国境会戦 (朝鮮戦争)

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国境会戦
戦争:朝鮮戦争
年月日1950年6月25日
場所:北緯38度線付近
結果:北朝鮮の優勢
交戦勢力
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮 大韓民国の旗 韓国
指導者・指揮官
金策前線司令官 蔡秉徳参謀総長
戦力
107,000人 33,000人 (逐次増加)
損害
 ?  ?

国境会戦(こっきょうかいせん)は、朝鮮戦争の勃発直後、1950年6月25日北緯38度線付近を戦場として、大韓民国朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で行われた戦闘である。

戦争の準備[編集]

1950年初頭より、北朝鮮においては軍の拡充が急がれはじめた。作戦計画の策定は1950年5月末に完了し、1950年6月10日には師団長会議が開催され、部隊の展開と移動が下令されるとともに、軍団の編成が開始された。この際、企図秘匿のため、師団級部隊の機動演習を名目とした。翌11日、「大機動演習」の実施が発令された。演習期間について、姜総参謀長は「多少長期間になるかもしれないが、二週間もあれば事足りる」[1]と説明するとともに、演習に関しては口外無用であり、家族に対しても秘するよう命じた。これは、実際に二週間の移動訓練であるなら、非常におかしな命令であった。各部隊は6月12日から逐次駐屯地を出発し、23日までには攻撃位置への進入を完了した。上述のように、この部隊移動は演習であるとされていたが、多くの兵は23~24日の夜、真実を知ったと言われている。

一方、韓国国防部は、「1950年春には、人民軍が38度線から全面的に攻撃を行う」との1949年末の総合情報報告に基づき、対応計画の策定を急ぎ、1950年3月25日付で国軍防御計画(陸本作戦命令第38号および付録諸計画)を確定し、隷下部隊に下達した。韓国軍は「北韓当局の侵略計画が完成されていると思われ、彼らの行動はただ時間の問題である」[1]と認識しており、その勢力に関してもほぼ正確に把握していた。

もちろんアメリカも、韓国からの報告の他にも、北朝鮮が38度線で軍備の増強を測っており事態が進行していること多くの情報を掴んでいた。しかし、アメリカ軍国際連合は事態を楽観していた。

  • 1950年春、CIAの将校ジャック・シングローブは38度線を超えて侵入させた朝鮮人工作員から、北朝鮮軍の先鋭部隊の境界への移動、各地の橋での大量の工事、境界近くの鉄道線路の改修等の情報を入手していた。しかしその情報は、GHQの情報機関であるキャノン機関から、信頼性に欠け事実ではない報告として、最低ランクの格付けをされた。)[2]
  • 国務省政策企画室のジョージ・ケナンは1950年5月と6月に、共産圏で重大な事態が進行しつつあり間もなく大軍が作戦に入るという情報を得ていたが、その大軍が北朝鮮である可能性はは軍によって否定された[2]
  • 1950年6月12日、アメリカ軍事顧問団は国連朝鮮委員会の質問に対して「攻撃を受ける現実的な兆候はない。万一侵略が起こっても、韓国軍はこれを撃退することができる」と回答した[3]。同6月、米軍統合参謀本部チャールズ・ボルテ中将は下院委員会において「韓国軍は面目を一新し、兵士の装備は人民軍よりもよい」と証言している。しかしこれらの証言は実際の韓国軍兵士の実態とはかけ離れたものだった。1950年6月15日のペンタゴンに宛てた軍事顧問団からの報告は、韓国軍は辛うじて存在できる水準にしかないこと、装備の大半、兵器の多くが使い物にならないこと、攻撃には最長でも15日しかもたないことを指摘している。

また日本においても山口県の田中知事によって設立された県庁の朝鮮情報室は、朝鮮からの中波、短波の分析や、朝鮮内部の情報提供者からの情報によって独自の状況分析に尽力していた。1950年には状況が切迫しているとの分析結果が出ていた。田中知事は6月21日に上京し吉田茂首相を訪ね状況を伝えた。しかしそのわずか3日前に、38度線視察の帰路に日本に立ち寄った、ジョン・フォスター・ダレスから「米軍の士気は旺盛で、装備も充実しており、まったく心配ない。」と聞いたばかりだとして吉田は激怒した。[4]

韓国軍においても一部では危機感が欠如しており、6月9日蔡秉徳参謀総長は師団長、連隊長級の大規模な人事異動を行なった。これによって国境師団長に補された将軍たちは、当代一流の人物ではあった[3]が、目前と考えられた戦闘に向けての準備期間は明らかに不足であった。また、防御施設については、同年3月に確定された防御計画に基いて構築が進められていたが、38度線における北朝鮮の武力挑発や共産ゲリラの跳梁により、その工事は妨害された。地域住民や青年団による労働奉仕によって相当の進捗を見たとは言っても、障害物の設置はほとんど行なわれず、また特に対戦車防御は極めておざなりであった。陸軍本部作戦局長(姜文奉大佐)は防御施設の強化を提案する建議書を国会に提出したが、5月30日総選挙を受けてこのとき国会は休会中であり、その処理はなされなかった。

作戦計画および戦力配置の概要[編集]

両軍戦力の対比[編集]

