漢江の戦い (1950年)
| 漢江の戦い | |
|---|---|
| 戦争:朝鮮戦争 | |
| 年月日:1950年6月28日 - 7月3日 | |
| 場所:朝鮮半島ソウル特別市 | |
| 結果:北朝鮮軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 金雄中将 | 金弘壹少将 |
| 戦力 | |
| 第1軍団 | 始興地区戦闘司令部 |
| |
漢江の戦い(日本語:ハンガンのたたかい、かんこうのたたかい、韓国語:漢江戰鬪、한강 전투)は、朝鮮戦争中の1950年6月28日から7月3日にかけて展開された大韓民国陸軍及び朝鮮人民軍による戦闘。
目次
経緯[編集]
1950年6月25日に始まった北朝鮮軍の侵攻でソウルは陥落した。この過程で漢江の人道橋が爆破され、韓国軍主力は北岸に取り残された。各部隊は個々に渡河したため、重装備を失い、組織は崩壊していた。さらに陸軍本部は分散していたため、その機能を失っていた。
参加部隊[編集]
韓国軍[編集]
- 始興地区戦闘司令部 司令官:金弘壹少将 参謀長:金鍾甲大領
- 混成首都師団 師団長:李鍾賛大領
- 第8連隊 連隊長:徐鐘喆中領
- 第1大隊 大隊長:李哲源少領(7月2日戦死)
- 第2大隊 大隊長:高白圭少領
- 第3大隊 大隊長:朴泰云少領
- 第18連隊第1大隊長 大隊長:朴哲用少領
- 機甲連隊第1装甲大隊 大隊長:朴武烈少領
- 第8連隊 連隊長:徐鐘喆中領
- 混成第7師団 師団長:劉載興准将
- 第1連隊 連隊長:李喜権中領
- 混成大隊 大隊長:姜琬埰大尉
- 第9連隊 連隊長:尹春根中領
- 混成大隊 大隊長:柳桓博少領
- 第20連隊 連隊長:朴基丙大領
- 混成大隊 大隊長:金漢柱少領
- 第25連隊混成第2大隊長 大隊長:襄雲龍少領
- 第15連隊第1大隊長 大隊長:李存一少領
- 第15連隊第3大隊長 大隊長:崔炳淳少領
- 第1連隊 連隊長:李喜権中領
- 混成第2師団 師団長:林善河大領、李翰林大領(7月1日から)
- 混成第3師団 師団長:李俊植准将
- 混成首都師団 師団長:李鍾賛大領
- 金浦地区戦闘司令部 司令官:禹炳玉中領、任忠植中領(7月29日から)、崔栄喜大領(7月30日から)
北朝鮮軍[編集]
戦闘[編集]
6月28日[編集]
朝、蔡秉徳少将は金弘壹少将に漢江の防御を、李應俊少将に水原で落伍兵の収容を命じた[1]。金弘壹少将は始興の歩兵学校で、数人の将校を集めて司令部の体裁を整え、部隊の収容と再編成に取り掛かった[1]。司令部は始興に落伍者収容線を設け、南下してくる将兵を集めた[2]。そして約500人の将兵が集まると、水原に空輸された装備品を交付して1個大隊を編成し、混成第◯大隊と命名して漢江線に逆戻りさせた[2]。
李鍾賛大佐は混成首都師団長に任命して永登浦の防御を、劉載興准将は混成第7師団長に任命して鷺梁津(노량진)から銅雀洞までの防御を、林善河大佐は混成第2師団長に任命して沙坪里(사평리)正面の防御を担当させた[3][4]。28日午後から北岸の北朝鮮軍は散発的な砲撃を始めたが、渡河を急いでいるようには見えなかった[5]。金浦方面には金浦地区警備隊が金浦飛行場の確保を図っていたが、北朝鮮軍の火力に圧倒されつつあった[4]。
6月29日[編集]
午前10時頃、マッカーサー元帥が水原に到着し、漢江を視察した[6]。この日は北朝鮮軍が本格的に砲撃を開始し、全線にわたって威力偵察を実施した[7]。夜なると各地で中隊規模の部隊が渡河してきたが韓国軍に撃退された[7]。
28日夜に第1師団が北岸から後退し、29日午前8時頃に師団長の白善燁大佐が始興地区戦闘司令部を訪れた[8]。金弘壹少将は白善燁大佐に金浦方面の防御を頼んだが、第1師団は部隊が分散していたため白善燁大佐は断った[8]。その後、白善燁大佐は第1師団の再編成に着手した。
金浦では北岸から撤収した第15連隊(崔栄喜大佐)が始興地区戦闘司令部の指揮下に入り、金浦飛行場の奪還に向かった[9]。第15連隊の他に第13連隊第3大隊(劉載成少佐)と第18連隊第2大隊(張春権少佐)も加わった[9]。午前8時頃、3機のB-29が金浦飛行場を爆撃し、韓国軍はこれに乗じて奪還を図ったが、北朝鮮軍に撃退された[10]。金浦地区司令官の禹炳玉中佐は逆襲を命じたが、成功しなかった[11]。これに悲観した禹炳玉中佐は拳銃で自決した[11]。後任には任忠植中佐となった。
