長津湖の戦い
| 長津湖の戦い | |
|---|---|
中国人民志願軍による長津湖包囲網を突破中の米海兵隊員 | |
| 戦争:朝鮮戦争 | |
| 年月日:1950年11月26日 – 12月13日 | |
| 場所: | |
| 結果:中国軍の勝利。国連軍撤退成功 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 戦力 | |
| 損害 | |
| アメリカ側資料: 戦死 1,029 行方不明 4,894 負傷 4,582 戦病死 7,338 [5] 戦車15輛喪失[6] 中国側資料: 戦死傷 13,900[7] |
中国側資料: 戦死傷 19,202 戦病死 28,954 [7] 国連側資料: 戦死傷 29,800 戦病死 20,000以上[8] |
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| 長津湖の戦い | |
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| 各種表記 | |
| ハングル: | 장진호 전투 |
| 漢字: | 長津湖戰鬪 |
| 発音: | チャンジンホ チョントゥ |
| 日本語読み: | ちょうしんこせんとう |
| 英語表記: | Battle of Chosin Reservoir |
長津湖の戦い(ちょうしんこのたたかい)は、1950年11月27日から12月11日にかけて、現在の朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道長津郡長津湖周辺で行われた朝鮮戦争の戦闘の一つである。国連軍と中国人民志願軍が初めて交戦し、国連軍が戦史上最大の退却を強いられた戦いで、「長津湖戦闘」などの名でも呼ばれる。
概要[編集]
国連軍は朝鮮半島全土を制圧する勢いで北側に進軍し、朝鮮人民軍を中朝国境近くまで追い込んでいた。1950年11月24日に中華人民共和国政府は、国連軍を北朝鮮領土内で戦わせないと警告していたが、国連軍はこの警告を威嚇と受け取り、主にアメリカ海兵隊第1海兵師団17000人を長津湖周辺に分割配備した。
11月27日、最も中朝国境寄りの柳潭里(ユダム二 류담리)に配備されていた第5海兵連隊及び第7海兵連隊が、中国人民志願軍の夜間奇襲を受け、同じ頃22キロ南にある下碣隅里(ハガルリ 하갈우리)の国連軍補給基地も同様に奇襲された。
11月29日、下碣隅里よりさらに南の古土里(コドリ 고토리)から下碣隅里に海兵隊の増援部隊が送られ、翌30日に最前線の柳潭里の部隊に退却命令が出された。
12月3日、柳潭里の第5海兵連隊及び第7海兵連隊が、退却路途中の徳洞峠を守るフォックス中隊の援護のもと、下碣隅里まで退却した。米空軍は退却援護のためにナパーム弾による空爆を行った。
12月4日、下碣隅里から古土里への南下が始まり、途中の地獄火の谷("Hell Fire Valley")で中国側の攻撃に苦しめられながらも、12月7日に古土里に到着した。すでにこの時点で海兵隊員3000人が戦死していた。同じ頃、中国人民志願軍も疲弊と火器不足により撤退した。
12月11日、国連軍は興南(フンナム 흥남)港に到着した。その後、国連軍は海路で撤収し、興南港の港湾設備を完全に破壊した。
朝鮮戦争史上、仁川上陸作戦と並ぶ激戦となった。
長津湖の戦いに関する作品[編集]
映像作品[編集]
- ドキュメンタリー『戦場の真実』シリーズ『長津湖の戦い』(ディスカバリーチャンネル、2013年)
脚註[編集]
- ^ Appleman 1990, p. 37.
- ^ Appleman 1990, p. 24.
- ^ 徐焰・李健 Part One 2000.
- ^ Appleman 1990, p. 361.
- ^ Appleman 1990, pp. 345, 347.
- ^ Appleman 1990, p. 348.
- ^ a b 徐焰・李健 Part Four 2000.
- ^ Appleman 1990, p. 352.
参考文献[編集]
- Roy Appleman (1990), Escaping the Trap: The US Army X Corps in Northeast Korea, 1950, 14, College Station, Texas: Texas A&M University Military History Series, ISBN 978-0-89096-395-1
- 徐焰・李健 (2000) (簡体字中国語), 朝鲜战争——长津湖之战一, 北京: 中国社会科学院, オリジナルの2011-07-17時点によるアーカイブ。 2017年1月15日閲覧。
- 徐焰・李健 (2000) (簡体字中国語), 朝鲜战争——长津湖之战四, 北京: 中国社会科学院, オリジナルの2011-07-17時点によるアーカイブ。 2017年1月15日閲覧。
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