立憲民主党 (ロシア)

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ロシア帝国の旗 ロシア帝国政党
立憲民主党
カデット
: Конституционная Демократическая партия
Групповой портрет политической фракции кадетов во II Думе (1907).jpg
第2国会におけるカデット党員の肖像。
党首 パーヴェル・ミリュコーフ
成立年月日 1905年10月
解散年月日 1921年7月
本部所在地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国
政治的思想・立場 自由主義
機関紙 レーチロシア語版
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立憲民主党(りっけんみんしゅとう、: Конституционная Демократическая партия)は、かつて存在したロシア自由主義政党[1]。略称はカデット: Кадет)であり、これは頭文字をとったものである[2]。また、人民自由党ともいい[3][4][注釈 1]、「教授の党」とも呼ばれた[7]

1905年第一次ロシア革命に際してパーヴェル・ミリュコーフを指導者として設立され[3]、議会政治と立憲君主制の実現を掲げた[2]1906年に第1国会選挙が行われると、多数の議席を獲得し、第一党となった[8]。その後、勢力を後退させ、党内では対立が生じるようになったが[9]、第4国会の多数派「進歩ブロック」においては主導権を握った[10]

1917年二月革命後には、第一次臨時政府の中心となっている[11]。第一次臨時政府の崩壊後は、社会主義者との連立政権をつくったが、この政府は絶えず危機にさらされ、最終的に十月革命によって政権与党としての立場を失った[12]。その後、ボリシェビキ政権に弾圧され、さらに党の路線をめぐって党内で対立が生じたため、1921年に解党した[13]

党史[編集]

前史[編集]

ロシア帝国の末期になると、地主貴族を含む地方議員や中産階級の専門職層からなる自由主義知識人たちの政治的結集が進んだ[14]。こうしたなか、ピョートル・ストルーヴェを編集長とする雑誌『解放』を基盤とした政治団体「解放同盟ロシア語版」が1903年7月に結成された[15]パーヴェル・ミリュコーフら自由主義知識人はこの団体のもとで憲法制定や皇帝専制打倒を訴える政治運動を行った[15]

1905年第一次ロシア革命が起きると、皇帝ニコライ2世は国家ドゥーマ(国会)を設置することを同年2月18日の勅書において明らかにし、その準備のために内相ブルイギンらからなる特別審議会を設置した[16]。これを受けて、ロシアの自由主義勢力のあいだでは、将来の国会開設に備えて政党の結成の動きが加速化した[17]。しかし、国会が立法権を持たない単なる諮問機関となることが明らかになると、自由主義勢力の多数がこれに反発し、大学教授や医師などの職業団体の連合体である専門職業家同盟英語版は、国会選挙のボイコットを決定した[18]

一方、ミリュコーフは専門職業家同盟の議長であったが、国会を政治闘争の手段として利用できると考えて選挙ボイコットに反対し、専門職業家同盟を脱退して独自に政党結成を模索することとなった[18]。また立憲派の地方議員を中心とする「ゼムストヴォ・市会議員大会」も国会の内部からの民主化を目指し、選挙に参加することを決めた[18]

こうしてミリュコーフを事実上の指導者として[19][注釈 2]、解放同盟とゼムストヴォ立憲派同盟が統合し、立憲民主党 (カデット)が結成された[20]。そして、同年10月12日から18日にかけて結党大会が行われた[20]。この大会のさなかの10月17日、国会の立法権などを認める十月詔書が発布されている[21]。なお、この立憲民主党(カデット)は急進的な自由主義者で形成されており、穏健的な自由主義者は『10月17日同盟(十月党、オクチャブリスト)』を結成した[22]

議会政党として[編集]

カデットのポストカード(1906年)

同年12月までは政治活動の明確な方針は定まらなかったが、翌年の1906年1月の第2回党大会でミリュコーフが「我が党はすぐれて議会政党である」と演説し、綱領には立憲君主制・議会制を掲げることとなった[23]。この大会において党中央委員会のメンバーが確定しており、この当時の党の主な指導者にはミリュコーフをはじめ、ストルーヴェ、コリューバキン、ロジチェフロシア語版ゲッセンロシア語版ペトルンケヴィチロシア語版といった人物がいた[20]

党員数は10万人を数え[7]第1国会(ドゥーマ)ではボリシェヴィキメンシェヴィキ社会革命党の不参加と言う条件下で約150から180議席程度[注釈 3]を占めて第1党となった[25][26]。国会議長はカデット出身の法学者セルゲイ・ムーロムツェフロシア語版英語版となった[27]

