ピョートル・ストルーヴェ

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ピョートル・ストルーヴェ, 1900年代

ピョートル・ベルンガルドヴィチ・ストルーヴェ(Пётр Бернга́рдович Стру́ве、1870年1月26日 - 1944年2月22日)はロシアの政治家、経済学者、哲学者。

経歴[編集]

ペルミ県の知事の息子、フリードリッヒ・フォン・シュトルーベの孫として生まれる。1889年ペテルブルク大学に入学し、1895年に法学部を卒業する[1]。1880年代末から労働解放団のヴェーラ・ザスーリチを通してマルクス主義に関心を寄せ、1894年に刊行されたナロードニキ批判の書である『ロシアの経済発展問題に対する批判的覚書』は社会革命党ヴィクトル・チェルノフにも影響を与え、ロシアにマルクス主義が流行するきっかけとなった。同じ年にウラジーミル・レーニンと知り合い親交を結ぶ[1]1898年ミンスクで行われたロシア社会民主労働党の結成会議に参加し、会議の解散後に「ロシア社会民主労働党の宣言」を起草した[2]。いわゆる「合法マルクス主義者」として雑誌『ノーヴォエ・スローヴォ』を主宰し、その他『ナチャーロ』『ジーズニ』にも寄稿している。1900年に『イスクラ』が発刊されると初期の諸号には寄稿している[3]

ヨーロッパで修正主義をめぐる論争が激しくなると、党の主流を離れてミハイル・トゥガン=バラノフスキーとともにロシア自由経済協会に参加する[4]など次第に自由主義へと立場を移し、1902年に雑誌『解放 Освобождение』を創刊し、1904年にはこの雑誌を軸に後の政界で重要になる改革派を結集した解放連合を創設し、1905年立憲民主党(カデット)結成の基盤にもなった[1]。1905年から立憲民主党の創設に中央委員として加わってからは「中道右派」とでもいうべき立場から左翼の戦術戦略だけではなく、その思想的根拠も批判するようになる。1915年にはロシア帝国産業省で貿易統制の特別委員会委員長となる。1917年ロシア革命後はアントーン・デニーキンピョートル・ヴラーンゲリの反ボルシェヴィキ派政府で閣僚を務めたが、内戦の終結後は国外に脱出し、パリで没した。

性格と思想[編集]

1897年マリヤ・ヴェトロヴァ焼身事件の直後に釈放されたナデジダ・クルプスカヤは、レーニンの依頼によりストルーヴェと連絡を取り助言を求めていたことがある。ストルーヴェは「組織の活動にも向かず、地下活動には全然不向き」であり、「彼が持っているのは書物の知識だけ」であると彼女は観察している。ロシアの詩人ではアファナーシー・フェートを好んでいた[5]

ストルーヴェは合法マルクス主義者としてナロードニキと対決し、そのテロリズムと農民に重きをおく考えを批判していた。そして資本主義による工業化はロシアに社会的進歩をもたらすとも主張していた[6]。彼は農民や工場労働者が主導する革命は何一つもたらさないと考えていた。そこで1905年のペテルブルクでのデモンストレーションにさいしては、「ロシアにはいかなる革命的民衆も存在しない」と発言し、レフ・トロツキーに批判されている[7]。同じ年にロシア皇帝ニコライ2世が発表した十月詔書を自由主義者として擁護すべきであるとも言い、さらなる革命は不要と考えていることを示す。

1909年に発表された論文集『道標』に、ストルーヴェは「インテリゲンツィアと革命」という論文を寄せているが、その中では国家原理と民族原理に反した社会改革や運動は失敗の運命にあり、反国家・反民族とはコサック、野盗と協力しうるという幻想に過ぎないと論じた[8]。1840年代にロシアで形成されたインテリゲンツィアは反国家・反宗教の性格を持つ特異な存在であり、アレクサンドル・ラジーシチェフピョートル・チャーダーエフアレクサンドル・ゲルツェンのような教養人とも区別しなければならない、と説く[9]。これらの革命的インテリは「人民への奉仕」という理念を実行するが、人民自体にはいかなる義務も前提せず、人民自身に教育上の課題を課すこともなかった。ストルーヴェはこのような政治観・世界観は、ヨーロッパの社会主義に対しても危機を招くであろうと予想する[10]

脚注[編集]

  1. ^ a b c ブルガーコフ、他『道標 -ロシア革命批判論文集1』現代企画室、1991年、P.174。
  2. ^ E.H.カー『ボリシェヴィキ革命・I』みすゞ書房、1974年、P.8。
  3. ^ E.H.カー『ボリシェヴィキ革命・I』みすゞ書房、1974年、P.13。
  4. ^ Kots. "Kontrabandisty" (Vospominaniya) ( "Contrabandists" ("Memoirs") ), in Byloe (Leningrad series), 1926, 3 (37), (magazine closed down in 1926, issues 2 and 3 remained unpublished until 1991), ISBN 5-289-01021-1 p.43
  5. ^ クループスカヤ『レーニンの思い出・上』青木文庫、1976年、P.36。
  6. ^ I・ドイッチャー『武装せる預言者・トロツキー』新潮社、1964年、P.126。
  7. ^ I・ドイッチャー『武装せる預言者・トロツキー』新潮社、1964年、P.133。
  8. ^ ブルガーコフ、他『道標 -ロシア革命批判論文集1』現代企画室、1991年、P.176。
  9. ^ ブルガーコフ、他『道標 -ロシア革命批判論文集1』現代企画室、1991年、P.181。
  10. ^ ブルガーコフ、他『道標 -ロシア革命批判論文集1』現代企画室、1991年、P.192。