北朝鮮については、ソ連は当初より武力統一のための軍備を与えた形跡がある。これに対し、韓国については、アメリカが与えた軍備は、「守るに足り、攻めるには不足」を意図していた[3](しかし開戦後の現実が示すように北朝鮮の全面攻撃に耐えられるものではなかった)。この結果、両軍の装備・錬度・兵力には大きな格差が生じていた。

概観[編集]

朝鮮人民軍(以下北朝鮮軍)は1946年1月に創設された鉄道保安隊を起源としており、正式な発足は1948年2月8日である。1949年末の時点では4個師団を有するに過ぎなかったが、その後半年で倍以上に増強された。特に、49年夏ごろより、中国人民解放軍にあった朝鮮系中国人部隊が、師団編成を保ったままで編入されはじめており、それ以外の部隊にも中国帰りの将兵が多数編入されていた。北朝鮮軍は極めて早いペースで増強されていたが、これら歴戦の将兵により、極めて高い錬度を保っていた。北朝鮮は韓国よりも人口が少なく(約43%)、兵力面では韓国が優位であると考えられていたが、これによって軍事バランスは一気に北側に傾いた。1950年6月25日の開戦の時点で、北朝鮮軍の戦力は、完全編成の歩兵師団8個、未充足の歩兵師団2個、戦車旅団1個および独立戦車連隊1個の正規部隊と警備旅団5個を含み総兵力19万8千、戦車240両、砲552門、迫撃砲1728門、航空機211機にまで増強されていた。

韓国軍は1946年1月に創設された朝鮮警察隊をその母体として、1949年5月には5個師団と1個旅団を有しており、さらに8月には8個師団に増強された。しかし、部内に多数潜入していたスパイ粛清、また独立以来頻発していた北朝鮮によるゲリラ攻撃の討伐に労力を割かれ、訓練は不足気味であった。1950年6月25日の開戦の時点で韓国軍の戦力は、歩兵師団8個を基幹として総兵力10万6千、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機。

部隊の編成・装備[編集]

北朝鮮軍[編集]

北朝鮮軍の歩兵師団の編制は、第二次世界大戦当時のソ連軍の師団を、北朝鮮の国情に合わせて縮小したものであった。各師団は歩兵連隊3個を基幹として、砲兵連隊、工兵大隊を有し、総員は約11,000名であった。各歩兵連隊は総員2,794名、歩兵大隊3個と重迫撃砲中隊120mm重迫撃砲 6門)、歩兵砲中隊(76mm山砲M1938 4門)、対戦車砲中隊(45mm対戦車砲M1937 4門)により編制されていた。また師団の砲兵連隊は、野砲大隊2個(76mm野砲M1939 12門)、榴弾砲大隊(122mm榴弾砲M1938 12門)、自走砲大隊(SU-76 12両)により編制されており、とくに自走砲大隊は師団に限定的ながらも機甲火力を付与していた。

また、国境会戦からソウル会戦にかけて極めて重要な役割を果たした第105戦車旅団は、やはりソ連軍の戦車師団を縮小した編制になっているが、旅団としての主体的な運用というよりは分割されての歩兵直協任務を考慮したものになっている。第107、第109、第203の3個戦車連隊(それぞれT-34戦車40両)と第206の1個機械化歩兵連隊により編制される。

韓国軍[編集]

韓国軍師団の編制は、第二次世界大戦当時のアメリカ軍の師団を、韓国の国情に合わせて縮小したものであった。定数としては、各師団は歩兵連隊3個を基幹として、砲兵連隊、工兵大隊を有し、総員は約10,000名であった。各歩兵連隊は総員約2,650名、歩兵大隊3個と対戦車砲中隊(M1 57mm対戦車砲 6門)により編制されていた。また師団の砲兵連隊は、軽砲大隊3個(105mm榴弾砲M3 5門)により編制されていた。ただし、後方の第2、第3、第5師団は2個歩兵連隊を基幹とし、砲兵大隊を欠く軽歩兵師団であったほか、開戦時の第7師団は隷属替えにより一時的に2個連隊基幹となっていた。装備の充足についても、前方防御部隊はおおむね装備が揃っていたが、後方警戒部隊においては装備の調達が間に合わず、南部でゲリラ討伐を行っていた3個師団に到っては、旧日本軍九九式短小銃を改修して使っている状況であった。また、ゲリラ討伐や麗水・順天事件の鎮圧など多忙であったために全体に訓練が不足していた。6月15日の時点では、第7師団の6個大隊、第8師団の1個大隊、首都警備司令部の9個大隊の計16個大隊が大隊訓練を修了していたが、32個大隊は中隊訓練またはその移行の途上、17個大隊は小隊級の訓練すら終わっていない状況で、連隊級の訓練を修了している部隊は皆無であった[1]

その比較[編集]

韓国軍は戦車を有さないうえに、有効な対戦車火力にも欠けていた。各歩兵連隊は6門の57mm対戦車砲を有し、また各歩兵小隊に2門の2.36インチ(60mm)対戦車ロケット弾発射器(M9/M9A1「バズーカ」)が配されていたが、これらはのちに、北朝鮮軍のT-34戦車に対しては事実上無力であることが分かった[5]。このため、機甲火力については、北朝鮮軍の優位はまったく隔絶したものであった。