この第1国会でカデットは、各種の自由権や法の下の平等などを求める法案を提出したが、かなり穏健な内容であったにもかかわらず、これは廃案となった[28]。また、農民派であるトルドヴィキ英語版らとともに土地問題の審議を望み、私有地を一部、有償ながらも強制収用すべきとする四十二人法案を提出した(#土地問題)[27]。一方で、トルドヴィキは全土地の収用を求めた[27][29]

このような国会の動きに対して、帝政政府は強硬に反対したため、国会と政府のあいだには鋭い対立が生じた[30]。こうした状況下において、帝政内にはカデットと妥協して、首相ムーロムツェフ、外相ミリュコーフからなる内閣を作るという構想が持ち上がった[31]。内相ストルイピンらは国会の強制解散による混乱を恐れており、カデットも議院内閣制を目標としていたから、当初、両者の交渉は順調に進んだ[32]。しかし、トルドヴィキとの提携や土地の強制収用といった問題で合意に至らず、交渉は決裂し、ついに国会は強制的に解散させられた[32]

第1国会解散と同日に、カデットの党中央委員会が開かれ、ペトルンケヴィチが国会解散への抗議として納税・徴兵の拒否を宣言することを提案した[33]。カデットの呼びかけにより、カデット、トルドヴィキなどの178名の議員がフィンランドのヴィボルグに集まり、政府を批判する「ヴィボルグの檄」を発した[33]。これは国会の再召集まで税を納めず徴兵にも応じないという運動を行うことを訴えた文書だった[33]。しかし、カデットは同年9月の党大会でこの文書の路線を現実的でないとして放棄し、次の選挙運動に注力することを決定した[33]

勢力の後退と党内の対立[編集]

ミリュコーフと対立したカデット幹部、ストルーヴェ

1907年1月から国会選挙が再び行われ[34]、この選挙において、カデットは、社会革命党・メンシェビキ・人民社会党(エヌエス)とのあいだで選挙協力を行おうとした[35]。しかし、カデットは自らが指導的立場となることを主張したため反発を招き、この交渉は失敗に終わったという[35]。結局、社会革命党などの選挙参加の影響を受け[36]、カデットは勢力を後退させ98議席を得るに終る[34]

同年2月20日に開かれた第2国会において、カデットはより穏健な土地法案を提出したが[37]、その一方で政府に責任内閣制を要求した[38]

しかし、この国会が思い通りにならないと見た首相ストルイピンはこれを6月3日には解散させた[39]。11月1日に第3国会が開かれた時、カデットはさらに勢力を後退させ、53議席を得るに留まった[40]。この選挙は政府に有利になるように改正された選挙法のもとで行われており[41]、オクチャブリストが第一党となった[42]

この国会においてストルイピンは農業改革法案を審議にかけており、カデットはそれにいちおうは反対したものの、自身の土地法案においても明確な差異を打ち出すことはできなかった[43]。その背景には、土地の強制収用に否定的な声が党内にも多くなったという事情があった[43]。そのため、農民運動において指導的立場を社会主義政党に奪われることとなった[44]。また、1908年1月時点で、党員数は3万人以下へと激減していた[45]

政治的影響力を低下させたカデットの党内では、ストルーヴェ派とミリュコーフ派による抗争が起きた[9]。ストルーヴェ派はストルイピンの改革に肯定的であり、より保守的な路線をとろうとした[9]。一方、ミリュコーフ派は新たな革命運動の発生に備え、その主導権を握ろうとする立場をとったという[9]。その結果、1909年11月になると、カデットは「平行運動」戦術という新たな方針を採用した[46]。これはオクチャブリストの助けを借りながら国会内において政府との交渉を継続する一方、メンシェビキの指導する労働運動とも手を組もうとするものであった[46]

進歩ブロックの形成[編集]

カデット右派の政治家マクラコフ

第4国会ではオクチャブリストが議席を減らし、右翼勢力や進歩党などが躍進したため、政局が不安定化した[47]。こうしたなか、党首ミリュコーフは党内の多数の支持を得て、政府に対してより急進的な要求を行うことを決めた[48]。1912年11月15日に開かれた国会において、カデットは普通選挙権や出版・結社・人身の自由を定めた法案を提出した[48]。さらに翌年の1913年1月末には、民主化の実現まで、「権力にたいして和解しがたい反対派」となるべきであるというミリュコーフの演説が行われた[48]

