蔡秉徳

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蔡 秉徳
Lt gen chae.jpg
生誕 1915年4月17日
大日本帝国の旗 大日本帝国 朝鮮平壌
死没 (1950-07-26) 1950年7月26日(35歳没)
大韓民国の旗 韓国 慶尚南道河東郡
所属組織 大日本帝国陸軍
大韓民国陸軍
軍歴 1937 - 1945(日本陸軍)
1946 - 1950(韓国陸軍)
最終階級 陸軍少佐(日本陸軍)
陸軍中将(韓国陸軍)
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蔡秉徳
各種表記
ハングル 채병덕
漢字 蔡秉徳
発音: チェ・ピョンドク
日本語読み: さいへいとく
ローマ字 Chae ByungDuk
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蔡 秉徳(チェ・ピョンドク、채병덕1915年4月17日[1] - 1950年7月26日)は、大日本帝国及び大韓民国陸軍軍人。最終階級は、日本軍人としては少佐、韓国軍人としては中将創氏改名による日本名大島 秉徳本貫平康蔡氏岳父白洪錫

経歴[編集]

日本統治時代の朝鮮平壌で蔡観洙の次男として生まれた。1923年春、平壌鍾路普通学校に入学[2]。1日も欠席せず、6年皆勤賞を受け、成績も優れており主席であった[2]。1929年、朝鮮人は入学するのが難しかった日本人学校の平壌第一中学校に入学[2]。ここでも日本人学生を抜いて主席を維持し続けていた[2]。特に数学が良く、物理、歴史、地理も成績が良かった[2]。英語は好きでなかったが、嫌々ながらも勉強をしていたため成績は悪くなかった[2]。体育も優れ、とくに柔道と陸上で頭角を現したという[3]。青少年期の蔡を知る人達は皆、彼が秀才であると同時に努力家で誠実だったことを認めている[3]

4年生になった時、配属将校や校長の勧めにより日本の陸軍士官学校入学試験を受けることを決意した[4]。 1933年4月、陸士(49期)に入学。朝鮮人ではただ一人の日本陸軍士官学校現役合格者。予科2年に入ると兵科で分けられるようになり、野戦砲兵科を第1志望としたが、第2志望の重砲兵科に決定された[5]。1935年3月に予科を修了後、4月から9月まで佐世保の重砲兵連隊で隊付勤務[6]

同年10月、6か月間の隊附勤務を終えて陸士本科に入学。戦術・戦略にはあまり興味が無く、数学に秀でており、重砲兵を志願し要塞重砲兵科を卒業した。卒業後、佐世保の重砲兵連隊に配属[7]。1937年8月21日に砲兵少尉任官[8]。1938年3月30日、中尉[9]。同年6月5日、平壌で白洪錫と丁洪範の長女、白慶和と結婚式を挙げた[10]。1939年冬、陸軍砲工学校に入学[11]。卒業後は陸軍兵器学校教官となり、1940年には大阪の陸軍造兵廠勤務となった[12]。日本軍では度々上官と衝突しており、特に大阪陸軍造兵廠勤務中は廠長に反抗したため陸軍大学校に入学することが出来なかったと言われている[12]。1941年3月、大尉。1943年、少佐。

終戦時は仁川の富平陸軍造兵廠第一工場長。兵器関係畑だったため日本陸軍時代には一度も戦場経験をしていない。将来韓国に軍隊が作られる際、戦力の土台となる工業と兵器生産にこの造兵施設が必要と考え、工員を説得して器材の確保及び管理に務めたが、米軍によって撤去されてしまった[13]

第二次世界大戦終結後は、1946年1月、新たに発足した南朝鮮国防警備隊に入隊。軍事英語学校卒(軍番2番)。任大尉。1948年8月の大韓民国成立に伴い、大韓民国陸軍に勤務。第1連隊A中隊長、統衛部特別部隊長、第4旅団長などを務めたのち、1949年5月9日より第2代陸軍参謀総長

しかし、38度線での南北交易の不正をめぐる南北交易事件で強硬な対応を主張する金錫源・第一師団長(日本陸士27期)と衝突。このことに激怒した大統領の李承晩は1949年10月10日、蔡、金ともども予備役編入とした。しかし蔡は同年12月14日、国防部兵器行政本部長として復帰し、1950年4月末、再び陸軍参謀総長となった。金錫源は開戦するまで再登用されなかった。

1950年6月25日朝鮮戦争が開戦、北朝鮮軍迎撃の指揮に当たるも兵力の逐次投入を余儀なくされ、韓国軍はソウルを喪失した(ソウル会戦)。蔡は6月29日陸軍参謀総長を解任、臨時編成軍司令官に降格された。7月26日アメリカ陸軍第29連隊第3大隊と同行中、河東峠の戦いにおいて戦死した。死後、中将に特進した。

死後の評価[編集]

2005年8月29日民族問題研究所親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典名簿3090人の中に親日派としてリストアップされた。

その他[編集]

蔡の軍番は2番であったが、1番の軍番が自分より年下で軍歴も浅かった李亨根に与えられたことを不満に思い、李亨根や人事担当者であった林善河とは折り合いが悪かったという[14]

体重100キロ以上の巨漢で、デブの蔡(チェ)と綽名されていた。

脚注[編集]

  1. ^ 佐々木春隆の朝鮮戦争韓国編では1917年生まれ。
  2. ^ a b c d e f 韓国国防部 2002, p. 24.
  3. ^ a b 韓国国防部 2002, p. 25.
  4. ^ 韓国国防部 2002, p. 27.
  5. ^ 韓国国防部 2002, p. 39.
  6. ^ 韓国国防部 2002, p. 40.
  7. ^ 韓国国防部 2002, p. 44.
  8. ^ 官報.1937年8月23日9コマ
  9. ^ 官報.1938年3月31日23コマ
  10. ^ 韓国国防部 2002, p. 46.
  11. ^ 韓国国防部 2002, p. 47.
  12. ^ a b 韓国国防部 2002, p. 48.
  13. ^ 韓国国防部 2002, p. 52.
  14. ^ <14> 대한민국 국군의 ‘자랑스러운 군번’”. 国防日報 (2018年5月2日). 2018年8月4日閲覧。

参考文献[編集]

  • 児島襄、朝鮮戦争、vol.1-vol.3、文藝春秋。
  • 佐々木春隆、朝鮮戦争韓国編、上中下、原書房。
  • 陸戦史研究普及会、朝鮮戦争、全10巻、原書房。
  • 6·25戦争と蔡秉徳将軍 (PDF)” (韓国語). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2018年9月23日閲覧。
先代:
李應俊
大韓民国陸軍参謀総長
第2代:1949.5.9-1949.9.30
次代:
申泰英
先代:
申泰英
大韓民国陸軍参謀総長
第4代:1950.4.10-1950.6.29
次代:
丁一権

外部リンク[編集]