砲兵火力についても、質・量ともに大きな格差があった。砲兵連隊の装備については、韓国軍は有効射程6,525mの105mm榴弾砲M3型を15門装備する程度であったのに対し、北朝鮮軍は有効射程11,710mのM1938 122mm榴弾砲を12門、有効射程11,260mのSU-76 76mm自走砲を12門、有効射程13,090mのM1939 76mm野砲を24門、計48門の火砲を装備していた。北朝鮮軍ではさらに各歩兵連隊にM1938 76mm山砲が4門配備されていたので、これを含めると1分間の投射弾量比は1:10で北朝鮮軍師団の圧倒的優位であった。また迫撃砲についても、60mmの軽迫撃砲で韓国師団の81門に対し北朝鮮師団は108門、80mm級の中迫撃砲で韓国師団の36門に対し北朝鮮師団は81門、口径100mm超過の重迫撃砲については、韓国師団がアメリカ製4.2インチ(107mm)重迫撃砲を一切保有していなかったのに対して北朝鮮師団は18門のソ連製120mm重迫撃砲を有していた。山がちな朝鮮半島の地形を考慮すると、迫撃砲における差は極めて重大である。

北朝鮮軍による攻撃計画[編集]

北朝鮮軍の作戦計画は概ね、韓国軍の主力をソウル周辺で捕捉・殲滅し、同市を占領したのち、速やかに残存兵力を掃討しつつ釜山に進出し、これを解放するというもので、次の3つの段階によって達成される計画であった。

  1. 韓国軍の防御線を突破し軍主力を殲滅、3日以内にソウルを占領し、ソウル~原州三陟に進出する
  2. 予備部隊を撃破しつつ戦果を拡大、群山大邱浦項まで進出する
  3. 韓国軍の残存戦力を掃討しつつ南海岸に進出し、釜山~麗水木浦に展開する

これを実現するため、北朝鮮軍はその地上軍の全10個師団を、第1、第2の2個軍団に編成した。

第1軍団[編集]

第1軍団はソウル北方に弧状に配置され、ソウルに向けて求心的な攻撃を実施するよう指導された。このことから、第1軍団には、前線司令部直轄の第105戦車旅団柳京洙少将)が配属されていた。

開城 - 汶山 - ソウルの経路では、第105戦車旅団より分遣された第203戦車連隊の支援を受けつつ、第1、第6の2個師団が前進する計画であった。第1師団は第1、第2、第3の3個連隊を基幹としており、師団長は崔光少将。駐屯地は南川站であり、九化里に展開した。第6師団は第13、第14、第15の3つの連隊を基幹としていたが、開戦時には第14連隊が甕津半島での作戦に投入されており、師団主力は総員8000名であった。師団長は方虎山少将、駐屯地は新義州であり、開城北側に展開した。中国人民解放軍の第166師団に所属する東北義勇軍の朝鮮系中国人10,000名を母体とする。この経路における攻撃部隊の総兵力は21,000名であり、韓国軍の防御部隊(第1師団: 9715名)に対し2.2倍の兵力であった。

鉄原 - 議政府 - ソウルの経路では、第105戦車旅団主力とともに、第3、第4の2個師団が前進する計画であった 第3師団は第7、第8、第9の3個連隊を基幹としており、師団長は李永鎬少将、駐屯地は平康站であり、雲川に展開した。第4師団は第5、第16、第18の3個連隊を基幹としており、師団長は李権武少将、駐屯地は南浦であり、漣川に展開した。実際の攻撃においては、軍団予備の第13師団(6000名)も参加したため、この経路における攻撃部隊の総兵力は32,000名であり、韓国軍の防御部隊(第7師団: 7211名)に対し4.4倍の兵力であった。

軍団予備としては、第10師団および第13師団が拘置される計画であった。第10師団は第25、第27、第107の3個連隊を基幹とし、師団長は李芳南少将、駐屯地は粛川であった。第13師団は第19、第21、第23の3個連隊を基幹としていたが、完全編成ではなく、開戦時兵力は6000名であった。師団長は崔勇進少将、新義州の駐屯地から金川に展開した。

第2軍団[編集]

第2軍団は助攻として、春川正面(華川~麟蹄)で北緯38度線を突破したのち、その主力は春川を突破し、第1軍団と連携した包囲攻撃によってソウルを占領する一方、その一部をもって東海岸道において韓国軍の後方を攪乱し、その撤退を阻害させる計画であった。

第2軍団の主力部隊は第2、第12師団および独立戦車連隊で、開戦当日に春川を占領したのち、ソウル東方と水原方面に迂回して韓国軍主力を包囲する計画であった。第2師団は第4、第6、第17の3個連隊を基幹としており、師団長は李青松少将、元山の駐屯地から華川に展開した。その任務は、開戦当日のうちに春川を攻略するというものであった。第12師団は第30、第31、第32の3個連隊を基幹としており、師団長は全宇[6]少将、元山の駐屯地から楊口に展開した。第12師団[7]は、清津の独立戦車連隊(T-34戦車30両)の支援を受けつつ、洪川に向けて突進し、韓国軍の退路を遮断するよう求められた。

一方、第5師団は東海岸道を突進し、江陵 - 三陟まで進出するよう求められていた。同師団は第10、第11、第12の3個連隊を基幹としており、師団長は金昌徳少将、羅南の駐屯地から襄陽に展開した。中国人民解放軍の第164師団に所属する東北義勇軍の朝鮮系中国人10,000名を母体とする。また、第5師団に配属された第766部隊と第549陸戦隊は、海上機動によって韓国軍の後方に上陸し、撹乱する計画であった。

韓国軍の防衛計画[編集]

