金城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
金城の戦い
戦争:朝鮮戦争
年月日1953年7月13日 - 27日
場所朝鮮半島江原道華川郡
結果:中国軍の勝利、韓国は金城突出部を喪失
交戦勢力
国際連合の旗 国連軍
中華人民共和国の旗 中国
指導者・指揮官
マクスウェル・D・テイラー大将
丁一権中将
楊勇
戦力
第8軍
第20兵団
損害
韓国側資料:14,373[1]
  • 戦死:2,689[1]
  • 戦傷:7,548[1]
  • 不明:4,136[1]

中国側資料:78,000[1]

中国側資料:21,578
  • 戦死:9,187
  • 戦傷:12,391

韓国側資料:約66,000[1]

  • 戦死:27,126[1]
  • 戦傷:約38,700[1]
  • 捕虜:166[1]

金城の戦い日本語:クムソンのたたかい、きんじょうのたたかい、韓国語:金城戰鬪、금성 전투中国語金城战役英語Battle of Kumsong)は、朝鮮戦争停戦間際の1953年7月13日から7月27日にかけて行なわれた国連軍及び中国人民志願軍による戦闘。

経緯[編集]

1953年3月、ヨシフ・スターリンが急死すると共産側は態度を軟化し、休戦交渉は進展した[2][3]。1953年春から中朝軍はにわかに攻勢を開始した[4]。5月に始まった第1次進攻、第2次進攻によって、中朝軍は金城東側で正面10キロ、縦深3-8キロの地歩を獲得した[4]。このため国連軍の前線は金城地区の20キロ正面が突出する形となった[4]

6月初旬頃から中共軍の局地攻勢の頻度が増してきた[3]。当初は、小・中隊規模の攻撃であったが、ついには連隊規模で前哨陣地の争奪を繰り返し、7月になると、ますます規模が大きくなった[3]。この間に金城突出部では変化が起きなかったが、捕虜の供述や偵察から中共軍の集結を察知しており、「華川ダムを目標として大攻勢をとる」という捕虜の陳述もあった[5]

当時、韓国軍第2軍団(軍団長:丁一権中将)は、西から第6師団第8師団第3師団、第5師団を並列して金城川に沿う20キロ正面を防御していた[5]。さらに第2軍団の西にはアメリカ軍第9軍団隷下の首都師団第9師団が配備され、東にはアメリカ軍第10軍団の第7師団が北漢江の東岸を防御しており、金城突出部を中心として韓国軍の7個師団が防御していた[5]

第2軍団は、軍団長の丁一権が体調を崩しており、一部の師団は経験の浅い師団長が指揮をしていた[6]。また中共軍については局地争奪戦を仕掛けてくると判断し、大攻勢を予想していなかった[7][8]

中共軍の攻勢理由については、「韓国軍の面目を失墜させ、戦後の政治的立場を有利に運ぶ」、「華川ダムを奪取して韓国の復興を妨げ、北朝鮮の復興を容易にさせる」、「弾薬を撃ち尽くす」などが挙げられる[7][9]

中共軍の作戦構想は、西集団、中集団、東集団の3つの作戦集団をもって、金城突出部の中央部に当たる利船洞を求心的に攻撃し、韓国軍第2軍団を包囲殲滅した後、梨実洞-北亭嶺-利船洞-広大洞を占領(第1段階)[4]。戦果を拡張して、南方数キロの三天峰-赤根山-白岩山を占領(第2段階)し、またこの攻勢を容易にするために、西側では第54軍で韓国軍第2軍団の西翼を攻撃し、東側では第21軍を進出させてアメリカ軍第10軍団を阻止することであった[4]

編制[編集]

国連軍[編集]

中共軍[編集]

