日本特別掃海隊

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日本特別掃海隊(にほんとくべつそうかいたい)は、朝鮮戦争の際に、国連軍の要求で日本海上保安庁が派遣した掃海隊。特別掃海隊とも。

沿革[編集]

朝鮮戦争と日本[編集]

朝鮮戦争当時、日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、開戦からの半年に限っても56名が命を落とした[1]。また、アメリカ軍によって集められた日本人港湾労働者数千人が韓国の港で荷役作業を行った[1]

朝鮮戦争には、第二次世界大戦の終戦以降日本を占領下に置いていた連合国軍、特に国連軍として朝鮮戦争に参戦していたアメリカ軍やイギリス軍の指示により、日本の海上保安庁掃海部隊からなる「特別掃海隊」も派遣され、死傷者を出しながら国連軍の作戦遂行に貢献した。

国連軍掃海部隊と日本への派遣要求[編集]

開戦直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始しており、これを認めたアメリカ海軍第7艦隊司令官1950年9月11日に機雷対処を命じた。ところが、国連軍編成後も国連軍掃海部隊は極僅かであった。元山上陸作戦を決定した国連軍は、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を求めることを決定する。10月6日アメリカ極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の掃海艇使用について、文書を以て指令が出された。

法的規定[編集]

1945年9月2日連合国最高司令官指令第2号には、太平洋戦争中の機雷を除去することを目的として「日本帝国大本営は一切の掃海艇が所定の武装解除の措置を実行し、所要の燃料を補給し、掃海任務に利用し得る如く保存すべし。日本国および朝鮮水域における水中機雷連合国最高司令官の指定海軍代表者により指示せらるる所に従い除去せらるべし」とあり、連合国軍の命令により海上保安庁は朝鮮水域において掃海作業を実施する法的根拠は一応存在していた。もっとも、朝鮮戦争当時の朝鮮水域は戦闘地域であり、そこで上陸作戦のために掃海作業をすることは戦闘行為に相当するため、連合国軍による占領下にある日本が掃海部隊を派遣することは、国際的に微妙な問題をはらんでいた。また、国内的には、海上保安庁法第25条が海上保安庁の非軍事的性格を明文を以て規定していることから、これまた問題となる可能性があった。そこで、日本特別掃海隊は日章旗ではなく、国際信号旗の「E旗」を掲げることが指示された。

吉田茂首相の承認の下、日本占領にあたっていた連合国軍の指示に従い、10月16日に海上保安庁は掃海部隊を編成した。戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、第二次世界大戦後の日本にとって初めての参戦となった。しかし、国会承認もなしに掃海艇を派遣していた事実が明るみに出ると、憲法上の兼ね合いから当時の国会において問題となった。

部隊編成[編集]

特別掃海隊の編成は次の通りである。

  • 総指揮官田村久三(航路啓開本部長、元海軍大佐[2]
  • 第1掃海隊指揮官:山上亀三雄運輸事務官(第7管区航路啓開部長、元海軍中佐[2]
  • 第2次第1掃海隊(11月15日編成)指揮官:花田賢司運輸事務官
  • 第2掃海隊指揮官:能勢省吾運輸事務官(第5管区航路啓開部長、元海軍中佐[2]
    • MS03艇長:大西慶治[2]
    • MS06艇長:有山幹夫[2]
    • MS14艇長:石井寅蔵[2]
    • MS17艇長:松本嘉七[2]
  • 第2次第2掃海隊(10月25日編成)指揮官:石野自彊運輸事務官
  • 第3掃海隊指揮官:石飛矼運輸事務官(第9管区航路啓開部長、元海軍中佐[2]
  • 第4掃海隊指揮官:萩原旻四運輸事務官(第2管区航路啓開部長)
  • 第5掃海隊(10月29日編成)指揮官:大賀良平運輸事務官(元海軍大尉

掃海作業[編集]

元山掃海作業[編集]

1950年10月18日、葛麻半島西側の元山港を掃海作業中に触雷して爆発する韓国軍の掃海艇YMS-516

日本掃海隊は10月10日に元山沖に到着した。10月12日午前から掃海作業に着手し、眼前でアメリカ軍の掃海艇2隻が触雷によって沈没する光景を目撃しつつも、3個の機雷を処分する。国連軍のアメリカ艦隊の陸上砲撃のため10月16日まで掃海作業は中断され、再開された10月17日に日本の掃海艇のMS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名(烹炊長中谷坂太郎)及び重軽傷者18名を出した。