一方の韓国軍は、人民軍の主攻は鉄原 - 議政府 - ソウルに指向されるとの判断のもと、軍を前方防御部隊と予備隊、後方警戒部隊の3つの梯隊に分け、前方防御地帯においては3本の陣地線を構築して段階的な防御作戦を展開し、特に議政府地区において重点を形成する計画であった。これらの陣地線に拠って、防御作戦は以下の3つの段階によって実施される計画であった。

  1. 初期作戦: 38度線南側に沿った警戒陣地(A線)における防御と遅滞戦闘。主抵抗線前面の橋梁・道路を破壊し、主抵抗線での態勢を整頓する時間を確保する。
  2. 第二期作戦: 臨津江南岸~春川~注文津北側の主抵抗線(B線)における戦闘。火力の集中発揮および逆襲によって、極めて強力な戦闘を実施する。陣前において敵を撃滅することを目的とし、陣地への進入を許した場合にも極力この線で膠着させる。戦闘指導に困難を来した場合には、遅滞戦闘を実施しつつ、逐次予備陣地に移動する。
  3. 第三期作戦: 最後方の抵抗線での戦闘。予備陣地線において、全軍をもって敵戦力を粉砕し、同陣地を固守する。

また、3個梯隊のうち、後方警戒部隊は本来警察や青年防衛隊、海空軍が主力となる計画であったが、実際には開戦前日(24日)の時点で、全61個大隊のうち25個大隊はゲリラ討伐のために南部に分散配置されていた。また、11個大隊が38度線国境付近の前方防御陣地に、残る25個大隊が第一線師団の予備としてソウル~原州~三陟の地域に駐屯していた[3]。これらの各梯隊の編成と任務・防御計画は以下のようなものであった。

前方防御部隊[編集]

第17連隊は甕津半島において、親部隊(首都警備司令部)から切り離されて連隊戦闘団編成を取っており、総員2500名。開戦時の連隊長は白仁燁大佐。その任務は、甕津地区において防御戦闘を展開するとともに、遊撃戦によって敵の後方を攪乱することであった。必要に応じ海州一帯の占領を準備することになっていた[1]が、一方で、戦況次第では一時撤退することも考慮されていた[3]

第1師団はソウルの北西、開城から高浪浦にかけての正面を担当していたが、開城については必要に応じて放棄する決心をしており、防御の重点は汶山に指向していた。また、敵が主攻を向けると考えられる議政府正面の第7師団の左翼を援護することも求められていた。第11連隊(2527名)、第12連隊(2728名)、第13連隊(2578名)の3個連隊を基幹として砲兵、工兵大隊も配属されており、総員9715名。開戦時の師団長は白善燁大佐。

第7師団はソウルの北東、議政府回廊の正面を担当しており、敵の主攻との衝突が想定されるもっとも重要な部隊であった。第1連隊(2,514名)、第3連隊(2,487名)、第9連隊(2,419名)の3個連隊を基幹とし、砲兵、工兵大隊も配属されていた。ただし、開戦の直前(6月15日付)に行われた部隊改編により、第3連隊が首都警備司令部に隷属変更され、これに代わり第2師団より編入された第25連隊の部隊移動が遅れたため、第7師団は2個連隊基幹(総員7211名)で開戦を迎えた。開戦時の師団長は劉載興准将

第6師団は春川正面の中部山岳地帯を守備しており、険峻な地形を利用して構築した陣地による防御戦闘および遊撃戦を展開するとともに、第7師団の右翼を援護するよう求められていた。第7連隊(2,411名)、第8連隊(2,288名)、第19連隊(2,168名)および砲兵、工兵大隊により編成されており、総員9,112名。開戦時の師団長は金鐘五大佐。

第8師団は東海岸道正面を守備しており、険峻な地形を利用して構築した陣地による防御戦闘および遊撃戦を展開し、特に東海岸からの上陸を企図する敵を水際で撃滅する計画であった。第10連隊(2,476名)、第21連隊(2,467名)の2個連隊および砲兵、工兵大隊により編成されており、総員6866名。開戦時の師団長は李成佳大佐。

予備隊および後方警戒部隊[編集]

首都警備司令部(首都警備師団)の任務は金浦仁川を含む首都圏の防御を準備することであり、甕津半島において陸軍本部の直接指揮を受けている第17連隊に加え、第2連隊(2,615名)と第18連隊(2,778名)を隷下に有しており、開戦直前にはさらに第7師団より第3連隊(2,487名)が加えられた。ただし第17連隊を除いて、部隊の主力は儀仗隊であり、戦力として期待しうるものではなかった。総員で9,548名、司令官は李鐘賛大佐であった。

第2師団は大田周辺に駐屯して小白山脈のゲリラ討伐を行っており、開戦時には春川~議政府付近に展開する計画であった。第5連隊(1,895名)、第16連隊(2,408名)、第25連隊(2,210名)を基幹として総員7,910名、砲兵・工兵を有さない軽歩兵部隊であった[8]。このうち第25連隊は議政府正面の第7師団に編入されていたが、施設の整備が間に合わず、開戦までに移動できなかった。開戦時の師団長は李亨根准将。

第3師団は大邱・釜山周辺に駐屯してゲリラ討伐を行っており、開戦時には議政府~汶山付近に展開する計画であった。第22連隊(2,646名)、第23連隊(2,587名)の2個連隊基幹で総員7,059名、砲兵・工兵を有さない軽歩兵部隊であった。開戦時の師団長は劉升烈大佐。