この頃、カデット右派の指導者マクラコフロシア語版英語版は、左派オクチャブリストや進歩党との連携によって国会内に「進歩ブロック」という大勢力を形成することを模索した[49]。この構想は1913年時点では実現しなかった[49]

1915年になると、ふたたび国会内で自由主義勢力の結集が進み、同年8月25日にカデット・オクチャブリスト・進歩党からなる「進歩ブロック」が実現した[50]。これには全国会議員422人中、325人の議員が参加した[50]。この「進歩ブロック」においては、オクチャブリストの分裂の影響で、カデットが主導権を握ることに成功した[10]。進歩ブロックの実質的な指導者もカデットの党首ミリュコーフとなった[10]。進歩ブロックは、政府に国会との協調を求め、国民の信任を得られる内閣(信任内閣)の実現を要請した[51][52]

しかし、帝政政府は国会の無期限停会をもってこれに応えた[53]。党内の左派は進歩ブロックからの脱退と左翼政党との提携を主張したが、これは少数意見にとどまった[53]。カデットは進歩ブロックに留まったまま、政府が国会を再開するのを待った[54]。しかし、マンデリュシュタムやオブニンスキーらモスクワの党グループ左派は、ミリュコーフに対して待機戦術を放棄し、より急進的な闘争を選ぶように強く迫った[55]

1916年2月18日から21日にかけて、第6回党大会が開かれた[56][57]。国内では第一次世界大戦におけるロシアの敗勢や皇帝の不合理な統治の継続などの問題が生じており、党大会では左派と右派がさらに激しく争った[56][57]。ミリュコーフら党の主流派は、政変が戦争に悪影響を及ぼすことを懸念し、政府との全面対決には消極的であった[57]。その一方で、シンガリョフが「国民の気分は近い将来を考えるのがこわいくらいのものである。国民の苦悩と憤懣は限界に来ている。(中略)われわれは極左派と完全に遊離するところまでゆくべきではない」と演説した[57]。この演説の結果、左翼政党との連携も視野に入れつつ、政府との闘争を続けるという方針が決議された[57]

その後、カデットは政府との対決姿勢を強め、同年11月に開かれた国会において、ついにミリュコーフはボリス・スチュルメル首相らを「ドイツの手先」であると非難する爆弾演説を行い、政府を公然と批判した[58]。この演説の内容は全ロシアに広まり、反政府運動の活発化に大きな役割を果たしたとされる[58]

臨時政府[編集]

第一次臨時政府の閣僚たち。最上段左の外相ミリュコーフをはじめ、5人の閣僚がカデット所属であった。

翌年の1917年に二月革命が起きると、13名の国会議員から構成される国会臨時委員会が組織され、国家権力を掌握した[59]。この臨時委員会には、カデットからはミリュコーフと国会副議長ネクラーソフが参加した[59]

臨時委員会において、君主制を維持するべきかどうかという議論が生じると、党内左派に位置するネクラーソフは君主制の放棄を支持する一方、ミリュコーフは君主制の維持を訴えた[60]。そのため、両者のあいだで対立が生じたが、最終的に皇帝候補のミハイル大公自身が帝位を拒絶した[60]

その後に成立した第一次臨時政府では、外相にミリュコーフ、運輸相にネクラーソフが就任するなど5つの閣僚ポストを得ており、この政府はカデットを中心としていた[61]

3月に行われた第7回党大会では、党の綱領を立憲君主制から民主共和制に変更するすることが決定された[62]。その一方で、フョードル・ココシキンが「われわれは、いつも市民的権利と国民の平等の原則の不可侵を擁護してきたし、今後もかわらず擁護するだろう」と演説し[62]、自由と平等の擁護、国民主権の原則、社会的公正の実現といった党の目標は不変であることを確認した[63]。また、同大会では、ココシキンの報告に基づいて、現在の臨時政府はあくまで暫定政権にすぎず、できるかぎり早い時期に憲法制定会議英語版ロシア語版を召集して新たな国家体制を決定するべきだという原則が決議された[63]

しかし、4月、ミリュコーフが外相として戦争継続を約束する外交文書「ミリュコーフ通牒」を作成すると、これがペトログラード・ソヴィエトの反発を招き、さらに兵士たちの抗議デモを引き起こす事態となった[64][65]。カデットの中央委員会も対抗して「ミリュコーフ信任」および「臨時政府万歳」と主張するデモを組織したものの[65]、結局この政府危機「4月危機」によってミリュコーフは辞任を余儀なくされた[64][66]