6月30日[編集]
未明、北朝鮮軍の砲兵と戦車砲による一斉射撃が始まり、西氷庫(서빙고)付近から河原に現れた約1個大隊は黒石洞(흑석동)に渡河し、橋頭堡を確保すると第9連隊の一部を駆逐して水道高地を奪取した[7]。第9連隊は反撃を開始した。
午前8時頃、南山山麓に布陣した北朝鮮軍の砲兵は一斉に対岸の混成第2師団第16連隊陣地に砲撃を開始した[12]。そして午後3時になると数人単位で渡河を始め、橋頭堡を確保した。第3連隊は反撃したがどうにもならず、やがて戦線を離脱する将兵が増えてきた[12]。
首都師団正面では汝矣島をめぐる攻防が続いていた[12]。第8連隊は汝矣島飛行場に侵入した北朝鮮軍を撃退し、陣地を確保していた[12]。しかし第4師団の一部が蘭芝島を経由して甑山(증산)付近に渡河し、首都師団の左側背を脅かす恐れがあり、増加した金浦飛行場付近の北朝鮮軍は梧柳洞(오류동)や素砂に向かって南下した[12]。そこで金弘壹少将は首都師団の左翼を西面にさせて混成大隊を増派した[12]。また金浦地区警備隊は素砂方面の防御に当たらせた[12]。金浦方面では梧柳洞北方の高地をめぐる争奪戦が開始された。張春権少佐は防御よりも攻撃を優先し、反撃を繰り返した[13]。
7月1日[編集]
午前4時、第4師団第5連隊が汝矣島に渡河し、第8連隊と第18連隊第1大隊と交戦した[14]。李鍾賛大佐は残っていた装甲車数両を派遣した[14]。
右翼の混成第2師団は火力に圧倒され、各所から浸透されて崩壊し始めた[14]。混成第2師団の各部隊は果川方面に後退したが、北朝鮮軍は単線橋の補強の掩護を優先して追撃してこなかった[14]。
混成第7師団正面では第9連隊が反撃を開始したが、小雨模様のためと板付の空軍基地が豪雨に見舞われていたため空軍の支援が受けられず、北朝鮮軍の砲兵が弾幕を展開したため、水道高地に近づくことができなかった[14]。第9連隊は攻撃を断念して現陣地に復帰した[14]。単線橋と人道橋を火制していた部隊は居なくなり、北朝鮮軍はますます橋頭堡を拡張して西南進し、第7師団司令部が置かれていたソウル工業高校に迫った[15]。第25連隊などの一部で反撃して阻止したがどうにもならず、夜に司令部は安養に後退した[15]。北朝鮮軍は橋の補修作業を開始したが、残った第9連隊と第20連隊による迫撃砲と重機関銃の射撃で阻止された[15]。
7月2日[編集]
蔡秉徳少将は参謀総長を解任され、後任に丁一権少将が就いた。
この日の朝、単線橋を火制していた第9連隊が冠岳山(관악산)方面に後退したため、北朝鮮軍は鉄橋の補修を再開した[16]。
7月3日[編集]
第4師団は汝矣島正面の渡河が進展しないため、下流から歩兵を渡河させ、戦車は艀船で渡し、第8連隊の背後に回った[16]。さらに単線橋に木板を敷き終えた北朝鮮軍が4両の戦車を先頭に鷺梁津に渡って永登浦に侵入し、漢江線は崩壊した[17]。
出典[編集]
- ^ a b 佐々木春隆 1977, p. 41
- ^ a b 佐々木春隆 1977, p. 42
- ^ 佐々木春隆 1977, p. 43
- ^ a b 佐々木春隆 1977, p. 44
- ^ 佐々木春隆 1977, p. 45
- ^ 佐々木春隆 1977, p. 51
- ^ a b c 佐々木春隆 1977, p. 58
- ^ a b 佐々木春隆 1977, p. 56
- ^ a b 佐々木春隆 1977, p. 48
- ^ 佐々木春隆 1977, p. 49
- ^ a b 佐々木春隆 1977, p. 50
- ^ a b c d e f g 佐々木春隆 1977, p. 59
- ^ 佐々木春隆 1977, p. 60
- ^ a b c d e f 佐々木春隆 1977, p. 61
- ^ a b c 佐々木春隆 1977, p. 62
- ^ a b 佐々木春隆 1977, p. 72
- ^ 佐々木春隆 1977, p. 73
参考文献[編集]
- 佐々木春隆 『朝鮮戦争/韓国篇 下巻 漢江線から休戦まで』 原書房、1977年。
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