師は師団、団は連隊、営は大隊、連は中隊である。

  • 第20兵団 司令員:楊勇、政治委員:王平、参謀長:蕭文玖、副参謀長:趙冠英
    • 西集団 第68軍副軍長:宋玉琳、第54軍副軍長:呉瑞山、第68軍政治委員:李致遠、第68軍副参謀長:廖鼎祥
      • 第68軍第203師
      • 第68軍第204師
      • 第54軍第130師
      • 砲兵
        • 第135師野砲営
        • 第199師野砲営
        • 第198師野砲営
        • 第200師2個榴砲連
        • 第130師山砲営
        • 第134師山砲営
        • 第134師野砲営
        • 第135師山砲営
        • 第203師山砲営
        • 戦車第3師砲兵団1個営1個連
        • 砲兵第6団第2営
        • 砲兵第30団第1営
        • 砲兵第20団1個連
        • 砲兵第201団
        • 砲兵第404団第2営
        • 高射砲兵
          • 第601団
          • 第50団
          • 第49団
          • 第135師独立高射砲兵営
      • 工兵第4団2個営
      • 戦車独立第2団1個連
      • 57ミリ対戦車砲1個営
    • 中集団 第67軍軍長:邱蔚、第54軍軍長:丁盛、第67軍政治委員:曠伏兆、第54軍政治委員:謝明
      • 第67軍199師
      • 第67軍200師
      • 第67軍201師
      • 第57軍135師
      • 第68軍202師2個団
      • 砲兵
        • 第201師野砲営
        • 第199師山砲連
        • 第200師山砲連
        • 第201師山砲連
        • 第196師砲兵団第3営
        • 砲兵第29団第2、3営
        • 砲兵第28団第1、2営
        • 砲兵第41団
        • 砲兵第207団
        • 高射砲兵
          • 第607団
          • 第45営
          • 第46営
          • 第47営
          • 第22営
      • 工兵
        • 第10団1個営
        • 第20団1個営
      • 戦車独立団1個連
      • 57ミリ対戦車砲1個営
    • 東集団 第60軍軍長:張祖諒、第60軍副軍長:王誠漢、第60軍副軍長兼参謀長:鄧仕俊、第60軍副政治委員:趙蘭田
      • 第60軍第179師
      • 第60軍第180師
      • 第60軍第181師
      • 第68軍第202師第605団
      • 第21軍第61師
      • 第21軍第63師
      • 第33師(第21軍指揮)
      • 砲兵
        • 第60軍野砲団
        • 砲兵第20団第1、2営
        • 第179師山砲営
        • 第180師山砲営
        • 第181師山砲営
        • 第33師1個榴砲連
        • 第196師砲兵団第2営
        • 高射砲兵
          • 第48営
          • 第53営
      • 工兵
        • 第10団1個営
        • 第18団1個営
    • 予備 第54軍第134師

戦闘[編集]

7月13日、大雨の中で数時間に及ぶ攻撃準備射撃が開始された[5]。砲撃で河川が氾濫し、後退中に溺死者が出るほどであった[9]。夜になると中共軍は攻勢を開始した。大雨で空軍や砲兵の支援が思うように受けられず、第2軍団は後退し、7月15日に中共軍は小土古味里(소토고미리)にある第2軍団司令部の北8キロにまで迫った[5]。もし第2軍団が突破されれば、中共軍は春川にまで進出し、両隣の第10軍団、第9軍団の側背に向かって戦果を拡張し、再び初期の大機動戦に逆戻りする恐れがあった[5]

テーラー軍司令官の要請で視察に来た白善燁参謀総長は状況を確認すると、第8軍に補給を要請し、前任の経験豊富な師団長を呼び戻した[6][10]。アメリカ軍第8軍と韓国陸軍本部はこれが最後の戦闘になると見て、すでに日本に引き揚げていた第187空挺連隊や第24師団の増派を急ぎ、予備の韓国軍第11師団(師団長:林富澤准将)、第22師団(師団長:朴基丙准将)を戦線に投入した。

国連軍の迅速な補給と増援により第2軍団は態勢を立て直し、東からは第10軍団の韓国軍第7師団、西から第9軍団の第3師団が中共軍の突破口の肩部に向かって攻撃を開始した[6][11]。予備の韓国軍第11師団は中共軍の尖端に向け、西から第22師団が中共軍の右側背に攻撃した[6]。反撃は順調に進展し、失地の半分ほどを奪回したところで停止を命じられた[1]。中国・北朝鮮側が休戦会談を希望し、これに国連軍が応じたためであった[1]。この時の戦線が現在の軍事境界線を形成した[12]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 学習研究社 1999, p. 109.
  2. ^ 田中 2011, p. 112.
  3. ^ a b c 佐々木 1977, p. 513.
  4. ^ a b c d e 学習研究社 1999, p. 108.
  5. ^ a b c d e f 佐々木 1977, p. 514.
  6. ^ a b c d 白 2013, p. 529.
  7. ^ a b 白 2013, p. 528.
  8. ^ 佐々木 1977, p. 515.
  9. ^ a b 佐々木 1977, p. 519.
  10. ^ 佐々木 1977, p. 516.
  11. ^ 田中 2011, p. 113.
  12. ^ 佐々木 1977, p. 518.

参考文献[編集]