社会主義者との連立[編集]

カデット左派の政治家ネクラーソフ

同年5月5日に新たに社会主義者たちが入閣することで成立した第一次連立政府においても、ミリュコーフおよび官房長ナボコフを除いて、カデットの大臣は留任することとなった[67]。一方で、同月に開かれた第8回党大会においては、社会主義者との連立政権に否定的なミリュコーフら多数派に対し、連立に積極的な少数派のネクラーソフが批判を展開するという一幕があった[68]。戦争政策、土地問題、民族自治といった問題についても意見の一致を見ず党内には分裂の兆しが見られた[68]

7月になると、ウクライナで自治を求めていた組織「ウクライナ中央ラーダ」に対し、臨時政府から派遣されたミハイル・テレシチェンコらが独断で自治を認めてしまうという問題が生じた[69][70]。ウクライナの民族自治に反対する立場のカデットはこれに反発し、カデット所属の閣僚らは辞任した[69][70]。ネクラーソフは例外であり、カデットを離党して閣僚の地位に留まった[70]

その後に成立したケレンスキーを首班とする第二次連立内閣では、主導権を握ることはなかったものの、カデットから4人が入閣した[71]。ケレンスキーは、カデットの協力を求めるために大幅に譲歩しなければならなかったという[72]。とはいえ、ミリュコーフがケレンスキーを「疑いなく全ロシアがそのおかげを被っているような人」と評したように、カデットは新ロシアの指導者としてケレンスキーに大きな期待を寄せていた[73]

しかし、カデットと政府内の社会主義者(メンシェビキ、社会革命党)との溝は深まっていった[72]。さらに同年7月23日から28にかけて行われた第9回党大会では、カデットの支持率はボリシェビキを下回り、予定される憲法制定会議選挙で苦戦するだろうという報告が行われた[72]。この大会において、ミリュコーフは、社会主義革命がロシアに破滅をもたらすと主張し、「ロシアをこのような破滅から救うために、あらゆる方途が許されるだろう」と言ったという[72]

ケレンスキーに対する期待を捨てたカデットの中央委員会では、臨時の措置として「独裁官」を設置する必要性が公然と議論された[74]。こうしてカデットは軍事独裁による強力な政権の樹立を志向するようになった[75]。そして、8月にコルニーロフの軍事クーデターが起きると、カデットはコルニーロフを支持する立場に回り、カデットの閣僚たちは辞任した[76]。そのため、クーデターが失敗に終わるとカデットは大きな打撃を受けた[75][77]

社会主義勢力はカデットからの再度の入閣には否定的であった[71]。しかし、この頃には有産層全体を支持基盤とするようになっていたカデットを外しては、社会主義勢力は有産層との連携をたもつことは難しくなっていた[71]。結局、社会主義者の大臣の一部もカデットとの連立をやむを得ないと考えるようになり[78]、社会主義勢力は、ナボコフの主導するカデットとの妥協を余儀なくされた[79]。その結果、第三次連立政府においても副首相コノヴァーロフらがカデットから入閣することとなった[80]

十月革命と憲法制定会議[編集]

首相代行を務めたコノヴァーロフ

同年10月14日から16日にかけて第10回党大会が開かれた[81]。カデットの最後の党大会となったこの大会は、翌月に行われる予定の憲法制定会議選挙の準備を目的としたものであった[81]。しかし、臨時政府の政策が不調であることや、党のコルニーロフ反乱への加担などにより、カデットは社会的な信頼を失っており、党大会は険悪な雰囲気の下で行われた[81]。党指導部と中堅若手層の対立や党中央と地方支部の関係悪化などにより党の組織力は低下し、憲法制定会議選挙の候補も定員の10分の1未満しか擁立できる見込みはなく、選挙での勝利は絶望的となっていた[81]

こうしたなか、ボリシェビキが武装蜂起すると、逃亡したケレンスキーに代わってコノヴァーロフが首相代行となり冬宮に立てこもったが[82]、あえなく逮捕された[83][84]。ボリシェビキ政権が誕生し[85]、カデットは政権与党としての立場を失った。

11月に行われた憲法制定会議選挙では、ボリシェビキを「暴力の行使者、権力の簒奪者、殺人者」「暴力により権力をにぎり、ロシア人民の名で語ろうとする者」であるとして非難する選挙運動を行った[86]。しかし、カデットは5パーセント程度の得票率に留まった[87][88][89]。とはいえ、都市部では根強い支持があり、ペトログラードやモスクワでは3割前後の票を得て第2位となっていた[7]。また、新聞の支持なども受け依然として一定の組織力・資金力を有していた[7]

