光復節 (韓国)

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光復節
各種表記
ハングル 광복절
漢字 光復節
発音 クァンボクチョル
日本語読み: こうふくせつ
文化観光部2000年式 Gwangbokjeol
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光復節(こうふくせつ)とは、朝鮮大日本帝国日本)からの独立を祝う大韓民国祝日である。8月15日

朝鮮の解放[編集]

大韓民国政府樹立国民祝賀式
(1948年8月15日)
西大門刑務所を出所した政治犯
(1945年8月16日午前9時)
南山国旗掲揚台の太極旗
(1945年8月25日

朝鮮半島韓国併合1910年)以来、日本の統治下にあったが、1945年8月15日、大日本帝国が連合国の発したポツダム宣言を受諾し降伏することが発表されると(玉音放送)、朝鮮人にとってそれは第二次世界大戦の終結のみならず、朝鮮の日本による統治からの解放(「光復」)を意味するものであった[1]。同日、朝鮮総督府政務総監遠藤柳作と、朝鮮独立回復運動家の呂運亨との会談がもたれ、日本側からの条件では日本人の安全および財産保全、朝鮮側からは政治犯釈放食糧確保条件がだされ、行政権を朝鮮総督府から朝鮮側に委譲されることで合意が得られ、同日発足の朝鮮建国準備委員会に委譲されることとなった。翌日の8月16日、ラジオ放送で、行政権の委譲を発表、5千人程度の公然集会で、呂運亨が報告する。

朝鮮は民族解放の喜びに沸き立ち[2]、各地で日章旗が降ろされ、朝鮮王朝時代からの国旗である太極旗が掲げられたと言われている。政治犯(多くが共産主義者であった)のほとんどが日本本土では10月10日まで釈放されなかったのに対し、朝鮮半島ではその多くが8月16日8月17日に釈放され、8月17日には朝鮮神宮が焼き討ちされた。朝鮮の「解放」を受け、朝鮮半島のさまざまな地域で共産主義者による人民委員会が自然発生的に結成されたとも言われている[3]

9月2日、日本及び連合国各国は降伏文書(休戦協定)への調印を行った。連合国側は朝鮮を米英中ソ4ヶ国による信託統治下におく計画を持っていたが、結局、北緯38度線を境としたアメリカ合衆国及びソビエト連邦の分割占領に至り、朝鮮のその後の歴史に大きな影響を与えることになった。

米ソによる占領[編集]

米ソはもともと互いの軍を朝鮮に進駐させる計画だったが、戦後処理を北緯38度線の南北で分担することなどを決めているにすぎなかった。しかし、アメリカソ連が朝鮮全土を占領することを恐れ、急遽、北緯38度線を境に南を米軍、北をソ連軍が分割占領することでソ連と合意した。

米軍による日本本土占領やソ連軍による東欧諸国への占領に比べると、朝鮮占領については米ソとも準備が足りず、両国軍が朝鮮の内情を把握していなかったことや占領政策が一貫しなかったことは、特に主要都市であるソウルで大きな政治混乱を生む一因となった。このことは、その後の大韓民国朝鮮民主主義人民共和国の建国による南北分断のみならず、両国内のその後の政治にまで大きな影響を及ぼすこととなった。

ソ連軍はアメリカ軍より早く朝鮮への進駐を開始し、8月24日咸鏡南道咸興に到着したが、朝鮮半島北側の中心都市平壌であることを知ると平壌へ後退した。8月26日までにソ連軍は平壌進駐を終え、ソ連側占領軍は朝鮮総督府の行政機関の存続を認めると布告したが、このことが朝鮮人の不興を買い、また実際に行政機能が失われていることを知ってこれをすぐに取り消した[4]。これらの経緯もソ連軍の南下が早すぎ、準備不足であったこと物語っている。

ソ連軍は在ソ朝鮮人・ソ連生まれの朝鮮人を投入して占領政策を遂行しようとした[5]9月19日にはソ連領内に退避していた金日成(後の朝鮮民主主義人民共和国主席)ら元・満州パルチザンたちが元山に到着したが、彼らは各地に分散しすぎたり、地元の共産主義者と対立するなどして政治的主導権を得ることに失敗し、あらかじめソ連と取り決めた役割を担うことができなかった。以降、金日成の権力基盤が安定するまで38度線以北では激しい権力闘争が続いた。

9月7日、アメリカ軍がソ連に遅れて進駐を開始し、9月11日アメリカ占領軍は38度線以南で軍政を布くことを宣言した。朝鮮人は当初、日本からの解放者としてアメリカ軍の進駐を喜んだ。しかし、ソウルではすでに独立国家建設を準備する組織が誕生していたことも手伝って、アメリカが軍政を宣言したことや、朝鮮総督府が残した行政機構・警察機構及びその人員を引き続き用いたことが大きな反発を生み、ソウルの政治情勢は乱戦模様を呈した。

米ソによる分割占領は固定化され、1948年になると、38度線以南ではアメリカによる軍政が終了し、8月13日大韓民国の建国が宣言され、同年9月9日、38度線以北において朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣言された。これにより、今日まで続く朝鮮の分断国家としての歴史が始まることとなった。

脚注[編集]

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  1. ^ ポツダム宣言は第8条において「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」と規定している。
  2. ^ 敗戦すなわち植民地解放を意味しないにもかかわらず、「解放」として捉える見方が急速に伝播したことから、日本の敗戦が朝鮮支配からの撤退につながることを自明視する風聞が事前に飛び交っていたと推測されている。
  3. ^ 人民委員会の結成が自然発生的または自発的だったという点には疑義が呈されてから長い。特に北部については、東欧の事例から事前にソ連との接触があったのではないかとの推測もある。しかし、この点を検証し得る情報はなく、ソ連崩壊後にもなお38度線以北の人民委員会についてはわかっていないことが多い。
  4. ^ ただし、38度線以北については反発の度合い等、現在でも不明確なことが多い。
  5. ^ ソ連が占領政策のために投入した朝鮮人たちは後に排除対象となった。彼らをソ連系ないしソ連派と呼ぶことがある。金日成を参照。

参考文献[編集]

  • 金学俊 『北韓50年史』東亜出版社、ソウル、1995年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]