第5師団は光州周辺に駐屯して全羅道智異山周辺の治安維持を行っており、開戦時には汶山~議政府付近に展開する計画であった。第15連隊(2,119名)、第20連隊(2,185名)、第1独立大隊(698名)を基幹として総員7,276名、砲兵・工兵を有さない軽歩兵部隊であった。開戦時の師団長は李應俊少将。

これらの師団級部隊に加え、独立機甲連隊、砲兵学校教導連隊、第1工兵団があり、また重要施設の警備は警察、青年防衛隊、大韓青年団が、海岸線の警備は海軍の指揮下で特別警察隊と海岸青年防衛隊が行なう計画であった。対空警戒は、空軍本部の対空計画に基いて編成された対空監視部隊、および陸軍の各級部隊が編成した対空部隊が行なうことになっていた。

戦闘の経過[編集]

開戦[編集]

1950年6月25日午前4時、北朝鮮軍は甕津半島において攻撃準備射撃を開始した。射撃は信号弾による合図とともに順次東に向けて拡大し、午前5時ごろには東海岸においても開始された。投入された火力は、38度線全線で砲迫計3,000門に及んだ。これに先立って午前1時、甕津半島の第17連隊は敵の接近を偵知し、緊急電によりこれを陸軍本部に急報した。3時には第1師団、さらに3時30分には第7師団が敵の攻勢準備を報告した。これに続き、北朝鮮軍は計画通り38度線を越境し、攻撃を開始した。

一方、韓国軍は北朝鮮軍の南侵を警戒して、6月11日より非常警戒態勢にあったが、何らの兆候も掴めなかったため、23日午前0時付けでこれを解除していた。砲撃が起こった際幹部の多くは研修や留学のため手薄な状態であり、つい2週間ほど前に人事異動があったばかりで新しい将校は部隊を掌握できていなかった。また農繁期でもあったため、各部隊は外出・外泊・休暇を認め、約3分の1の兵力が持ち場を空けていた。前日夜には陸軍会館将校クラブの落成パーティーが開かれ、高級将校の多くが夜半まで宴を楽しんでいたため非常召集を受けた将校らは二日酔いの者も多かった。

韓国軍はこれ以前にもメーデー、総選挙にあわせて非常警戒態勢をとっており、計45日にもおよんでいた。

甕津半島[編集]

甕津半島における北朝鮮軍の攻撃部隊は、上述の第6師団第14連隊に加え、内務省管轄の第3警備旅団の合計6800名であった。これに対する韓国軍の第17連隊は、この前日より北朝鮮軍の様子が尋常でないことを察し、警戒態勢を強化し、戦闘配置を行なっていた。しかし北朝鮮軍の攻撃部隊は兵力が約2倍半で装備も優越しており、午前6時には第1大隊の主抵抗線が突破された。連隊長はただちに第2大隊に逆襲を命令し、これは成功したが、今度は第3大隊が後退を余儀なくされた。17時には連隊は分断され、事態を絶望視したアメリカ軍顧問5名は連絡機でソウルに退避し、連隊の撤退を要請した。翌26日朝、第17連隊主力は派遣された3隻のLSTに分乗して撤退した。また、逆襲に成功した第2大隊は、第1大隊の落伍兵を収容しつつ、民間船舶によって撤退した。

開城・汶山-奉日川[編集]

この地域を守備する韓国軍第1師団は、第12連隊(開城正面)と第13連隊(高浪浦正面)を前方配置し、第11連隊を水色において予備としていた。

開城においては、地域一帯の制高点である松嶽山標高486m)が北緯38度線の北側にあったため、韓国軍第12連隊の陣地は北朝鮮軍によって見下ろされる状態にあった上に、この朝、多くの兵員が休暇外泊によって配置を外れており、実勢力は定数の半数程度であった。この方面には、北朝鮮軍第6師団の主力2個連隊が指向されていたが、このうち第13連隊が松嶽山正面からの攻撃によって韓国軍を拘束し、この隙に、密かに京義本線を修理して、列車により第15連隊を一気に開城駅まで突進させた。この奇策は見事に成功し、第12連隊は挟撃を受けて壊乱、開城は9時30分頃には北朝鮮軍により完全占領された。第12連隊のうち、組織的な後退に成功したのは連隊本部と2個中隊のみであった。

高浪浦の韓国軍第13連隊は、5時ごろより北朝鮮軍による砲兵射撃を受け、これに続き第203戦車連隊の40両のT-34戦車の支援を受けた北朝鮮軍第1師団の攻撃を受けた。これに対し、第13連隊はまず57mm対戦車砲で射撃をしたものの効果は無く、爆雷や梱包爆薬、柄付き爆薬などによる肉薄攻撃に至った。これによって戦車4輌を撃破したものの、第一波約90名全員が戦死したため、後に続くものがいなくなり、ついに北朝鮮軍の戦車隊は陣地を蹂躙するに到った。これを受けて韓国軍第13連隊はそれ以上の防御戦闘を断念して、効果的に遅滞戦闘を行いつつ、計画どおりに臨津江南岸、坡平山の既設陣地に移動した。