そのため、ボリシェヴィキはカデットを警戒し、すでに同月4日時点で、全ロシア中央執行委員会ロシア語版英語版レーニンは、カデットを「反ソビエト勢力」とみなし、その政治活動を禁止すべきだという演説をしていた[90]。同月28日、カデットの指導者たちの一部が「人民の敵の党」の指導者として逮捕され[90]、そのうちココシキンとシンガリョフは殺害された[91][注釈 4]。憲法制定会議は強制的に解散させられ[7]、さらに1918年から1919年にかけてペトログラードやモスクワで多くの党員が逮捕された上、党中央委員かつ元モスクワ副市長のシチェプキンらが銃殺された[92]

ロシア内戦[編集]

十月革命の後に生じたロシア内戦ではカデット党員は白軍へと参加し、ボリシェビキに激しく抵抗した[7]。白軍のドゥトフ将軍に資金援助をした人物[注釈 5]が、カデットの中央委員であったように、カデットは各地の反ソビエト勢力の支援者として重要な役割を果たした[93]

党首ミリュコーフは十月革命直後にペトログラードを脱出し、将軍ミハイル・アレクセーエフの指揮下の白軍に加わった[94]。その後、1918年5月にドイツ軍の支配下のキエフに移った[94]

キエフにはカデットの総委員会が設置されており、総委員会は親ドイツのスコロパードシクィイ政権に閣僚を派遣していた[94]。こうしたなか、ミリュコーフはこれまでの連合国寄りの立場を捨て、ドイツ軍の力を借りて、ミハイル大公を皇帝とする立憲君主制の構築を目指すこととした[94]。しかし、ドイツ軍との提携構想は、白軍や党内からの反発を招き、ドイツ軍の敗北やボリシェビキによるミハイル大公の処刑のため、この計画は実現しなかった[94]

ミリュコーフはこの路線を撤回し、同年10月に北カフカスにある白軍の拠点エカテリノダールへと向かった[95]。ここではカデットの地方党大会も開かれた[95]。そして、カデットは同地の南ロシア軍のデニーキン将軍による軍事独裁の下でボリシェビキへの反撃を目指すこととなった[95]。ミリュコーフやナボコフといった党幹部は同地の白軍政府の閣僚になる予定であり、カデット党員は連合国との外交も担当した[95]。しかし、デニーキンは赤軍に敗れた上、ウランゲリに軍の指揮権を引き渡してしまった[96]

白軍の敗北とともに党幹部たちは亡命を余儀なくされ、党中央委員はパリイスタンブールロンドンなど世界各地に分散した[97]。こうしたなか、白軍の新たな指導者ウランゲリの評価をめぐって党内では対立が生じた[97]

党の理論家として知られたストルーヴェはウランゲリの軍に協力し、連合国との交渉などを担当していた[98]。イスタンブールに亡命した党グループなどもウランゲリを支持して武力反攻を目指していた[97]

その一方で、ミリュコーフらのパリに亡命した党グループは、ウランゲリを反動的な人物であるとみなして批判したという[97]。ミリュコーフらは武力闘争路線を放棄し、社会革命党との連携を核とする左派的な「新戦術」を提唱した[99]。この「新戦術」は党内の他グループから激しい反発を招き、1921年7月にミリュコーフが新戦術パリ・グループを結成したため、カデットは解党した[99]

年表[編集]

ユリウス暦による。

  • 1905年
  • 1906年
    • 3月26日から4月20日 - 第1国会の選挙が行われる[101]。カデットの議席は179名[102]
    • 4月21日から4月25日 - 第3回党大会[103]
    • 5月8日 -カデット所属の47議員が国会に農民に土地を配分する農業法案を提出する[102]
  • 1907年
    • 1月 - 第2国会の選挙において、議席数97名を獲得する[34]
    • 11月1日 - 第3国会の開会[104]。カデットの議席は54議席となる[104]
  • 1912年
    • 11月15日 - 第4国会[105]。カデットの議席は53[105]
  • 1916年
    • 2月18日から21日 - 第6回党大会[56]
    • 11月1日 - 党首ミリュコーフが国会で政府を非難する演説を行う[106]
  • 1917年
    • 3月2日 - 臨時政府が成立し、ミリュコーフらが入閣して政権与党となる[107]
    • 3月25日から3月28日 - 第7回党大会[108]
    • 5月9日から12日 - 第8回党大会[109]
    • 7月23日から7月28日 - 第9回党大会[110]
    • 10月14日から10月16日 - 第10回党大会[111]
    • 11日28日 - 「人民の敵」の党として弾圧を受け、党指導者が逮捕される[112]
  • 1921年
    • 7月 - 解党[99]