日本隊は触雷を回避するため、小型で喫水の浅いLCVPが先行して海面近くの機雷を掃海した後、掃海艇が進む方式を採るよう、前進任務部隊指揮官スミス(Allan E. Smith)アメリカ海軍少将に作業手順の改善を要求した。しかし、スミス少将は「日本掃海隊は明朝0700出港して掃海を続行せよ。しからずんば日本に帰れ。その15分以内に出なければ砲撃する」と田村久三総指揮官に命令した[2]。これを受け、能勢隊のMS 3隻は日本帰投を決定し、10月20日に下関に到着した。

10月20日に石飛隊のMS 5隻は元山沖に到着し、同地に残存していたPS 3隻を同隊に編入して掃海作業を行う。結局、元山における日本特別掃海隊は、10月10日から12月4日までの掃海作業において、能勢隊が処分した3個を含め計8個の機雷を処分する成果を挙げた。

元山以外の掃海作業[編集]

仁川掃海作業[編集]

10月7日に下関を出港した山上隊は10日に仁川港外に到着し、掃海作業を行う。同隊は11月1日に海州を出発し、3日に下関に帰投した。

鎮南浦掃海作業[編集]

11月7日に、国連軍鎮南浦掃海任務隊(アーチャー(Stephen M. Archer)アメリカ海軍中佐)に、日本の石野隊が加わる。鎮南浦における第2掃海隊は2個の機雷を処分する成果を挙げる。石野隊は中国人民志願軍の侵攻間際まで活動を続けた。

群山掃海作業[編集]

萩野隊は10月17日に下関を出港し、19日に群山に到着して、掃海作業を実施する。萩野隊は3個の機雷を処分する成果を上げる。MS30号が座礁して沈没するが、死傷者はなかった。

掃海作業の終了[編集]

12月15日に、国連軍のアメリカ極東海軍司令官は文書を以て掃海作業の終了を指示する。これにより日本特別掃海隊は解隊される。

成果とその後[編集]

特別掃海隊は、1950年10月から12月15日にかけて、46隻の掃海艇等により、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分する成果を挙げた。この作業により、海運と近海漁業の安全確保を得たと同時に、国連軍が制海権を確保する為に役立ち、後の朝鮮戦争の戦局を左右する事になる。しかし、極秘である筈のこの作戦の内容はソ連中華人民共和国から、これらと関係の深い日本社会党日本共産党に提供され、第10回国会以降に吉田茂首相への攻撃材料となった。

なお、国連軍の指示に従わず帰投した能勢事務官は1951年1月に運輸事務官を退職することとなるが、1952年7月に海上保安官として採用され、同年8月西部航路啓開隊司令に任じられる。その後は、海上自衛隊に入隊し横須賀地方総監部副総監等を歴任し、1959年に退官する。また、第5掃海隊指揮官の大賀良平運輸事務官は、その後も海上警備隊員警備官海上自衛官に進み、1977年海上幕僚長となる。

朝鮮半島の反応[編集]

1950年10月、北朝鮮外相朴憲永は「国連軍に日本兵が参戦している」と非難を行い、同様にソビエト連邦も「アメリカが日本兵を参加させている」として国際連合総会で非難を行った[3]1951年4月、李承晩韓国大統領は、倭館駐屯の韓国軍部隊へ次のような演説を行った。

最近国連軍の中に、日本軍兵が入っているとの噂があるが、その真否はどうであれ、万一、今後日本がわれわれを助けるという理由で、韓国に出兵するとしたら、われわれは共産軍と戦っている銃身を回して、日本軍と戦うことになる[4][5]

一方、日本側も大韓民国の対日感情を考慮して、なるべく掃海隊員を上陸させないよう指示していた。しかしある時、やむをえない事情で元山に上陸すると、韓国兵に日本人とすぐに見破られて取り囲まれ、問いただされたという。そこで隊員は正直に理由を話すと、流暢な日本語で「おー、そうか、ご苦労さんです。どうです一杯」と歓迎されたという[6]

脚注[編集]

  1. ^ a b 防衛研究所戦史部石丸安蔵. “朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送―”. 防衛研究所. 2010年11月25日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i 能勢省吾. “朝鮮戦争に出動した日本特別掃海隊 (PDF)”. 海上自衛隊. 2014年6月2日閲覧。
  3. ^ 金賛汀 (2007年1月). 在日義勇兵帰還せず 朝鮮戦争秘史. 岩波書店. pp. 156. 
  4. ^ 金賛汀 (2007年1月). 在日義勇兵帰還せず 朝鮮戦争秘史. 岩波書店. pp. 157. 
  5. ^ 金周龍「回顧録」
  6. ^ 歴史群像 2005年4月号 p160 学研パブリッシング

参考文献[編集]

関連項目[編集]