理が欧州金融を長く停滞させたこともあって、1920-30年代のイギリスにおける証券取引は個人投資家中心であった。この間1927年モルガン・ギャランティ・トラスト(現JPモルガン・チェース)が米国預託証券を考案した。現物の移動を省くモルガンの名案によってロンドン市場の機関化が鮮明化するのは第二次世界大戦後である。保険会社の資産は1938年の17.4億ポンドから1958年には59.9億ポンドに増加した。1938年ほとんど資産がなかった年金基金は1958年25億ポンドに達した。そして1963年の英国株における機関投資家の保有する割合は27.8%に及んだ。1960年ごろの米国預託証券市場において、モルガン・ギャランティ・トラストは上場する171銘柄のうち79銘柄の受託銀行であった。モルガンは連邦準備制度を設立させ大西洋の貿易金融を掌握していたが、1968年ユーロクリアを設立して機関投資家をロンドン市場にけしかけた。そしてオイルショックのときセカンダリー・バンキング危機が起こった(Secondary banking crisis)。[1]

セカンダリー・バンキングはマーチャント・バンク(Merchant bank)が戦後ロンドンで始めた事業である。当初は手形割引を営んでいたが、1960年代からは市場と業態に特徴が現れた。世界中の大銀行がその市場に参加して、協定そっちのけで競争した。すぐに業態は競争に適応した。大口で、主に外貨建ての預金を受け入れ、一流の多国籍企業に貸し出した。こうしたホール・セールは70%がイギリス海外居住者向けであり、セカンダリー・バンキングは伝統的な貿易金融と外国への直接投資に邁進したのである。ローンは専らオーダーメイドされた。すなわち、ローンを組んでからコールマネーをあてにして資金を調達したのである。[2]

1973年、引受商社(Accepting House)17社で構成される委員会について、彼らへ資本参加することを禁ずる未公開のルールをイングランド銀行が解除すると発表した。引受商社は全て大手マーチャント・バンクであった。[3]

ロンドン証券取引所の陥落[編集]

ミューチュアル・ファンドにわく太平洋でロッキード事件が起こり、合衆国最高裁判所が政治献金について、憲法第一修正条項で保護されている政治言論の自由であるが、腐敗防止のために献金額は制限できると判断した(Buckley v. Valeo[4]

この1976年に公正取引庁が取引規制について調査を開始した[5]。これは同年に競争制限的取引慣行規正法が改正されたことによる。運輸、住宅金融組合金利、保険を除くサービスも対象に加えられた。1978年にブローカーの最低手数料、ブローカーとジョバーの兼業禁止、取引所の会員権の制限を競争制限的であるとした。1979年にロンドン取引所のルールが競争制限的取引慣行規正法に抵触するか調べられた。1983年に証券取引所理事長と貿易産業大臣の間に、改革をめぐる和解が成立した。取引所のルールは例外とみなされることになった。その代わり、取引所理事会へロンドン証券界外部の人物を入れることが約束された。理事会は46人の会員とイングランド銀行の代表1人から構成されていたが、1983年12月に外部者5人が参加し、全員で52人となった。キャドバリー報告の先駆ともいうべき措置であった。1986年3月に取引所理事会を「最適化」する方針が決まった。1987年6月までにロンドン証券取引所の理事を52人から25人に減らし、外部者は理事総数の「1/4以上1/3以下」に比率を引き上げるというのであった。[1]

1983年、ノリッジ・ユニオン(現アビバ)は子会社のAP銀行をリッグス銀行(旧第二合衆国銀行)へ3590万ドルで売却した。

イギリス以外も狙われた。1983年にカナダ、1984年にオーストラリアで証券市場の規制が撤廃されていた。

イギリス本国では同時期から実質的に銀証分離が撤廃された。ブローカー・ジョバー企業の株式を、証券取引所会員でない者、つまり銀行が100%保有できるようになったのである。その結果、大手マーチャント・バンクと海外金融機関がブローカー・ジョバー企業の買収合戦を展開し、彼らがビッグバンのインフラを先に完成させてしまった。

ブローカーとジョバーの解体[編集]