党勢[編集]

選挙 議席/総議席 出典
第1国会
179 / 478
[102]
第2国会
98 / 518
[34]
第3国会
54 / 442
[104]
第4国会
53 / 442
[105]
憲法制定議会
15 / 715
[113]

組織[編集]

1905年10月の結党大会[100]から、最後となった1917年10月第10回党大会[114]まで10回の党大会が開かれている。そのうち第7回から第10回までの4度の党大会は、ロシア革命のさなかの1917年に行われた[56]

党には中央委員会があり、1906年1月の第2回党大会では26名の中央委員が選出され[20]、1917年3月の第7回党大会では70名の中央委員が選出されている[115]。地方の党支部は、1906年1月の段階で29県に存在した[20]

党員に対する義務はほとんどなく党費も極めて少額であり、党組織は緩やかな政治クラブ的なものであったという[116]。また、党内民主主義が確立しており議論の自由が保証されていたが、党内の左派と右派の対立が激しかった[117]、例えば、1906年の第3回党大会の時点ですでに、ネクラーソフら地方党員はより急進的な活動方針を取るように訴え、ミリュコーフら中央委員会を激しく批判している[118]

カデットは、雑誌として『法』(プラーヴォ)、『人民の法』(ナロードノエ・プラーヴォ)、『取引所報知』(ビルジェヴィエ・ヴェードモスチ)といったものを発行している[20]。さらに党の機関紙にあたるものとして『言論ロシア語版』(レーチ)が存在し[20]、これはミリュコーフとイワン・ゲッセンを編集長としていた[119]

党の支持層と党員[編集]

カデットは知識専門職層と地主貴族を主な支持層としていた[25]。また、多くの党員が地方議会であるゼムストヴォの議員経験者であった[120]。もっとも、カデットは結党当初から自らを「超階級」「全国民的」な党であると主張し、前述したような機関紙などを用いて労働者や農民、商工業者も取り込もうとしていた[20]

党内には、特に大学教授や弁護士が突出して多く[121]、例えば、第2回党大会で選ばれた26名の党中央委員のうち18名の委員が大学教授ないし弁護士であった[20]。党幹部の知的水準は非常に高かったとされ[7]、例えば、党首ミリュコーフは、モスクワ大学のロシア史の講師であったし[122]、党の中心的人物の一人ココシキンはハイデルベルクやパリなどに留学したことのある学者であった[123]。その他、党中央委員には、セルゲイ・オルデンブルクウラジーミル・ヴェルナツキーといった著名な学者が加わっていた[124]

主な党員[編集]


政策[編集]

結党大会でミリュコーフが規定したカデットの立場は、「ロシア・インテリゲンツィアの伝統的気分に相応した思想的・超階級的運動」というものであった[130]。当初の党綱領は、前身組織の解放同盟が作成した「解放同盟憲法」の内容を部分的に引き継いだものだった[131][132]

翌年の第2回党大会において党綱領は改定が加えられ、この綱領には「市民の基本的諸権利」の保障、ユダヤ人などに対する差別の廃止、地方自治の拡大、司法権の独立の確立、累進課税制度の導入、無償の義務教育の実現といった諸政策が掲げられていた[133]。また、1917年の第7回、第8回党大会において党綱領は大幅に修正され、自由権だけでなく社会権の保障も掲げた極めて先進的な内容となっている[134]

国制[編集]

1905年10月の結党大会の時点では、党内には国制として共和制を推す声もあり、どのような国制をとるべきかについて明確な方針は定まっていなかった[135]。翌年1月の第2回党大会では、君主制がいまだ民衆のあいだでも広く支持されているという考えから、「ロシアは立憲的かつ議会的な君主制」になるべきだと党綱領に明記された[135]

二月革命によってロマノフ朝が崩壊すると、カデットは党の中央委員や元国会議員を集めて今後の国制について検討したが、この段階ではすでに君主制をとるべきだと主張する人物は皆無であり[136]、第7回党大会において正式に立憲君主制ではなく民主共和制を掲げることが決められた[108]

