呂運亨
| 呂運亨 여운형 | |
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| 生年月日 | 1886年5月26日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1947年7月19日(61歳没) |
| 死没地 |
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| 所属政党 |
朝鮮人民党 南朝鮮労働党 勤労人民党 |
| 称号 |
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| 内閣 | 許憲内閣 |
| 在任期間 | 1945年9月6日 - 1946年2月 |
| 主席 | 李承晩 |
| 呂運亨 | |
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| 各種表記 | |
| ハングル: | 여운형 |
| 漢字: | 呂運亨 |
| 発音: | ヨ・ウニョン |
| 日本語読み: | りょうんきょう |
| ローマ字: | Yo Un-hyung |
呂 運亨(日本語読み:りょ・うんきょう、朝鮮語読み:ヨ・ウニョン、1886年5月26日 - 1947年7月19日)は、朝鮮独立運動家、社会主義者[1]、政治家である。号は「夢陽」(モンヤン、몽양[1])。
来歴[編集]
京畿道楊州に生まれた。1914年、中国へ亡命、南京の金陵大学英文科で学ぶ。
1918年、上海で新韓青年党を組織。1919年、上海で設立された大韓民国臨時政府に参加。同志の金奎植をパリ講和会議に派遣。これが三・一運動を起こした。日本の法律上は犯罪者であったが、原敬内閣の招請で訪日して赤坂離宮にも来館し、これは貴族院で取り上げられて問題となった[2]。東京で吉野作造ら知識人と懇談して朝鮮独立を主張し、吉野が『中央公論』誌で「稀にみる尊敬すべき人格」と絶賛したため評判となった[3]。
1920年、上海の高麗共産党に入党。1922年、モスクワで開催された極東諸民族大会に出席。1930年、上海で逮捕され朝鮮で3年服役し、出獄後は言論活動を中心に活動。1933年、朝鮮中央日報社の社長に就任した。
第二次世界大戦中は朝鮮人に向けて、半島学生出陣報、京城日報などを通じて「日本軍に志願するべきである」とした文章を投稿し、日本の戦争政策に協力して親日派に転向した[4]。それは、「大東亜はわが日本を中心に建設されている。一大の決戦は、東亜10億の生存権を獲得するための戦いだ。血が乱舞する中、半島はいったい何をしていたのか」と発言したこともあったというものだ[4]。しかし、呂は韓国の市民団体が主導した親日人名辞典には掲載されていない[4]が、韓国の中道右派新聞よ中央日報は前述の事実から「呂が親日であるのは明らか」と主張している[4]。しかし、親日反民族行為真相糾明委員会では呂運亨の親日資料はただ一つで、1943年から1945年まで独立運動をした事実で親日論を否定した[5][6]。大戦末期の1945年、日本の敗戦が濃厚になると再転向して独立運動を再開させた。1944年8月10日建国同盟を秘かに結成。朝鮮総督府政務総監遠藤柳作が呂と接触し、解放後の治安維持のため行政権の委譲を持ちかけたため、政治犯の釈放と独立運動への不干渉などを条件に受諾、1945年8月15日の日本敗戦の報を受け、その日の内に安在鴻などとともに朝鮮建国準備委員会を結成した。呂は、日本との提携及び宋鎮禹、曺晩植、許憲(以上明治大学卒)、金性洙、安在鴻、張徳秀(以上早稲田大学卒)など、日本留学を経験している知日派の力が、独立後の体制作りに必要不可欠と考えていたが、未だ勢力をまとめ上げられずにいた。
日本の降伏は、少なくともアメリカが予想していたよりも早かった。ソ連による満州攻略は9月までかかる見込だったが、関東軍がすぐに壊走したために、ソ連が急速に南下するとアメリカは危惧した。実際にはソ連による朝鮮全土の占領はなかったが、アメリカは疑心暗鬼に陥り、その結果、米英中ソ4ヶ国による信託統治案は合意として生きていたものの、当面の方針として米ソによる北緯38度線での分割占領があわただしく決められた。
8月15日を迎えて、朝鮮総督府と朝鮮軍は茫然自失に陥り、突然の「解放」(光復)というニュースのみがもたらされた。呂運亨が副主席となった建国準備委員会は、この事態に最も早く対応した集団だった[7]が、釈放された政治犯たちの合流により左傾化したため、右派はこれに反発した。
1945年9月6日、建国準備委員会は「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言した。この頃には朝鮮共産党も朴憲永をリーダーとしてすでに再建されており、政権に加わっていた。しかし連合軍側はこれを日本の傀儡による建国とみなして認めず、樹立宣言の翌日の9月7日アメリカ軍は仁川に上陸。9月11日にアメリカによる軍政を開始し、朝鮮人民共和国及び建国準備委員会を否認。独立は失敗に終わった。
さらに建国準備委員会に反対する全羅地方の資本家・湖南財閥を中心に右派により韓国民主党(韓民党)が組織され、呂が期待していた宋鎮禹や金性洙らがそのリーダーになった。韓民党は国内の独立運動家たちによる組織を拒否して重慶に亡命していた大韓民国臨時政府の支持を打ち出した[8]。