一方、水色にあった第11連隊と第1師団司令部は秩序よく北上し、第13連隊の左翼に連係して、汶山付近の臨津江南岸の陣地に進入した。臨津江は全体に水量豊富で、渡河は臨津江鉄橋か、または第7師団との境界地域にあるカヨウルにおいて行なうしかなかった。このため、第1師団は臨津江北岸の部隊の撤退後、臨津江鉄橋を爆破する計画であった。しかし、壊乱した第12連隊、および休暇外泊中だった将兵が臨津江鉄橋を渡って三々五々と臨津江南岸に集結しつつあったため、爆破するタイミングの判断は困難であった。さらに、北朝鮮軍は第12連隊の後衛と混交状態で急追したため、ついに第1師団は鉄橋の爆破に失敗し、は無傷で北朝鮮軍の手に落ちた。しかし臨津江を活用した河川防御、および第1師団長の適切な陣頭指揮により、25日の戦闘は韓国軍の優勢のうちに推移し、北朝鮮軍の進撃は阻止されていた。

東豆川・抱川-議政府[編集]

北朝鮮が計画し、韓国が予想した通り、北朝鮮軍の主攻はこの方面に指向された。北朝鮮軍第3師団は雲川から抱川に、第4師団は漣川から東豆川に向け、それぞれ第109、第107戦車連隊の支援を受けつつ、急速に前進した。この方面を守備する韓国軍第7師団は事実上2個連隊基幹となっており、第1連隊[9]が東豆川正面を、第9連隊が抱川正面を担当し、予備隊は存在しなかった。このため、各部隊の配置は疎になっており、特に第1連隊は、第2大隊が北朝鮮軍の強力な歩戦協同部隊と激戦中であるにもかかわらず、他の2個大隊は接敵すらしていないという状況にあった。第2大隊は勇戦敢闘したものの弾薬の再補給を受けられず、15時ごろより主抵抗線を突破されはじめた。北朝鮮軍はその勢いを駆り、夕刻には東豆川市内に突入した。韓国軍第1連隊は後退し、集結したが、通信途絶により第1大隊には後退命令が伝わらなかった。

一方、抱川正面の韓国軍第9連隊は、連隊長の処置により全将兵が営内待機していた。これに対する北朝鮮軍第3師団は、他の部隊より20分早い3時40分より攻勢準備射撃を開始し、第109戦車連隊の戦車40両を先頭にした主攻を梁文里から抱川に到る43号線に指向する一方、梁文里西方の永平里から抱川北側の加郎山に到る軸線に助攻を指向し、第9連隊主力の後方を遮断しようと試みたが、この方面に配置されていた前哨中隊の抵抗によってこれは失敗した。しかし歩戦協同攻撃により韓国軍は圧倒され、9時には主抵抗線まで後退していた。第9連隊は頑強に抵抗したが、予備陣地まで敵に蹂躙され、第7師団との連絡も途絶したことから、連隊長は独断で17時ごろより光陵への後退を実施した。この際第3大隊には命令が伝わらず、陣地を固守していたために後退の時期を逸し、大損害を受けた。

第7師団よりソウルの首都警備司令部に隷属換えされていた第3連隊は11時、第7師団への配属命令を受け、この時点で召集されていた600名を2個大隊に臨時編成して、第3大隊長の指揮下で抱川に向かった。連隊長は抱川で連隊と合流し、同市南方の松隅里に応急陣地の配備を決心したが、配備完了以前に戦車7~8両を含む北朝鮮軍の機甲部隊の攻撃を受けた。第3連隊は圧倒されて連隊長が行方不明になり、第3大隊長の指揮下で後退した。

北朝鮮軍は開戦当日に東豆川道正面で8キロ、抱川道正面で10キロを突破した。これに対し、韓国軍第7師団は開戦当日に東豆川、抱川を奪取され、部隊は分散し、議政府の防御は危険な状況に陥っていた。韓国軍陸軍本部はこの状況を認識しており、上述のように第3連隊が第7師団に復帰したほか、午後には第18連隊(1個大隊欠)に加え、陸軍士官学校の部隊も追加配属された。さらに到着しはじめた後方警戒部隊も議政府正面に投入され、最終的に、25日から26日にかけて議政府方面に増援された部隊は5個連隊の計15個大隊に及んだ。しかしこれら部隊は、非常召集によって集結した順序のままの臨時編成で投入されており、指揮系統の確立がまったくなされておらず、また逐次に投入されたため、これらの増援部隊は所期の戦闘力を発揮することができず、各個に撃破される結果となった[1]

春川~洪川正面[編集]

中部戦線を守備する韓国軍第6師団は、防御地域西側を南北に流れる北漢江と、前方を横切る昭陽江を利用して、第7連隊は春川正面において昭陽江の北岸に、第2連隊[10]は洪川正面において昭陽江の南岸に前方配置し、第19連隊を原州において予備としていた。同師団は既に3分の1の兵員が外出・外泊していた[11]が、独自の情報と判断に基づき警戒態勢をとっていた。ただし、第2連隊は6月20日に編入されて第8連隊と交替したばかり[1]であり、第19連隊も5月1日に編入されたばかりで、態勢はいまだ整っていない状態であった。これに対する北朝鮮軍は、第2師団を主攻として春川を攻撃し、25日中にこれを占領するとともに、第12師団[7]を独立戦車連隊で増強して洪川方面に突進させ、早期にこれを占領したのち、迂回してソウルを包囲する計画であった。