そして、社会主義政党と異なり、カデットはかなり詳細に国制の具体的な内容について検討した[137]。第7回党大会において、ココシキンはフランス第三共和政を参考にしつつ、議会が弱い権限をもつ大統領を選出するという間接大統領制をとるべきだという報告を行った[138]。これを受けて、議会によって選出された「共和国大統領」が内閣を通して執行権力を行使するという統治形態をカデットは党綱領に採用した[139]。この背景には、ロシアにおいて、強い権限をもつ大統領を国民が選出するアメリカ型の大統領制を採用した場合、ナポレオン3世のようなデマゴーグが出現しかねないという懸念があった[140]

土地問題[編集]

ロシア帝国では地主制の下、高い借地料と地主直営地における低報酬に農民層に苦しんでいた[141]。そうした状況の下、1890年代以後、農民層のあいだでは現状を打破しようとする動きがあった[141]

第1国会ではこの土地問題が最大の論点となり、上述したとおりカデットも土地問題の解決を図る42人法案を国会に提出している[142]。この法案は、地主所有地の一部を有償で強制収用し、農民に再配分するというものであった[143]。トルドヴィキも全土地の有償強制収用・勤労基準による農民への配分を核とする急進的な102人法案を提出しており、この問題での意見の相違によって、カデットとトルドヴィキのあいだで対立が生じることととなった[144]。その一方で、カデットには地主貴族もいたため、こうした土地の再配分の構想に対して党内には反対する声もあったという[145]

第2国会においてもこの法案を修正したものをカデットは提出しているが、その要求する内容は以前のものと比べ、かなり限定的なものとなっていた[146]。土地の強制収用による再配分は内容に含められていたものの、収用の対象となる範囲はかなり狭められていた[146]。第3国会ではさらに意見を後退させ、強制収用は、農民層の支持を受けるためだけの名目的なスローガンに留まったとされている[43]

労働問題[編集]

カデットの1905年時点の綱領には、労働組合の自由やスト権の保障、8時間労働制などが掲げており、数は少ないがカデット系の労働組合も存在したという[147]。1917年第8回党大会に改正された綱領でも、こうした労働者の権利保障は変わらず規定されていた[134]

外交・戦争政策[編集]

外交政策の分野では、1908年以後、シンガリョフ英語版らのグループとミリュコーフらのグループのあいだで長期にわたる論争が生じている[148]。前者のグループは、反政府的立場を明確にするために、政府とスタンスの近い外交政策を党綱領から削除することを主張した[148]。後者のグループは、「非党派的見地」に立って積極的に外交政策を打ち出すことを望んだ[148]。最終的にミリュコーフらの主張がとおり、カデットは反独親英等の諸政策を国会・新聞で訴えることとなった[148]

第一次世界大戦については、西欧型の自由主義・民主主義を支持するという立場から、連合国側に立って戦いを継続するという姿勢をとった[149]。レフ・トロツキーは、カデットが「戦闘的愛国主義の合唱でリーダーを務めた」と評している[150]。実際に、第一次世界大戦が起きるとカデットは政府の支持を表明したし[151]、党首ミリュコーフは戦争の完遂を訴えた。[152]。ミリュコーフは臨時政府の外相となった後も第一次世界大戦の継続を主張した[153]。それだけでなく、第7回党大会においても、第一次世界大戦は単に皇帝が始めた戦いなのではなく「人類の自由と諸民族の権利のための戦い」なのだと主張するロジチェフによる報告が行われ、熱狂的に迎えられた[153]。しかし、こうした戦争継続の訴えの背景には、ダーダネルス海峡の確保といった帝国主義的な意図があったと考えられている[153]

女性参政権[編集]

第1国会選挙において、フェミニストはカデットを支持し、その選挙運動を支援した[154]。とはいえ、結党当初、女性の権利の拡大については党内に温度差があり、中央委員ではシャホフスコーイが肯定的であった一方で、ストルーヴェは否定的であった[154]。ミリュコーフも農村部における反発を懸念し、女性参政権を認めることに消極的であった[154]。しかし、ミリュコーフの妻アンナ・ミリュコーワや女性唯一の党中央委員であったアリアドゥナ・ティルコーワ英語版は女性参政権を党綱領に入れることを強く主張し、その結果、第4国会ではカデットは女性参政権の実現を議案として提出している[154]

民族問題[編集]