マーチャント・バンク勢から書こう。S.G.ウォーバーグがジョバーのアクロイド・スミザースを、N・M・ロスチャイルド&サンズがジョバーのスミス・ブラザースを、ミドランド銀行子会社のサミュエル・モンタギューがブローカーのW.グリーンウェルを、ハンブロスがブローカーのストラウス・ターブルを、モルガン・グレンフェルがジョバーのピンチン・デニーとブローカーのペンバー・アンド・ボイルを、クラインワートがブローカーのグリーブソン・グラントを、ヒル・サミュエルがブローカーのウッド・マッケンジーを、シュローダーがブローカーのヘルベルト・ウォッグを、ベアリングス銀行がジョバーのウィルソン・アンド・ウォルフォードを、それぞれ買収するという計画を発表した。[1]

1985年まで、ロンドン市場には400もの外国銀行が参加していた。海外金融機関の方は次の通り。セキュリティー・パシフィック(Security Pacific Bank)がブローカーのホア・ゴベットとジョバーのC.T.ピュレイを、シティコープがブローカーのヴィッカース・ダコタと Scrimgeour Vickers と、ブローカーのJ.E.デヴィを、スカンディア(Skandia)がブローカーのキルター・グッディソンを、シェアソン・リーマンがブローカーの L. Messel & Co.を、オーストラリア・ニュージーランド銀行子会社グリンドレイ・バンクがブローカーのケーペル・キュアマイヤースを、香港上海銀行がブローカーのジャームス・ケーペルを、UBSがブローカーのPhillips & DrewとジョバーのJ.モウルスダールを、チェース・マンハッタンがともにブローカーのラウリー・ミルバンクとサイモン・アンド・コーラスを、バンカメの核(North Carolina National Bank)がブローカーのパンミュア・ゴードンを[6]バンク・ブリュッセル・ランバートがブローカーのウィリアム・ド・ブロー・ヒル・チャップリンを、クレディ・スイスがブローカーのブックマスター・アンド・ムーアを、アラブ・インターナショナル(Banque arabe internationale d'investissement)がブローカーのシェパード・アンド・チェースを、CIBCがグレンフェル・アンド・コールスグレイブを、メリルリンチがジョバーのA.B.ギルス・アンド・クレスウェルを、パリバがブローカーのキルター・グッディソンを、ソシエテ・ジェネラルがストラウス・ターンブルを、ロンバー・オディエがブローカーのマーシャルを、それぞれ買収するという計画を発表した。[1]

改革の内容と担い手[編集]

1986年10月27日にビッグバンが実施された。内容は主に次の通りであるが、理事会の「最適化」も並行した。

骨子は①売買手数料の自由化、②取引所会員権の開放による銀行資本の市場参加、③ジョバーとブローカーの兼業許可、④株式取引税を1パーセントから0.5パーセントに引き下げ、⑤株式売買にコンピュータを導入し無人化、⑥取引所集中義務の撤廃、である。ビッグバンによってロンドン市場でも現物を移動しない証券取引が行えるようになった。そして機関投資家がニューヨーク市場の規制を逃れてくるようになった。こうしてイギリス企業の姿は消えたままシティが表面上の活況を呈した(ウィンブルドン現象[7]。事実上、1986年住宅金融組合法(Building Societies Act 1986)も改革の一環であった。かつてモーゲージ貸付は住宅金融組合の専売特許であったが、1970年代と1980年代初期に銀行と競争する目的で二者が相互の市場へ参入できる措置が採られた[8]。1986年住宅金融組合法は無担保貸付の比率を5%まで引き上げることを認めた[8]。1986年金融サービス法(Financial Services Act 1986)も挙げねばなるまい。同法は公社債投資信託などのミューチュアル・ファンド化を認めたほか、ロンドン証券取引所の権限を証券投資委員会(Securities and Investments Board)へ移譲した[8]

自動気配システム(SEAQ)が導入され[8]バークレイズリーマン・ブラザーズUBSが代表的なマーケットメイカーとなった[1]。ビッグバンでシティへ参入してくる機関投資家をとりまとめているのは、カストディアンの集合体ともいうべきユーロクリアとセデル(現クリアストリーム)であった。これら国際証券集中保管機関の取締役員構成を年報に見ることができる。