第7連隊の正面、38度線の南側300mにある毛津橋は、北漢江の渡河において重要な橋であったが、北朝鮮軍の瞰制下にあったためにこれを爆破できず、第7連隊の防御は一気に崩れてしまった。北朝鮮軍の迅速な進撃もあって第7連隊は遅滞に失敗し、北朝鮮軍は同25日9時ごろには春川が見える付近まで進出し、いったん進撃を止めた。しかし第7連隊の戦闘配置は迅速かつ整然と進行し、また対戦車中隊が北朝鮮軍の自走砲の破壊に成功したことで、戦車に対する恐怖心も薄れていた[12]。この方面の攻撃を担当した北朝鮮軍第2師団は春川市の攻略にあたって、第4連隊の正面攻撃によって韓国軍を牽制し、その隙に、密かに第6連隊で北漢江の河床を前進させ、中央を突破しようとした[3]。しかし第6連隊は、韓国軍の105mm榴弾砲の直接射撃を受け、河床とあって遮蔽もなく、両岸が崖であったために退避もできず、大損害を受けた。また、正面攻撃を行なった第4連隊も、待ち構えていた韓国軍の猛射を受けて大損害を出した。河床道の第6連隊は、韓国軍砲兵の集中射撃によって50%に達する損害を受け、第4連隊は督戦を受けて突撃を繰り返したものの、攻撃は頓挫した。

一方、洪川正面の第2連隊は、上述の通り隷属替えされた直後であり、警備区域の地形の把握も不十分で、第2大隊に到っては洪川に到着したばかりで、装備の梱包すら解いていなかった。この第2大隊は予備として決雲里に拘置され、第1大隊は最前方の冠岱里に、第3大隊は右前方の縣里に配置されていた。これに対する北朝鮮軍は、第12の1個師団を独立戦車連隊で増強したもので、その主攻は冠岱里に、助攻は縣里に指向されていた。この25日、前日の大雨によって昭陽江は増水して韓国軍にとって有利な障害となっており、冠岱里の韓国軍第2連隊第1大隊は、冠岱里北方の渡し場で渡河を試みた北朝鮮軍を2度にわたって撃退した。しかし北朝鮮軍の猛烈な砲撃によって同大隊は3分の2もの損害を出し、弾薬も消耗し、ついに後退した。また、第2連隊の警備区域は地形的に東西に分断されており、縣里の第3大隊について、連隊本部では所在すら把握できなくなっていた。一方、予備となっていた第2大隊は、冠岱里の南方に位置する於論里まで前進し、後退してきた第1大隊とともに守備についた。第2大隊は交戦によって北朝鮮軍戦車1両を撃破、1両を擱坐させ、さらに全火力を集中することで歩戦を分離させ、ついに撃退に成功した。この戦果に勇気を得た第2連隊は、この時点で掌握していた2個大隊により、翌朝をもって反撃に出ることとした。しかし同連隊の戦闘力を考えると、これは冒険であった。

東海岸[編集]

東海岸地域を守備していた韓国軍第8師団は、前方防御部隊としては唯一2個連隊基幹の師団で、38度線に第10連隊が、後方の三陟に予備として第21連隊が拘置されていた。東海岸地域では、6月中旬にゲリラが浸透しており、第8師団はその討伐に各連隊より計2個大隊を抽出しており、特に第10連隊は、左翼第一線の第1大隊をゲリラ討伐に分遣するため、第3大隊との交代中であった。これに対する北朝鮮軍は、第5の1個師団に、ゲリラ訓練を受けた2個連隊相当のコマンド部隊(第766部隊、第549陸戦隊)を加えたものであった。第5師団は計画通り、25日4時より攻勢準備射撃を開始し、主攻を注文津に指向した。もとより手薄になっていた国境陣地の第10連隊前方部隊は即座に圧倒され、阻止陣地での抵抗にも失敗し、遅滞戦闘を展開しつつ後退していた。

一方、北朝鮮軍第549陸戦隊は、25日早暁には先発隊を奇襲上陸させ、燈明洞の海岸哨所にて警戒中であった警官1名を射殺して密かに橋頭堡を確保、4時ごろより本隊の上陸を開始し、地元住民を強制徴用して弾薬等を輸送させた。このことは、同村の大韓青年団員によって急報され、第8師団長は5時40分ごろ報告を受けた。第549陸戦隊は1個大隊を江陵に向けて北上させ、また1個大隊を玉渓方向に南下させた。また、さらに、北朝鮮軍第766部隊は7時ごろより臨院津に上陸し、1個大隊が太白山脈に浸透し、1個大隊は三陟方向に北上した。また、一団のゲリラ船が三陟に上陸を試みたが、57mm対戦車砲により2隻を撃沈されて退却した[13]

第8師団長は、6時より師団の作戦会議を召集し、第10連隊をもって最大限遅滞しつつ、三陟の第21連隊を江陵に移動させ、連谷川~沙川の主抵抗線で敵を撃滅するよう指導した。また、陸軍本部に対し1個連隊の増援を要請したが、陸軍本部はこれを断った直後より連絡を途絶した。これらの状況から長期戦を予感した韓国軍第8師団長は、25日10時を期して作戦地域内に戒厳令を布告し、軍・警察の家族と公共機関を後方に避難させるとともに、住民の避難計画の発動を要請した。第8師団の民間人保護計画の綿密さは特筆すべきものであったので、住民は軍を信頼し、情報収集や連絡などの作戦支援や、炊き出しなどの後方支援を進んで引き受けた。[3][1]