カザフ人のカデット党員アリハン・ボケイハン

1905年の第一次ロシア革命の結果、ポーランド人フィンランド人ユダヤ人などのロシア帝国内の非ロシア民族は帝政政府の支配に反発するようになった[155]。これに対し、帝政政府は諸民族に対する抑圧を強めた[155]

こうしたなか、カデットは一貫してロシアの少数民族に完全な市民権を与える立場をとっており、ユダヤ人解放運動英語版ヴォルガ・ドイツ人を支援していた[121] 。この党はユダヤ人から強い支持を受けていた[121]。そして、そうした少数民族の中からかなりの数が、カデットの活動的な党員となっていた[121][156]。例えば、カザフ人知識人のアリハン・ボケイハン英語版[注釈 9]は1905年にカデットのカザフ支部設立を試みており[157]、また1917年5月以降はカデットの中央委員ともなっていた[93]

ただし、少数民族による自治の要求については、ポーランド人の自治とフィンランドに対する憲法保障のみを認め、それ以外は単なる地方自治体とする立場をとっていた[140]。カデットのココシキンは、留学中にイェリネックのもとで学んだ影響から、連邦制は対等な国家が形成するものであると考え、ロシア帝国においては連邦制の構成主体となるような国家は存在しないとみなしていた[140][注釈 10]

評価[編集]

カデットは、ロシアの「代表的な自由主義政党」[1]、「自由主義勢力を代表する政党」[2]であったとみなされている。二月革命においても地主・ブルジョワジー勢力で最も重要な役割を果たしたのはカデットであったとされる[158]

カデットが最終的に敗北した理由については、次のように考えられている。まず、カデット右派の指導者でもあったマクラコフロシア語版英語版は、亡命後に往時を回想し、カデットの失敗の原因を革命政党との提携という「誤ったタクティクス」にあると述べた[159]。そして、1906年以後、政府と妥協せず対決する方向に進んだことが、立憲制の崩壊とボリシェビキ政権の到来を招いたと主張している[159]。このマクラコフの考え方の影響を受け、ミハイル・カルポーヴィチ英語版ら欧米の歴史家も、カデットの「非妥協性」にその失敗の原因を求めている[160]

また、当時のロシアは識字率が極めて低く、そのためカデット機関紙や協力的な新聞による宣伝が十分な効果を発揮できず、大衆の支持を得られなかったこともカデット敗北の原因の一つであるとされる[161]。さらに、そもそも当時のロシアでは中産階級が弱体であり、カデットの主張する自由主義・民主主義を十分に支えることができる勢力が存在しなかったという構造的な問題があったと考えられている[162]

研究書[編集]

池田嘉郎は、立憲民主党に関する主要な研究書として以下の3冊を挙げている[163]

  • William G. Rosenberg, Liberals in the Russian Revolution: The Constitutional Democratic Party, 1917-1921 (Princeton University Press), 1974.
  • Думова Н. Г. Кадетская партия в период первой мировой войны и Февральской революции М., 1988.
  • Melissa Kirschke Stockdale. Paul Miliukov and the Quest for a Liberal Russia, 1880-1918 (Ithaca: Cornell University Press), 1996.

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ この「人民自由党」という別名は、1906年の第2回党大会においてゲッセンの提案によって採用されたものである[5]。「立憲民主党」と「人民自由党」という二つの党名は、「立憲民主党(人民自由党)」と併記する形で使用され続けた[5]。特にロシア内戦以降の党末期においては「人民自由党」という名称の使用頻度が高まったという[6]
  2. ^ 名目上の党首(常任党中央委員会議長)はドルゴルーコフロシア語版公であった[19]
  3. ^ 第1国会のカデット議席数は時期によって187議席、153議席、179議席などと大きく変動している[24]。この原因の一つは、一部の民族地域などでは選挙の実施が遅れ、従って後から議員が追加で選出されたことにあった[24]。もう一つの原因はカデット内の一部議員が離脱してトルドヴィキに参加したことにあった[24]
  4. ^ ココシキンは当時、憲法制定会議議員だった[90]
  5. ^ 民族政党アラーシ(アラシュ)の指導者アリハン・ボケイハン。
  6. ^ 臨時政府の農相[127]
  7. ^ ティルコヴァ。
  8. ^ 当初は進歩党・急進民主党所属[125]
  9. ^ ブケイハノフあるいはボケイハノフとも表記される。
  10. ^ もっとも、こうした地域による自治に否定的な傾向は、ボリシェビキやメンシェビキにも共通のものであった[140]

出典[編集]

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参考文献[編集]