1987年4月10日現在におけるユーロクリアのそれは次の通り。まずドイツ銀行のロルフ会長(Rolf-E. Breuer)、アムロ銀行のテオ(Theo M. T. Adriaansens)、東京銀行の「ふじた・なおのり」(Naonori Fujita)、ケス・デパーニュグループのブリュック(Corneille Brück)、クレディ・スイスのハンス(Hans Peter Sorg)、ファースト・ボストンのステファン(Stefan Imboden)、ベルギー総合会社のマーク(Marc Bayot)、キダー・ピーボディKidder, Peabody & Co.)のモハメド(Mohoamed S. Younes)、メリルリンチのホフマン(Hansgeorg B. Hofman)、モルガン・ギャランティ・トラストのトーマス(Thomas H. Fox)、ピクテ銀行のウォルター(Walter Staub)、スカンジナビスカ・エンスキルダ・バンケンのロルフ(Rolf A. Hallberg)、ソシエテ・ジェネラルのステファノ(Stefano Colonna)、スイス銀行コーポレイションのケスラー博士(Hans-Conrad Kessler)、そしてウッド・ガンディー(Wood Gundy)のイアン(Ian S. Steers)であった。[1]

1991年9月13日現在におけるセデルは次の通り。シティコープのハンス会長(Hans H. Angermüller)、スイス・ユニオン銀行(現UBS)のアンドレ・リュシ(André Lussi)、モルガン・スタンレーのスコット(Scott G. Abbey)、クレディ・リヨネ(現クレディ・アグリコル)のミシェル(Michel Camoin)、シティバンクのイアン(Ian Cormack)、バークレイズのケネス(Kenneth Garrod)、アムロ銀行のマリヌス(Marinus Huizer)、サンパオロ銀行(Istituto Bancario San Paolo)のジョゾ(Alfonso Jozzo)、ルクセンブルク国際銀行のジャン(Jean Krier)、スイス・ユニオン銀行のジョセフ(Josef Landolt)、日本興業銀行の名取正(なとり・ただし)、野村証券の荻野玲(おぎの・あきら)、ボン・ウント・シュミット(Bonn & Schmitt)のアレックス(Alex Schmitt)、チェース・マンハッタンのマイケル(Michael Urkowitz)、最後にドレスナー銀行のカルト(Kart Weinhofer)であった。[1]

関連法の施行後、マイケル・ミルケンが逮捕された。1991年の国際的企業買収アドバイザー・ランキング首位はゴールドマン・サックスであった[1]。ビッグバンから4-5年で、イギリスのジニ係数はおよそ0.05の幅で跳ね上がっていた[9]

ユグノー出身のマーチャント・バンクであるカザノヴ商会(Cazenove)は、19世紀からビッグバン後にわたり英国金融の機関化に貢献してきたことを評価され、2004年JPモルガン・チェースの傘下となった。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 代田純 「機関化傾向と取引所改革 ビッグバンの意味するもの」 証券研究 第109巻 199-255頁
  2. ^ 布目真生 『マーチャント・バンキング』 金融財政事情研究会 1976年 第五章 第二次銀行業とマーチャント・バンク
  3. ^ 『マーチャント・バンキング』 138-139頁
  4. ^ 2014年に判例変更がなされている(McCutcheon v. FEC)。個人が選挙で大金を献金しても政治家との対価関係(quid pro quo)には直結しないという詭弁であった。
  5. ^ See also: Restrictive Practices Court
  6. ^ パンミュア・ゴードン商会は1899年の日本国外債引受者であった。
  7. ^ テニスウィンブルドン選手権ではイギリス人のプレイヤーは姿が見えず、イギリスは場所を貸しているだけである
  8. ^ a b c d OECD 『規制緩和と民営化』 東洋経済新報社 1993年 160-161頁
  9. ^ 齊藤健太郎 2011年イギリス 8月暴動をめぐる諸議論 p.310. 図4 所得格差の拡大:1951–2010
    Institute of Fiscal Studes (IFS): Inequality and Poverty Spreadsheet