燈明洞への北朝鮮軍の上陸を受け、第10連隊は第4中隊と対戦車中隊を急派し、第4中隊は安仁津西方において北上してきた北朝鮮軍部隊を撃破した。また対戦車中隊は、安仁津付近で上陸しつつあった船団と交戦し、これを撃退した。この報告を受けた第8師団長は、南より第10連隊を挟撃しようとしている北朝鮮軍部隊の阻止が急務であると判断し、江陵の南方12kmの群仙江に防御陣地を急編する決心をした。しかし遅滞戦闘中の第10連隊に余力はなく、第21連隊はなお三陟で移動準備中であった。このため、第8師団長は第10連隊に対し、第21連隊の到着まで群仙江の線を守るよう命じる一方、同連隊に1個工兵中隊を配属するとともに師団工兵大隊を連谷川の主抵抗線に配置した。これを受け、第10連隊は連隊予備である第3中隊を群仙江に派遣し、配属された第21連隊第10中隊、1個工兵中隊とともに群仙江の防御陣地を急編した。また、主抵抗線においては、増援された工兵大隊の援護下で第10連隊が再編成を行っていた。なお、これは韓国軍工兵が歩兵戦闘を行った初の記録である。

一方、師団作戦会議ののち、北朝鮮軍が臨院津に上陸したという情報を入手した第21連隊長は、北方の第1大隊をもってこれを確認させた。同大隊第1中隊は玉渓において捜索中、南下中の北朝鮮軍1個中隊規模を発見、警察および大韓青年団とともにこれを壊滅させるとともに、北朝鮮軍がパムジェにおいて道路を遮断していることを確認した。第21連隊長は江陵への移動命令を受けて準備中であったが、この報告を受け、移動経路を内陸に変更した。第21連隊主力は19時に三陟を発って翌26日10時30分ごろ、群仙江の防御陣地を引き継いだ。

総括[編集]

北朝鮮による奇襲はおおむね成功し、韓国はほぼ完全に不意を突かれた形となった。また、北朝鮮軍は装備・錬度においても韓国軍と比して相当に優越していた。特に戦車については、韓国軍に有効な対戦車火器が欠けていたこともあり、韓国兵に根強い恐怖心を抱かせるまでに至り、このため、戦線の全域で北朝鮮軍優位に戦況は推移した。しかし、北朝鮮の予期とは異なり、韓国兵の戦意は旺盛で、肉薄攻撃によって戦車が撃破される例も多々見られた。また、前方防御部隊の多くは、河川障害や錯雑地形を活用して巧みな防御戦を展開しており、これらの障害に欠けていた議政府正面を除いて、韓国軍の防御線は決定的な破綻を来たすには到らなかった。しかし議政府正面においては、機甲部隊の衝撃力を利用した北朝鮮軍の攻勢により、当初の守備部隊であった第7師団は大損害を受けており、また韓国陸軍本部は戦力の逐次投入という愚を犯しつつあった。このため、最終的に議政府正面で北朝鮮軍による突破を許し、ソウルの陥落に繋がることになる。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 韓国国防軍史研究所編(2000)
  2. ^ a b デイヴィッド・ハルバースタム|ザ・コールデスト・ウインター(上)p82
  3. ^ a b c d e f g 陸戦史研究普及会(1970)
  4. ^ 庄治潤一郎 「朝鮮戦争と日本の対応—山口県を事例として—」 p159
  5. ^ 側面射撃やハッチ内への射撃といった奇策による撃破はあった。
    なお、ドイツ軍が独ソ戦においてT-34に対して使用したパンツァーシュレックの口径は88mmである。
  6. ^ 文献によっては崔仁または崔仁斗としている場合がある。
  7. ^ a b 『韓国戦争第一巻』による。『朝鮮戦争1』によれば第7師団、開戦直後に第12師団と改称したとされている。
  8. ^ 白(2002年)
  9. ^ 『陸戦史集1』では第3連隊とされているが、同隊はこの時首都警備司令部隷下にあり、誤りと考えられる。
  10. ^ 『韓国戦争第一巻』による。『朝鮮戦争1』によれば第8連隊。
  11. ^ 『韓国戦争第一巻』による。『朝鮮戦争1』によれば、第6師団長は外出・外泊を許さなかった。
  12. ^ 『韓国戦争第一巻』によると、この時期、韓国兵は自走砲(SU-76)と戦車(T-34)を区別できなかった。
  13. ^ 『朝鮮戦争1』による。ただし、後述の第10連隊対戦車中隊による安仁津での交戦と混同している可能性もある。

参考文献[編集]

  • 韓国国防軍史研究所編、翻訳・編集委員会訳、『韓国戦争第一巻 ‐ 人民軍の南侵と国連軍の遅滞作戦』、かや書房、2000 ISBN 4906124410
  • 陸戦史研究普及会編、『朝鮮戦争史1 - 国境会戦と遅滞行動』、原書房(陸戦史集1)、1966
  • 白善燁、『指揮官の条件 - 朝鮮戦争を戦い抜いた軍人は語る』、草思社、2002 ISBN 978-4794211415
  • デイヴィッド・ハルバースタム、『ザ・コールデスト・ウインター(上)』、文藝春秋、2009 ISBN 978-4163718200