呂は、その後も中道左派の代表的な指導者として左右合作による統一戦線の維持に腐心。11月12日には諸派をまとめあげて朝鮮人民党を結成した。1946年には朝鮮の信託統治を巡って国内が紛糾するなか、反信託統治をとりつつも極右、極左からは距離を置き、南朝鮮独立を主張する李承晩らを排除した後の軍政からも期待された。しかし左右両派の主張の折衷案を提示したものの朝鮮共産党や韓国民主党の支持を得られず活動は停滞した。9月から10月にかけ、軍政に反対する集会やデモ、ストライキが相次ぎ、これへの軍政の弾圧に対して結成された南朝鮮労働党で呂は委員長を務めるも副委員長の朴憲永から呂の左右合作路線が批判され、南朝鮮労働党を離れる。
軍政は過渡立法院を立てて左派の排除と南朝鮮の単独独立を容認するようになると、呂は社会労働党に続き、1947年5月勤労人民党を建て南朝鮮労働党との協調を図ろうとしたが、7月19日、韓智根によって暗殺された[9]。韓は右翼テロ組織である白衣社の青年であり、李承晩派による暗殺であったとする説が有力である。太平洋戦争終結後の1945年8月、建国準備委員会を立ち上げ、9月には朝鮮人民共和国を結成したが、1947年にソウルからの移動中に白衣社の李弼炯ら5人によって狙撃されて射殺死した後、2005年、韓国政府は建国勲章大統領章を、2008年には建国勲章大韓民国章を追叙した。2017年6月に文在寅政権で呂の青年秘書だった共に民主党の議員の父に独立功労賞が与えられた。しかし、盧武鉉政権時代含めて6回も認定拒否されていたのに、共に民主党が社会主義者対象外にする規定を廃止直後に認定されたために不正疑惑が掛けられた[10]。
実兄に独立運動家、政治家の呂運弘がいる。哲学者朴贊機の母方の叔父。
南北評価[編集]
成均館大学校教授の徐仲錫は、知日派・親日派とされる人士のなかで呂運亨は南北朝鮮の双方において高い評価を受けている数少ない政治家であり、朝鮮独立の為に働いた他の人々は、続く南北分断と反共/共産独裁主義の政治に依り、貶められている。いっぽう、彼の中途的な政治路線に 'オポチュニスト(機会主義的、場当たり的)'と責める人々が頻繁にある。呂が朝鮮戦争前に暗殺されたこと、また朝鮮総督府・アメリカ・ソ連などいずれの勢力に対しても従属路線も全面対立路線も採らず、常に適度に距離を置こうとしていたことは結果的に南北両国民の間に、彼を朝鮮の自由の為に働いた稀有な政治家という良い印象のみを残したことになるだろう、と評した[11]。
戦前の大日本帝国への朝鮮人の協力を呼び掛けた寄稿内容から親日派との評価がある。呂の親日を批判した人物を親日にしておきながら、呂は親日認定を逃れた。そのため、中央日報は税金まで投入された親日人名辞典の認定基準を批判している[4]。
脚注[編集]
- ^ a b “손혜원 부친, 독립유공자 심사 6번탈락뒤 文정부서 됐다” (朝鮮語). news.naver.com. 2019年1月18日閲覧。
- ^ 江木千之翁経歴談刊行会 国立国会図書館デジタルコレクション 『江木千之翁経歴談. 下』 江木千之翁経歴談刊行会、1933年。
- ^ 松尾尊兊 『近代日本と石橋湛山 : 『東洋経済新報』の人びと』 東洋経済新報社、2013年。ISBN 9784492061909。
- ^ a b c d e “【コラム】恣意的に作られた親日人名辞典”. 中央日報. (2009年11月6日) 2010年2月24日閲覧。
- ^ “"보수진영의'여운형 친일파'주장은 허구"(韓国語)”. オーマイニュース. (2010年7月19日) 2013年12月10日閲覧。
- ^ “노학자도 발끈한 조선.동아 기자의 '황당'질문(韓国語)”. オーマイニュース. (2009年11月27日) 2013年12月10日閲覧。
- ^ 「解放」当時では朝鮮で最も組織された集団だったといわれる。
- ^ 韓民党は程なくして李承晩と連合して左派を排除し、大韓民国建国を主導する勢力となった。しかし、建国後すぐに韓民党は李承晩と対立し、野党となった(李承晩#大韓民国建国)。以降、同党の流れを汲む勢力が韓国における野党勢力の中核となる。
- ^ “今日の歴史(7月19日)”. 聯合ニュース (2011-07-19 ). 2011年8月8日閲覧。
- ^ “손혜원 부친, 독립유공자 심사 6번탈락뒤 文정부서 됐다” (朝鮮語). news.naver.com. 2019年1月18日閲覧。
- ^ 徐仲錫『現代朝鮮の悲劇の指導者たち 分断・統一時代の思想と行動』林哲、金美恵ほか訳。42頁
参考文献[編集]
- 姜徳相『呂運亨評伝1 朝鮮三・一独立運動』新幹社、2002年。
- 姜徳相『呂運亨評伝2 上海臨時政府』新幹社、2005年。
- 長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係―朝鮮独立運動とアメリカ 1910-1922』平凡社、2005年。
- 斎藤吉久「朝鮮独立を支援した神道人‐呂運亨と葦津珍彦の交流」『正論』1999年4月号、産経新聞社。
- 名越二荒之助『日韓共鳴二千年史―これを読めば韓国も日本も好きになる』明成社、2002年